赤穂城内「大評定」はなかった

田中光郎

 赤穂事件の史実が、忠臣蔵の名場面としばしば食い違っていることは、今更いうまでもない。名場面が史実だと思われて、専門家・研究者も史実だと疑っていないような場面でも、実はそうではないかも知れないと思われるケースもある。たとえば、赤穂開城をめぐるいわゆる「大評定」はどうだろう。
 大石が藩士を城内に集め、方針を議論させる。一同切腹をして浅野家再興を嘆願するという方針を発表し、大野九郎兵衛はじめ不忠の輩を追い出して、志の堅固な者だけを選び出し、復讐の計画を打ち明ける。この筋書で説明されることが多いのだが、確実な史料によってみると、どうもそういうことではなかったらしい。その過程を詳しく見るのは別稿(「赤穂城の政変」li0009)に譲り、ここでは藩士総登城による大評定があったかどうか、検証してみよう。

【証言1】番頭・伊藤五右衛門は3月25日に赤穂を発足し、三次の浅野長澄の指示を仰いだ。この時に伊藤の語った内容が三次藩士の手紙にあり、その写しが『浅野綱長伝』に収められている。この手紙には大石と大野の対立が記されているが、当面の課題はその次である。番頭も家老といっしょに相談するように浅野家一門から命ぜられているので五右衛門も議論にくわわっているが、「右之所存下々曽而不申聞候。半分ゝゝニも存念可有御座候哉」。この伊藤の証言によるならば、この相談に加わっていたのは、家老と番頭級であり、下級の家臣は加わっていなかったことになる。

【証言2】『江赤見聞記』の記す城中会議の模様は、大石と大野が対立し、原惣右衛門が大野を追い出したとあるが、構成メンバーはよくわからない。原が大野を追い出したのを4月11日と見る立場もあるが(八木哲浩=赤穂市『忠臣蔵』1)、私は3月29日の嘆願使派遣前と考えたい。いずれにしても、その原が大野を追い出すにいたる一連の会議について、堀部安兵衛は「番頭・物頭・用人数度対談」と記している(『堀部武庸筆記』)。この会議のころ堀部は江戸にいたので直接の見聞ではないが、詳しく知りうる立場にあったので、信用できない話ではない。

【証言3】上述の通り『江赤』では嘆願使派遣前の会議構成はわからない。しかし、4月11日に嘆願使が戻ってきてから、開城を決定した後に「同志之者共へ右之趣申聞せ」とあるから、開城決定は重役会議で行われたと言えるだろう。

【傍証1】現在赤穂市では本丸跡の平面を復元しているが、総藩士が会議できるような場所はない。昨年(1998年)12月に放映されたNHK『堂々日本史』でもエキストラが入りきれないようだった。

【傍証2】史料価値は若干おちるものの、『赤城士話』では矢頭長助が一族を呼び集めて右衛門七と江戸へ行くと宣言している時に、大石方から城を渡さない相談が決まったと知らせてきた、という話を載せている。早い時期に成立したものは、必ずしも「大評定」を前提としてはいないのである。同様のことは『易水連袂録』が評定のメンバーを「用人物頭、番頭並諸役人」と記している点についても言えるだろう。

【傍証3】管見の限り、原題の義士関係書で「大評定」がなかったと受け取れる書き方をしているのは(誤読あるいは見落としがあったら教えてください)上述の八木氏くらいである。八木氏の根拠としているのは「忍び」の報告であるので、恐らくは噂を情報源にしており、確実性には乏しいが、傍証としては価値が認められるだろう。

 と、いう訳で「大評定」はなかったとするのが正しいと思う。ただし、「大評定」説に根拠がない訳ではない。早い時期の書物では『介石記』が「家中士三百余人悉く城中へ呼あつめ」云々と「大評定」があったように記している。藩士の数については『赤城盟伝』によったと思われるが、『盟伝』自体では評定の様子を知ることはできない。これに続いて『赤穂鍾秀記』などが「大評定」説をとるが、最大の影響力をもったのはやはり室鳩巣『赤穂義人録』である。『義人録』は名著であること疑いないが、室は自分の理想を大石に仮託しており、そのまま史実とするのは危険である。有名な「士の守る所の者は義なり」の語も、大石の発言記録としては他に見当たらず、後の『士説』で使われているところを見れば、大石よりは鳩巣の思想表現というべきであろう。
 そしてまた、「大評定」説が早い段階から成立し、定着していったことの意味を考える必要がある。他のバリエーションでなく、この物語が受け入れられていったのは、この時代の人が望んだからである。赤穂事件で重要なのは史実だけでなく、忠臣蔵世界を構成するさまざまの物語群もまた、それに劣らない価値を持つ。その価値を正しく認識するためには、何が史実かを確定していかなくてはならないと思うのである。