寺坂逃亡論争の問題点

田中光郎

 平成9(1997)年10月、私は憧れの地・播州赤穂を初めて訪れた。収穫はいろいろあったが、その一つが赤穂市歴史博物館で入手した『赤穂義士論』という小冊子である。これは、飯尾精氏の「四十七義士論」と八木哲浩氏の「四十六士論」とを併せて一冊にしたもので、平成9年3月に赤穂市から発行された(編集は赤穂市総務室市史編さん室)。迂闊なことであるが、この冊子を手にするまで、四十七士か四十六士かという論争が再燃していたとは知らなかったのである。
 言うまでもないとは思うが、この論争の焦点になるのは寺坂吉右衛門を数に入れるかどうか、ということである。すでに江戸時代から議論されていた事柄であり、近代に入ってからも、福本日南『元禄快挙録』(四十七士説)や徳富蘇峰『近世日本国民史』(四十六士説)の論議があった。しかしながら、吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家に伝わる文書によって、寺坂が討ち入りに参加し、その後指示を受けて立ち退いたという理解は、ほぼ定説となっている。半世紀以上も前に片のついた問題が、何故今さら再燃していたのか。

 先手は八木氏だったらしい。赤穂市から市史執筆の依頼を受けた八木氏は、確実な史料により、寺坂は討ち入りには参加したが、その後逃亡したものであると認定した。これに対し飯尾氏をはじめとする義士研究者が反論したために論争が引き起こされた。事態は赤穂市議会における質問にまで発展し、市長が観光事業等では「四十七士」として顕彰していくが研究者の領域の議論は別である、という穏当な回答をし、それに伴って発行されたのがこの冊子だったのである。

 この論争自体について、私見を述べさせてもらうならば、八木氏の方に無理があるようだ。八木氏の所論が従前のものと異なるのは、討ち入り参加を認めている点である。従って、討ち入りには参加し、その後泉岳寺に入るまでの間に別行動をとったという事実関係は、議論の余地のない前提となる。問題は退去が寺坂の恣意によるか(逃亡説)、大石・吉田らの指示(あるいは了解)のもとになされたものか(これも問題ある表現だが、八木氏にならって黙契説としておく)、というただ一点である。
八木氏の論証は、黙契のあったことを明瞭に示すものがないということに尽きる。黙契説の立場からは、論理的に、それを明らさまにしていたはずがないことになるので、かみあった議論にはならない。最も重要な証拠である吉田忠左衛門暇乞い状(伊藤家文書、元禄16年2月3日付け)についても、どうにでも読めるという部分は確かにある。そもそも黙契説は、寺坂が討ち入り後に列を離れた(単純に考えれば不自然な)行動をどう説明するかという、理論的要請によって生まれてきた議論であって、一点も疑問の余地のない史料的裏付けを示すことなどできようはずもないのである。ないものねだりをしても議論は深まらない。
 直接的な証拠がない以上は、状況証拠に頼ることになる。逃亡説をとるか、黙契説をとるかは、それぞれの仮説を基礎としてどういうストーリーを組み立てられるか、という点にかかってくる。黙契説の立場で組み立てられるのは、いわば通説である。逃亡説でこれを上回る筋書が作れるならば、それは十分検討に値しよう。しかし、それが可能かどうか、はなはだ疑問である。八木氏の所論は必ずしも一貫している訳ではないようだが、この冊子で示された見解も、説得力に欠ける。八木氏は「武士の論理」と「足軽の論理」を区別して(これ自体が実は多分に問題を含むのだが、ひとまず措こう)、(1)武士の論理では討ち入り後の退去を認めるはずがないが、足軽の論理では許容される(2)寺坂は足軽の論理で行動している、と述べる。通常の三段論法ならば(3)寺坂の退去は公認であった可能性が高い、となるはずだが、そうはなっていない。「足軽の論理」として命令に忠実であることをいいながら、命令も受けずに逃亡したとするのは矛盾以外の何者でもない。こうした問題がおこるのは、寺坂逃亡の結論が先にあって自由な論理展開ができない状況に陥ってしまっているためであろう。
 「武士の論理」と「足軽の論理」という大胆な立論には容易には賛同しがたいけれど、八木氏の所論はかなり大事な部分に接近しているように思われる。たとえば密使説を採用したとしても、寺坂が選ばれたのは足軽であるためだろう。個人的な行動原理だけの問題ではない。大石らがこの討ち入りをするメンバー、そして自首する(切腹する)メンバーをどういうものと位置づけていたのだろうか。地位・身分と名誉・責任の関係について、もっと豊かな議論が展開されてよい問題だと思う。義士か義士でないかというような、いわば名分論に拘るのは、歴史学の立場からはつまらないことではないだろうか。

 という訳で、この論争の内容については飯尾氏側に軍配を上げたいのだが、この論争にはもっと重大な問題が含まれている。それは、歴史叙述が政治問題化したということである。
 事情としては無理からぬところもある。第一に、これは単純な意味での研究論文ではなく、市の事業として行われた市史編纂事業の刊行物であった。第二に、上述の通り、客観的に見ても分の悪い議論を前面に押し出したものであった。市民である郷土の研究者にとっては、余所者が学者の肩書・権威をもってする横暴な行為と受け止められたのであろう。しかし、それでもなお歴史叙述の適否が議会での質問にまで発展した事態というのは遺憾である。
 たとえば、問題が近代史だったら、戦争についての議論だったら、もっと重大な問題に発展していたかも知れない。赤穂事件だからよいというものではないだろう。うっかりすれば、学問の自由を損ないかねない事態だったのである。
 幸いにして、赤穂市は穏当な解決策を講じ、当面の問題は沈静化した。しかし、本当の問題は、実は未解決のまま残っている。歴史認識と政治の関係は、、常に一触即発の関係を孕んでいるのである。歴史を楽しむ者として、肝に銘じておかなければなるまい。取りあえずは、「赤穂義士」の名が学問に対する政治的弾圧事件と結びつかずに済んだことを、飯尾・八木両氏とともに慶びたい。