「ヤスベエ」?それとも「ヤスビョウエ」?

田中光郎

 縁あってアエラムック『元禄時代がわかる。』に、「赤穂四十七士の人名録」という記事を書きました。 言い訳をするわけではありませんが、一人分二百字程度で初心者にもわかるように、という注文でしたので、あまり独創的なものにはなりませんでした。もっと厳しいのが、役職や氏名の読みを、とにかく書かなければならないという点でした。あまり問題のないのはいいのですが、判断に迷うものがいっぱいあって、大いに困りました。同誌で書ききれなかった考証などは、順次『ろんがいび』に載せていこうと思っています。本稿では、名前「○兵衛」の読みについて考えてみましょう。

 安永2年(1773)刊の小咄『坐笑産』にこんな話があります。

儒者の内へ盗人はいり、盗人に金銭を与へ、「その方が名は何といふ」「八兵衛(はちべえ)と申します」「ハテ文盲な。同じいふなら『八びやうへ』といふものだ。そして、いづれから忍び入つた」「ハイ、ねりびやうへから這入りました」。(興津要編『江戸小咄』講談社文庫115頁)

 落ちはもちろん「練り塀」のことです。それはさておき、これでみると、本来は「ヒョウエ」であるけれども、この時代には「ヘエ」で通用しており、わざわざ「ヒョウエ」などというのは知ったかぶりの学者くらいのものだったようです。
 それでは、そのターニング・ポイントは、というと、どうも元禄から享保にかけての時期らしいのです。近松門左衛門の「曽根崎心中」の主人公には「とくびやうゑ」と振り仮名があります(岩波文庫『曽根崎心中・冥土の飛脚』20頁)が、「卯月紅葉」の「与兵衛様」の下は「へいさま」と振られています(同63頁)。前者は四十六人の切腹した元禄16年、後者は3年後の宝永3年。もちろんある年から一斉に変化するというような性格のものではないはずですが、このころは変化の過渡期だったと考えられます。

 そうなると、四十七士の場合に読みをどうするかは、直接証拠によらざるを得ません。証拠は、いちおうあります。『赤穂義人纂書』所収の「堀部武庸贈母氏書置」の署名は「堀部やすひやうへ」、また『赤穂義士史料』所収の堀部金丸書状には「ほりへやひやうへ」とあります。そのほか、女性の(仮名書きの)書状には「安兵へ」等の記載もあり、この二人は「ヒョウエ」で読んでよさそうです。

 「ヒョウエ」から「ヘエ」への移行が、武士と町人のどちらで先行したか、または江戸と上方のどちらで先行したか。興味深いところではありますが、その検証に必要なデータを集める余裕はありませんし、当面の問題からはそれるので、深入りはしません。誰か志のある方がいたら調べて教えて下さい。ただ、人によって使い分けるというようなことはあまり考えられないので、拙稿ではいちおう全員について「ヒョウエ」の方を採りました。多分、大野九郎兵衛や梶川与惣兵衛も「ヒョウエ」でしょう。
 もっとも、それでは「ヤヘエ」「ヤスベエ」と読んだら間違いか、というと、そう断定する自信はありません。先にも述べた通り、ある時から一斉に変化するという性質のものではありませんから、○兵衛さんは「○ヒョウエ」「○ヒョウ」「○ヘエ」などと呼ばれていて、時代の変化に伴って段々「○ヘエ」が優勢になっていったのでしょう。そうだとすれば、この移行期に排他的に一つに絞るのは難しいように思われます。あえて一つを選べば、ということで「ヒョウエ」を採用しただけです。
 濁音の問題もよくわかりません。単音節だったら「ヘエ」複音節だったら「ベエ」になっていることから類推して、単音節の場合は清音(ヤ・ヒョウエ)複音節の場合は濁音(ヤス・ビョウエ)にしただけです。

 このように、あまり確信の持てないことも書いていますので、お気づきの点がありましたら御教示たまわりたいと存じます。