流祖たちの神話学

田中光郎
      

(一)

 私は別稿「『兵法』の語義の変遷」(ろんがいび0002)において、「兵法」という語の用法を調べる、いわば外側から「兵法」の変化を観察するという方法で、戦国期における変化を確認した。その変化をもたらしたものは何か。その問題を考えるために、室町中期から戦国頃の「兵法」を、内側から眺めてみよう。ただし、同時代の史料はほとんどなく、後世に作られた伝説・伝承を材料とせざるを得ない。従って、それらの伝説が何を物語っているのかを読みとる、いわば神話学的な手法が必要となるであろう。

 江戸時代の列伝体の武芸史『本朝武芸小伝』の刀術(剣術)は飯篠山城守家直(長威斎)に始まっている。著者・日夏繁高の認識では、そこまでの歴史は前史であり、言わば神話なのである。繁高の伝える神話では、刀術(剣術)は武甕槌命・経津主命の神術に始まる。その後、日本武尊、源義家・為朝・義経を経て、常陸鹿島の神人七人に伝わり関東七流となった。そこから家直が出ることになる。
 飯篠山城守(一説伊賀守)家直は、下総国香取郡飯篠村の人といい、鹿島・香取の両神に祈って「天真正」から奥義を得、天真正伝神道流を開いたという。実在も疑えないことはないが(長亨二年=1488=の墓もあるが、当時のものとは思われない)、少なくとも戦国頃には同地に飯篠氏があったことは確認できる(『日本武道全集』2−p258)。多少の訛伝はあるとしても、ほぼ家直にあたる人物はあったであろう。これは要するにシントウ流**に伝わる説話である。日夏繁高は、シントウ流と関係の深い天流***の継承者であるから、この伝承を採用したのであろう。

鹿島・香取の神であるという。河童だという説(『関八州古戦録』)もあり、なお意味を考える必要があろう。
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この系統では神道流・新当流・神刀流などの文字を用いる流派があって、それぞれ文字の意義を主張する場合がある。元来は同じものであることは間違いなく、恐らく当初は宛字であったと思われるのだが、特にいずれを正しいとも定めがたいので、史料に登場する場合や個別の流派を指す場合を除き、カタカナで表記しておくことにした。
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斎藤伝鬼房が始めたと伝えられる、シントウ流と同じ関東の流派である。伝鬼房は新当流・塚原卜伝の門弟という説もある。

 このシントウ流に伝わる神話から読みとれる「刀術」の起源は、これが鹿島・香取の神人たちによって伝えられていた術だということである。言うまでもなく、武甕槌命を祭ったのが鹿島神宮、経津主命を祭ったのが香取神宮である。この両神を始祖に仰ぐ術が、英雄たちの業績によって実用保証を付与されたうえで、再びこの神社に奉仕する神人の術となるというのが、この神話の筋書きなのだ。剣術の起源は、武士的な性格を持っているとしても、下級神官にあったというのである。だとすれば、その剣術を現代的な感覚の武術ととらえるのは危険である。多分に呪術性を帯びた、神事芸能などと結びついたものと考えるべきではなかろうか。

 ところで、同じ『武芸小伝』は「兵法」(この場合は兵学)を小幡景憲から始めるのだが、その前史の部分で「兵法」の起源を「鹿島香取神兵」に求めている。もちろん、鹿島・香取の両神は日本の武神であるから、武事の起源に比定されるのは不思議なことではない。だが同書は、他の武術について日本神話に起源を求める場合もあるのだが、鹿島・香取両神を言うのはこの二篇の他にない。兵学が軍配兵法を母胎に成立していること(石岡久夫『日本兵法史』など)を思えば、これは単なる偶然ではあるまい。兵学も剣術も、同じく呪術的な「兵法」から出発しているのである。

(二)

 この事情は、シントウ流に固有のものであろうか。上泉信綱は永禄九年(1566)に柳生宗厳あての「影目録」のなかで「兵法」の歴史を略述している(柳生厳長『正伝・新陰流』昭三二、講談社、覆刻平元島津書房、p251所収)。それによれば、「兵法」の起源は「梵漢和」の三国にわたってあり、インドにおいては七仏師・文殊上将から摩利支尊天が伝え、中国では黄帝から始まり、日本では伊弉諾尊・伊弉冊尊に始まる。日本で伊弉諾・伊弉冊から今日(というのは信綱の時代だが)に至るまでの中間には、「上古流」があるが、それに続いて「中古」に「念流・新当流・陰流」がある、と述べている。この三つが剣術史上三大流派とか三大源流とか呼ばれるものである。

 念流は、念阿弥慈音(慈恩)に始まるといわれる。この慈音もまた伝説的な人物である。『武芸小伝』中条兵庫助の項によれば、慈音は鎌倉地福寺の僧で、中条に刀槍の術を伝えたとある。中条の孫弟子・大橋勘解由左衛門に学んだのが富田九郎左衛門長家で、その門流が富田(戸田・外他などとも書く)流と呼ばれる。またこの門系から出た鐘巻(これも鐘捲・印牧など別字があてられることが多い)自斎に学んだ伊藤(または伊東)一刀斎が、一刀流を開いたとされる。このあたり、事実と伝説を選り分けるのは至難であるが、慈音ー中条の系統とされる流派が、戦国〜近世にかけて重要なものになったことは確かである。
 中条系以外で慈音の門系と称する流派もいくつかある。これらは江戸時代にはいってからの成立と思われるが、伝説の検証という目的から言えば、参照する価値はあるだろう。例えば、堤宝山流について、源徳修『撃剣叢談』(天保一四=1843=序、『武術叢書』)は「遠山念阿弥慈音」に始まるという説を録し、これを上の慈音と同一人物と認めている(p182,190)。これらの中で、もっとも有名なのは馬庭念流だろう。
 上州馬庭村に伝えられた馬庭念流の所伝は以下のようである。新田義貞の臣相馬四郎左衛門忠重が敵に謀殺された時、難を避けて藤沢の遊行上人に預けられて念阿弥と呼ばれた子が、長ずるに及んで鞍馬山などで兵法修業に励み、還俗して相馬四郎義元と名乗り父の仇を討った。のち再び仏門に入り(ただし今度は禅宗)、念大和尚と名乗った。この伝承は樋口定周『念流の伝統と兵法』にある。念流の系統は江戸時代には戸田流や一刀流として伝わったので、「念流」を称する流派は少ない。例外として上坂半左衛門安久の奥山念流があり、『撃剣叢談』によればこの流を「正伝念流未来記兵法」と称したとある。馬庭念流の伝書に『念流正法兵法未来記目録』(『日本武道全集』二所収。以下『未来記』)があり、同じ系統に属する可能性が高い。

昭11刊行。残念ながら未見で、石岡久夫ほか『日本の古武術』等からの孫引きになる。この書は『日本武道全集』二によれば春山力『念流の伝統と兵法逸話集』、『日本史小百科 武道』によれば樋口一著、杉田幸三『精選日本剣客事典』=光文社文庫、昭六三=には念流二十三世著とされている。いずれが正しいか、あるいはそれぞれ別のものだろうか。後考をまちたい。

 もっともその『未来記』に載せられている伝承は上と異なる。「源叉那王以後之兵法、皆以念之末流也」とあるのに従えば、「奥念」=奥山念阿弥は「源叉那王」=義経以前の人物ということになる。この『未来記』は文禄五年(=慶長元、1596)に「相馬四郎義元入道奥山念」の「七世之兵法之知識」である友松氏宗から、樋口又七郎定次に与えられたことになっている。義経以前から十六世紀末まで約四百年を七代で継承するとすれば、一人で六十年を担当することになり、少し無理がある。『太平記』に見える相馬四郎左衛門忠重(巻第一七、新潮日本古典集成本三ー一〇九頁)と結びつけ、伝説を合理化したのであろう。念大和尚の名も同様の合理化過程を経たと考えられる。すなわちジフク寺がジュフク寺に訛って伝えられ(『未来記』によれば相陽寿福寺で神僧から兵法を学んだことになっている)、寿福寺なら臨済宗だから阿弥号は不適当であると考えられたところから、最初は時宗の遊行上人に預けられ、後に禅宗に転じた、という辻褄合わせをしたものであろう。ちなみに上坂半左衛門は禅僧出身とあるので(『武芸小伝』)、意図的な変更の可能性もある。
 馬庭念流の伝承は必ずしも古い形を残しているとは言えない。しかし、そのような合理化の過程を経たとすれば、変更しがたい要素は残されたものと見ることができよう。すなわち「念阿弥」=「相馬四郎義元」の名である。彼がどの時代の人物であったかは、わからない。上述の通り馬庭念流の伝承では、義経以前と見ることもできるし、南北朝期と見ることもできる。『撃剣叢談』は中条兵庫助を「応仁の比」の人としており(前掲p182)、富田九郎左衛門の孫・景正が文禄元年(1592)に没したのと年代的におおむね合致するので、室町中後期の人と見ることもできる。ただしこうしたことを本気で議論する必要が生ずるのは、彼が実在の人物であるという前提に立ったときのことである。同様のことは、中条兵庫助(または兵庫頭)長秀についても言える。上述の通り応仁頃の人という説もある一方、室町前期の人とする説もある。これは、南北朝期に尾張守護などを務めた中条秀長と同一視してのことと思われるが、あまり根拠はなさそうである。ただ、中条氏が室町時代の上級武士であるということは意識しておくべきであろう。

師承関係と父子関係合わせて六代、平均二十年として百二十年、文禄元年の百二十年前は文明四年(1472)になる。なお景正の没年には文禄二年説もあるが、ここでの立論には影響ないであろう。

 実体究明を断念して、説話の意味するところを考えてみる。要するにこの「兵法」は、阿弥号をもつ(恐らくは下級の)宗教者から、室町幕府の歴とした武士に伝えられたということである。シントウ流兵法が「神人」によって継承されたことと同じだと言ったら我田引水になるだろうか。しかも、『未来記』によるならば(上述の通り必ずしも古い形を伝えている保証はないが)、神僧が念阿に伝えたのは「過去現在之二術」であるが、その「過去之術」は「魔法」=呪術であり、「現在之剣術」とは区別されるものであった。これはさらに奥義たる「未来」を得る前提になっているが、「未来」もまた宗教的ないし呪術的色彩を帯びている。念阿弥により伝えられた兵法は、剣術であると同時に呪術でもあった。阿弥号が芸能と結びつくことも、時として差別される対象となることも含めて、念阿弥は「兵法」の源泉の人格化だと思われるのである。そして中条兵庫助という窓口を通して、室町後期の武士たちに受容されていったという物語が、この説話から読みとれるのである。

(三)

 呪術的な性格を併せ持つ剣術が、上級武士たちの間に広まるようになったのは、恐らく15世紀中葉のことである。シントウ流の飯篠長威斎が長享二年に没したという説、中条兵庫助が応仁のころの人だという所伝は、史実とは言えないまでも、その時期が剣術興隆の画期であることを示しているだろう。そして、そのことは別稿に見た「兵法」の用法の変化と照応する。

 ここで、史料上初めての剣術流派「正門流」について考えてみよう。文亀三年(1503)に景徐周麟が著した父・大館持房(応永八ー文明三、1401-71)の伝記『大館持房行状』(下村効・二木謙一翻刻、『国史学』九三所収)に見られる次の記事である。

少時学剣、其所学者、是謂正門流、与客刀剣相撃、自非練習者、恐被瘡。一日善山使人持刀以待持房入侍、刺之、持房笑而奪之、蓋験其能也。

ここには「剣を学ぶ」とあるだけで「兵法」の文字は見えないが、漢文体で記述したためだろう。「正門流」はこの史料にしか見えないので消滅した流派と見ることもできるが、私はこれを念流の別名と推定したい。手がかりは、念阿弥の前名が相馬四郎義元とされることである。相馬の姓は言うまでもなく平将門を連想させるであろう。将門と正門は音でも訓でも通用できる。『義経記』では源義経以前に「六韜」を持っていたのは平将門だった。平将門ゆかりの「兵法」を伝える呪術師が念阿弥のイメージだと考えるのはさほど無理ではなかろう。そうだとすれば、大館持房こそ中条兵庫助かも知れない。一五世紀中頃、持房のように上級の武士たちが「兵法」=剣術を学び始めた。念阿弥から中条兵庫助への伝授は、その説話化なのである。
 注目したいのはそれに続く文章である。

又与弟持員較其軽捷、開蔀戸半間之上面、軽身而出入者七度、不令長刀触傍壁、弟則跳者、三次而休矣。

ここでは剣豪・大館持房が同時に超人的な身の軽さを持っていたことが強調されている。『義経記』で義経の剣術が「早業」と表記されていたこと、また「兵法」が飛行術と結びついて認識されていたことを想起したい。闘争の場における人智を越えた魔法が「兵法」であるならば、人並みはずれた敏捷さや目にも留まらぬ早業は、「兵法」に見えるであろう(ブルース・リーはカンフー映画を初めて見た西洋人にとって、東洋の神秘だったはずである。一般的に呪術の信じられた時代のことであることを想起すれば、必ずしも無理ではあるまい)。「兵法」が剣術を意味するようになる機縁はここにあると考えられる。ちなみに、日本剣術の特色が身の軽さを活かしたものであったことについては、明人の証言がある

戚継光は「跳舞、光閃かして前すれば、我が兵すでに気を奪わる」「喜躍して一たび足を進めれば則ち丈余」などと言い(十四巻本『紀効新書』)、程宗猷は「左右に跳躍し、奇詐危秘、人よく測ることなし」と言う(『単刀法選』)。以上、笠尾恭二『中国武術大観』(福昌堂、1994)第三章第五節による。

 一五世紀の中葉は、武芸再編の時期であった。室町幕府弓馬故実師範としての小笠原家の地位が確定したのは足利義教のころであったと指摘されている(二木謙一「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」=『中世武家儀礼の成立』所収、昭六〇、吉川弘文館)。また多賀高忠が武家故実の知識を活かして、応仁の乱の前後、幕府政治の中枢で活躍したことを見逃す訳にはいかない(同「故実家多賀高忠」同書)。こういう事情は、戦争方法の変化や、将軍の権力基盤の弱さなど、さまざまな要素がからみあって起きているのであろう。戦国時代の入り口で、武芸のあり方は、かなり複雑な様態を示していた。細川政元が天狗の飛行術に熱中したという話も、そういう背景の中で捉えるべきであろう。また少し時代は下るが、戦国期新興の弓馬術である日置流・大坪流がともに佐々木左京大夫義賢(六角承禎)と結びついていること(『本朝武芸小伝』)にも注目しておきたい。多賀の主筋にあたる六角佐々木氏が、武家故実の再編を目論んでいた可能性がある。そういう中で、新興の武芸である剣術が、いわば目に見える神秘として「兵法」の名で呼ばれるようになっていったと考えられる。

(四)

 三大流派のもうひとつ、カゲ流(これも陰・影両様の表記がされ、いずれとも決めかねるのでカタカナにしておく)について見ておこう。
 カゲ流の祖は愛洲移香斎久忠で、これまた有名ではあるが実体の知れない人物である。末裔を称する平沢氏の家伝では、愛洲太郎久忠(左衛門尉惟孝、日向守、法名移香斎)は享徳元年(1452)に生まれ天文七年(1538)に没した(ここでは中世古祥道『伊勢愛洲氏の研究』=三重県郷土資料刊行会叢書六五、昭五〇=による)。所伝では、九州鵜戸の岩屋に参篭して霊夢を見て兵法を自得したことになっている(『武芸小伝』前掲p59、なお同書は「愛洲惟孝」に作る)。神仏の霊験で武芸に開眼するという伝説は数多くあり、既に飯篠長威斎のケースを見たが、同工異曲の話である。鵜戸の岩屋でという話は慈音も同様であるが(同書p50)、むしろ移香斎の伝説が先にあったと見るべきだろう。慈音の高弟・猿御前が移香斎の師であるという説(馬庭念流の系統に伝わる。綿谷雪『武芸流派大事典』一〇頁)があるかと思えば、移香斎の術を飯篠家直が伝えたという説(『玉栄拾遺』=『史料柳生新陰流』上、五〇頁)もあり、いずれも我田引水ぎみで信じがたい。早くから各流の間に交流のあった可能性は否定できないが、今は深入りしない。

 愛洲氏は伊勢神宮と関係を持っていたことが推定され(中世古前掲書三一頁。また『太平記』二九には愛曽=愛洲の召し使う童に伊勢神宮が憑依したという説話がある=4-345)。鵜戸の岩屋(地神五代を祭る)の開眼伝説、そして伊弉諾・伊弉冊を日本における「兵法」の元祖とする上泉信綱と併せて見れば、いちおう神系はつながっており、カゲ流もまたある信仰集団と関係をもっていた可能性はある。ただし、前二者に比べれば宗教的要素は薄い。

 また、技法を体系的に伝授していたことが確認できる最古の流派であることにも注意をしておきたい。倭寇撃退に活躍した明の名将戚継光(1528-87)は、辛酉陣上で「影目録」断簡を得たという。辛酉は日本の年号では永禄四年(1561)にあたる。この断簡は十四巻本『紀効新書』に模刻され、のち茅元儀『武備志』に転載された(これについては笠尾前掲書pp333-7など参照)。『武備志』は日本でもかなり早くから紹介されており、失われた古伝を考える資料として注目されていた。もちろん、同時代の他流派が同様の技法体系を持っていなかったは言えないが、この流がかなり整った体系を有していたことは確かである。

 宗教的あるいは呪術的要素が希薄なこと、それにかわる合理的な技法体系を有すること、これが近世的武芸の条件であり、ここから上泉信綱の新陰流が成立するのは決して偶然ではないであろう。