「兵法」の語義の変遷

田中光郎

(一)

 戦国から江戸初期にかけて、「兵法」の語がもっぱら武芸、特に剣術を指して用いられていたことは、常識に属するであろう。宮本武蔵『五輪書』(正保2=1645)には「近代、兵法者といひて世を渡るもの、是は剣術一通の事也」と言っている(岩波文庫、14頁)。武蔵は「兵法」が剣術に限定されるべきでないことを主張するのではあるが、それは取りも直さず、「兵法」が剣術の意味で用いられていることの証明になっている 。しかし、『本朝武芸小伝』(正徳4=1714序。『武術叢書』所収。武芸史のまとまった叙述としては最も古いもの)が「兵法」を兵学の意味で使っているように、元禄・享保あたりを境にして、一般的には戦争術を指すようになる。

戦国期から江戸前期にかけて「兵法」の語が剣術の意味に用いられた例については、下川潮『剣道の発達』pp6-10参照

 この語は元来『戦国策』など中国の古典に見えるが、そこでの用法が「戦争のしかた」を意味していることは間違いない。日本では『日本書紀』に見える(天智天皇一〇年正月)のが初見であろうが、やはり戦争術を意味していると考えるべきだろう。語の本来の意味からも、日本での用例としても、戦争術を指す方が普通なので、武芸=剣術を指すのは特異な現象なのである。

 それでは、その特異な用法はいつから、そしてどうして出現したのであろうか。中世の「兵法」の用例を探してみよう。鎌倉時代の例としてよく知られるのが、『吾妻鏡』文治二年八月一五日条である。鶴ヶ丘八幡宮で見かけた西行を呼んだ源頼朝は「歌道ならびに弓馬の事」について尋ねたところ、「弓馬の事は…保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法は焼失す」云々と答えたという(岩波文庫、第二冊七一頁)。この場合の「兵法」は「弓馬の事」の言い換えとして用いられている。意味内容は必ずしも明確ではないが、武家故実とでもいうべきものだったと思われる。このエピソードは、頼朝による武芸作法統合の流れの中に位置づけられており(野口実「戦士社会の儀礼」=福田豊彦編『中世を考える いくさ』所収、平五、吉川弘文館)、中世の武芸=戦争技術をめぐる近年の議論の中で妥当な見解であろう。
 この時点で、既に「兵法」の意味は変質している。「戦争の方法」には違いないが、一般的な意味での戦略術ではなく、武士の芸能を意味する言葉になっているのだ。しかし、剣術を意味してはおらず、弓馬の故実を指している。
 鎌倉時代に「兵法」が剣術の意味に用いられた例として『平治物語』をあげる人があるかも知れない。牛若が鞍馬山での日常、「僧正が谷にて、天狗と夜々兵法をならふと云々」とあるのは剣術の可能性が高い。しかし、これは近世初頭の古活字本によった場合であって、古いテキストではこの場面すらない。鎌倉時代の「兵法」は弓馬ではあっても剣術ではなさそうである。それは、戦闘の主役が撃剣ではなく騎射であったことに照応する。

引用したのは古活字本(日本古典文学大系三一の付録、四六二頁)であって、金刀比羅宮蔵本(同書本文)はこの前の段階で終了している。より古い形態を示す学習院大学所蔵九条家旧蔵本(新日本古典文学大系四三、二七六〜七頁)には牛若の活動の場面はあるが、「兵法」の語は使用されていない。同書の注によれば「兵法」の語を含む兵法伝授の場面が松平文庫蔵本・国文学研究資料館蔵本・彰考館文庫蔵京師本にはあり、「底本の誤脱か松本(松平文庫蔵本のこと、田中注)等の後補か、判断は難しい」とされている。そもそもいわゆる源氏後日譚自体が増補部分と推定され、金刀比羅宮本のように頼朝の伊豆下着で終わる方が古い形であったらしい(日下力「平治物語 解説」新大系)。なお『平治物語』中に弓馬=武芸を意味するらしい「兵法」の用例はある。(新体系本一九一頁)

(二)

 「兵法」が武士の芸能を意味する言葉として用いられているとすれば、戦闘方法の変化に伴って意味内容が変化すると考えるのは自然であろう。そうなると、どうやら室町時代が以下の引用は岩波文庫使用鍵になってくる。室町期の「兵法」概念を考える手がかりとしては、義経伝説がある。古い『平治物語』には登場しない鞍馬山の剣術修業の場面が、近世の版本では剣術を「兵法」と表記した例となることを見た。その中間、義経伝説の形成過程が、当面の問題に解決の糸口を与えてくれるだろう。

 室町前期の作と推定される『義経記』を見てみよう(以下の引用は岩波文庫使用)。まず、鞍馬山(僧正が谷=貴船)における剣術修業の場面(巻一、一九〜二一頁)であるが、ここには天狗も登場せず、「早業」とあるばかりで「兵法」の語は用いられない。天狗に「兵法」を学んだという伝説はまだ生まれていなかったのかも知れない(前に示した『平治物語』諸本や後述の『太平記』の記事とも関係する。結論を出すのは手に余るが、天狗からの伝授と鬼一法眼からの修得は別系統の伝説であった可能性もあるだろう)。次に、鬼一法眼からの修学の場面である(巻二、四八〜六二頁)。ここでは「六韜兵法」を盗み見ることが主題になっている。ここでの「六韜」が現在伝わっているものと同じであるとするならば、この「兵法」は戦争術を指すと言えそうである。しかし、事態はさほど単純ではない。弁慶と争ったときに九尺ばかりの築地に飛び上がり、またそれから飛び降りたと見えたが三尺ばかりでまた飛び返った(つまり、地に足を着かずに再び上昇した)とある(巻三、八一頁)。これが「六韜」を読んだ効果だというのだから、どうも戦争術というより飛行術の書だったらしい。
 室町中期の作と思われる『弁慶物語』の同じ場面を見てみよう(以下の引用は新日本古典文学大系五五による)。義経は弁慶の手並みのほどを「彼奴は棒には上手なり。兵法知らず…」と見極めた(二四七頁)。この場合一対一で戦っているのだから、戦争術が問題になるはずはない。弁慶は棒術が巧みだっただけでなく、「三塔にて隠れもなき太刀には上手」でもあった(同二四七〜八頁)のだから、武芸を知らないわけではない。にも関わらず、義経は弁慶を「兵法知らず」というのである。両者の決定的な違いは何か。「小鷹の法を召されて虚空に上がり」(二四九頁)、あるいは「八尺築地をひらりと跳ね越え」る(二五一頁)不思議な能力であった。
 もう一度『義経記』に戻って見よう。六韜=「十六巻の書」を読んだ人はどうなるか。太公望は「八尺の壁に上り、天に上る徳を得」、樊かいは矢で敵の「兜の頭の鉢を透す」ことができた。坂上田村麻呂や藤原利仁が強敵を破ったのもこれにより、平将門は天命に背いたので勝つことはできなかったが、「最期の時威力を修して…一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに、八人の敵をば射た」という(以上四八頁)。ここで発揮されているのは、個人的な武芸、集団的な戦争のいずれかを問わない、戦闘に関わる超能力である。そして、それを伝えたのは「陰陽師法師」である鬼一法眼だった。ここで用いられている「兵法」は、現代人の考える戦争術や武芸などの技術ではなく、戦闘の場における方術・魔法といったものであるらしい。

 もちろん、ここで我々がそのような魔法の実在を信じる必要はない。しかし、この時代にそういうものが信じられていたことを、考慮の外におくことも適当でないだろう。室町期に「兵法」が方術として理解されていたことと照応する関係にあるのが軍配術、すなわち戦争に関する占呪術である。有史以前から戦いについて占呪術が行われていたであろうことは容易に想像できるが、これが軍配術としてまとまった時期は判然としない。その内容を窺う史料として『訓閲集』『一巻書』などが伝えられているが、その「正確な実態を把握することは困難」である(石岡久夫『日本兵法史』上、雄山閣、昭四七、二一頁)。『了俊大草紙』に「今天下に人の用所の兵書は、四十二ヶ条なり」とあり、「兵法の事は皆真言にて左右なく行がたき事也」と説明がある(『続群書類従』六八二)。呪術を内容とする兵書は室町前期には成立しており、それが「兵法」と呼ばれていたことが知られる。戦争の場における魔法=「兵法」は、室町時代に存在していたのである。

(三)

 このような呪術的兵法に着目した論考に兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』(特にその第4章2。講談社選書メチエ、1995)があるが、『太平記』の用例は、明らかに中国伝来の合理的な戦略術として使用している場合(2-301、3-305など)が多い。大塔宮の武芸好みについて記した中で「打物は子房が兵法を得たまへば、一巻の秘書尽されずといふことなし」(1-54)とあるのは、打物=剣術に関わって「兵法」の語が使用された早い例であろう。

以下『太平記』の引用は、原則として新潮日本古典集成により、第二冊の三〇一頁は2-301のように表記する。

 秋山新蔵人光政は「幼稚の昔より長年の今に至るまで、兵法をもてあそびたしなむ事隙無し。ただし黄石公が子房に授けしところは天下のためにして、匹夫の勇にあらざれば、われいまだ学ばず。鞍馬の奥僧正谷にて、愛宕・高尾の天狗どもが九郎判官義経に授けしところの兵法においては、光政これを残らず伝え得たるところなり。」(4-329)と述べている。要するに、戦争術(「天下のため」)と個人的武芸(「義経に授けしところ」)の両方があるらしい(ここには『義経記』になかった鞍馬天狗の伝説が出ている。両書の成立の先後関係や義経伝説の系統については後考を俟ちたいが、『太平記』の用例が戦争術と個人的武芸の双方に関わって用いられていることは確認してよいだろう)。ただし、張良(子房)の一巻書を、秋山の場合には戦争術に、大塔宮の場合には個人的武芸に関係させているように、多少の混乱が見られる。
 剣術をさして「兵法」と呼んでいるらしい例は『応永記』にも見られる。すなわち最期を覚悟した大内義弘の「自元好ミノ大太刀ニテ四方切リ、入(八カ)方払ナド云兵法ノ手ヲ尽シテ切テ廻ル」という奮戦ぶりである(『群書類従』巻二一七四)。同書は成立年次に疑問があるので、証拠にはならないかも知れない。しかし、先に引用した『了俊大草紙』に「当時兵法をまなひ。武芸を稽古の若人には。只気なけふりして人を打はり。辻切酒くらゐする」ことを嘆いている点から見ても、個人的な武芸と完全に切り離すことはできないと見るべきであろう。
 呪術性については、『太平記』の本文で見る限りほとんど感じられない。ただし、呪い・怨霊などの話柄に満ちた『太平記』のことであるから、現代人にとっては呪術的と見える「兵法」を取り立てて奇異なものとは受け止めなかった結果かも知れない。室町期の「兵法」の語が軍陣の魔法を指すと断定するのは乱暴かも知れない。しかしそういうニュアンスを併せ持ったまま、多義的に使用されていたことは否定できないだろう。

(四)

 戦国時代、この魔法は存在し続けた(例えば小和田哲男『軍師・参謀』=中公新書、1990、同『呪術と占星の戦国史』=新潮選書、1998)。だが、誤解されるのを覚悟で単純化して言えば、近世はこれを否定する合理的思考の時代であり、戦国時代はその過渡期であった。『朝倉英林壁書』には「吉日を撰び、方角を調へ、時日を遁がす事口惜候」(日本思想体系二一、p351)とある。『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄は「日取ヲバサノミ御用意ナク」(品第五三、新人物往来社版、下p361)、小笠原源与斎の「奇特」は馬場美濃守によって価値を否定されている(同品第七、上p138)。「軍配」自体を否定はしないが、それを冷静に受け止めるだけの理性を戦国武将は持っていたのである。
 「兵法」の語がもっぱら剣術(または剣術を中心とする格闘術)を意味するようになるのは、この時期のことである。『甲陽軍鑑』は「兵法」=剣術と「軍法」=戦略術と「軍配」=占呪術をはっきりと使い分けている。戦国から近世初頭の用法として、ごく普通のことだったと考えられる。石岡久夫はその変化を「永禄・天正期にあったものと推定」している(『兵法者の生活』=雄山閣、昭56、p13)が、もう少し早いかも知れない。
 大永8年(1528)成立とされる『宗五大艸紙』(群書類従巻四一三)には、若者の教養科目として、弓・馬・鞠・歌道・「兵法」・包丁に加えて音曲なども稽古したらよいと言っている。この「兵法」の内容は必ずしも明らかではないが、「兵法など心がけられ候へば。万気遣無油断候て能候。」というところから見ると、剣術を指しているように思われる。それを補強するのがややおくれて天文13年(1544)ころ成立と推定される『多胡辰敬家訓』(小澤富夫『家訓』所収、講談社学術文庫)である。同様に若い上級武士にあてて教養科目を列挙したものであるが、その第十三に「兵法」がある。語の意味について説明はないが、「利形トハ先ツ第一ニ用心ヲ忘レヌ事ヨ女ナリトモ」「ウデツヨキ敵ノ力ヲ其ノママニ取リテトルマデ利カタナリケレ」の二首の歌は、戦争の仕方ではなく、個人の護身と格闘に関する心得であるから、ここの「兵法」が個人的な武芸を指していると考えるのに無理はないだろう。特に語釈がないことが、とりも直さずこの用法が珍しいものでないことの証明になる。弓や馬とは別項目だから、これらとは異種のものである。もっとも第二に挙げられている「弓」や第四の「馬乗」などに比べるとだいぶ順位が下がっている。順位が必ずしも重要性を示すとはいえないが、第七の「庖丁」や第八の「乱舞」よりも下位になっているあたりは、この時期の「兵法」=剣術の地位として注意しておく必要があるだろう。
 魔法としての「兵法」の価値が低下することと、「兵法」がもっぱら剣術を意味するようになることが同じ時期に起こっているとすれば、その間には何らかの関係があるのではなかろうか。その検討は稿を改めて(「流祖たちの神話学」ろんがいび0003)行うこととしたい。