あの時はまだ、思うように動くことすらできなかった。 アンティノに
用意させた身体はどれもみな脆弱で、ちょっと魔法でも使おうものなら
すぐに耐えられず壊れてしまうような者ばかりだった。
 人間など所詮この程度。 とはいえ、後はエルフでも見繕うしか選択肢が
ないとなると、さすがにそう愉快な気分にもなれない。
ほんの少し魔力に長けているという位の事で、自分達を優秀だと信じて
疑わないあの種族。 天空神の意志はいつも人間の上にあるのに気付かず。
冗談じゃない。 でも、それではやはり身体は人の物でなくてはならなくなる。
 探しあぐねた末、私は意外な人物の名前をアンティノから聞いた。
会話自体は、ごく普通のもので……彼が最近気に入っている学生が、
今日は会えなかった、というだけの主旨だったのだが。
「……弟は冒険者をやってて、滅多に帰らないからかな。
普段は何があっても研究を続けてるんだが」
「そう。 冒険者ねえ」
「よく知らんが、なかなか腕の立つ若者らしくてな、自慢の弟らしい。
通り名もついてた……確か、月光のセラ、とか何とか……」
「月光の、セラ?」
「ああ、剣の名前から来たらしいな。 そんな通り名だった」
 それでは彼が、そのシェスターという学生の弟なのか。

 大陸の北西、深い森の奥に隠されるように在る湖。 そこには失われた
古代文明の跡がひっそりと眠っていた。
水底に沈むグフトクを探し、揺らぐように進む。 湖のほとりから
人の話し声が聞こえてくる。
彼らを、そしてそれぞれが手にした剣を見て、昔日の憎悪は再び蘇り、
無力なまま私は彼らに近付いていった。
 二人の内、黒髪で年若の剣士の方は月のレリーフがある妖刀を手にし、
しきりに何か力を確かめたいというように調べている。
 こちらが月光の持ち主と言う訳ね。 
気配を悟ったか黒髪の剣士は急に振り返った。 しかし、彼の目には
私は入らない。 立ち上がって尚も探している。
やがてもう一人の冒険者らしい男が彼に声をかけた。 彼はまだ
訝しげにこちらをみていたが、やがて諦め冒険者の方へと顔を向けた。

 ……月光。 月光のセラ。 私の可愛いグフトクを眠らせた
許し難いあの宝剣。 対になる聖剣は、仮面の守護者の手に渡っていた。
 (仮面が私を誘うように)私はふと思った。
あの一対の宝剣も望んでいる。 自分の為に用意された舞台を。
どれ程人が、自らの力でそれを行ったように考えたとしても、
そこに存在する見えぬ力は、そんな人の愚かな考えすらも
収束してしまうのだろう。
 もっともそれが、私の知っている月光ならば、の話だけど。
その学生に何故私が興味を示したのか、アンティノには良く
理解できていないようだった。 彼は曖昧に言葉を濁し……そして、
他にも魔力の高い人間はいるから、とまで言ってみせた。
「会ってみるだけでもいいわ」
 どの道実用に耐えない人間なら、意味はない。
アンティノはまだそれでも渋っていたが、結局は彼も承知した。

 研究所に来たシェスターという人物は、良く言えば
研究熱心で、それ以外の事柄には何も関心を持たなそうだった。
滅多に外出せず、それも必要最低限の事のみだ。
彼女が戦闘用モンスターを作っているという事には、何故か
符号のようなものを感じずにいられなかった。
 そう。 かつて私も同じような事を試みていたから。
あと少しで全く完全で美しい化け物が誕生する所だったのだ。
何故、それを作ろうという気になったのか、私にもわからない。
それは私の指先にまでこだまする断末魔の悲鳴の為かも知れないし、
あるいはどこへもゆかず停滞する環の世界に、永劫に回帰したいと
願う気持ちがそうさせたのかも知れなかった。
 でも、核はまだ残っている。 だから一一
思考はそこまで来るといつも少しの間中断した。 
何かを為して……あれを造り上げて、どこへ向かおうというのだろう。
いや、この場合行く先にあるものは関係が無かった。 ただ、どこかへと
方向を定めたという事が一一それ自体が、滅びへと繋がってゆく。
 戯れに私は戦闘用モンスターの開発に加わった。 アンティノが
報告してくる彼女の話は時に面白く、またじりじりとさせる。
「もっとやる気にさせてくれない? 一一折角手伝っているのよ」
 アンティノは笑い、それではと『仕事』を連れてくる。
 銀色に鈍く光るぶよぶよした体。 人間など簡単に殺してしまう、
猛毒の触手。 
 彼女が扱えなかったそれをあやしながら、私は、その醜い姿に
造り手の悪意を感じずにはいられなかった。
 力の断片が怪物の姿形から、均整という言葉を奪っている。
崩れて飛び出したそれは、元の小さき者には余る力であった事を
改めて物語っていて、辛うじて闇の色を持つ生として留まっている
今でさえ、みじめでかなしい。
 歩く事さえおぼつかない怪物の影に、無数の断末魔の悲鳴が
隠れている。 握りつぶしてしまいたい衝動にかられる一方で、
抱き締めたくなる程愛しく思え、けれどどちらもせず私は、
少しだけ手を加えそれを独りで立たせてやった。

 シェスターが休暇を取り研究所を出たと聞いたのは、どれ程の
時間が経過してからだったろうか。
 アンティノはこの時も私にそれを告げる事を躊躇していた。
「できれば一一」彼はそこで言い淀み、物問いたげに私を見上げる。
自分のお気に入りが壊されるのは矢張り気が進まないらしい。
「ねえ、憶えている?」
 私はわざと笑いながら訊ねる。
「はじめて此処へ来たあの頃、まだ貴方は銀色の竜の子を捕まえて
どうする事もできず困っていたわね」
「……そんな事もあったな」
 アンティノは目を伏せ、表情を気取られぬように注意深くそらしていた。
「貴方は意の侭に扱える力を欲しいと言った。 実験は重ねられ、
ただ捕獲した怪物達の力を振り向けるだけに過ぎなかった人造モンスターは
本当に言葉通りの意味へと姿を変えつつある。
嬉しい? もうすぐ私の大切なものを探す事もできるわ」
「確かに、この円卓の騎士復活の時に居合わせたのは、或る意味幸運だったと
言えるかも知れん」
 アンティノは少し間を置き、慎重に言葉を選びながら答えた。
私は構わず語り続け、その度に「嬉しい?」をくり返した。 そしてついに
彼からはその答えを聞く事はなかった。
「弟が向かったようだ」疲れたように彼は言い足した。
「ミイスまでには多分、追い付くだろう」
「そう」私は軽く答えた。 そして笑った。
「また会えるのね……楽しみだわ」

 何て愚かな人間なのだろう。 私が円卓の騎士である事を知ると、
それこそ這いつくばらんばかりに媚びてみせた。 惰弱な器を壊し続けても
文句ひとつ言わず、『彼女』が仮面を追わずにいられなくなるよう仕向けて、
けれど最後の所で隠しきれていない。 野望が透けてみえている。
禁断の聖杯が欲しくてたまらない。

 『弟』に会うのは3度目だった。 最初はあのグフトクの眠る湖畔で、
二度目はアンティノからその名を聞いた頃だ。 
 一人で入ろうか思案するように、魔道の塔の前で立ち尽くしていた。
 一一「怖いの?」
黒髪の剣士は驚いて振り返る。
「だ、誰がッ」図星を突かれたか凄い剣幕だった。
「怖くなどない! こんな古い塔など」
「あら、ごめんなさい。 怒らせる積りはなかったのだけど」
 私は軽く笑い、セラの隣に並んだ。
同行している筈の聖剣の主は見当たらなかった。 アンティノの話にも
出てきてはいない。 その存在を知っているようにも思えなかった。
ミイスはさほど遠くはない。 エンシャントに入る前に別れたのだろう。
 それにしても、と私は考えた。 
 ……月光の主としては、まあまあって所かしら。
「お前は、」セラはこちらを見、不思議そうな表情をする。
「なあに?」
「……いや、何でもない」また塔へと視線を戻し、彼は呟いた。
「只の人間ではなさそうだな」
「どうかしら。 それより、中に入りたいの? 
そうね、踏み入れる者を拒む罠や闇の住人達を越えれば、貴方にとって
役立つものもまた沢山此処には有るわ」
「知っているのか」
 セラは意外そうに目を向けた。
「ええ、ここには面白い人達が離れられずにいる……気を付けて。
中途半端な力なら、あっても意味はないのよ」
 あえて見ようとはしなかったが、彼の表情の変化は感じ取れた。
「何が言いたい」
「別に何も。 ……早くいらっしゃい、入ればわかるわ」
「ま、待て。 別に手助けなど頼んでは一一」
 
 塔の中には、これが街外れにあるとは思えない程強い闇の力が働いている。
それは此処を造りあげた者達が遺していった魔道の為とも言えるし、それから
幾度もこの地に流れた血が、怨嗟の声を木霊させているからかも知れなかった。
 セラはその中にあって苦戦している。 決して凡庸な剣士ではないが、
その妖刀に宿る闇の色は、この塔にすむ怪物達の闇に打ち消されてしまうのだ。
不器用に魔法を操り、それでもどうにか先へと進もうとする彼に、私は言った。
「これ以上、進むべきではないわ」
「駄目だ」セラは一考する余地もないと言う様に即答した。
「まだ依頼の品を採っていない」
「闇中花だったわね。 確かにもうそれ程遠くはないけど」
 話し声を聞き付け、小型の翼を持つ者が群れを成し飛来した。 
見ればセラの魔力はとうに尽きている。
 仕方ない。 私は大地の精霊に命じ、巻き上がる砂塵で彼らを覆わせた。
「……でも、どうして? 何故そんな物にこだわるの」
 背後で苦しむ鳴き声が幾つも上がり、逃げ出そうと必死に羽ばたく音が響く。
驚いた表情でそちらを見ているセラは、何処か哀れだ。 けれど、嫌な感じは
しなかった。 必死すぎて、真面目で、おかしかった。
「別に花が目的ではない。 以前からここに入ってみたいと思っていた。
それより、お前こそどうして俺について来る」
「愚問ね」
 見下ろしている彼の細い顎に手を伸ばし、顔を近付ける。
その長い髪と同じ黒い瞳がこちらを覗いている。 深い闇の色、けれど
吸い込まれそうな奥のある色ではなく、もっと明瞭な意志が窺える。
「顔が、好みだからよ」

 本当は、聞かずともわかっていた。 より強くなりたいと欲する心が、
少々の無茶も通そうとする向こうみずな姿勢に表れていたから。
凡庸ではない、と言ってもそれはあくまで常人と比べての事で、大陸を
見渡せば彼もまた埋もれてしまう猛者がどれ程いる事か。
 まあ、わからない訳じゃないけど。
「でも、追いつけるかしら」
「どういう意味だ」
「仮面の守護者は、ただ自分の力だけであれ程強いのではないわ」
 セラは足を止めた。
「お前、」声は異様に静かだ。
「何か目的があるだろうと思っていたが……その名前を口にするとはな。
何者だ、一体。 妖術宰相の仲間か、それとも魔王バロルの亡霊か」
「立ち話もいいけど、目的の花はすぐそこよ」
 私は取り合わずに言った。
「ねえ、行かない? 歩きながら話すわ」

 小さな転送機を幾つも越え、複雑な迷路を歩いてゆく。 途中、何度か
塔の住人達が襲ってきたが、どれも私の敵ではなかった。 尤も、身体は
はやくも壊れる兆しをみせてはいたけれど……
「ずっと貴方に会いたいと思って来たのよ」
 暗い室内に出ると、私は口を開いた。
「その剣の持ち主を探していたの。 殺す為にね」
 暗がりから、息をのむ気配が伝わる。
「もう昔のことよ……私はその月光と、対になる聖剣の主の手によって、
暗い闇の底へと沈められた……グフトクは今も眠り続け、忘却の仮面は
まるでそれが当たり前の様に人間がしがみついて離さない。
 この世界に還ってきて後、私がまず考えた事はその二つだった……
不思議ね、その内聖剣は仮面の守護者の手に渡るなんて。 
知っていたの? あの剣の由来を」
「いや、俺は……」
 セラは考えこみながら曖昧に答えた。
「どうだろう、今思えば確かにロイには、そんな口振りもあった」
「そう、流石は仮面の守護者という所かしら。 
……貴方は、闇の神器についてどのくらい知っている?」
「……さあな」
「闇の神器は……全部で十二種類。 持ち主を闇に取り込んでしまう可能性は
あるけれど……どれも普通の人間には及びもつかぬ力を与える魔道器よ……
その一つが、忘却の仮面。 貴方の大切なお友達が持っている」
「そしてお前は、その仮面を狙う魔人という訳か」
「あら、知っていたの?」
「思い出したよ。 前に姉がそんな話をしていた。 その時は、
単なる伝説だ位にしか思ってはいなかったがな。
成る程、この月光を憎む訳だ。 ……どうするんだ、俺を殺すか」
「そうね、それもいいけど……あ、見て。 その一隅に咲く花がそうよ」

 セラは無言で歩み寄り、深紅の花を一輪摘み取る。
「美しいものね。 花は、何て不思議なのかしら。 繊細で、けれど強くて」
 沈黙の内にも、彼が一瞬とも油断すまいと緊張しているのが感じ取れた。
「人間は、草木を荒らし、獣を殺し、精霊達からこの世界を奪って来た。
貴方もそう? 人間は皆、同じなの?」
「下らんな。 考えるだけで無駄な話だ」
「貴方の動揺が伝わるわ、セラ。 怖いの? 私の憎悪を感じて。 
……そうね、もう少し待ってあげる。 貴方がもっと強くなるまで。
私の管理する筈だったものを取り戻して……それから、ゆっくり貴方が
苦痛で顔を歪めるように殺してあげる」
 セラは花をしまうと、こちらを向いた。 どこからか洩れてくる光が
ぼんやりと彼の顔を照らしだしていた……
「後悔するぞ。 お前は……」
「アーギルシャイア、よ。 私の名前なら。
そうね、そう思うかもしれないわ。 貴方はもっと、ずっと強くなる」
「もし本当にロイや仮面を狙う積りなら、俺も見逃す気はない。
その時には、どんな手段を用いてでも、お前を殺す」
「楽しみね。 ……お別れに、此処から出してあげるわ。
また会いましょう……」


 少しは強くなっただろうか。 今回も決して友好的な再会とはならない
にしろ、彼に会うというのはそれだけで心を幾らか浮き立たせる。
 追い掛けながら私は、むしろ自分の方が先に立っている事に気付いた。
ミイスへの道を既に熟知していた事もあったが、それ以前に姉の足取りが
全く消えている。 
 おそらくは近くの町……ロセン近辺で休息しているのだろう。 鎖国して
いると言っても、彼女ならまた別の話だ。
 そのかわり、弟のもうすぐ近くまで迫ってくる気配が感じられた。 私は
自分で思っていたよりも自分が喜んでいる事に多少驚いていた。
 冷たくて、とても綺麗で、けれどどこかとても可愛い……弟。


 無限のソウルの恐ろしいまでの迫力を感じとって、私はふと顔をあげた。
辺りは蒸気に包まれ、火蜥蜴が怯えるようにこちらを窺っている。
未だに姿はみえない、がしかし、もう遠くはない。
ふと、何故彼らが執拗にティラの娘討伐に行くのか、気になった。
誰も倒せない強大な力の持ち主だからか。 それもあるだろうが、彼らはいつ
そんな冒険者の鏡のような者達になったというのか。
似合わない。 そうだ、全然似合っていない。
 ロイは山頂近くより動いていなかった。 彼もまた、待っているのだ。
あの頃からは想像できぬ程に成長した彼らを。


 実際、ミイスの森で再会した時のセラは、以前と比べて特に強くなったとも
みえず、ただ必死な形相だけがおかしかった記憶がある。

一一「冷たいのね。 私は貴方に会うのをとても楽しみにしていたと言うのに」
「ああ、俺も今になるまでずっと姉を探せばいいと思っていた」
 その手が無意識に月光へと伸びている。 骨張っていて、長い指。
「だが違うようだな、アーギルシャイア。 お前がここに居合わせるという事は。
何を考えている、どうしようというのだ?」
「お姉さんが随分と大切で仕方ないのね。 ちょっと嫉妬してしまうわ」
「馬鹿な! いや、誤魔化すのは止めて貰おう。 さもなければ一一」
「私に手を上げると言うの? ふふ、それもいいわね。 
でも、そうだ。 私も一度訊ねてみたかったわ。
 お姉さんは、どうして何の迷いもなく此処を目指しているのかしら。
幾重もの結界で厳重に封じられ、史書からもその存在を隠されている筈の
神殿のあるこの場所を。
……ねえ、どうしてかしら、セラ」
 見上げると、自分の姿が映ってみえる黒い瞳が、僅かに視線を逸らしている。
「答える義理はない」
 一瞬の間を置いた後、セラは苛立つように短く言い捨てた。
「言えないの? でもいいわ。 だって、やっと私の手に戻ってくるのよ。
忘却の仮面が。 ……あの力を失うと、人間ってどうなるのかしらね。
結界も、守護者も。 遠い過去に神器を奪い自分達のものとしていた罪を、
今になって悔いるかしら」
「……それ以上言うな。 聞いてしまえば俺はお前を見逃す事ができなくなる」
「何故そんなに怒るの? 私はただ私のものを返してほしいと言うだけよ」


 一一一確かに神器は戻ってきた。 けれど、それは私の予想した未来とは少し
異なっていた。 それは望んでいた結果ではなかったのだろうけど、では私にとって
悪かったのかといえば、私にはその可否を答えることが未だに出来なかった。
 空気が痛い程緊張を孕み、近くにみえていた精霊達も一斉に逃げ出してゆく。
かさり、かさりと乾いた靴音を立て、二人の冒険者が山を登ってきた。
私は気取られぬよう姿を消し、岩の上に座ったまま彼らをみていた。
二人とも無言のまま早足に通り過ぎてゆく。 余程急いでいたのか、ずいぶんと
軽装のままだった。 だがセラは私に気付いた。
 急に立ち止まり、振り返る。 おそらく、漠然と感じるだけで見えている訳では
ないのだろう、それでも厳しさを増した黒い瞳は揺るぎもしない。
その目に何故か私は、既視感を覚えていた。
 カノンが不思議そうに問いかける。
「どうしたの?」
「……いや」僅かにそう取れる程小さく嘆息し、彼は山頂を見つめた。
「遅くなったな。 先を急ごう」


 後はゆっくり追い掛けて……と考えた時、ふと自分の中で何かがひっかかった。
何だろう、塊のようなものがつかえている。 先を考えようとする心にのしかかり、
まず私を見ろと言ってくる。 でもそれが何かわからない。
強い印象という程ではないもの、けれど気にかかるもの。 そう、セラの目を
見た時。 あの目を確かにどこかで見ていた。
 記憶の中の森へ入り、はやくも遅くもなく歩いてゆく。 そのままでいなければ
消えてしまう、自分だけの儚い森の中を。
 ここには何もいない。 鳥が驚き飛び立つ羽音も、思いの他埃っぽい道も。
ただ緑の無数の葉が道を覆うように茂り、それすらも移り変わる視界の中で
輪郭を失い、緑と……朱と黒が入り交じる色となって通り過ぎる。
 やがてほんの少し開けた場所に、黒い髪の魔術師が佇んでいた。 背中を剣で
貫かれ、こちらを振り返るその口元からは一筋、血が流れている。
光を失いかけたその目で、彼女は一瞬私を捉え、そして笑った。

 ……身体を刺し貫く痛みと熱の感覚が襲い、辺りの森が消えた。
自分がどこにいるのか最初わからなかった。 思い出すとそれまでまるで感じなかった
熱が、鳳凰山の岩から伝わってくる。
 器になった魔術師の目は、闇の中からじっと私を見ていた。
あの時、死んでしまえば良かったのに。 そうすれば、今に続く混沌もなく、
ロイの屍から忘却の仮面を手に入れる事もできたろう。 
いや、いや、何を考えている? ロイを殺す? それこそ考えてもみない事だ。
けれど……

 岩の向こうから音もなく新たな人影が現れた。 仕方なく顔をあげるが
誰であるかは、もう見なくともわかっていた。 
「そうか、ここに無限の魂も闇の神器もあるという訳だな」
 浮遊しながら近付く魔人の言葉には、どこか皮肉めいた響きがある。
「やはり気付いたのね……ヴァシュタール」
 もし来ていなければ、相手はどうしただろう、とふと思ったが、すぐに
そんな事は考えるまでもないと悟った。 私が此処に来ないという、
そんな選択肢は最初から無い。 ロイでなくても、無限のソウルを
置いておいても、少なくとも忘却の仮面はここに在るのだ。
「どうした? 急がなければどちらも去ってしまうぞ」
「わかっているわ……貴方には手を出さないで貰うわよ」
「ああ、私も忙しい身だ、お前に任せよう。 ……裏切るなよ?」
 一瞬の閃光と共に、浮遊する魔人は姿を消す。
裏切り? そんな言葉を彼が用いたことがおかしかった。
ウルグも所詮人間に過ぎない。 人間がこの世界に現れた時より
生まれた私と素を同じくする者は、ただ深い闇をその身に抱えていた。
 その闇の為に忘却の仮面を作り、復活の儀式に加わっただけの事。
ほんの戯れで為した事に未だ続きを求めるとは。
そんな物は遥か昔に終わってしまったのだ。


 いつもの様にロイとあの2人がティラの娘を倒す所をぼんやり眺める。
ヴァシュタールの言わんとする事はわかっていたが、別に無限のソウルを
どうかしようとは、今は思わなかった。
 早くリベルダムへ脱出した方がいい。 そして、あの不協和音に
それなりの処置を施して一一
 が、案に相違してティラの娘が空へ消え失せても、2人は去ろうと
しない。 何かしきりに話し掛けている。 ……ロイの方がだ。
 2人は禁断の聖杯を持ち去った例のゴブリン達と交戦したらしい。
一一「え、喋るゴブリン達と戦い、勝利したと?」
 確かに今そう仰ったのですね、とロイは何度も念を押している。
(何を言っているのかしら)私は不思議に思った。
 行方など、どうでもいい。 彼らがゴブリン初の冒険者となり、各地を
失敗も多いながら旅しているのは既に承知しているのだ。
ギルド創始者のフゴー家は流石に動かせなかったが、末端のギルドが、
しかもリベルダムのギルドなら情報を得る事など訳もなかった。
もう、アンティノを使って罠も仕掛けてある。
 それでいてまだ話すというのは……しかもロイは私を遠ざけようとした。
記憶を取り戻したとは思わないが。 感じるのだろう、この2人から、
忘れてはいけなかった何かを。

 セラが月光を抜き、静かに構えた。

 ぞくぞくっと、震えが走る。 暫く忘れていた、凍えるような感じが戻る。
このままで良いとさえ思っているのに、どうしても時はどこかへと向かい
流れてゆく。
 ロイはややたじろいだように言った。
「余り、感心できる動きではありませんが」
 その手はもう灰色に染まった短剣にかかっている。
 それを、手にしては駄目。 月光に近付けては駄目。
 震えはますます度を越してひどくなる。 叫びたかった。
ロイは驚きながら、けれどその先にあるものを見ることを止めない。
すぐに全てを思い出す事などない。 それはわかっていた。
けれど、思い出そうとする事、そのものが既に瓦解の前兆。

 セラの乾いた声が聞こえる。
「確かめたいだけだ。 ……こんな風に」
 掲げられ、交差する二振りの剣が震えだし、光りを放つ。
 それはまるで約束された儀式のように。 

「剣が……共鳴している……」
 ロイの蒼白な顔が忘れられない。 
見ていられなかった。 すぐに彼らのもとへ飛ぼうとして転移の呪文を唱え、
忽ち痛みと共にはねつけられる。 光を取り戻した剣が闇を拒んでいるのだ。
 セラは、……セラは、この時も私に気付いていただろうか。
その声はただ淡々としていて、予測が当っていた事も、仮面の騎士が
かつての親友である事もまるで影響を及ぼさないかの様だった。
 また、その冷たい目にあの暗い瞳が重なる。
「俺の月光に反応する剣、それはひとつしかない。
……そして、その剣を持つ者もな」
 あくまで平静を保とうとしているその表情より僅かにずれて、私の中の
魔術師が血の色をした唇で笑う。
 後の事は曖昧だ。 ただ、その言葉を契機にロイが目の前の相手へ
斬り掛かろうともがいたのは覚えている。 刹那の輝きを失い、再び剣が
薄灰色に覆われた事も。 
「退きなさい!」叫ぶ声は風に吸い込まれ届かない。 転移の呪文も、
手の中の炎も、全てかき消される。 
「駄目だったら! 今の貴方では無理よ!」
 まだ見えている幻は私の首に絡み付き、手を重ねて嘲笑う。
……死に損ないの魔術師が。 私は幻に毒づいた。
そんなに弟が可愛いの?

いいえ、わかっている。 貴方がそうして淵に沈み、それでもセラを
守ろうとする理由が私にはわかる。 ……私だから。
貴方がかつてそうであった私だから。 
だから気に食わない。 弟を守るふりをして、ロイが大切なふりをして、
……その実、彼の死を期待している。
歯車を回し、緩慢に終局へと向かわざるを得なくしていれば、仮面は
必ず外れると予測して。 
そうして、どんな手段に出ても忘却の仮面を手に入れたい。
 私にはそれが、その気持ちが痛い程わかる。 
……けれどロイは。 ロイだけは。 

 突然に呪縛が消え、空に投げ出される。 私はロイにしがみつくように
押し止めると、転移の呪文を唱えた。 
 (あの時の言葉は本当だった)
私はぼやけてゆくセラの姿をみながら考えていた。
(確かに後悔しているわ。 ……貴方を生かしておくべきではなかった)




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