宿屋の二階からみる空は、紫がかった雲に薄青い空が入り混じり、とても美しい。
しなくてはならない事はまだあったが、ただ窓際にもたれじっと外を眺めていた。
この先どうなるのだろうとか、カルラの動向とか、考えようとしても今は
疲れすぎていて、浮かんでくる事柄を纏める気にもなれない。
それにしても、子どもの少ない街だ。 入り口近くにひとりいた他は、
遊んでいる所さえ見かけない。 話している時もそう思ったのだが、皆
自分の研究を邪魔されたくないらしい。 通りを歩いているのはどこか
螺子を外して忘れてきたような類いばかりである。
後は本当に何か用事で、風のように通りすぎている者とか。
と、入り口に近い角から、急ぎ足にやってくる者達が数名いた。
ああ又実験途中に買い忘れた薬でも思い出したか、それともテラネ辺りから
魔物の骨を持たされた冒険者でもやってきたか、等と思い漫然と眺めていたが、
彼等が近付くとそれは衝撃に変わった。
「嘘よ……」
信じたくはない。 だが、見間違える事もない。 あれは、帝国の紋章。
ディンガル軍の証となるもの。
通りを歩いているのは3人である。
1人はダークエルフ、もう1人はボルダンの男で、3人目の詳細は鎧に隠れ
よく見えなかったが、背格好からドワーフかと思われた。
ネメア帝直属の部下で勇猛なダークエルフがいるのは、良く知られていた。
多分、彼等はその親衛隊の者達に違いないだろう。
それがここ迄来ているのだ。
(こんなに早いなんて。 予想しない訳ではなかったけど、それでも)
混乱する頭を何とか冷静にしようと努めながら、彼等の行く先を注視する。
長老の家の方へは行かない。 研究者達の家の前も素通りしてゆく。
(あの方向は……確か……)
彼等はやがて奥にある冒険者ギルドまで来ると、ぐるりと迂回し裏へ消えた。
(やはり……やはり、そうだわ)
姿こそ見えないが、おそらくは山へと続く道を進んでいる筈。
あれこそが火の神殿へと続く道、灼熱の洞窟へと連なる通路だ。
束縛の腕輪が封印されていると伝えられている、手を出したくとも出せない
場所でもある。 行く者がネメアの部下であるという仮定から考えても、
彼等の目的は闇の神器であろう事は容易に想像できた。
だとすると……頭の中ではめまぐるしく思考が移り変わる。
国境沿いにマグマ=ゴーレムは守備していた筈、それを抜けて来るというのは、
彼等の間に何らかの交渉があったか、ゴーレムが破れ去った、という事になる。
しかし、たった3人で? あのダークエルフが強いだろうというのは
見ればわかる。 ゴーレムを行使する人間を殺したというなら、あるかも
しれないが……いや、駄目だ、考えにくい。
恐らくは何らかの交渉があった、という事なのだろう。 彼等が街中で
まるで戦闘しようという姿勢がみえないのにも合点がゆく。
ウルカーンの長老はここ数日、誰も姿をみていなかった。 勿論、外へ出た
訳でもない。
神殿へ行こう。 考えた後、私はそう結論付けた。
「束縛の腕輪自体に用は無い。 でも、私の勘が正しければ、ディンガルは
ここからの挟撃を考える事なく、すぐにでも残りの六王国を占領する」
一一何の問題もないわ。
「あるわよ!」もどかしさでたまらず私は声を荒らげた。
「六王国は王族同士の婚姻や慣習を大事にして、外からの敵や内からの反乱に
対抗しているのよ。 ロセンが占領された時、ペウダ王に連なる者は皆、
片端から処刑されている。 今、ウルカーンからの街道をディンガルの
兵士や追っ手を逃れようとする王国の人間に荒らされたら、リベルダムへ
帰る事もできなくなるわ。 勿論、戦闘に持ち込めば負けたりしないわよ。
でも、それはできない。 青竜軍と事を起こすのは得策じゃないのよ」
一一神殿へ行って、貴方に何ができるの?
「それは」流石に、言葉に出す段になると躊躇した。
が、それもほんの僅かの間の事だった。
「殺すわ」
耳をいくら済ませても何もわからぬ沈黙が、私の後ろに漂っている。
あの3人が通り過ぎる間、嘘のように消えていた人々は、また何事もないように
通りに出ていた。 それまでと同じ、変わらぬ風景。 無関心、故に無関係。
あくまでそれで通そうという人間が、私には理解できなかった。
一一どうなっても、いいのね?
「ウルカーンがディンガルと全面的に抗争するというなら、むしろ歓迎だわ。
カルラとの話もある。 時間は多すぎても無駄だけど、少なくては困るのよ」
魔人の笑い声が聞こえる。 嘲笑でも、くすくす笑うのでもなく、意を得たと
言わんばかりの楽しそうな声だった。
一一いいわ……でも、残念。 それをするのは私達じゃないようよ……
「え?」
疑問で返しながらも、すでにある確信が出来上がりつつあった。
知る限りでは、闇の神器探しをしている唯一の冒険者。 カルラの話によると
もうロセン近辺にある罪深き者の迷宮で、傲慢の首飾りという神器を入手した
らしい。 あの青竜将軍も一目置く人物。
少し前までは、ただの少女だったのに!
「……あの二人か」
一一いい加減、同じ顔を見るのも飽きるわね。
…………
何度目かの夜と昼を重ねて。
ウルカーンにも蒼い月。
外から入り込んでくる光が、暗い室内をぼんやり照らしていた。
窓の下に膝を抱えて座り、何をするでもなくぼんやりと考え事をしている。
ロイは明日の夜まで帰らない。 周りの家具は曖昧な輪郭をしていて、そこに
あるという存在感も皆無である。 全ては幻のようで。 或いは別世界の。
昼間は策略と先を見通そうとする事で忙殺されていたが、夜の不透明な
青の静けさに身を委ねると、思いの外心が軽くなってゆく。
どうしてこんなに……という気持ちを打ち捨て、振り向いていても駄目だ、と
自分に言い聞かせた。 懐かしい声に誘われ、後ろを眺め回していても、
夢は決して叶わない。
けれども、惹かれるのだ。 それはもう、どうしようもなく。
確かに存在したが、もう見る事はない何かに。
あの後一一カノン達が、先行するダークエルフ達の影を追うように、急ぎ足に
ギルドの裏へと消えていった、その暫く後の事。
一一あ……うあ……ああっ……!
突然アーギルシャイアが呻き声をあげた。
「ど、どうしたのっ?」答えを待つより先に、頭を潰されるような激しい痛みが
私を襲う。
一一神器の力が解放されている……闇の意識が、誰かを飲み込んでいるんだわ。
耐えられず、その場に膝をつき崩折れる。 魔人が見ているであろう光景が、
私の心の中にも映し出されていた。
ダークエルフ達は皆その場に倒れ、地に伏している。
鋭い鈎のような腕と固い尾を持ち、何度となく苦悶の叫びをあげる巨大な妖魔。
その目には、かつて私が幾度となく対峙した冒険者の姿が映っている。
何て冷たい目をするのだろう。 どれ程の威嚇を試みようとも、まるで動じず、
細く鋭い輝く剣を構え、狙いを定めた。
動き出せばもう、揺れる金色の髪が光を僅かに残すだけで、次の瞬間には
妖魔の前に立っている。 その目は何の色も浮かべてはいない。
だが、その腕は既に妖魔の心臓を刺し貫いている……
荒い息の音が、部屋一杯に広がっている。
どこでもない何かを、瞬ぎもせずに睨みつけていた。 ぶつけようのない怒りが、
幾度も湧いては、また静まり返る。 その度口を開き、言葉にしようとしても
曖昧な闇に吸い込まれ、沈黙にもならず、ただ唇が震える。
がさりと、扉の向こうでくぐもった物音がした。
取手が静かに回り、扉はきしむ音を板敷の廊下に響かせて、向こうへと開く。
陰から現れた人物は、部屋の暗がりにやや驚いた様子だったが、やがて
ゆっくりと中へ入ってきた。
(……ロイ)
仮面の騎士は、静かに歩み寄り、跪く。
心配そうにこちらを覗き込んでいる。 けれど、何も聞こえない。
(そんなに心配しないで)貴方の前にいるのは、魔人じゃない。
否定しようとも、説明しようとも試みて、しかしどちらも言葉にならず、
どうしようもなく、彼を見つめた。
部屋を包む夜よりも、もっと深い闇の淵が私の内を満たしている。
あの神殿の中で、妖魔のあげた断末魔の悲鳴は何度も何度も繰り返し、
音というより、もっと内側に入り込んでいて、直接ささるように響いている。
ロイの手が、いつか私の肩に回っていた。
何も聞こえない。 いや、いつも何か聞こえている。 無数の声が重なり、
渦になってひたすら低く底の方で音を響かせる。
何も言わなくていい。 心配する事もない。 私は魔人じゃないから。
けれども、貴方は私を揺り動かす。 すぐにでもわからなくなる何かを
目覚めさせる。
肩に触れた手が、何て暖かいんだろう。 ……でも、もう、遅い。
「貴方は、サイフォスじゃないわ」
ロイの腕に、一瞬、力が加わるのを感じた。
「思い出して。 本当の名前はロイ=ミイス。 神器の守護者なのよ」
「良かった、お気付きになられましたか、アーギルシャイア様」
「私は……ッ!」
今、何も言えないのはこの闇の所為じゃない。
静かに腕をあげ、肩に乗せられた手を外した。 仮面の下の表情は見えなくても
伝わってくるものは何と優しい。
無言のまま、私から手を伸ばす。 柔らかい髪の感触を、指先がさぐるように
絡み、その度にはらりと解れてゆく。
「私は……」
窓から月光の淡い光が一筋、暗闇の中の姿を照らし出した。
沈黙は未だ続いている。 けれど、心はいつしか凪いでいた。
何故だろう、ここはとても寒くて仕方なかったのに、今はそれも止んだ。
人の温度は悲鳴で満たされていた場所に、そこだけ異質な空間を生んでいる。
そっと身体を離した。
「もう、大丈夫よ。 ……サイフォス」
……「では、その子どもを助ける為に戻ってきたというのね」
「ええ、申し訳ありません。 子どもは鳳凰をみたと興奮しておりまして」
「鳳凰……ね」
今度のティラの娘は、鳥型か。 どうでもよい事をぼんやり考えながら、
私は部屋中をぐるぐる歩いていた。
カノン達はまだウルカーンに滞在している。 鳳凰の噂を聞けばきっと、
いや、今までから考えて必ず探索にゆくだろう。
一方で、ディンガルから来たダークエルフ達の動向を考えると、青竜軍が
残りの王国を滅ぼすのはこの数週間以内、と思われた。
ウルカーンからロセンの街道が使えない場合、大陸北側の回廊を通って、
テラネへ抜け、エンシャントから海路をゆくしかない。
まだ、一般人の移動は可能な筈だ。
(時間はかかるけど……でも、一体でも多い方がいい)
街道を使わなければ、ロセンから行くのが圧倒的に楽でもある。
迷っていると、ロイが沈黙を破って言った。
「アーギルシャイア様は、このままロセンよりお帰りください。
私1人なら、リューンの森の中を通ってロセンへ行けましょう」
「でも、ティラの娘は……」
異議を唱えようとする私を、ロイは遮る。
「ご心配には及びません、アーギルシャイア様。 ……多少の障害は、
もとより承知の上です。 それとも、私が信じられませんか?」
「いいえ。 わかったわ、有難う……サイフォス」
その首に腕をかけ、鎧でごつごつしている肩に、頭をもたれさせる。
背中へ、おずおずと彼の腕が回り、一瞬の躊躇の後、ロイは不意に強く
抱き締めた。
温かい。 何て安心できるのだろう。 何もみえないというのに。
聞こえるのは、音とも思えない鼓動だけなのに。
「……アーギルシャイア様、」
「どうしたの?」
「……いえ」ロイは重ねて答えた。「いえ、……何でも」
空が白む前に宿屋を出た。 入り口近くに焚かれた炎は、明々と
燃え上がり影を長く引いている。 振り返ると、上り坂になる街の向こうは
星が出ていて、夜の空が名残りを留めていた。
部屋を出る時、ロイは眠っていたが、私は起こしたくはなかった。
今もまだ、触れていた腕の感じが残っている。
早く行かなくては。 向き直り、顔を上げると外へと通じる、
延々続く階段がみえてきた。
岩だらけの赤い土の道が途絶えると、辺りは禍々しい森に変わる。
ここではエルフの森にいるように小鳥が囀ることなどなく、影が視界の
外れでちらちらと動く。 誰の姿もみえないが、気配だけはいつも
それを窺う自分と同じく、森への侵入者を見張っている。
絶えまなく響いている奇怪な音の中、妙に規則的な固い音がいくつも、
重なりあい聞こえてきた。
咄嗟に木の陰に隠れて屈み、音の主を待っていると、案の定、盗賊達が数名
横合いから飛び出てきた。 夜明け前の一時を狙い、旅人を襲おうというの
だろうが、幾ら多くとも所詮ただの人間である。
最初に飛び掛かってきた者を簡単に避け、その顔に木陰で拾った石を押し込む。
「あっ……ああっ…」吸い込まれるように小石は顔奥深くへとめりこみ、
鼻はひしゃげ目頭は小石につられて引き延ばされ顔の窪みへと先が消えている。
手を放すと真中で捻った饅頭のような顔になった盗賊は、見えない目で何度か
辺りを見回すと前のめりに倒れた。 仲間内にどよめきの声があがる。
相手にするのも煩わしく、混乱の呪文を唱えた。 途端に盗賊達は皆、
ありったけの武器を携え、それぞれ目に映るものに斬り掛かる。
忽ち血飛沫が乱れ散った。 手を失い、足を斬り付けられ、動けなくなっても
彼等は残った半身を起こし斬り掛かる。
阿鼻叫喚の景色を後に、また街道を歩き出した。
幾らか進む内に朝が来る。 曝け出すように陽光が一際眩しく照らしていた。
もう少しで境にでる。 マグマゴーレムとその術者達がいる所だ。
早く、もっと早くと思いながら足取りはその言葉に逆らうように重かった。
無意識に何度も振り返っては黒くそびえた山をみている。
気にならない訳じゃなかった。 しかし、先に進まなければならない。
森を抜けた先に彼等の宿営地がみえている。 あの向こうはもう六王国だ。
ディンガルの使者を拘留する事すら出来なかった「軍」か。 研究室に
閉じこもり幾ら巨大な怪物を扱った所で、向けられた剣を払う事すらできない。
しかし、彼等の中には六王国から逃げてきた者達がいる筈だった。
迷った挙げ句、そちらへ足を向けた。
吐き気を催す強烈な匂いが漂っている。 近くまでくると、余りの光景に
自分の目を疑った。
何もかも焼かれている。 人も、物資も、そこにあったと思われる全てが。
黒く焼け焦げて地にへばりついている。 点々と山になった其れから、幾本も
煙りが立ち上っていた。
辺りに敵らしき姿はみえない。 一瞬、あのダークエルフ達の所業か?と
考えたがすぐに打ち消した。 これはここに来る直前の事だ、そしてディンガルへ
帰るのにわざわざ襲う必要もあるまい。 闇の神器をカノンに奪われ、
ウルカーンの長老が神殿で斃れた時点で、ほぼ占領に時間をかける必要も、
その価値もなくなっていた。
勿論、カルラ軍ではない。 だとすれば……突如、背後から何者かの気配を感じ、
慌てて振り向く。
炎の力を宿した巨大な土塊の人形が、低く地響きを立てながらこちらへと
歩いてくる。 その肩には闇の住人の蒼白い肌を持ち、異国趣味の衣裳を着た
男がひとり、足を軽く組んで座っていた。
「久しぶりだな、アーギルシャイア」
円卓の騎士……! この魔人は、この姿は……
「あなたは、ヴァシュタール……?」
「ああ、みてみろ。 これは中々面白いオモチャだ」
ヴァシュタールはそう言って笑ったが、急に不思議そうな表情へと変わった。
「どうしたのだ、一体?」
「え……」
「人間の身体など借りているからか、随分雰囲気が変わっているぞ」
「そんな事は……ないわ」
否定の言葉など聞こえてもいないように、彼は黙ってじっとこちらを見ている。
目をそらす事もできず、更に数秒、沈黙が流れた。
「まあ、いいだろう。 忘却の仮面はどうした? ミイスにはもうなかったが」
自分の息遣いが徐々に荒くなっている気がした。 目の前にいる円卓の騎士は、
あたかも答えのわかっている計算を解かせてみて、出来るかどうかその反応を
確かめているようだ。 一歩踏み出す度に、向こうの答えと合致するか見定め
なければ、ここから進む事さえできない。
「仮面は……ここにはないわ」
「奪われた、と言うのか?」
答える代りに頷いてみせる。
「大方ミイスの生き残りにでも持ち去られたのだな。 派手に村を壊してみても、
結局今は仮面を追っている途中か。 どうだ、当りだろう」
彼は親し気な笑顔を浮かべ、何かそぐわないものを感じながら私も微笑した。
と、急にヴァシュタールは真顔に戻り、マグマゴーレムが歩きだした。
一歩、二歩、進む毎に大地が震える。 見上げなければいけない程近くに来ても、
逃げようとする体が動かない。 見下ろす彼の目はあくまで冷静で、被さるように
ゴーレムの巨大な足がゆっくりと降りてきた。
目を閉じそうになるのをやっと堪えて、頭上の魔人を睨みつける。
今にも踏みつぶしそうな足は、途中で止まり元へと戻った。
「……どうする積りなの……?」
「アーギルシャイアよ、お前が魔人であるか、人間であるかはどうでも良い事だ。
ただし、私とウルグ様への欺瞞は許さぬ。 ……仮面はここにない、と言うのだな。
今はその言葉を信じてやる。 必ず取り戻して、私の下へ帰るのだ。
もし次にお前の顔をみた時、まだ良い返事が聞けぬようなら……
器はエンシャントにある。 ウルグ様の業火に焼かれるのが嫌なら、急ぐ事だ」
ヴァシュタールはその言葉を残し、一瞬の後消え去った。
もう一度辺りを見回す。 生存している者は皆無だった。 とりあえず、解放軍との
繋がりや六王国で何をしていたか知っている者は消えた訳だ。
「手間がはぶけたという事かしら。 ……証拠を残しても良かったけど」
まだ、じりじりと何かが焦げつく音がしている中、これからどうするべきか
少し迷った。
ここまで来れば、後一息でロセンである。 が、もしヴァシュタールや配下の
魔人がロイを見つけたら、只では済まないだろう。 そして、あの円卓の騎士が
偶然ここへ来たとはとても思えなかった。
少なくとも、忘却の仮面は先に回収しておかなければならない。
背後に聳える黒い山までは少々距離があった。 考える時間も惜しく、そのまま
テレポートの呪文を唱えた。
ウルカーン近郊にある鳳凰山は、火蜥蜴が多く棲息し、経験を積んだ冒険者でさえ
あまり行きたがらない所だ。 ロイが出会ったという子どもは、その中腹あたりで
倒れていたらしい。 鳳凰を見たと興奮して語り、気を失ったその子を放って
おく訳にも行かず、「鳳凰がティラの娘だとわかってはいたのですが」と彼は
すまなさそうに言っていた。
岩影から白く蒸気が噴き出している。 おそろしく暑い筈なのだがそんな事も
なく、むしろ寒く感じる程だ。
ウルカーンに着いた頃からずっとそうであった事に私は気付いていた。
が、逆に魔力はずっと上がっている。 街道から一気にテレポートで飛んでも
まるで疲れがない。
もう一度転移を使う前に、きっとここに来る筈の気配を私は探した。
(……まだだわ。 まだ何も感じない)
ロイは中腹を歩いている。 合流するのは簡単だが、そうするべきか迷った。
確かめたい事もあったし、何よりロイ自身が私へ先に進む事を望んでいる。
(前と同じね)デス=ギガースを前に、そうとはとても思えぬ程
穏やかな声で妹に話し掛けた、あの時と。
仮面を使えば記憶は失われる。 デス=ギガースを倒しても先に道がないのは、
賢明な彼ならわかっていただろう。
(少なくとも)あの時の最善の策は、忘却の仮面を所持したまま村に帰らず、すぐに
立ち去る事だった。 罠だとわかっていて、狙いは仮面だと明かされているのにも
関わらず神殿へと戻ってくるなど、愚行としか思えない。
けれども、彼は神殿へとやって来た。
それを優しいからとするのはどうなのか。 守護者がその神器より親しい者達を
選ぶというのは、聞こえはよくてもその職務の重大さを忘れた行為だ。
或いは、自分の力なら両方とも守れると考えたのかもしれない。 セラは以前、
ロイを高く評価していると取れる発言をしていた。 この身体の主が聞いていた……
いや、やはり自分が聞いたような気がする。 記憶の中に実感が残っている。
セラ……あの女とはじめて会った時、彼も森を歩いていた。
がたりと物の動く音に驚き、そちらを振り返った。 何の事はなく、湯気の
噴き出す岩の間から小石と砂が零れ落ちただけなのだが、全く予想していなかった
為か異様に大きく響いて聞こえた。
彼等の気配は微弱だが感じつつあった。 いずれここも通るだろう。
何とは無く、苛立ってくる。 あの妹なら、神器を守ったかもしれない。
そして私は、躊躇なく彼女を殺しただろう。
しかしあの時は弟が……セラがいた。 彼自身はさしたる脅威ではなかった
けれど、私はあの妖刀が……月光が嫌いだった。
人間達にとっては、ただ珍しい宝剣が見つかった、というだけに過ぎなかったの
だろうが、そしてその素性を知られていないという事は同時に、私にとっても
幸運だった訳だが。
おそらく、目にはみえぬ何かとは存在するものなのだ。 関わらざるを得なくして
私は彼に……セラに会った。
まだこの身体になる前に、あの神器の村へと続く森で。