男は常に頂点に立っていた。
否。そこに立つ事を余儀なくされていた、と言った方が良いかもしれない。
男は常に頂点にあらねばならず。
そして、堕ちる事を赦されない。

「匡雅兄。」
「…翔一郎さん。どうしました。」

氷の美貌に呼び止められ、男----椿匡雅(ツバキ タダマサ)----は、ニヒルな微笑で振り返る。
日本を代表する超一流企業。その自社ビルの高層階は、当然、その企業の支配者が君臨する
場所だ。
その一角に椿はオフィスを持っている。会社に於ける彼の肩書は専務取締役。
尤も、会社に顔を出すのは月に一度か二度。彼の本業は裏社会にあり、大企業の危険な部分
を一手に引き受けている。
椿の裏の顔は極道。それも、闇の頂点を極めた極道の中の極道である。
そして、椿ににこやかな声を掛けたのは、冷酷非情で知られるアイスマン・
桜隆寺翔一郎(オウリュウジ ショウイチロウ)。
表でも裏でも巨大な力を持つ界桜(カイオウ)グループの、その支配者一族の次期総帥である。

「匡雅兄。最近、都心の一等地にある高層マンションの最上階をフロアごと買ったみたいだけど、
何かあった?」
「…。あのマンションは元々界桜の持ち物ですよ。しかし、この不景気で手放したいという御仁が
おられましてね。それで私が買い取ったのです。また、値はつり上がりますよ。」
「くすす。」
「何です?」
「値がつり上がっても、手放す気なんてないでしょ?」
「…。」
「誰を住まわせてるの?」
「翔一郎さん。」
「兄のプライベートに口は出さないよ。でも、兄が誰かを囲うなんて初めてじゃない? さすがに気
になるよ。」
しかも。
「あのマンションだけで十数億だよ? 今までセックスの相手に花一輪買ってやった事なんてない
クセに。」
誰?
「もしかして、とうとう結婚でもする気になった?」

鋭利な深翠の瞳が可笑しげに揺れている。アイスマン、氷の帝王、白い悪魔。翔一郎を称する
言葉は数多く冷酷さに彩られているが、乳兄弟である椿の前でだけは素が出るらしい。
類い稀な美貌の、その忌々しいほどの笑顔が今日は少し厄介だ。



----急に現金が必要になった。

そんな電話で椿が個人資産から十八億の出費を即決したのは気まぐれからだ。
元々、金を湯水のように使うタチの男ではなかったが、莫大な収入の割には極端に出費の少ない
男だった。
無論ケチな訳ではなく、はっきり言ってしまえば使っている暇がなかった、というところに落ち着くだ
ろう。学生時代から現在まで、遊びや趣味に興じている時間も余裕もない有様だったのだ。大体、
遊びだの趣味だの、そんな時間と余裕があるのなら寝ていたい。その実にシンプルな欲望だけが
椿の望みのすべてであった。
今更ではあるのだが、椿という男はその数多(あまた)ある肩書とは裏腹に、実につまらない人生を
過ごして来た。
そんな椿がいきなりの大物買い。大出費である。翔一郎でなくても椿を知る人間ならば好奇心を抑
えられないだろう。

都心の一等地。界桜グループが所有する超高級マンション。建築中に何度か訪れたその場所は、
夜になると足元に宝石が散らばっているかのような夜景が楽しめる。
その最上階ともなれば、見下ろす優越感もひとしおだ。
一年前までは左団扇だったIT企業の会長が、今は金策に走り回るご時世となった。このままでは死
ぬしかない。そう電話越しに命乞いする男を救ってやる義理はないが、買い叩いておいて損は無い。
見栄を張って購入した際の値は、現在価格の数倍にもなるだろうに、男は十八億で手を打つという。
そうとう追い詰められているのだろう。
尤も、そんな事はどうでも良い。かつて見た高層階からの眺めを思い出し、椿は涼しげな眼元に深い
笑みを刻む。

あれに似合いそうだ…。

フッと脳裏を過ったたおやかな美貌。
万人が平伏すであろう翔一郎の美貌とは一味違う、けれど絶世の美貌と称されるに相応しい面(かお)
を思い出し、椿は散財を決行した。取引銀行が一時騒然となるような素早さで。

「名義は私のものですが?」
「そんな事は知ってる。問題は…。」
アレは、誰?
意味深な翔一郎の視線に椿は苦笑する。
思えば34年の付き合いだ。生まれた時から一緒だった翔一郎に隠し事など出来そうにない。
「まだ、紹介できるほどの関係ではありません。」
「兄…。自分名義とはいえ、超が付く高級マンションに住まわせておいて、それはないだろう?」
「本当ですよ。まだ、触れた事はありません。」
正確には、怖くて触れられない、といったところか。
「本当に?」
「ええ。まだ子供なんです。」
椿の一言に、翔一郎は眼をまん丸にした。

そう。彼はまだ子供。
穢れを知らぬ十八の子供なのだ。