天使で悪魔





不死者の悪意 〜戦士ギルドからの依頼〜





  戦士ギルド。
  元老院から司法権を与えられている民間組織。ある意味で自警団的な存在であり、民衆からの支持も厚い。
  しかし。
  しかし、それは少し前までの評価。
  レヤウィンで基盤を固めた亜人版戦士ギルドであるブラックウッド団。レヤウィンでの勢力を確固たるものとしたブラックウッド団は
  北に勢力を伸ばす。次なる目標はブラヴィルだ。
  破竹の勢いであるブラックウッド団に対して、戦士ギルドは落ち目。

  噂。
  それは噂でしかないものの、元老院は戦士ギルドに与えている特権をブラックウッド団に委譲しようとしているらしい。
  ……噂。
  それでもその噂を真実として裏付けるように、ブラックウッド団は日々勢力を伸ばしている。
  勢力の分布は塗り替えられつつある。
  依頼はブラックウッド団に流れ、構成員もブラックウッド団に移籍する者も多い。
  先行きは危うい。
  そして……。





  「アリス。仕事がある。……受ける気はあるか?」
  「はい」
  「結構」
  依頼があると告げるのは叔父さん……ではない。アーザンさんだ。
  いる場所もコロールではなくアンヴィル。
  アンヴィルにいる理由。それはおば様にヴィラヌスを任務の為に引っ張りまわしていたのがばれて左遷させられた為だ。
  まあ、仕事でもある。
  コロールにいようがアンヴィルにいようが仕事をする事には変わりはない。
  だからそれほど凹んでもない。
  ……。
  ……そうでもないかぁ。
  早く帰りたいよー。
  「座ってくれ」
  「はい」
  アンヴィルにある戦士ギルド会館。全支部の中でももっとも規模が大きい……と思う。スキングラードの方が大きいかな?
  まあ、いいか。
  あたしは座る。ここは支部長であるアーザンさんの執務室だ。
  さて。
  「最近狂人事件が起きてるのを君は知っているか?」
  「狂人?」
  「知らないようだな」
  「みたいです」
  アンヴィルに来たのは一昨日だし。
  アーザンさんは簡単に事件の概要を教えてくれる。
  「要は簡単だ。数秒前まで何の変哲もなかった一般市民がいきなり暴れ出す。大抵は衛兵隊に喧嘩を売る。武器屋やまたは
  冒険者から剣を奪って刃傷沙汰も起こす。共通しているのは死ぬまで暴れ続ける」
  「……」
  怖い話だ。
  何かの病気だろうか?
  いきなり狂うんだから対処しようがない。まったく原因が意味不明な事件だ。
  ……。
  ……シヴァリングアイルズの狂気の魔王は関わってないよね?
  あの魔王には流浪の魔剣の時にガクブルさせられたから2度と会いたくもないけど。
  「それで、その、犯人は何て言ってるんです?」
  犯人と呼称するのが正しいかは分からないけど。
  「言ったろ。死ぬまで暴れ続けると」
  「じゃあ……」
  「全員死亡」
  「……」
  沈黙。
  この事件、謎だけではなく狂気と恐怖も満ちているらしい。
  「今回の任務は凶暴化事件の解決……というか真相の究明だ。解決出来るのであれば当然解決してくれ。依頼人は、凶暴化して
  死んだ者達の遺族達だ。死んだ彼らの無念を晴らすのが仕事だ」
  「……?」
  少し引っ掛かる。
  彼ら?
  彼ら彼女らとは言わなかった。
  「あの、死んだ人達って……」
  「鋭いな。そうだ、全員男性だ。女性は1人もいない」
  「それは何かの符号ですか?」
  「おそらくは」
  「ふぅん」
  どういう符号かは分からないけど、あたしがいきなり凶暴化するわけではないらしい。調べる上では、少し安堵出来る。
  「衛兵隊も当然ながらこの件を追ってる。協力関係の協定を結んだ、レックス隊長に接触しろ」
  「はい」
  「では、頼んだぞ。……実績を上げればコロールに復帰出来るさ。頑張れよ」
  「はいっ!」



  戦士ギルドには仕事が減って来てはいるものの、ブラックウッド団の影響はまだアンヴィルにまでは届いていない。
  シェイディンハルにもだ。
  じわじわと影響力を伸ばしてはいるがまだそこまでの勢力はない。
  もっとも。
  このままのスピードで勢力を伸ばした場合、勢力図を塗り替えられるのも時間の問題だ。
  だからこそ小さな事からコツコツと。
  どんな仕事でも精一杯やれば信用は勝ち得れる。
  そういうものだと思う。
  よーし。がんばろー♪

  「ふふーん♪」
  鼻歌交じりに戦士ギルド会館の廊下を歩く。
  コロールから追放されてからはここがあたしの家であり寝床。完全武装して街へ出るべく廊下を歩く。
  「アリス。今から仕事なの? 頑張ってね」
  「……」
  1人の女性にエールを送られる。
  一瞬硬直する。
  まだ正直慣れないというか慣れれるわけがない。
  「アリス。どうしたの?」
  「い、いえ。頑張ってきます、フォースティナさん」
  「ふふふ。初々しいところがおいしそう……じゃない、可愛いわね。じゃあね♪」
  「……」
  スタスタと歩き去るフォースティナ。
  フォースティナ?
  フォースティナっ!
  最近アンヴィルでは賊が蔓延っているからアーザンさんがフォースティナの保釈金を支払い、戦士ギルドのアンヴィル支部身元引
  受人となる事でアンヴィル当局は納得した。保釈して引き受けた理由は、賊への対処の知恵が欲しかったから。
  フォースティナは経験を生かして賊を一掃する知識を提供した。
  そしてそのまま戦士ギルドのメンバーに。
  余計な事をーっ!
  ……。
  アンヴィルに赴任した時にフォースティナがいたから当然あたしは驚いた。
  一瞬おば様に土下座してでもコロールに戻ろうかと思ったもん。
  とりあえずまだ何もされてないけど(されてたまるかーっ!)身の危険を感じる今日この頃。たまに寒気感じるし。
  はぅぅぅぅぅぅっ。
  「お、お仕事お仕事ーっ!」
  気を取り直して街へと出る。
  まずは衛兵隊長であるレックス隊長に接触するとしよう。



  街を歩く。
  アンヴィルは港湾都市で当然ながら海が近い。戦士ギルドを始め街の主要区画や住宅街は塀に囲まれているものの、門を出れ
  ば港だ。港湾都市の異名を持つものの、純粋な意味では塀を出たところにある波止場地区が本当の意味での港町。
  それでも独特の匂いが鼻に届く。
  海の匂い。
  潮の匂い。
  あたしは嫌いじゃない。
  おば様に許されて、コロールに復帰して、それなりに戦士ギルドでも頼られる存在になったらアンヴィルに転任するのもいいかもな。
  こういう場所は憧れる。
  ……。
  んー。だけどそれだとダルにも会えなくなるし。
  それはそれで困るかも。
  大の親友だし。
  心は繋がってたら距離は関係ないって言う人がいるけど、あたしは身近にいたいなぁ。
  おばあちゃんになるまで。
  ダルとならずっと居心地の良い関係でいられる気がする。
  さて。
  「別に普通だなぁ」
  兵舎のあるアンヴィル城に向かう道すがら、一応は巡察気分で街を歩いている。
  特におかしな事はないように見える。
  穏やかな午後の一時だ。
  もっとも、凶暴化は突然起こるらしいし、今通り過ぎたノルドの中年の人がいきなり襲い掛かってくる事だってあるのだ。
  パァン。
  頬を自分で叩く。
  気を引き締めよう。確率的にはどうなのか分からないけど、いきなり襲われるのは杞憂ではないのだ。
  ある意味で戦場だと心得よう。
  しかも相手はゲリラ的に潜んでいると仮定した方がいい。
  「敵はどこー? どこから来るのー?」
  周囲をキョロキョロ。
  ある意味で『ザ・不審人物っ!』ではあるものの、正直緊張してしまう。これで凶暴化事件の際に女性も凶暴化していれば、おそらく
  あたしは衛兵に『スタァァァァァプっ!』されても不思議じゃない。
  わぁぁぁぁぁぁぁっ!
  市民が騒ぐ声。
  来たっ!
  タタタタタタタタタっ。
  あたしは声のした方に走る。市場で刃傷沙汰だとおばあさんが叫んだ。
  到着してみると、男性が衛兵隊を相手に大立ち回りしていた。
  衛兵隊が叫ぶ。
  「無駄な抵抗はやめろっ!」
  「いーひっひっひっ!」
  どうやらあれば凶暴化した人物らしい。
  右手に剣を、左手には人質であろう女性。その為、迂闊には手が出せないらしい。丁度あたしは凶暴化した男性の背後に回る
  位置にいる。相手はまだ気付いていない。
  凶暴化しているとはいえ、凶暴化した本人には罪がないのかもしれないけど……今の状況では仕方ない。
  あたしは音もなく忍び寄り抜刀。
  「はぁっ!」
  「ぐぅっ!」
  相手の右手首を切りつける。落としてはいない。さすがに腕落とすのは気が引ける。
  カラン。
  剣は落として振り返る。
  淀んだ瞳。
  「忘れぬぞ、ダンマーの小娘。ワシの愉悦を邪魔した罪を……」
  「それっ!」
  衛兵の一声で、衛兵隊は殺到。
  女性を解放。
  なおを抵抗を続ける凶暴化した人物は結局衛兵隊に斬り殺された。しかし息を引き取る前に、こう言った。
  「忘れぬぞ、ダンマーの小娘」
  「……」
  そのまま事切れる。
  しかし次の瞬間、肉体から何かが飛び出した。それは天高く舞い上がり、凄い勢いで飛んでいく。
  なんなのっ!
  ……でも他の人達には見えていないようだ。
  なんなのこの現象。
  と、ともかく当初の予定通りレックス隊長に接触するとしよう。


  アンヴィル城。
  海に浮かぶ小島にその城はある。都市の敷地の外に城があるのはアンヴィルとスキングラードのみ。
  スキングラードは小高い丘にある。
  さて。
  「私がヒエロニムス・レックス。アンヴィルの衛兵隊を預かっている。……街での一件、ご苦労だった」
  「いえ」
  「それで、わざわざ報告しに来てくれたのかな?」
  「はい」
  それもある。
  それもあるけど、元々事情を聞きにアンヴィル城にある兵舎を訪ねるつもりだった。
  「あたしは戦士ギルドの者です。今回の凶暴化事件を調査しています」
  「なるほど」
  嫌な顔はされない。
  戦士ギルドは衛兵と同じ捜査権を元老院から特権として与えられている。民間の衛兵隊のようなものかな。
  ちなみに帝都には戦士ギルドはない。
  戦士ギルドの戦士が衛兵面するのが帝都軍には気に入らないのかもしれない。
  「今回の事件、実は我々も苦労しているのだ」
  「……?」
  「ほぼ何も分かっていないのだが現状だ」
  「……」
  「何故凶暴化するのも分かっていない。過去に罪科のある者もいるが、必ずしもそれは関係ないようだ。関連性がまるで分かっ
  ていない。言えるのは女性の報告例はないという事だけだ。……すまんがこれが全てだ。情報の出し惜しみはしていない」
  「ありがとうございます」
  ぺこり。
  頭を下げた。
  ヒエロニムス・レックス隊長は帝都で有名だった熱血漢の衛兵隊長。
  情報の出し惜しみをするタイプとは思えない。
  本当にこれが全ての情報なのだろう。
  つまり、あたしがどう動くかが今後の捜査の焦点になってくる。頑張らなきゃ。

  「レックス」
  不意に女性の声。
  振り返ると、インペリアルの女性がいた。口調からしてレックス隊長とは懇意らしい。レックス隊長も驚くと同時に嬉しそうな顔した。
  ……恋人?
  邪魔したらいけない。
  聞くべき事も聞けたし、あたしはこれで失礼しよう。
  「こ、これはレディ」
  「御機嫌よう」
  レックス隊長、慌てて椅子から立ち上がる。
  女性は微笑。
  ……あれ?
  このインペリアルの女性、前にアンヴィルで会ったような覚えがある。どこでだっけ?
  向こうは何も言わない。
  まあ、それほど深い出会いでもなかったから仕方ないかもしれないけど。あたし自身、朧な記憶でしかないのだから。
  「じゃあ、あたしはこれで。色々とありがとうございました」
  ぺこり。
  レックス隊長に頭を下げ、女性にも頭を下げる。
  とりあえずここでする事は終わった。
  ……大した情報でもなかったけど。
  この後、街に出たものの特にその日は何の収穫もなかった。






  翌日。
  凶暴化した相手を倒した瞬間に肉体から何かが飛び出るのを立続けに目撃したあたしは魔術師ギルドに足を運ぶ。
  戦士ギルドと魔術師ギルド。
  それぞれ扱う領域が異なる事から敵対していると思う人達は多いけど仲は悪くない。というかお互いに非干渉。
  ただ、何かしらの提携か協定があるのかは知らないけど施設の建物は大概隣接している。
  アンヴィルにしてもそうだ。
  二分もあれば魔術師ギルドの建物に辿り着ける。
  「こんにちはー」
  建物に入る。
  丁度アルトマーの美人なお姉さんが眼に入った。向こうもこちらを見て、近付いてきた。
  「魔術師ギルドにようこそ」
  「あの、相談したい事がありまして」
  死体から何かが飛び出す現象。
  どうも見えてるのはあたしだけらしい。つまり、その、あたしが変なんじゃないかって少し怖い。だから相談に来た。
  魔術師ギルドは知識を司っている。
  何か分かると思って訪ねた。
  まずは自己紹介。
  「あたしはアイリス・グラスフィル。戦士ギルドの者です」
  「……」
  途端アルトマーの女性は黙る。
  値踏みするようにあたしを見ている。どうしてだろ?
  あたしは続ける。
  「あの、最近変なモノが見えるんです。その、死体からなんですけど」
  「……ああ。悩み事」
  「はい」
  アルトマーの女性は少しホッとした。
  何故に?
  「込み入った話みたいですね。奥にどうぞ。紅茶はお好き?」
  「大好きです」
  「よかった。奥で診断しましょう。……ああ、私はキャラヒル。ここの支部を統括する使命をマスター・トレイブンから与えられています」
  「よろしくお願いします」
  丁寧な人みたい。
  言葉遣いにしても物腰にしても、とても丁寧。
  伴われてあたしは置くの部屋に。
  「どうぞ」
  「はい」
  奥の部屋に入り、勧められるがままに椅子に座る。キャラヒルさんはあたしの顔をまじまじと覗き込む。診断開始のようだ。
  色々と質問される。
  あたしは起こった事、見た事を隠さずに話す。その間、キャラヒルさんはあたしを見つめたまま。
  ……。
  ……こうマジマジと見られると何か照れるなぁ。
  眺められる事数分。
  「ダンマー特有の体質ですね。最近では珍しいですけど」
  「ダンマー特有?」
  診断結果は、意味が分からなかった。……まあ、大方の予想通りだけど。キャラヒルさんの説明が悪いのではなく専門的知識
  がないあたしには意味が分からないという意味だ。
  もちろんもっと噛み砕いて説明して欲しいのは確かだけど。
  キャラヒルさんは続ける。
  「霊能者を知っていますか?」
  「霊能者?」
  「霊を視たり従えたりする者の事です」
  「つまりー……あたしは死霊術師の家系なんですか?」
  「いえ。死霊術師とは根本が違います。貴女は生まれながらに霊視能力を備わっているようですね。先祖を神以上に大切にする
  ダンマーという種族に多く見られる能力です。貴方が視た者はおそらく魂でしょう」
  「魂」
  斬った人のかぁ。
  「いえ。貴女の考えているであろう事は、間違ってます」
  「は、はぁ」
  すごい。
  霊視能力があたしにはあるのかもしれないけど、この人はきっと読心術が出来るに違いない。だってあたしの考え読んだもの。
  「凄い勢いで飛んで行ったと言いましたね」
  「はい」
  「だとしたらそれは犠牲者の魂ではないでしょう」
  「何故ですか?」
  「死者は天に召されます。怨念ある者はその場で亡霊と化すか、地に潜り地脈の力を得てその場に留まり呪い続けるものなのです。
  もちろん何らかの使命や義務、責任によりこの場に留まり続ける霊もいます。しかし貴女の言うような霊は私は知りません」
  「はぁ。なるほど」
  つまりは、キャラヒルさんにも分からないという事だ。
  ただ判明したのはあたしには霊が視えるらしいという事。今まで視えた試しはなかったんだけどなぁ。
  まあいいか。
  ご都合主義は大いに結構。
  「それにしても貴女は視るだけの能力のようですね」
  「視るだけ?」
  「稀にですが先祖の霊を具現化させる能力者もいるようです。貴女がその能力者なら色々と記録を取りたかったのですが残念です」
  「色々とありがとうございます」
  頭を下げて一礼。
  進展あり、だね。
  死体から飛び出した霊が何なのかは分からないけど、あたしに霊を視る力があるのであれば解決の糸口になるに違いない。
  あたしはキャラヒルさんに改めて例を述べて魔術師ギルドを後にした。


  戦士ギルドには戻らずにあたしは街をぶらつく。
  ……ぶらつく?
  ぶらつく。
  巡察のつもりなんだけど相手がどこにいるか分からないし、どこから襲ってくるか分からないから巡察というより街をぶらついてい
  る感の方が大きい。
  「散歩には良い天気なんだよなぁ」
  言ってから、自分が軽率な発言をした事に気付く。
  誰も咎める者は当然ながらいない。いないけど、あたしは自分の軽率を恥じた。既に何人も死んでいるのだ。気を引き締めよう。
  これは仕事。
  私情は捨てよう。
  戦士ギルドの体裁とかそういうのも無視。仕事を確実にこなそう。
  それがプロだもの。
  よし。気分一新。街の巡察を続けよう。
  それにしても……。
  「衛兵多いなぁ」
  昨日も思ったけど、やはり多い。
  街の治安維持の為にレックス隊長は出せるだけの衛兵を出張らせているらしい。
  帝都でグレイフォックス相手にドタバタ騒ぎをしていた名物仕官として有名ではあるものの、実際に会ったのは昨日が初めて。
  ……ま、まあ、そもそも帝都も戦士ギルドの依頼で数えるほどしか行ってないし。
  個人的に観光目的で行った事ないしね。
  だから当然会った事はない。
  まあ、それはともかくとして会った第一印象はここ最近では珍しく職務熱心で熱血漢名衛兵隊長だと思う。
  部下の衛兵達も隊長を敬愛しているらしく職務に忠実だし。
  あたしもそれに貢献しないとね。
  「よし。頑張ろう」
  「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
  女性の悲鳴。
  出たかっ!
  あたしは走った。
  走る度に人は多くなっていく。人が脱兎の如く逃げているのだ。あたしはそこを逆送する形で走っている。
  ドカっ。
  ノルドの女性とぶつかり、二人とももつれ合って倒れる。
  「いたたた」
  「ひぃっ!」
  しかし女性はそのまま走って逃げる。他の逃げ惑う人達に遅れまいとばかりに走って逃げる。
  ……あたしを踏みつけてね。
  ……ああ。顔に靴の後が付いてないといいけど。
  はぅぅぅぅぅぅっ。
  「何なのよ、まったく」
  立ち上がり、あたしは喧騒の去った方向を見る。つまり、人々が逃げて来た方向だ。
  そして見る。
  「……嘘……」
  あたしもそのまま市民達の走り去った方向に逃げた。
  衛兵が大挙としてこちらに向かって来ていた。それはそれで怖いけど、怖いのは衛兵の先頭を全力疾走するゾンビ。
  おそらく衛兵に追われているのだろうけど、ゾンビが短距離走の選手の如くは知るのなんか見た事ないっ!
  未知との遭遇だ。
  その遭遇の結果、あたしは思わず逃げてしまった。
  「はあはあ」
  ゾンビと衛兵隊は別の通りを爆走している。あたしは思わず逃げてしまい、別の区画に来てしまった。
  どこだろ、ここ。
  「火事の後?」
  焼け落ちた家屋が多い。
  ただの火事の後なら別に珍しくはないけど、問題は火事を免れた家も焼け落ちた家も豪邸だという事だ。
  焼け落ちたのに豪邸だと分かる理由?
  簡単だよ。柱がでかい。
  普通の家屋ならこれほど大きくはないはず。
  だとするとここは貴族や富豪の区画?
  もっとも火事による影響で鎮まりかえっている。奇跡的に火事を免れた豪邸にも人が住んでいる気配はない。もちろん全部が
  全部無人とは言わないけれども。
  どうやら復興が頓挫しているのだろう。
  さて。
  「今更遅いけど、戻らないと」
  あのゾンビが鍵な気もする。
  でもだとしたら今度の事件はどんな風に繋がるんだろう?
  ……謎だ。
  それでもゾンビを倒す、もしくは接触するのは事件解決に必要不可欠だろう。
  戻ろうとする。
  「戻れるかが疑問だけどね」
  まだアンヴィルの地理には精通していない。
  戦士ギルド会館に戻れなくなる事はないにしても手間を食うのは変わりない。
  来た道を戻ろう。
  「くくく。よくぞ気付いたな」
  「はっ?」
  「確かにお前は戻れんよ。ここで死ぬのだからなぁっ! ……それにしても戻れるかが疑問とは、なかなか謙虚な小娘よ。絶対に
  ワシに勝てるという自信がないからの発言ではあろうが、謙虚ではある。くくく。もっとも手加減はせんがなぁっ!」
  「えーっと」
  迷子になったから戻れるかが疑問という意味だったんだけど……まあいいか。
  現れたのはボズマーの男性。
  眼は血走り、狂気じみている。ゴブリンの低級部族が手にするようなな錆びたショートソードを携えている。
  鞘すらない抜き身の剣を手にしている。
  切れ味は大した事ないだろう。
  だからといって当たっても平気とは言わない。切れ味が大した事ないから中途半端に痛いのだ。
  ……。
  ま、まあ、切れ味鋭くて腕切り落されるのも嫌だけど。
  さて。
  「貴方は何者ですか」
  「何者ですか? いーひっひっひっ! 昨日お前に斬り殺された男だよーっ!」
  「……」
  バッ。
  間合を保ち、柄に手を掛ける。
  どうやら凶暴化事件の加害者であり被害者だ。洗脳されてるのか、それとも常軌を逸しているのか。
  もしくは……。
  「憑依している?」
  ポツリとあたし小声で呟いた。
  以前相手をしたロキサーヌは他人の体を乗っ取る術を会得していた。……そうだ、その可能性もある。
  だとしたら昨日視たあの霊は乗っ取っている相手の魂?
  「きぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
  「くっ!」
  キィィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  奇声を上げて斬りかかって来るボズマーの錆びた剣をフィッツガルドさんお手製の魔力剣で弾く。
  そのまま斬って捨てる事も出来た。
  それなりにあたしもレベルアップしているから、その余裕はあった。
  しかし躊躇う。
  もしもあたしの予想が正しければこのボズマーの男性には罪はない。ただ肉体を乗っ取られているだけだ。
  「きぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
  キィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  キィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  キィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  相手の力量は大した事ない。
  闇雲に斬りかかって来るだけだ。これが一般市民なら恐れるべく行動ではあるものの、齧った程度の剣術の腕があれば充分に
  対処できる。対処は出来るけど……問題は、この人物に対する処理の仕方だ。
  殺すの?
  殺すのは……だけど思い出す。
  ロキサーヌの時は乗っ取られたレノスさんの魂は食われていた。
  一つの肉体に二つの魂は共存できない?
  よくは分からないけど、理屈は分からないけど……くそぅ。キャラヒルさんにもっと突っ込んだ質問しておくべきだったっ!
  ……。
  もちろん悔やんでも仕方ない。
  悔やむには遅過ぎるし、そもそもあの時点ではそんな発想はなかった。怠慢ではなく、聞きようがなかったただけだ。
  「死ね死ね死ねっ! 老いの苦痛がない今のうちに死ねーっ!」
  剣を大きく振りかぶるボズマー。
  あたしは腰を静め……。
  「はっ」
  小さく気合の声。
  ザシュ。
  ボズマーの胴を綺麗に薙いだ。こうしなければあたしが殺されていた。……もちろんそれはただの言い訳でしかないのも理解してる。
  カラン。
  錆びた剣が地に落ちた。
  一歩、二歩と後ろに下がるボズマー。出血は激しい。よほどの名医でも魔法医でも治療は難しいに違いない。
  フィッツガルドさんの剣は相手を簡単に切り裂く。
  当然、あたしは剣を振るう際の覚悟を持っているけど……今回は、後味悪い。
  予想するところではこのボズマーは犠牲者だからだ。
  「……小娘、では、またな……」
  「……」
  バタリ。
  その場に倒れるボズマー。次の瞬間、何かがボズマーの体から抜け出て空を駆けようとする。
  「はぁっ!」
  ブン。
  剣を振るうものの、魂の方が素早かった。天を滑るように進む。
  「くそっ!」
  珍しく悪態を付きながらもあたしはその後を追った。
  ……。
  しかし全ては徒労だった。
  いつ頃の火事かは知らないけどここの区画はほぼ完全に消失していた。あたしは霊を追い区画の奥深くに入り込んだものの、結局見
  失ってしまった。
  「はあはあっ!」
  周囲をキョロキョロと見渡す。
  ただ眼前に奇跡的に無傷で残った邸宅の一つがあるに過ぎない。
  「……ここまでか」
  今日はこれ以上の収穫はなさそうだ。
  引き上げるとしよう。
  ……でも次こそは……。





  翌日。
  街は静かだった。
  凶暴化事件もそうだけど、昨日の走るゾンビも要因だろう。衛兵の数は相変わらず多いものの、市民の姿は疎らだ。
  戦士ギルドも人数を繰り出している。
  アンヴィル衛兵隊の支援要請があった為だ。
  あたしは元々依頼で他の戦士ギルドメンバーよりも先行する形で動いてる。全ての事情は飲み込めている。
  だからアーザンさんから単独で動いてもいいと言われている。
  その方がいい。
  集団で動く利を認めているものの、今回は単独の方が動き易い。
  「どこなのよ、まったく」
  昨日の区画の周辺を歩く。
  アーザンさんに昨日の事を報告した際にここの区画については既に必要な知識を得ている。
  火事があったのは確からしい。
  ただしアンヴィルの財政的に復興が滞っている。
  この区画に住む貴族や富豪は大抵は他所に引っ越したらしいものの、数こそ少ないが今なお住んでいる者達もいるらしい。
  魂はこの区画に逃げ込んだのは確かだ。
  だとしたらこの区画に住む誰か。……もしくは不法に残された屋敷に潜む誰か。
  いずれにしてもこの近辺にいる。
  あたしは探索の範囲をここに絞った。
  特権階級の区画を何周も歩いて回る。これで確か五周目だ。
  はぁ。
  足が棒になった。
  「スタァァァァァプっ!」
  「うわっ! ……びっくりしたー……」
  衛兵に呼び止められる。
  アンヴィルの衛兵。
  ちなみに《スタァァァァァァァプっ!》は帝都兵のお決まりの文句。いつの間にか都市軍の衛兵にも広まってしまった。
  ある意味で衛兵の流行語だ。
  さて。
  「ここで何をしている。不審人物がいるという通報があったのだ」
  「ふ、不審人物」
  まあ、確かに傍から見たらそうかもしれない。
  衛兵と違って戦士ギルドの戦士達は装備に協調性などなく、それぞれの個人的な美観で装備を決めている。戦士ギルドと名乗ら
  なければ冒険者や流れの戦士と間違われても仕方ない。
  もっとも。
  もっとも戦士ギルドは固定メンバー(あたしも含む)もいるけれども、元々流れの戦士や冒険者に仕事を斡旋する機関。
  装備に統一性がないのもその為だ。
  ……。
  ちなみにブラックウッド団は特注の武装をしている。
  財政力の差がここにあるわけだ。
  よほどの財政力がなければ特注の武装なんてあつらえない。そういう意味でも、戦士ギルドよりも波に乗っているわけだ。
  「あの、あたしは戦士ギルドの者です」
  「戦士ギルド?」
  疑わしい目であたしを値踏みする衛兵。
  仕方ないけど。
  「えっと、レックス隊長にもこの間会いましたし。というか戦士ギルドに協力要請したのレックス隊長ですけど」
  「ああ。それは自分も知っている。……それで? 君は本当に戦士ギルドの者かね?」
  「本当ですよー」
  「本当に?」
  「はい」
  「本当に本当に?」
  「はい」
  「本当に本当に本当に?」
  「……」
  「スタァァァァァァァァプっ!」
  「ス、ストップしてるじゃないですかー」
  ……なんとまあ、融通の効かない奴……。
  説明する事数時間。……長っ!
  無駄な時間過ごしたなぁ。
  衛兵の尋問が終わり、別れ、探索を再開。
  「はぁ」
  溜息。
  緊張した。
  警戒してたもん、あたし。いつ襲われるかどうかが怖かった。もしかしたら凶暴化するんじゃないかってさ。
  どうも杞憂だったみたい。
  職質よりももしかしたら襲ってくるかもしれないという方が緊張した。
  無駄に神経使ったなぁ。
  「はぁ」
  神経使うし、足も探索で棒。
  それでもあたしはやらなきゃならない。それがこの件に関わった者の責任だ。戦士ギルドの責任でもある。
  でもそれ以上に人間としての責任だ。
  犯人は許せない。
  それがあたしの、責任なのだ。
  「スタァァァァァァァァプっ!」
  「ひっ!」
  背後から叫ぶのはやめて欲しい。
  振り返ると別の衛兵だ。
  「お前は罪を犯したっ!」
  「つ、罪」
  徘徊するのが?
  また説明のやり直しか。相手はあたしの目を見つめてくる。あたしも見つめ返す。
  「あのですね……」
  「まあ、分かっているよ。君は今回の事件を探索しているのは知っている。しかしだ」
  ブンっ!
  刃が空しく通り過ぎる。
  バッ。
  あたしは大きく飛び下がり、間合を保った時には既に剣を抜き放っている。雷の属性が込められた魔力剣だ。
  鉄すらも両断する魔力剣。
  あたしの強さの秘密だ。
  ……。
  正直、あたしのここ最近の功績(と言ってもいいのであれば)の大半以上はこの剣のお陰だ。
  フィッツガルドさんのお陰だ。
  師弟関係を結んではいないものの、あたしはフィッツガルドさんを心の師として尊敬している。
  さて。
  「何者ですかっ!」
  「何者ですか? ……いーひっひっひっ! ワシの正体が分かってるから避けれたんだろー?」
  「ようやく会えましたね」
  正眼に剣を構えて相手を見据える。
  気配で敵だと読めたわけじゃない。そこまであたし熟練でもないし。
  目。
  目だ。
  目が衛兵のモノではなかった。とてもじゃないけど市民の平穏を護る衛兵の目の輝きではなかった。じゃあ汚職衛兵の目?
  それとも違う。
  なんというか、汚れ切っている目だ。
  淀んだ瞳。
  万が一という事もあったけど警戒していて正解だった。杞憂だったら、別にそれはそれで問題なかった。
  警戒=暴挙ではない。
  「貴方は一体何者なんですっ! 何が目的なんですっ!」
  「別に。殺戮して回るのは楽しいのでな」
  「そんな理由で……っ!」
  「人を殺すのに理由が必要か? ……まあ、確かに。確かに大義名分は必要かもな。帝国軍も大義名分と事故的な正義感を振り
  かざして各地に軍事侵攻を繰り広げている。そしてのほほんとしている帝都市民達はそれを義挙として喜ぶ」
  「歴史の講釈を聞くつもりはありません」
  「くくくっ!」
  キィィィィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  キィィィィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  キィィィィィィィィィィィィィィィィィィンっ!
  刃を交える。
  相手の力量は、やはり大した事ない。乗っ取られている説は大いに有効らしい。体が衛兵だからそれ相応に力は強いものの、剣術は
  大した事ない。元の肉体の性能は使いこなせていないらしい。
  乗っ取られているだけ。
  ……しかしもう、戻す術は……。
  「そこっ!」
  「ぐぅっ!」
  胸板を貫く。
  衛兵は苦悶の声を上げ、忌々しそうにあたしを睨みつける。
  「……またか。またかぁっ!」
  「……?」
  「ダンマーの小娘めっ! いい加減うざいぞ貴様っ! ……次は、ないっ!」
  ドサ。
  そのまま衛兵は倒れる。
  次の瞬間、何かが飛んだ。衛兵の遺体から何かが飛び出る。
  出たっ!
  「逃がさないっ!」
  抜け出た魂を追う。
  今度こそ。
  今度こそ、これでお終いにするっ!



  「ここか」
  荒い息を落ち着けながら、あたしは目の前にある屋敷を見る。霊はここに逃げ込んだ。そういう風に見えた。
  昨日ここで見過ごした。そう、昨日と同じ場所。
  見失ったのではなくてこの屋敷に逃げ込んだのであれば。
  「……どうして気付かなかったのよ……」
  悔やむ。
  昨日この件を対処してたら今日の犠牲者は出なかった。
  「……」
  すーはーすーはー。
  深呼吸。
  悔やむのは当然。当然だけど、今はやる事をやろう。
  扉に手を掛ける。
  ガチャガチャ。
  押しても引いても駄目。やっぱり鍵が掛かってるか。
  ならばフィッツガルドさん風に行こう。
  ……せーのっ!
  「うりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
  扉に体当たり。
  バキィィィィィィィィィィィィィィィィっ!
  蹴破る。
  ま、まあ、フィッツガルドさんなら魔法で吹き飛ばす気がするけど、そこはご愛嬌。
  あたしの魔法では扉を吹き飛ばすほどの威力はない。
  ……。
  フィッツガルドさん風?
  えっと、別にそういう光景を見たわけじゃないけどそんな気がしただけ。
  そんな事しそうだなって。
  本人には言えないけど。言ったらきっと殺されるしあの人意外に容赦ないお人だものーっ!
  はぅぅぅぅぅぅっ。
  「よっと」
  破片を避けてあたしは扉を越える。
  不法侵入。
  まあ、扉破壊した時点で犯罪者だけど。もしもこの家の住人が関係なかったら……とかは考えないようにしよう。もちろん普段は考
  えてるけど今回は自信がある。
  この家に住む者は凶暴化事件に関与しているとあたしは信じて疑わない。
  さて。
  「……」
  ギシ、ギシ、ギシ。
  歩くたびに屋敷の床が軋む。富豪の邸宅のようだけど内部の手入れが行き届いていない。
  使用人がいないのだろうか?
  変な臭いがするし。
  んー、生ゴミのような臭い。もしかしてここはゴミ屋敷?
  「……」
  ギシ、ギシ、ギシ。
  右手は柄を握っている。いつでも抜刀出来る体勢であり、普通なら非礼に値する。いつでも抜刀出来る=攻撃の意思がある、という事
  になるからだ。
  ゆっくり。
  ゆっくり。
  ゆっくり。
  あたしは、ゆっくり一歩一歩進む。廊下を進む。
  どこにも人の気配はしない。
  一応はあたしも死線を越えてる。気配を読む術もそれなりに心得ている。だから言える、扉の向こうには誰もいないと。
  閉じてる扉は無視。
  ただただ廊下を進む。
  1つ、開いている扉があった。止まって中を確かめる事はしなかったけど、通り過ぎ様に中を覗いた。
  「……うわぁ……」
  覗くんじゃなかった。
  生ゴミ満載だ。
  しかもその生ゴミにたかる無数の家庭内害……いや、やめよう。表現するだけで想像して気分悪くなる。
  まあ、実情見ちゃったけど。
  今の映像を脳内で削除したいよーっ!
  はぅぅぅぅぅぅぅっ。
  「はぁ」
  今の部屋も当然素通り……ではあったものの、引き返して扉を閉じた。
  バタン。
  「ふぅ」
  これで安心だ。
  再び進む。
  正直あんなの家庭内害虫が無数に襲い掛かってきた方があたしは怖いっ!
  閉じたのはそういう理由だ。
  「片付けられない性格かぁ」
  生臭いのは生ゴミで間違いないらしい。
  片付けられない。
  ゴミ屋敷が存在する最大の理由だ。
  さて。
  「二階か」
  特に一階には気配は感じない。だとすると二階だ。
  実は廃屋?
  実は無人?
  んー、それはないなぁ。
  生ゴミが出るという事は人がいた形跡があるという事だ。今もいるかは……うん、多分いる。さっきの家庭内害虫の部屋を見る限り
  では調度品は普通に置かれていたし。捨て値で売っても結構な額になるだろう。
  ……。
  ま、まあ、家庭内害虫一杯だから部屋に入りたくなかっただけかもしれないけど。
  階段に辿り着く。
  コツ。コツ。コツ。
  一歩一歩登る。盛大に扉を蹴破っての侵入だから相手はおそらく気付いているはず。
  なのにどうして何の挨拶もない?
  悪の魔術師が高らかに高笑いして迎えてくれるのだと期待してたのに。
  残念。
  コツ。コツ。コツ。
  二階に到着。
  二階は心なしか一階より小奇麗に思える。ここが生活空間なのだろうか?
  「またあの女かぁっ! くそぅっ!」
  「……っ!」
  怒声。
  思わず反応しそうになるものの、あれはただの悪態のようだ。侵入には気付いていない模様。
  その証拠に憤慨は続く。
  どの部屋だろう?
  ゆっくりと歩きながらあたしは声のする部屋を探す。
  「ワシの邪魔ばかりしおってっ!」
  しわがれた声。
  一人称も《ワシ》だから老人だろう。
  探すよりも向こうから出て来てもらった方がいいかな。
  「ここまでですっ!」
  叫ぶ。
  一瞬沈黙があるものの、すぐさま怒声が返ってくる。
  「ここまで追ってきたか、ダンマーの小娘っ! まったく忌々しい小娘じゃっ!」
  タタタタタタタタッ。
  あたしは走る。
  声のした先に向って。そして部屋に辿り着いた。豪奢な部屋に。
  安楽椅子に老人が座っていた。
  白髪の老人。
  枯れ木のような四肢。病み上がりなのか、顔には憔悴の後がある。
  この老人が?
  「貴方が全て画策してたんですか?」
  「左様」
  「どうやって……」
  「これは傑作じゃなっ! 何も知らずにここへ来たかっ! ほっほっほっ、これは面白いっ!」
  「……」
  無言であたしは相手を見据える。
  相手の座興や戯言に付き合う気はない。あたしが反応しないのを見て、老人は舌打ちをした。
  「よっこらしょ」
  立ち上がる。
  老人を支える足は頼りなく、プルプルと震えている。何歳ぐらいなんだろ?
  いずれにしても高齢だ。
  よろよろと歩き、テーブルの上に置いてあった分厚い本を手に取る。
  「これじゃよ」
  「……?」
  「この本がワシに若さを与えてくれる」
  「若さ?」
  「左様」
  意味が分からない。凶暴化事件と何の関係があるのだろう?
  凶暴化事件を画策したのがこの老人。あたしは何かの魔法で操ってたのかとは思ってたけど……若さって何?
  関連性は?
  老人は続ける。
  「ワシは富豪の家に生まれた。人が羨む大富豪。……しかし実際は苦痛だらけじゃっ!」
  「……」
  「家を継ぐ為だけにワシは生きてきたっ! 正式に継いだ後はその家を護る為、さらに大きくする為に人生を費やしてきたっ! 本当
  にしたかった事も出来ず全てを強制され強要されてきたっ! その結果がこの老いぼれの体じゃっ!」
  「……」
  「老いは人間に課せられた悲劇的な罰。しかしワシが何をした? ……いや何一つしていない出来なかった。この本を手にしたの
  は偶然じゃった、しかしワシは感謝した。その幸運をな。この本こそが不死への道なのだっ!」
  「不死?」
  「左様」
  話が見えてこない。
  もっとも長引いたところで特に支障はないだろう。体力的に見ても持久戦はあたしの方が有利だ。
  魔術?
  この老人が魔術に長けているとしたら……どうしてあたしを殺さないのだろう?
  冥土の土産に延々と話す馬鹿はいない。
  悪役は高笑いしながら全てを暴露するなんて決まりは冒険小説の定説ではあるものの、現実ではないのだ。
  だとしたらこれは何の時間稼ぎ?
  注意深く相手を見る。
  プルプルと震えている。立つ事すら億劫のようだ。
  老いの所為か。
  しかしその時、老人が妙なステップを取っている事に気付いた。足は震えているように見えるけど何かを足で描いてる。
  「……っ!」
  かぁっ。
  足元が光る。
  咄嗟に身を引いていなかったら深紅の閃光を放つ模様に捉われていただろう。どういう効果があるのかは不明だけど、ろくな効果
  じゃないのは確かだ。
  魔法陣。
  さっきまであたしが立っていた場所には深紅の光を放つ魔法陣が形成されている。
  「くそぅっ!」
  悪態をつく老人。
  どうやら長話は魔方陣を発動する為の時間稼ぎだったらしい。
  タッ。
  あたしは床を蹴り、老人との間合いを詰める。
  悪意を相手が持ち、殺意を振り撒く以上はご老体とはいえ敵だ。
  「はぁっ!」
  バキィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィっ!
  老人を蹴り飛ばす。
  異様なまでに軽い体だった。多少は手加減したのに、老人は壁に叩きつけられる。一瞬息が出来なかったのか凄い形相だ。
  壁を背に座り込む。
  座りたいのではなく、もしかしたら骨が何本か折れた為に立っていれないのかもしれない。
  「ここまでですね。さあ、全て話してください」
  「……くっ。小娘が」
  憎悪の視線を感じる。
  しかし肉体的な衰えが憎悪を現実に具現化するに至らない。
  ただ、睨み付けるだけ。
  されでもそんな視線を向けられるのは心地良いモノではない。
  もう一度促す。
  「話してください」
  「……」
  観念したのか、老人はうなだれた。
  「……この本の力によりワシは魂を切り離しておった」
  「魂を?」
  「お前さんが今まで倒してきた……そして狂人として処理されて来た男達はワシが寄生しておった。肉体に憑依し、自在に操る。それ
  がこの本の力。それが不死の正体。他者の体を乗っ取る事によりワシは永遠の存在になるのじゃ」
  「そんな……」
  だとするとあたしが倒して来たのは、こいつに乗っ取られただけの被害者?
  今まで衛兵に倒されてきた人達も?
  「なんて事をするんですか貴方はっ!」
  「老いを回避する為じゃっ! 貴様に分かるか、老いの惨めさがっ! 一時とはいえ若さが欲しかったっ!」
  「そんなのただの我侭ですっ! ……いや、ただの明確なまでに邪悪な悪意ですっ!」
  「くそぅっ!」
  老人は吼える。
  「お前が男であるならばこの場で乗っ取ってやるのにっ!」
  性別が違うから憑依出来ないようだ。
  男性と女性では性質が違うからだろうか?
  ……。
  その時ふと、この老人の所業にある人物の事が思い浮かぶ。
  深緑旅団の首領ロキサーヌ。
  あの女はレルスさんの体を乗っ取った。多分憑依の類なのだろう。しかしあの女の場合は性別が違っても憑依をやってのけた。
  だとするとこいつは……。
  「三流ですね」
  「な、なにぃっ!」
  「貴方は三流で、無知で下劣なただの犯罪者。……これで終わりにします」
  「小娘ぇーっ!」
  「はっはーっ! なかなか吼えるじゃないか、ダンマーの小娘」
  ……えっ?
  異質な声が室内に響く。新手?
  しかしそれは老人の援軍ではなさそうだ。老人は驚愕して周囲を見渡す。仲間ならそんな事をするはずがない。
  「あんたには手を焼かせてもらったぜ、爺さん。だがようやく魂宿った状態で会えた」
  「……っ!」
  あたしも、老人も息を飲んだ。
  現れたのはゾンビ。おそらく昨日のゾンビ。
  だけどこいつ何なの?
  ……ゾンビが喋ってる。
  何か言うよりも早くゾンビは床を蹴り、老人に肉薄する。そして老人の顔を間近で覗きこんだ。あたしには見向きもしない。
  敵かもしれないけど、あたし『だけ』の敵ではないようだ。
  つまり老人にとっても敵。
  ゾンビは続ける。
  「お前の下らない趣味なんかに使うべきじゃあないんだよ、この本は。悪いが頂いていくぜ」
  「ひ、ひぃ」
  「あばよ、デイビル爺さん」
  「ひ、ひぃ」
  ゾンビに間近に睨まれているのだ。老人の恐怖は尋常ではないはず。
  小さく悲鳴を上げる。
  そして……。
  「ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
  「……っ!」
  ゾンビが吼えると、老人は痙攣。
  ピクピクと体を震わせ、口から泡を吹いたその場に倒れこんだ。息をしているようには見えない。
  ショック死か。
  ……良い結末なのかもしれない。
  あの論陣は魂を切り離せる。あの本の力がなければ出来ないのかもしれないけど、牢に閉じ込めるのは危険だ。
  いつ何時魂を切り離して事件を起こすか分かったものではないからだ。
  妥当な結末。
  「それで、貴方は何のつもりなんです」
  「お前には関係ない。俺は俺の目的を果たした。……くくく。これでこの腐った肉体ともお別れだ」
  ガチャァァァァァァァンっ!
  そう言い残し、窓から飛び降りた。
  「逃げたっ!」
  突き破った窓から下を覗き込む前にあたしは老人の脈を取る。……死んでる。
  でもこれは因果応報だ。
  それだけの事を老人はした。安らかとは言えない老人の死顔を見て、あたしはそう思った。
  死を確認した後であたしは窓から下を覗き込む。
  「あっ」

  眼下を見る。
  ゾンビはまだいた。
  あのゾンビと見知らぬ……いや、この間も会ったし以前にもアンヴィルで会った女性が対峙している。
  確か名はアルラさんだったと思う。
  「……敵対してる?」
  よく分からないけどそういう風に見える。
  もしかしたらアルラさんもこの事件を追っていたのかもしれない。
  経緯は分からないけどそう仮定も出来るだろう。
  ゾンビは本を手にしている。
  あの本が今回の事件の要因だ。どういう理由であれ存在を許すのは危険すぎる。あのゾンビの思惑は分からないけどデイビルと
  そう変わらないはず。ならば無視出来ない。
  手のひらを向ける。
  「煉獄っ!」
  フィッツガルドさん直伝の炎の魔法を放つ。……威力は本家の五分の一以下だけど。
  それでも放った相手はゾンビであり本。
  焼き尽くすのには申し分ない。
  そして……。

  「本がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
  ドカァァァァァァァンっ!
  小規模ながら爆発が起きる。……やっぱり低威力かも。
  ゾンビは死んでいない。
  火だるまになりながらもまだ存在している。
  ただ絶叫から推測すると、本は焼けたらしい。だとしたらあたしの狙い通りという事になる。
  バチバチバチィィィィィィィィィィィィィィィィィっ!
  「……っ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
  凄いっ!
  アルラさんの放った雷の魔法がゾンビを粉砕した。
  文字通り粉砕、何も残っていない。
  ……フィッツガルドさんの裁きの天雷よりも強力なように見える。世の中広いんだなぁ。


  全ては終わった。
  不死者の悪意は潰えた。
  事の顛末をアーザンさんに報告。その後の調べで、アルラさんは魔術師ギルドの助っ人だったらしい。今回の事件の全容解明の
  為にアーザンさんと魔術師ギルドのアンヴィル支部長キャラヒルさんは色々と話し合ったらしい。
  それが昨日。
  既に新しい朝が始まっている。あの事件は昨日の事とはいえ、既に過去。
  新しい任務をあたしは与えられた。
  その前に食事。
  しかしどこか心は浮かない。
  「はぁ」
  カチャカチャ。
  朝食メニューの分厚いハムをナイフとフォークで切りながら溜息。
  「どうしたの、アリス?」
  「いえ。ちょっと考え事を」
  フォースティナの問い掛けにも上の空。
  場所は戦士ギルドのアンヴィル支部。構成員が集うリビングルーム。そこであたし達アンヴィル支部の構成員達(あたしは暫定的
  なメンバーだけど)は朝食を食べている。
  不思議そうにアーザンさんも問い掛けてくる。
  「どうしたんだ?」
  「デイビルの事を考えてました」
  「デイビルの?」
  「はい」
  彼は老いを《人間に課せられた悲劇的な罰》だと表現した。
  誰もがいずれ老いる。
  あたしもいつかはお婆ちゃんになるだろう。
  人は誰しもが時間に追い立てられている。永遠に生きるなんてありえない。
  デイビルは自然の流れを凌駕しようとした。
  それは正しかったのか?
  ……。
  あたしには分からない。
  まだ、あたしには。
  ただ言えるのは人が人を超える方法は決してあってはならないという事だ。
  何故ならその先にあるのはそれこそ悲劇。
  今回が良い例だ。
  「老いか」
  いつかあたしもデイビルの価値観を理解出来るようになるのだろうか?
  それとも……。
  いずれにしても今を精一杯生きよう。
  そしていつの日か《良い人生だった》と振り返れるように頑張ろう。
  時間は待ってくれない。
  だからこそ毎日を懸命に生きる必要があるのだ。
  過ぎ去る時を愛おしく思えるように。
  精一杯生きよう。
  「さぁて。ご飯食べよっかな♪」







  《注意》
  事の真相をよく知る為にヴァネッサーズ編の『不死者の悪意 〜魔術師ギルドからの依頼〜』を読む事を推奨します。