終焉と結び


終焉と結び


 一貫斎は、久しく病床にあった息子の吉十郎の身を案じて、「もし吉十郎の病をいやして戴けるならば、この身を代わりに差し上げます。なにとぞ、1日も早く平癒しますように」と神仏に祈る日々を送っていたが、天保11年(1840)12月3日、近所にある日吉神社と因乗寺に参拝してから自宅の仏壇の前で合掌礼拝しているさなかに、「阿曇」の一声を発して倒れ、逝去したという。享年63歳。彼の号から取って「一貫斎釈是勲居士」と戒名が贈られた。菩提寺の因乗寺に葬られ、後年に従五位が追贈された。

 彼の死から10年あまりで、ペリーの来航期を迎えて世情が大きく変転し、国家防衛の必需品として鉄砲の技術にも大きな変革が起きた。滔々と西洋技術が流入して各地で洋式銃の研究がなされていく中、国友鉄砲は新時代への脱皮をなし得なかった。鍛冶師たちは、長州征伐への従軍や明治の討幕軍への従軍をつとめたり、国友村から東京などへ出て鉄砲作りの手腕を発揮したりしたようだが、幕末から明治期へと進んでいくにつれて、鉄砲村としての国友は徐々に消滅へと向かっていった。国友藤兵衛家でも明治時代の11代目当主・藤平(とうへい。一貫斎の孫、号は能恭。1851〜1920)に至って鉄砲鍛冶を廃業し、村では、昭和初期の国友覚治郎翁が鍛冶師の最後の1人となって歴史に終止符を打ったのである。二百数十年の伝統を維持した国友鉄砲の歴史の中で、一貫斎はとびきりの輝きをはなつ最後の光となった。

 
(国友覚治郎翁と自作の鉄砲。『一貫斎国友藤兵衛伝』p.408より)

 現在の国友家の家屋は「国友一貫斎翁邸址」と彫られた石塔が門前に立ち、その門構えや母屋などに一貫斎が居住した頃のおもかげが残されているが、鍛冶職人たちが働いたざわめきははるか遠い過去のものとなり、今では門前を訪れる人たちに静かなたたずまいを見せている。また現在、その邸址からほど近い国友町会館の庭には、国友一貫斎翁顕彰碑と銘打った石碑が高々とそびえている。題字を高名なジャーナリストであった徳富蘇峰が施し、撰文は有馬成甫が行なった。その碑文には「皇紀二千六百年に際し、国友一貫斎翁百年忌を施行せんとするや、翁の事跡天聴に達し、従五位を追贈せらる」とある。昭和17年の12月に建立された。一貫斎の命日である12月3日か直近の休日に、国友一貫斎翁碑前祭(ひぜんさい)と称して彼をしのぶ祭が毎年行なわれ、地元が生んだ偉人として称揚され続けている。残念ながら、冥界に眠る一貫斎を長く守り続けた古い墓石は失われてしまったという。

 
(国友一貫斎旧宅 2010年7月3日撮影)



―――以上、国友藤兵衛一貫斎という稀有な人物について、拙文をかえりみずに本稿を執筆し、公開させていただきました。今年、2010年で一貫斎の死去から170年。明治維新後の劇的な発展から戦後の目覚ましい復興を経て、日本の科学分野は世界的にまれな飛躍を見せ、今年は惑星探査機“はやぶさ”によって世界初の大きな一歩が踏み出された年にもなりました。そうした日本の科学技術の系譜上に立つ先駆者のひとりとして、もっと世に知られていい人物なのではないかと思います。従来、平賀源内らに較べると、高い実績のわりには一貫斎の一般的な知名度の低いことを心苦しく思っている私は、本稿によってこの人物の存在が少しでも多くの方々の知るところとなればと願っています。

 一貫斎の伝記である有馬成甫の著作『一貫斎国友藤兵衛伝』は、引用史料の豊富な内容となっていて、なかなかの難読書籍で誤字・誤植も多い(稀覯本で高額でもある)ですが、より深く一貫斎について知りたい方は同書を入手してご覧いただきたいと思います。ちなみに同書の背表紙の題字は一貫斎の直筆文中から転写されたもので、その上下に配された印章は一貫斎使用の印形の復刻だそうです。

   
(『一貫斎国友藤兵衛伝』の表紙および背表紙)

 また、滋賀県の長浜城歴史博物館で発行している『江戸時代の科学技術 国友一貫斎から広がる世界』も、写真資料を多用して、多くの新情報を盛り込んだ詳細な内容となっています。本稿よりもはるかに専門的で、多角的な検証がほどこされていて、一貫斎を知る上では読む価値の高い、必読書と言っていい1冊です。本稿を書く上ではいろいろと参考にさせて頂きました。さらに、彼の望遠鏡と天体観測については、国立天文台報第4巻(1998年)、冨田良雄氏ほか著「国友藤兵衛製作グレゴリー式反射望遠鏡の学術調査」という論文にきわめて詳細な科学的調査結果が記されていて、一貫斎の交友関係などにまで詳しく論述がおよんでいて、大変参考になると思います。

 本稿を公開するにあたり、国友一貫斎文書を図版として掲載することを、国友家のご子孫の方より快くご承諾いただくことができました。また草稿をご検分いただいた際には間違いの訂正やアドバイス等も頂戴し、上記の〈江戸絵といわれた一貫斎〉は同氏からお送り戴いた短文をもとにして書いたものです。心より感謝申し上げます。




  ―きまぐれ睡龍・記 2010年10月3日―



              
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