国友一貫斎年表


国友一貫斎年表とおもな参考文献

(付記… 有馬成甫の略歴)



●国友一貫斎年表

安永7年(1778) 10月に一貫斎誕生。幼名は藤一、実名は重恭。のちに一貫斎、眠龍と号する。
安永9年(1780) 弟の丘三郎(のちの源重郎)が誕生する。
天明3年(1783) 妹のいくが誕生する。
天明6年(1786) 父の隠居にともない、その名を引き継いで藤兵衛と改名。
天明7年(1787) 天明事件が終息する。
寛政6年(1794) 家督を相続して年寄脇となる(国友藤兵衛家9代目当主)。
寛政9年(1797) 10月に近隣の酢屋忠兵衛方から出火して家屋が類焼、翌年に再建築する。
寛政11年(1799) 父の重倫が死去。初めての弟子(本間平七)が入門し、のちに一貫斎の妹いくを娶る。
文化8年(1811) 彦根藩の御用掛(がかり)となって高待遇を受け、200目玉の大筒を造る。国友村の年寄たちから彦根藩への個人的な出入りについて不満を持たれ、彦根藩と年寄たちの間で悶着が起こる。
文化10年(1813) 結婚する。年寄たちが彦根藩とのトラブルを幕府に訴える(彦根事件)。
文化11年(1814) 長女が誕生する。眼科医の山田大円から阿蘭陀風砲の構造を教わり、その模型を製作する。
文化13年(1816) 長男吉十郎が誕生する。5月、彦根事件により江戸町奉行から呼び出しを受け、江戸へ行く。この頃から以降、平田篤胤との交際が始まる。
文化14年(1817) 彦根事件が終結して敗訴した年寄四家が没落。一貫斎が国友村の総代となる。
文政元年(1818) 10月、江戸の山田大円宅で初めて実物の阿蘭陀風砲を見、その修理をする。11月、最初のオリジナル空気銃の製作に着手する。この年、松平定信からの依頼により「大小御鉄砲張立製作」を著して献上する。オランダ製オクタントを参考にして距離測定器を作る。
文政2年(1819) 3月、最初のオリジナル空気銃が完成し、気砲と名づける。「気砲記」を著して製作の経緯や銃の構造を一般に公表。
文政3年(1820) 10月、平田篤胤の門人となる。11月、気砲の製作禁止を言い渡される。この年、成瀬隼人正宅で初めてオランダ製の反射望遠鏡を見る。
文政4年(1821) 江戸から国友村に帰る。
文政7年(1824) 神鏡を製作する。
文政8年(1825) 二女が誕生する。
文政9年(1826) 三女が誕生する。鋼製弩弓が完成する。早打気砲、鋼製弩弓、神鏡などを加賀藩前田家に献上して好評価を得る(12月中か)。この年から、防州の毛利徳山藩内における突き掘り井戸の掘削を支援したとみられる。
文政11年(1828) 四女が誕生する。御懐中筆、玉燈などを製作する。
文政13年(1830) 空船などの空を飛ぶ機器の発案を幕府に上申する。
天保3年(1832) 6月、天体反射望遠鏡の製作を開始する。
天保4年(1834) 最初の望遠鏡が完成し、10月から観測を開始する。
天保6年(1835) 1月、太陽黒点の連続観測を開始し、「日月星業試留」などへ黒点のスケッチを記録しはじめる。
天保7年(1836) 国友村で天保の飢饉の影響が深刻化。2月に黒点の観測を停止する。食糧確保のために望遠鏡を売却。幕府天文方の間重新から望遠鏡の性能を絶賛される。
天保11年(1840) 12月に自宅で死去。63歳(一貫斎釈是勲居士)。



●おもな参考文献

〔書籍類〕
 『一貫斎国友藤兵衛伝』有馬成甫著 武蔵野書院 昭和7年
 『江戸時代の科学』東京科学博物館 名著刊行会 昭和9年(同55年再版)
 『明治以前 日本土木史』社団法人 土木学会 岩波書店 昭和11年
 『火砲の起源とその伝流』有馬成甫著 吉川弘文館 昭和37年
 『わが国の望遠鏡の歩み』村山定男著 科学博物館後援会 昭和39年
 『世界大百科事典』第11巻 平凡社 昭和39年版
 『魔女と科学者』平田寛編(村山定男論文) 人物往来社 昭和42年
 『平田篤胤全集』および『平田篤胤全集・補巻』平田篤胤全集刊行会編
 『淮南子・説苑』中国古典文学大系(五) 平凡社 昭和49年
 『江戸科学古典叢書 大小御鉄炮張立製作・他』第42巻(所荘吉論文) 恒和出版 昭和57年
 『羽村町史史料集第八集 玉川上水論集(T)』(堀越正雄論文) 羽村市教育委員会 昭和59年
 『近世日本天文学史(下)』渡辺敏夫著 恒和社厚生閣 昭和62年
 『国友 風あいのあるまちづくり事業の記録』国友町風あいのある町づくり事業推進委員会 平成6年
 『日本で初めて宇宙を見た男 科学者/国友一貫斎』吉村正義著 平成7年
 『江戸時代の科学技術 国友一貫斎から広がる世界』(第2版) 長浜城歴史博物館編 平成15年
 『科学者・国友一貫斎制作 懐中筆復元録』廣瀬一實 能見著 「国友一貫斎」科学技術研究会 平成18年
 『国友一貫斎考案の井戸掘り機 ―徳山藩の砲術師範・中川半平との交流―』村野豊著 きまぐれ工房 平成25年

〔資 料〕
 「国友一貫斎文書」(国友藤兵衛家所蔵 長浜市古文書調査目録 写真資料と略解説)
   1987年8月に長浜城歴史博物館で写真資料のコピーを取得したもの。
 「朝日新聞」1987年8月18日、キリシタンの魔鏡に関する記事
 「産経新聞」1988年9月15日、「国友鉄砲かじ師が自転車作り」と題するオーディナリー型自転車の記事
 「国友藤兵衛製作グレゴリー式反射望遠鏡の学術調査」国立天文台報第4巻
 「ちょんまげ頭で見た天体」渡辺文雄著 日本スペースガード協会会誌掲載文
 「長浜城歴史博物館所蔵の反射望遠鏡の調査および復元模型の製作」長浜城歴史博物館 平成13年

   (これらのほか、さまざまな文献・ネット情報なども参考にさせていただきました。)



●有馬成甫(ありま・せいほ)

 1884年(明治17)11月28日、熊本県生まれ。一貫斎の主要な伝記である『一貫斎国友藤兵衛伝』の著者。もと海軍少将で、銃砲史・軍事史研究家。海軍兵学校第33期卒業生。昭和5年の軍縮に際して海軍を退役し、国学院大学に入学して歴史学を学ぶ。昭和16年から応召により海軍に復帰した。史学者として「科学知識」、「史学雑誌」、「水交社記事」、「蘭学資料研究」、「日本歴史」、「国防史学」などに論文を多数掲載。主著として『北条氏長とその兵学』、『朝鮮水軍史』、『高島秋帆』、『火砲の起源とその伝流』がある。『火砲の起源とその伝流』によって戦後に文学博士号を取得。日本の銃砲史研究の先駆的存在のひとりだった。防衛大学校の総合情報図書館に兵学書類の蔵書1629冊を寄贈(有馬文庫)。1973年(昭和48)8月24日に死去。

 1931年、国友一貫斎家の蔵に伝存する古文書や鉄砲の調査を行なった際に、天文関係の史料と反射望遠鏡を見出し、同時期に調査をしていた天文学者の山本一清とともに記者会見を開いて公表。翌年(昭和7)に『一貫斎国友藤兵衛伝』を著した。帝国大学教授・辻善之助が記した同書の序文には、有馬について、「国学院大学に入り、若き学徒の間に伍し、孜々としてこれ勉め、傍らわが史料編纂所に出入して、古記録を漁り、その専門研究の資料を索む。嘗て近江国友の鉄砲鍛冶の記録を調査し、更に進んで、その根本的穿鑿を志し、遠く国友村に赴きて精査を了し、つひに化政天保の間、こゝに驚くべき天才の存せしことを発見したり。」とある。

 同書の発刊以後、1990年代に本格的な科学調査が行なわれるようになるまで、研究家たちによって書かれた一貫斎に関する論文や著書の多くは、この著作に少なからず依拠するものだった。現在でも重要な参照文献のひとつとなっている。




              
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