職人気質と弟子の精神教育


職人気質と弟子の精神教育


 一貫斎は、職人として非常なストイックさと熱心さを持つ人であった。それは、諸侯に望遠鏡を売るに当たって取り扱い説明書を書き、極めて綿密かつ丁寧に使用方法を説明していることや、また、さまざまな器物を作る過程で、その製作記録をかなり詳細に書き残していた態度にもあらわれている。彼の几帳面な著書、筆まめな手記と絵やスケッチのうまさのお蔭で、私たちは彼の研究の足跡を詳しくたどることが出来るのである。

 彼は、「新たに取り組む仕事ならば、五回や十回の失敗は当然である。そうした失敗を何度も重ねれば少しずつでも成功に近づいていくものだ。病気の人や志の薄い人では成功しがたい。釈迦や太閤秀吉がそうして成功していったのと同じことだ」と記している。失敗をくり返しながらも努力を続ける姿勢が、彼の仕事を成功に導く大きな原動力となっていたのである。

 望遠鏡の反射鏡製作にあたっては3年にわたり数十回の鋳造実験をくり返し、磨き方については砥石の選別にも力を入れて、「紙にてふき、もめんにて五十遍ふき…木綿にて八十遍と、御神の御名と程ふき」、「神通叶う、極妙なり。一日にみがき上げ」などと、神通力を願ってひたすら磨き、天保4年7月から磨き始めて8月5日に至り「磨き方、治定(習得)つかまつりそうろう。神通、大願成就叶う」と完成の域に達するまで何年も磨き続けた。対物鏡も磨き、名倉砥(なぐらど)とその粉末を用いて接眼レンズも磨きに磨いた。そうした気力は没年まで続いており、天保11年1月の鏡の研磨記録には「油ツムギにて三十度ふき、上を御名二十度ふき、鏡百五十度程みがきそうろう時、極(ごく)光り出そうろう」とあって、衰えるところがない。常に先を見つめる目が閉じられることはなかったのである。

 「人間の欠点はすぐにあきらめることだ」というトーマス・エジソンの言葉は、そのまま一貫斎の仕事ぶりにも重なっていた。彼の特長は、模倣したものを元よりも数段ハイレベルな製品に改良してしまう点で際立っていたが、それは何十回、何百回という成功までのくり返しがあったればこその結果であった。

 一貫斎は弟子の精神教育にもそうした意図を反映させていた。彼は寛政11年(1799)に初めて弟子をとり、以後、入門者は諸方からやって来たが、特に気砲の製作によって名が知られてから、彼の家は砲術や火術の教えを求める弟子で満ちあふれたようだ。彼は「大小御鉄砲張立製作」の著書によって能当流を確立し、能当(のうとう)流目録なるものを弟子たちに示して鉄砲製作上の心構えを伝えた。「大小御鉄砲張立製作」は幕府に採用されなかったようだが、弟子の教育には効力を生んだと見られる。

 能当流目録には「心をサイ下(臍〈へそ〉の下、丹田)に納めそうろう事、第一の事に御座そうろう」、 「人もなく我もなく、鉄炮もなく火坪もなく、只、無心・平気に…」、「万事サイ下に有る時、余人の不調法これ有る時、明らかに見え…如何体の変、出来(しゅったい)そうろうとも動じる事なし」、「鍛錬行き届きそうろう時は自然に心も納まり、平気なる事安(やす)し。この事、第一の事に御座そうろう」などと書かれており、要旨としては次のような教えを含んでいる。

 *技術の上達は不撓不屈(ふとうふくつ)の精神にあり。
 *細工は手厚くして行き届かせるべし。
 *精神の集中を行なうべし。
 *健康であるべし。
 *思いの厚いことが成功の基(もとい)である。

 技術者の精神としていつの世にも通用する教訓である。まるで悟道を説くかのようであり、平田篤胤との交誼から受けた精神的影響もあったことだろう。彼はみずからの成功を「神通」と称した。成功は神仏からの授かり物と考えていたようだ。

 また、鉄砲技術は簡単に人に教えてはならないとも言っており、鉄砲製作法は正しい精神教育とともに伝えられなければならないと示していた。彼が弟子をとる際、弟子は起請文(きしょうもん)という誓約書を書いて一貫斎に提出していた。参考までに一例を記しておく。

「    起証(請)文の事
この度(たび)、改めて師弟の契約結びそうろう上は、都(すべ)て一切の細工、別してこの度の気炮製作方は勿論、其(そ)の外、諸秘事・密書は申すに及ばず、尊家の口談、何事に寄らず、他家、他人、親子兄弟たると雖(いえど)も、決して口外へ出すまじく、或いは人繁(しげ)き場所にて秘書を開き、他言等、堅く致すまじくは勿論、酒狂の上たりとも決して前文密事を洩らすまじくそうろう。若(も)し、我が口より洩れるにおいては、ご恨憤の程、家滅退転(かめつたいてん)に及びそうろうとも、ご存分の事にそうろう。堅く起証(請)文致しそうろう上は、お互いに別心・底意(そこい)無く致したくそうろう。億万一、右の条背(そむ)くにおいては、梵天、帝釈四天王、大日本六拾余州大小の祇神、別して伊豆箱根権現、三島大明神八幡大菩薩、春日大明神天満在自在天神の、神罰・抄罰を蒙(こうむ)るべきものなり。
     文政五午(うま)の年閏(うるう)正月  高橋鉄三郎
       国友藤兵衛殿」 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.232)

 
(足立権兵衛入門の誓約書写し(部分)、国友一貫斎文書より)

 鉄砲や気砲の製作方法については、書物にしろ会話内容にしろ、たとえ親兄弟であっても他言しません、もし背いたら各種神仏の罰が下ることでしょう、という旨が書かれている。通常ならばこうした起請文は技術を秘伝として私有するための契約書なのだが、一貫斎はもともと「鉄砲技術に秘密なし」という開放的なスタンスであったため、精神修養のともなっていない者への伝達を避けるためと、鍛冶職人なら誰にでも鉄砲が作れる能当流がむやみに流布して幕府の禁忌に触れることを避ける、という意味合いがあったのではなかろうか。

 一貫斎は技術者としてだけではなく教育者・指導者としても優れていたのであり、それは、総代として村人たちをたばね、人望を得る姿にもつながっていたのであろう。

 「模倣したものを元よりも数段ハイレベルな製品に改良する」という特長は、一貫斎のみならず日本の職人世界に共通する特性であるとも言える。それは文明開化の明治期に突然日本人が手に入れた能力だったはずがなく、それよりずっと昔から日本の職人世界に広く蓄積された資質だったのだろう。彼はその典型的に際立った「モノづくり日本」の先駆者のひとりだったのである。




              
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