ながはま・くにとも旅行記 【2010年】



ながはま ・ くにとも旅行記





筆者・きまぐれ睡龍


 7月2日から2泊3日の日程で、滋賀県の琵琶湖湖北にある長浜市を訪れた。私にとっては1987年8月以来、23年ぶり2度目の同地への旅行である。
 23年前の旅行は、大学の卒業論文作成に向けての資料集めが目的だった。卒論のテーマは、長浜市国友町が生んだ江戸時代の鉄砲職人で空気銃や望遠鏡の製作、そのほかさまざまな発明や考案で名をはせた奇才・国友藤兵衛一貫斎の人物史について。まず長浜城歴史博物館へ行き、国友一貫斎文書の写真のコピーを、発明品・考案品・天体観測図を中心に百数十点ほど取らせていただき、翌日、国友藤兵衛家を訪ねた。
 国友家では、当時の当主のご好意によって母屋の中に入らせていただき、一貫斎の存命当時のおもかげを残す室内の写真を撮らせてもらった。もちろん、事前の電話連絡によって撮影の許可を得てのことだ。お名前をお聞きしなかったが、ご対応下さったのは穏和な雰囲気のお婆様だった。撮影だけでなく、一貫斎のことや付近にある姉川の古戦場のことなどいろいろなお話も聴かせていただき、物知らずの青くさい一学生に親しく接して下さった。

 もう一度国友町を訪れたいという気持ちが去年あたりからにわかに生じ、今年に入ってから学生当時に集めた資料と卒論を押し入れの奥から引っ張り出し、20年ぶりくらいに目を通してみた。卒論はゼミのA助教授にあれこれと助けて頂きながら当時としては一所懸命に書いたものだったのだが、今見ると文章力の低さと冗長な筆致は悲惨の一言で、生まれて初めて書いた論文という記念のつもりで中学時代の恩師・M先生に全文のコピーをお送りしたことが今更ながら恥ずかしい。
 卒論を見ている間に、一貫斎についての文章を書き直してみようかという気が起こり、新たに本を買って読んだりインターネットでさまざまな小論などを検索し、古びてさびついていた知識を洗い直しつつ文章を書きはじめた。卒論の書き直しのような感覚もある。その時点ではその文章をどうするか具体的なことを考えていなかったのだが、これといって発表する場もなさそうなので、このさい一貫斎を広く紹介するホームページを作ってみようかと思うに至った。
 ひと通り草稿を書き上げたところで、長浜行きの計画を立てはじめた。


7月2日(金)
 朝のこだま637で東京駅を出発。天気予報は思わしくなかった。長浜に着くと弱い雨が少し降ったが、おおむね曇りだった。まず駅付近の豊公園(ほうこうえん)にある長浜城歴史博物館を訪れた。豊臣秀吉の長浜城の再現を目指して建てられた城郭型の博物館である。そこで学芸員のOさんに面会。極めて多忙なご様子だったが、私のいろいろな質問にお時間を割いて下さった。
 ホームページ作成の計画と、1987年に同館でコピーさせてもらった国友一貫斎文書の使用について質問させていただいた。卒論に使うだけなら無許可でも問題はないと思うが、ホームページで一般に公開するなら、古文書の所有者である国友家のご子孫から許可をもらう必要があるとのことで、まずは旅行前に書き上げておいた草稿をお送りして内容を検分してもらおうと、その旨をあらかじめOさんから電話でお伝えいただくことになった。Oさんからご子孫のご住所をお聞きし、帰京後に草稿を送らせていただいた。

  
(7月2日朝、東京駅の新幹線ホームにて)

  
(11:40頃にJR長浜駅に到着。豊公園内の長浜城歴史博物館へ直行)

 さて、同博物館には一貫斎が作った反射望遠鏡が所蔵されているのだが、さいわいその実物が常設展示されているというので、展示室に向かった。撮影はできないというので観るだけではあったが、私としては実物を目にするのは初めての体験。学生当時には観ることができなかったので、23年越しの初対面となった。
 望遠鏡はこちらに対してややななめ向きに置かれていて、鏡筒の中を何とかのぞける角度になっていた。製作から百数十年を経てもくもりが生じていないと噂に聞いていた反射鏡(主鏡)の輝きを肉眼で見ることができ、外観を眺めたり鏡筒内をのぞき込んだりと、長い時間そこに居続けた。平日の昼だったので他の観覧客はとても少なかったが、望遠鏡にばかり張りついている男の姿が変に見えていたかも知れない。
 かなり時間をかけて同館の展示品をすべて見終え、天主閣の展望台から間近にせまる琵琶湖を一望。館内の土産物コーナーで望遠鏡の絵葉書と「長浜城歴史博物館年報」という望遠鏡に関する論文集を購入して同館をあとにした。

 
(国友一貫斎作の反射望遠鏡。同館の絵葉書より転写)

 豊公園の中を少しほっつき歩いた。この公園は長浜城の本丸跡に作られ、豊臣にちなんで名づけられたという。日本100選に選ばれた桜の名所でもある。その後、長浜駅舎を通過して商店街の方に出てみた。たまたまこの日は、近くにある大通寺の夏中法要に合わせて毎年行なわれる「夏中(げちゅう)さん」と呼ばれるお祭りで、数日間催されるらしい。駅付近にある大手門通りに焼きそば屋さんや金魚すくいなどの露店がたくさん並んでいた。長浜の初夏の風物詩だそうだ。この日は平日の午後だったので客はまだ少なかったが、例年混雑するという。その中をのんびり通り過ぎながら古色あふれる街並みへと足を踏み入れた。あちこち歩き回って、郷土資料館、黒壁ガラス館、長浜オルゴール堂をはじめ、大通寺やさまざまな土産物店などに立ち寄り、少しばかり土産などを買った。
 そのほか、その近辺だけでも、長浜曳山祭の臨場感を体感できる曳山博物館や、アンティークガラスの黒壁美術館、海洋堂フィギュアミュージアム黒壁、成田美術館、長浜鉄道スクエア、神社・仏閣などと、見どころがたくさんある。

  
(長浜大手門通りと郷土資料館)

  
(黒壁ガラス館と長浜オルゴール堂)

  
(長浜の街並み。右は大通寺への道)

 夕方、琵琶湖畔近くの手打ち蕎麦の店で食事を摂ってから豊公園付近にあるホテルにチェックインし、1日の疲れをとった。


7月3日(土)
 2日目は朝から大粒の雨。時おり強い風をともなう中、少し憂鬱な気分で9時ごろにホテルを出た。行く先は国友町。路線バスもあったが歩いて往復することにした。23年前にもそうしたので、歩きながら目にする風景を、ほとんど薄れてしまった古い記憶と少しでも照らし合わせてみたかったのだ。
 長浜の中心部から4〜5キロほどの道のりだろうか、目印にしていた長浜八幡宮や神照寺などに少しばかり立ち寄りながら、ずいぶん歩いた末に国友町に到着。民家と田園の彼方にその街並みが見えはじめると、雨模様の憂鬱さはすっかり消えた。薄れた記憶も少しずつよみがえって来る。
 まずは国友鉄砲の里資料館に立ち寄る。23年前は残念ながら開館しておらず見学することができなかった。不運にも、同館のオープン2ヶ月前だったのだ。完成していた建物の外観を、指をくわえて眺めるだけに終わってしまった。しかしこの日は存分に見学できた。
 中に入るとすぐさま、係員の人に受け付けのそばにある映写室へといざなわれ、そこで数分ほど国友鉄砲の歴史を紹介するアニメと実写の混合の映像を観た。作られてからだいぶ年数を経た感じの、なかなか味の染みた年代モノの映像だったが、かえってそれが微笑ましい。子供にも分かりやすそうな内容だった。

  
(国友鉄砲の里資料館と、敷地内にある司馬遼太郎文学碑)

 映写室には展示物もいくつかあったが、とくに明治時代のオーディナリー型自転車(だるま自転車)が目についた。これは以前、静岡県で発見された自転車のレプリカで、製造年月が分かる国内最古の自転車だという。フレームには「明治二十四年…国友之(これ)を作る」という銘が刻まれていて、国友鍛冶が製作したことが分かる。造ったのは国友鍛冶だが、国友村でそれが造られていたのかどうかは確認されていないそうだ。実物は東京都江戸東京博物館に所蔵されている。

 

 その隣室では、館長のYさんがみずから本物の火縄銃を分解しながらにこやかに解説して下さった。銃の分解・組み立ての様子を見るのは初めてだったので、思いがけない経験を得た。都会の博物館ではあまり見られないそうした気安さも嬉しかった。
 その部屋には国友一貫斎が作ったねずみ短檠(たんけい。自動給油型のランプの一種)や玉燈(ランプ)、御懐中筆(毛筆型の万年筆)などのレプリカ、そして一貫斎が作製・奉納した神鏡の実物(吉田流の御幣図が裏面にある)が展示されていた。

 
(ねずみ短檠(左)と玉燈(右)のレプリカ)

 
(神鏡〔実物、国友町日吉神社蔵〕)

 
(各種火縄銃と百匁玉)

 
(資料館のチラシとマグカップ)

 2階フロアには口径別、あるいは年寄・年寄脇・平鍛冶という職人の階級別で各種鉄砲が展示され、鉛弾や各種道具類も数多く置かれていた。一貫斎作の鉄砲も観ることができた。館長さんのお話では、世に一貫斎作の鉄砲は数々あるが、弟子の作品に銘だけ入れたものもあったらしく、銘が刻まれていても実際に一貫斎自身が手がけた作品かどうかを判別するのは難しいそうだ。
 彼の銘は、個人名よりもいわば能当(のうとう)流の商標ブランド名であって、品質が充分であれば弟子の作品にも銘を刻んで世に出した、ということだろう。
 営利目的以外の撮影ならOKということで、館内で写真をたくさん撮らせていただき、絵葉書と一貫斎の望遠鏡に関する書籍1冊と同館オリジナルのマグカップ(表と裏に空気銃と望遠鏡のデザイン)を買い、そこをあとにした。資料館を出たところでふと下を見ると、駐車場前にある側溝の板が火縄銃のデザインになっている。さすが鉄砲の里。

 
(資料館前の側溝の板。火縄銃と銃口の図柄)

 ところで、一貫斎の墓石のある場所を資料館で聞いてみたのだが、かつて付近の因乗寺にあったという墓石はすでに現存していないそうである。写真におさめることができればと思っていたのだが、残念だった。
 国友町には、鍛冶職人たちの旧宅などを示す石碑や、『街道をゆく』など多くの著作で知られる故・司馬遼太郎さんの文学碑などがそこかしこに建っている。司馬さんはかつて国友町を訪れ、町の様子や歴史の一端を作品に記されたのだった。文学碑にはその文章が引用されている。時間はあったので、雨が降っていなければすべて見て回ってもよかったのだが、道すがら目につくものだけをカメラにおさめつつ一貫斎の旧宅へと歩を進めた。

 資料館からさほどの距離を経ずして一貫斎の旧宅が見えてきた。まず道の左手に望遠鏡で星を見る少年の像がたたずんでいる。「星を見つめる少年」という名である。少年期の一貫斎をイメージしたものだと聞く。台座のプレートには「国友一貫斎先生 天体観測創始の地 SINCE 1833」と刻まれている。そのすぐななめ向かいには読書をしながら中空を見上げて微笑む可憐な少女の像が、一貫斎の旧宅の壁を背にしてベンチに腰掛けている。「夢見るナナ」という名で、東京立川市の芸術家・赤川政由さんの作である。この2人には世俗のけがれを寄せつけないような清涼感があった。
 どちらも23年前にはなかったように思ったのだが、あとで調べたら、少年の像は2年後の1989年に、少女の像はその後「風あいのあるまちづくり事業」の一環で作られたものだそうだ。その事業により、ほかにも町内のあちこちの景観が美しく整備されたらしい。

 
(一貫斎旧宅への道と、星を見つめる少年像の台座プレート)

 
(星を見つめる少年と夢見るナナの像)

 そしていよいよ旧宅の門前へ。
 旧宅のたたずまいは23年前と同じ。古い門構えと「国友一貫斎翁邸址」と刻まれた石塔。左脇の看板は新しいものになっている。門の内側にも新たにアルミ製らしき看板が立てられていた。それには、同家で保存されている一貫斎作の望遠鏡1基と国友一貫斎文書684点の略解説、それらが長浜市の文化財に指定されている旨が書かれている。今回は内部の撮影をお願いするなどはしていなかったので、門前で写真を撮るのみ。その門柱や門扉の木目、金具などを眺めながら、雨宿りがてら、しばしそこで時間を費やした。

  
(国友一貫斎旧宅と解説の看板。下は石塔)

 

 前回来たのは8月の中旬、かんかん照りのうだるような暑さの中だった。母屋で対応して下さったお婆様は、私が室内のあちこち写真を撮って回るのを、扇風機を持って私に風をあてながらついて来られたので、とても恐縮して写真が4〜5枚ブレてしまった。帰京してすぐお礼の手紙をお送りした。
 事前に国友家に電話で訪問のお願いをした時、実物の古文書を見せて頂けたらと思い、お伺いしてみたのだが、「親族会議を開いて決めなければなりません」と言われ、単なる一学生がただ見てみたいだけで親族会議ではあまりに恐れ多く、即座に要望を取り消した。物の価値がよく分かっていない自分に苦笑した瞬間だった。

  
(門と石塔・看板。1987年8月撮影)

  
(母屋の入り口と室内。1987年8月撮影)

 傘が要らないほど小降りになったところで門前を離れ、国友町会館を目指した。

 国友町会館には国友一貫斎翁顕彰碑がある。これは題字を高名なジャーナリストだった徳富蘇峰が、撰文を『一貫斎国友藤兵衛伝』の著者である有馬成甫が手がけ、昭和17年(1942)12月に建立された。一貫斎旧宅からほどなく到着したが、この日は会館の庭で地元の人たちが焼き肉パーティーか何かを開いて、大勢の大人と子供が集まって楽しそうに興じていた。

 
(国友一貫斎翁顕彰碑)

 そこにいた方々に、東京から一貫斎について調べに来たので石碑を撮影させて欲しい旨、お願いしたところ、こころよく中を通らせて下さった。石碑は見上げるような大きさで、国友における一貫斎の存在の大きさを示すかのようだった。毎年一貫斎の命日である12月3日には、国友一貫斎翁碑前祭(ひぜんさい)と称してお祭りが行なわれているという。
 その後、一貫斎が神鏡を奉納した日吉神社を訪れてから、町内の各所を歩き回ってみた。雨のせいばかりではあるまい。町はみずみずしい質感に潤っている。車も人もほとんど行き交わず、小さなゴミひとつさえも落ちていない。古く静かなたたずまいで並ぶ家屋に植木と自然石を豊富に配した庭、往時の鉄砲村の盛況をしのばせる数々の石碑、繁る緑と町内各所を縦横に流れる堀割の水音、たゆたう水草、ゆっくりと流れる時間にそぞろ歩きしながら、再び一貫斎の旧宅前を通過し、少年・少女の像に別れを告げつつ国友町をあとにした。

  
(鍛冶職人の国友藤太郎および国友又三郎の屋敷跡)

 帰り道はだんだん雨脚が強まり、ほぼ1日中使い続けていた折り畳み傘は内側まで雨水がしみ込んできて、さしていても頭や肩が濡れるようになってきた。ズボンの膝下をびっしょりにしながら長浜駅までたどりついた。さすがに疲れたが、その足で駅の近くにある長浜鉄道スクエアを見学した。旧長浜駅舎が博物館になっているのだが、これは現存する国内最古の駅舎だそうで、鉄道記念物に指定されているという。

  
(長浜鉄道スクエアの正面入り口と内部の待合室)

 ひと通り内部を見学したあと、室内のベンチに座り、それまで1日ほぼ歩きっぱなし立ちっぱなしだった足をしばらく休めた。
 そのあと前日と同じ蕎麦屋に入って食事を摂った。夕方になっていたが、この食事のさなかがその日もっとも激しい雨に見舞われる時間帯となり、しばらくそこから出られなかった。カメラにおさめた画像を見ながら1日の足取りを思い起こしつつ、小降りになるのを待ってホテルへ戻った。
 この日1日でずいぶん水や缶ジュースを飲んだ。気温は27度くらいだったようだが、蒸し暑くだいぶ汗をかいた。ホテルに着きしだい風呂に直行した。

 ところで、今回長浜を訪れる前に最初に長浜城歴史博物館にお電話したさい、応対された職員さんに「国友藤兵衛について専門の方にお聞きしたいのですが…」と言ったところ、「国友トウベエって誰ですか?」と返されて一瞬とまどい、「え? 国友イッカンサイですけど…」と言い直したら「ああ、一貫斎ですね」とすぐに通じたのだが、今日1日で接した人たちも、みんな「一貫斎」と言っていたようだ。長浜では藤兵衛ではなく一貫斎のみで通っているのだろうか。
 そんなことを考えつつ、1日歩き通しの疲れから、その夜はよく眠れた。


7月4日(日)
 この日はとくに予定はなく、11時29分の電車で長浜を発つだけ。9時少し前にホテルをチェックアウトして長浜城歴史博物館に向かった。もう一度、一貫斎の望遠鏡を観ておくためだった。次はいつ来られるか分からない。
 1時間ほど館内で過ごしたあと、豊公園の琵琶湖畔に出た。どんよりと曇っていたが、雨は降らなかった。

  
  

 23年前にも同じ場所に行ったが、公園中央の噴水、噴水脇に建つ彫刻などは以前のままで、あまり様子が変わったような印象は受けなかった。昔よりも樹木がだいぶ増えたようだ。花蜂たちが飛び交ってせっせと蜜を集め、ニイニイゼミの声がかすかに聞こえた。
 ほとんど人はおらず、小刻みに寄せる波の音を聞きながら、波打ち際をのんびり歩いたり、近づいてきたネコにカメラを向けるなどして、しばし時間をつぶした。23年前はここで素敵な夕陽を見ることができた。
 電車の時間が近づいたので、ゆっくりと駅へ向かった。

 

 12時28分米原駅発の東京行き、こだま654で帰京。国友町や琵琶湖畔の静けさから一気に東京の雑多な喧騒に引き戻されていき、翌日からの仕事モードへ早々とシフトチェンジを迫られるような感じだった。

 自宅に着いたのは17時45分ごろ。洗濯をし、食事を摂り、シャワーを浴びてからカメラの画像をパソコンに取り込み、旅の収穫品をあれこれ整理してから就寝した。
 収穫品の中には、旅のオマケながら、長浜の黒壁ガラス館から連れ帰った小さなガラス細工の動物たちと、琵琶湖畔の波打ち際でひろった貝類たちもある。ささやかだが私の部屋の新しい住人になった。

  


結びとして(付記“一貫斎考案の井戸掘り機”について)
 今回の旅によって、ホームページ作成に向けていろいろと新たな知識・資料、そして経験を得ることができたが、得るばかりでなく、長浜城歴史博物館を初日に訪れたさいに私が持ちこんだ資料のひとつが、同館および長浜での一貫斎研究に多少なりとも貢献することとなった。それは、東京の羽村市郷土博物館が昭和59年に発行した『羽村町史史料集第八集 玉川上水論集(T)』のp.70に載っている“一貫斎考案の井戸掘り機”の小さな図版1点(下図)が、長浜城歴史博物館をはじめ地元研究者には把握されていないものであることが判明したからだ。

 
(国友一貫斎の考案とみられる井戸掘り機の図)

 その後の調査により、おそらく実用化されなかった考案である可能性が高いことが分かったが、残念ながらこの図版の所在は分からず、今のところ史料として活用できる確実性に欠ける。もし、このサイトをご覧になり、図版の出典や所在をご存知の方がおられれば、長浜城歴史博物館羽村市郷土博物館、そして当サイトの管理人宛てメールのいずれかにお知らせいただけると大変ありがたい。

 さらに今回の旅のあと、ホームページ用に書き上げてあった原稿を一貫斎のご子孫のKさんにお送りしたのだが、頂戴したご返信によって、一貫斎が役者並みのハンサムだったらしいという言い伝えがあることをお教えいただいた。私のまったく知らなかった逸話であり、今まで書籍でもwebサイトでも文章化されたことのない口碑だとの事。おもしろいと思ったので、早速、原稿のエピソードの項に一文を追加した。


 以上、余談や回り道も交えつつ、長浜市国友町への旅行の顛末を記した。今回、私の訪問に貴重なお時間を割いて適切なアドバイスを下さった長浜城歴史博物館のOさん、国友鉄砲の里資料館でいろいろとお話を聞かせていただき、展示品の写真の掲載をご了承下さった館長のYさん、ホームページへの一貫斎文書の図版使用をご承諾下さった国友家のご子孫のKさん、そのほか旅の途中で接した方々に、この場をもってあらためて感謝申し上げたい。

(2010年8月29日・記)


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〔追 記〕 (2013年10月6日)

 2010年8月29日に結びとして記しておいた“一貫斎考案の井戸掘り機”の図について、2011年2月に愛媛県西条市役所生活環境部と羽村市郷土博物館からのご協力により、その肉筆原図が『明治以前日本土木史』(昭和11年・社団法人土木学会)第7編のp.1378に掲載されていることが分かった。
 『羽村町史史料集第八集 玉川上水論集(T)』に掲載の図版は、おそらくこの『日本土木史』の原図から著者もしくは他の誰かがトレースした2次資料と思われる。この2次資料は図のみだが、原図の方には左のドリルの周りに構造を示す説明文が5か所にわたり短く記されている。

 『日本土木史』のキャプションには「前田侯爵所蔵文書」と書かれているので、出典は判明したのだが、昭和11年という古い引用文献であったためか、肝心な原図の所在は今のところ不明となってしまっている。
 前田侯爵家の前身である加賀藩前田家に関する古文書の多くは、東京の尊経閣文庫と金沢市の玉川図書館近世史料館に所蔵されているが、双方の資料目録にはこの原図の史料名が見当たらない。膨大な所蔵史料を総ざらいしてたった1点の原図を捜し出すのは、雲をつかむような困難なことでもあり、また、必ずしも前田家の関係機関に所蔵されているとは限らない。

 いずれ、原図の実物が発見されることを期待したい。なお、一貫斎の井戸掘り機については、『国友一貫斎考案の井戸掘り機 ―徳山藩の砲術師範・中川半平との交流―』(2013年9月刊)をご参照されたい。

 

             
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