飢饉と望遠鏡の売却
飢饉と望遠鏡の売却
一貫斎は、天文学界の第一線の学者を驚かせるほどの性能を持つ望遠鏡を作り上げたが、なお彼はそれを完成品とは考えていなかった。彼は望遠鏡を一般向けの売り物としては作らず、天体観測を続けながらひたすら性能の向上に力を注ぎ、望遠鏡づくりの弟子を育てるでもなく、ひとり研究と観測の喜びに浸っていたのだろう。しかし、天保7年(1836)に至り、前年の正月から続けていた天体観測を打ち切り、未完成の望遠鏡を売却しなければならない事態が切迫したのである。
天保4年、ちょうど彼の望遠鏡が最初の完成をみて、天体観測を始めた年である。東北から関東地方にかけて風水害によって凶作となり、翌年は豊作となったが前年の影響で米価が高騰し、7年には夏でも綿入れ(冬の防寒着)を着なければならないほどの低温多雨にみまわれた。稲刈りの時期に雪が降ったという記録もあり、五穀はことごとく不作で全国的な大飢饉となった。これがいわゆる、寛永、享保、天明とあわせて江戸時代の四大飢饉といわれる天保の飢饉である。江戸時代は、小氷期といわれる世界的な寒冷期のさなかだったのだ。
この飢饉は東北地方を中心として深刻化し、地域によっては人を殺して食べるほどの惨状を呈したといい、多数の餓死者と流亡者を出した。大坂では大規模な打ちこわしが起こったほか、全国各地で一揆や打ちこわしが多発し、天保8年2月には大塩平八郎の乱をひき起こす一因にもなって、人々の間に不安と荒惑を生じさせた。
国友村でも天保7年頃から著しい天候不順が続いたらしく、姉川の氾濫による田畑の流失という災害も重なってその一帯も深刻な状態に巻き込まれた。米価の高騰によって国友村は米不足に直面し、ただでさえ職人村で農民が少なかったこともあってか、一貫斎の一家はもとより、村人たちも困窮に追い込まれ、暴動や餓死の危険にさらされた。一貫斎は食糧確保のために望遠鏡を諸侯に売却した。天保7年の彼の書簡にはその経緯がくわしく記されているが、それは次のとおりである。
「天文台その他、お国々の諸公さまに差し出しそうろう儀は、今一段能(よ)く相成りそうろうてより上納つかまつりたくそうろうあいだ、この度、願い上げたてまつりそうろう御儀は、十分出来る迄の取り続き出来難し。別して当年不作にて、私村方(むらかた)、米御座なく、彦根ご領分より他領へ米出し(輸出)そうろう儀、相成らず(禁止となり)、必死の仕合にて、米壱俵に付き七拾五匁(もんめ)より八拾匁の米調え、右直段(じきだん、値段)にても調いそうらえば宜しくそうらえども、調い兼ね、誠に難渋つかまつりそうろうに付き、出来秋(できあき・実りの秋)の節、来たる五月迄の米調え置きたく、家内一同申し居りそうらえども、何分(なにぶん)致し方御座なくそうろうあいだ、只今取り掛かりそうろう目鏡(めがね・望遠鏡)、来たる四、五月頃には出来(しゅったい)つかまつるべくと存じたてまつりそうろうあいだ、出来次第上納たてまつり置き、又、存念通りに出来つかまつりそうろうように相成りそうろう節、十分にお直し上納たてまつりそうろうあいだ、右目鏡、成瀬隼人正さまへお買入れに相成りそうろうお直段は金八拾五両にてお買入れの由、承知つかまつりそうろうあいだ、諸家さまより仰せ付けられそうろうお直段は、同様願い上げたてまつりそうろうところ、この度、願い通りお聞き済み下し置かれそうらわば、外々さまへは、ご内々にて七拾両にて上納たてまつりそうろうあいだ、何卒(なにとぞ)、当年米四拾俵調えそうろうの御金、今度拝借つかまつり、残りの所はお目鏡上納の節、頂戴つかまつりそうろうよう、何卒、右の段ご憐愍(れんびん)を以って、お聞き済み下し置き為(な)らせられそうらわば、生々世々、冥加に相叶い、有り難き仕合わせに存じたてまつりそうろう。右の段、願い上げたてまつり度く、この段、お聞き済みお執り成し、偏(ひとえ)に願い上げたてまつりそうろう。以上。」(『一貫斎国友藤兵衛伝』p.357)
日付けは11月となっている。これによれば、現在製作中の望遠鏡は翌年4、5月頃には出来あがる予定で、出来あがりしだい上納し、また技術完成の域に達した時にはさらに手直しもするので、成瀬隼人正所持の望遠鏡は85両であったが、内々に70両の値段(現在の250万円ぐらいか)で納めることなどの条件で米40俵を前借りさせて欲しいと頼んだことが分かる。かなり切羽詰まった国友村の状況と危機感に追われる一貫斎の心情が表われている。と同時に、存念どおり(思いどおり)の出来に達していない望遠鏡を上納することへの、技術者としての不本意な心情も披歴されている。
また、精巧を極める彼の望遠鏡を素人に販売するにあたり、取り扱いの粗雑さによって故障が発生することや、性能に即した充分な使用がなされなくなってしまうことを懸念した彼は、詳細かつ丁寧な取り扱い説明書を書き、天体観測の楽しみ方まで図解入りで記して、購入相手に配慮した。かなり長文にわたる説明書となっており、それを望遠鏡に添付して売ったのだろう。
|
(テレスコッフ御目鏡御取扱之覚。国友一貫斎文書より)
翌天保8年(1837)になり、天候も米作も良好となった。しかし、国友村も一貫斎家も一時平穏を取り戻したかに見えたものの、恐慌状態は前年よりも悪化し、米価は7月に4斗俵が2両へと急騰し、食糧事情はいっそう逼迫した。一貫斎はこの状態に際し、2台の望遠鏡をたずさえて加賀前田家に買い上げを願い出た。長文だが、その内容は次のとおりである。
「 恐れ乍(なが)ら書き付けを以って願い上げたてまつりそうろう。
この度、テレスコッフ遠目鏡ご上覧の儀、願い上げたてまつりそうろうところ、ご上覧の儀成し下せられ、重々有り難き仕合わせに存じたてまつりそうろう。然(しか)るところ、兼ねて心願の儀は、右目鏡製作に取り掛かりそうろう節より、存念通り出来そうらわば、ご当家さまへご上納願い上げたてまつり度き心願にて、漸(ようや)く出来つかまつり、蘭製よりは業(わざ)も大きく引き付けも宜しく、日月星等は格別に明らかに相窺(うかが)いそうらえば、私存念通り出来と申す儀にては御座なく右製作に取り掛かりてより十ケ年余に相成り、其(そ)の内、夥(おびただ)しき入用相掛り、今日取り続き相成り難き有様(ありさま)に相成りそろううに付き、存念通り出来る迄のところ、試斗(ためしばかり)つかまつり居りそうろうては、今日、家内渇命に及びそうろうに付き、心外、存念通りには御座なくそうらえども、ご上覧願い上げたてまつりそうろう御儀に御座そうろう。もっとも、右目鏡の儀は、第一三光のところ窺いそうろうお目鏡にて、地合のところ、常の目鏡より少々くら(暗)くそうろうところ、これも次第に宜しく相成り、去乍(さりなが)らモアイ気これ無く、日受けのところ窺いそうろう時は、常の目鏡よりも明らかに見えそうらえども、日裏のところにてはそれ程に御座なく、右等のところは追々相考え、宜しくつかまつるべくと存じたてまつりそうろう。もっとも、業大きく見えそうろうあいだ、場所せまく見え、月迚(とて)も三つにも掛けそうろうては見切りがたく、右は天文方等にては、其のところご賞美これ有りそうらえども、上々さまお慰(なぐさ)みにはご不自由に御座そうろうあいだ、日月等も丸に窺(うかが)いそうろう玉を仕掛けそうろう。筒、別に壱つ添え、今、地合のところも明らかにあかるく相成りそうろうよう工夫つかまつり、猶(なお)、おん思し召し在らせられそうらわば、成るべくほど相考え、おん思し召し通りに出来つかまつりそうろうあいだ、只今、ご上覧下し置き為(な)らせられそうろうお目鏡二丁の内、何れにてもこの度、格別のご憐愍を以ってお買い上げ下し置き為らせられそうろう。右申し上げたてまつりそうろう通りに出来の上、お引き替えにつかまつりそうろうあいだ、この度のところお救いと思し召し為らせられ下し置かれ、お慈悲のご憐愍を以ってお聞き済み、お買い上げ下し置き為らせられそうろうよう、お執り成し、幾重(いくえ)にも願い上げたてまつり度く、然るところ、在所表(ざいしょおもて)より書状差し越しそうろうところ、出立(しゅったつ)の砌(みぎり)は米四斗俵にて百目にて調いそうろうところ、次第に高直(こうじき・高値)に相成り、只今にては米四斗俵にて弐両に相成り、とんと致し方これ無き趣き申し越し、もっとも去る冬より当春へ向かい、人気(じんき)殊のほか悪く相成り、騒動差し起こりそうろう趣きのところ、段々春作宜しく、追々順気はこの上無く、豊作の様子にて、人気納まり安心つかまつり居りそうろうところ、この度、米弐両に相成り、もっとも弐両出しその米調え難くそうろう由、この上、いか程高直に相成りそうろうやも斗(はか)り難くそうろう由にて、爾今(じこん)、大変差し起こりそうろう様子の人気に相成り、下職(かしょく)等も私帰村を待ち兼ね、日々無心に参り、その内には無体の無心等申し参りそうろう者も御座そうろう由、私帰村つかまつりそうらわば、少々の儀はいかようともつかまつりそうろうよう申しなだめ置き、大いに心配つかまつり、日々、ご当家さまご首尾のみ神へ祈りたてまつりそうろう事のみ申し越し、右の仕合(しあい)にて大いに心配そうろう。恐れ乍(なが)らこの段ご賢察下し置かれ、ご当家さま御儀、数代、お影(蔭)を以って連面(連綿)相続つかまつり居りそうろうところ、猶又、この度必死の難渋のところ、格別のお慈悲を以って、お救いと思し召し下し置き為らせられ、この度のお目鏡、右願い通りお聞き済みお買い上げ下し置き為らせられそうらわば、私家内、下職迄相助かり、ご厚恩の儀、永々忘却つかまつらず、生々世々、冥加(みょうが)に相叶い、有り難き仕合わせに存じたてまつりそうろう。何分(なにぶん)右の段、幾重にもお聞き済み成し下し為らせられそうろうよう、お執り成し、偏(ひとえ)に願い上げたてまつりそうろう。以上。」(『一貫斎国友藤兵衛伝』p.359)
日付けは7月。この文書からは、「2両に高騰した4斗俵の米が2両でも買えなくなり、これからどれほどの値段に上がるか分かりません」、「大変な事件が起こりそうな人気(じんき・騒然とした気配)であり、下職たちも私の帰村を日々待ちかねています。なかには無体な要求をしてくる者も出ています」、「よい結果を神に祈って皆が待っています」と、経済的・精神的窮乏の様子と一貫斎に対する切実な期待、そしてそれに応えようと尽力した彼の様子が読み取れる。
こうした努力の末に何とか危急をのがれることが出来たのだが、彼は望外の喜びをもって「天、遂に人の努力を無にせず」と言い、自作の望遠鏡がはからずも食糧確保に役立ったことを神仏に感謝したという。
また一般的に、一貫斎は村民たちの救済のために望遠鏡を売却したとして知られているが、ここに取り上げた彼の文書にもある「家内一同と下職」の窮乏を救うとは、家族や家内の下働きの者たちの危機を救うことで必ずしも村民救済ではなかったとする説もある。たしかに、いずれの古文書も村方(むらかた)一同のためというような書き方はしていない。彼が村民のためにいろいろと努力した姿も想像に難くはなく、実際にそうであったのかも知れないが、希望的観測を排する説としては一理あるようにも思う。「下職」とはもっと広く、村民たちやその家族をも含んでいたと解釈したのだろうか。『一貫斎国友藤兵衛伝』の著者である有馬成甫は、地元の古老からの聴き取りなど何らかの根拠によって「村民救済」と書いたのかも知れないが、同書のp.355に「一貫斎の一家は元より窮乏を訴えるに至ったが、彼が直接乃至(ないし)間接に注文を為している一村の下職人は、尚一層窮迫せる状態に陥った。彼は此(こ)の一村一家の経済的窮迫を坐視するに忍びず…」とあるのみで、村民救済とする根拠については明記されていない。それ以上のことを確かめるすべはないのだが、村民救済という口碑が国友町に残っていることは、一貫斎の実績によって窺われる人物像からすると不自然な話ではないだろう。
いずれにしても、彼が残した最大の業績ともいえる黒点の連続観測は、開始から13か月ほどを経たこの時期に途絶えてしまった。途絶えたのは飢饉がきっかけだったとは断定できず、初めから春夏秋冬の1年分の黒点の変化を見るための観測予定だったのではないかと推測する向きもあるようだ。ならば月や惑星の観測までこの時期かぎりでやめてしまうことはないとも思えるが、途絶えたのが残念なことには違いない。
黒点数はほぼ11年の周期で増減するが、彼が観測していた時期は増減の極少期を過ぎた頃だったので、さらに望遠鏡の精度を増進させながら観察が何年か続けられていたら、数の増加そして減少へと気づいていったかも知れない。また、天文研究所のような組織的な活動ではなかったため、彼のあとを継ぐ者はまったくおらず、国友村での地域的な広がりも起こらなかった。結局、当時における反射望遠鏡の製作は唯一彼の作品のみにとどまった。のちに西洋文明の大量流入によって科学界は急速に近代化の時代へと入っていったが、明治新政府の天文研究は古くからの教義に固執する陰陽道や仏教思想の支配を受けて、なかなか近代化への脱皮ができなかった。国内で反射望遠鏡の開発が再び行なわれたのは1922年だという。一貫斎が製作に着手してから90年もの歳月が過ぎていた。
彼の天体観測は終わってしまい、再開されることもなかった。そして彼の取り組みが単独による短年月に過ぎず、論文や著書を世に出すような活動でもなかったため、気砲の時とはまったく違い、当時の一般世間には知名度を得ずに終わった。のちに有馬成甫らの調査によって国友家に眠っていた古文書が見出され、1931年にその研究結果が記者会見によって発表されたことにより、ようやく日本の天文学史に彼の業績が大きく明記されたのである。