寛永12年(1635)の海外渡航禁止令や、同16年のポルトガル船来航禁止などによって日本は寛永10年代ごろに鎖国状態に入り、貿易の統制強化やキリシタンの禁止などを内容とする対外政策がほぼ確立されて、嘉永6年(1853)のペリー来航の頃まで日本は国際的に孤立に近い状態が続きました。その間は、平戸から出島に移されたオランダ商館を拠点としてオランダ人と中国人にのみ貿易が許可され、わが国唯一の開港地となっていましたが、制限が厳しく狭小な窓口であったため、そこを通じて流入する外国の学問・芸術・文物・情報は豊かなものではなく、日本人はヨーロッパの文化と本格的に向き合う機会がなかなか得られませんでした。
そうした中、科学技術の分野は、欧米における躍進的な発達に較べて立ちおくれていました。当時、世界の科学界に影響をおよぼした日本人がいなかったことからして、その格差と閉鎖性のほどが想像できます。和算家の関孝和が提案した行列式や終結式が世界最初の研究だったとして海外で評価されたのも、彼が没してからはるか後のことです。しかし、江戸後期に入ると杉田玄白、前野良沢らの努力によって蘭学が勃興し、停滞気味だった科学技術はその相貌を一変して、日本の科学界は独特の発展と活気を見せるようになりました。
そうした繁栄は、独創的で優れた科学者たちを輩出せしめました。測地学の伊能忠敬、西洋博物学の司馬江漢、動植物学の小野蘭山や宇田川榕庵、医学の緒方洪庵や華岡青洲、諸学に秀逸した佐久間象山らの出現はほんの数例ですが、その一角に、国友藤兵衛(くにとも・とうべえ)という人物がいました。彼は、種子島への鉄砲伝来以後、国内最大の鉄砲生産地となった近江国(おうみのくに・滋賀県)の坂田郡・国友村に生まれ、一貫斎(いっかんさい)と号して家業の鉄砲鍛冶職を継ぎました。そして、火縄銃の製作技術で頭角をあらわすだけでなく、さまざまな発明・考案にも手を広げました。とりわけ、オランダ製空気銃に改良を加えて国内初の空気銃を製作したことと、門外不出で不統一だった鉄砲製造技術の統一と一般公開に向けて努力した先進性、そして国内初のグレゴリー式反射望遠鏡を作って世界的にまれな太陽黒点の連続観測記録を残したことは特筆すべき点です。
世界的には欧米水準の後方に置かれがちだった江戸科学界において、独創性に富んだ科学技術者のひとりとして、鉄砲鍛冶という職人のスタンスから特異な技能を発揮した国友藤兵衛一貫斎。この稀有な人物について、彼が残した数々の実績から生涯をたどり、国友家に残された古文書の図版なども掲載しながら、その人間性も含めてここに紹介していきます。
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