国友一貫斎考案の井戸掘り機


国友一貫斎考案の井戸掘り機


 一貫斎は井戸の掘削に少なからぬ関わりを持ち、井戸について専門レベルの知識や見識を身につけていたらしい。彼が考案したとみられる井戸掘り機の図が加賀藩前田家を前身とする前田侯爵家の「尊経閣文庫」に保存されていたことが判明し、また、周防国徳山藩(現・山口県周南市)の藩士で砲術師範であった中川半平から依頼され、突き掘り工法による徳山での井戸掘削に技術的援助をしていたことも分かってきている。井戸掘り機の原図の存在、そして一貫斎と井戸掘削との関係は、2010年から原図の調査が始められるまで国友研究家には知られていなかった。


1. 井戸掘り機の図

 一貫斎は、独自の井戸掘り機を考案していたらしい。『明治以前日本土木史』(昭和11年〈1936〉、土木学会刊)の「掘抜井」の項に、「国友藤兵衛近年致工夫(くふういたし)候(そうろう)堀抜井戸之(の)道具絵図」と題する井戸掘り機の原図写真が1枚掲載されている。「国友藤兵衛…」とあるが一貫斎の署名や印影はなく、書き込まれている文字も小さくて筆跡を分析しにくいため、彼による直筆なのかどうかは判然としないのだが、一貫斎とゆかりの深かった前田家の所蔵品であったことや、描かれている機器の部材の形状などから推察して、図の見出しにあるとおり一貫斎が考案したものとみて差し支えはないと思われる。この図は、土木史の分野では長らく考案者および考案年月不明とされ、1969年に発行された勝尾金弥氏の児童向け図書『井戸掘吉左衛門』に短文で紹介されて以降、特に調査や考察が試みられたことはなかった。

 
(一貫斎考案の井戸掘り機。『明治以前日本土木史』より転載)

 考案年月は分からないが、早くとも、一貫斎が加賀藩のお抱えになった文政5年(1822)以降に藩の所蔵になったとみていいだろう。もしかしたら、有能な科学者として金沢に名を残し、のちに一貫斎の弟子になって親交を深めた加賀藩士・河野久太郎を通じて藩の文庫に納められたのかも知れない。一貫斎の子孫が保有している「国友一貫斎文書」(長浜市指定文化財)にはこの図についての記録がまったく見られないため、考案に至った目的や経緯は分からないが、図には専門知識にもとづいた書き込みが各所になされているので、おそらくプロの井戸職人から直接知識を得たことがあったのだろう。

 一貫斎の活動当時には、古くからの手掘りによる井戸掘削とともに、鉄製の長い掘削棒を高い櫓(やぐら)で持ちあげて落下させ、何本も連結させながら深く掘り進めていく突き掘り井戸工法(パーカッション式)がおこなわれていた(揉抜〈もみぬき〉井戸・大坂掘り・五郎右衛門式の3つに大別されている)。一貫斎の図はそれらとまったく違う回転ドリル式(ロータリー式)の工法を目指したものである。この考案が後世に伝わった形跡が見られないことから、考案のみで実用化には至らなかったと思われるが、ロータリー式の工法が明治中期にアメリカから導入されるまで、国内の土木史上において同類の考案記録が知られていないので、ロータリー式としては国内初の考案であった可能性が高い。一貫斎の特異な創造力の一端が垣間見られる図である。

 現在、この図は所在不明である。東京の尊経閣文庫か、石川県金沢市の玉川図書館近世史料館のいずれかに所蔵されていると思われるが、蔵書目録にはそれらしき名の史料が見当たらず、膨大な史料の中のどこに含まれているのかを調べるのは容易ではない。今のところこの図の実物は、『明治以前日本土木史』に掲載されているモノクロ写真でしか見ることができない。なお、この図については本サイトの別項「多彩な発明・考案」にも若干記してある。



2. 中川半平との交流

 一貫斎は、徳山藩士で中島流砲術師範であった中川半平(江戸の砲術家・森重靱負〈森重都由とも称する〉の門下生)と交流があり、彼からの依頼によって、おそらく徳山で初であったと思われる突き掘り井戸工法(パーカッション式)による掘削の援助をしていた。のちに大坂掘りと呼ばれるようになった技法に取り組んでいたと思われる。

 一貫斎の子孫が所蔵する「国友一貫斎文書」の中には、中川半平が一貫斎に宛てて送った地層図入りの質問状1通と手紙2通が残されているが、それらには、徳山での突き掘りがうまくいかずに困っている半平の様子が記されている。半平はおそらく地元の井戸掘り職人を率いて掘削に取り組んでいたのだろうが、いずれの者も突き掘りの初心者であり、難関につき当たって掘削がとどこおった時、一貫斎に手紙で助けを求めていたようである。国友村まで面会にも行っていた。両者はもともと、それまで砲術を通じて10年以上の付き合いがあったとみられるが、なぜ砲術師範である半平が井戸の掘削に取り組んでいたのか、そして、なぜわざわざ遠隔地の住人で井戸技術とは無縁であったと思われる一貫斎から援助を受けていたのか。不明な点が多いのだが、徳山の近辺に突き掘り職人がいないなど、あえて一貫斎に頼らなければならない何らかの理由があったのだろう。

 
(一貫斎宛ての手紙。右は中心に掘削棒を描いた日本最古の鑿井用地層柱状図)

 一連の手紙は文政9〜10年(1826〜27)に差し出されたと考えられる。井戸掘り機の考案もその頃であったのかも知れない。なお、半平が手紙に描いた上掲の地層柱状図が、井戸掘削用としては日本最古の史料であることは特筆すべき点である。今後、井戸の掘削史と周南市の郷土史研究に役立っていくものと思われる。ただ、徳山での突き掘りによる掘削が、その後地元にどのていど普及してどういった水利をもたらしたのか、今のところこれらの半平の手紙以外には文献が地元にも見当たらず、周南市において江戸〜明治期から伝わる古井戸の研究もなされたことがないため、井戸に関してはまったく分かっていないのが現状である。


☆          ☆          ☆

 一貫斎の井戸掘り機と中川半平の井戸掘削については、『国友一貫斎考案の井戸掘り機 ―徳山藩の砲術師範・中川半平との交流―』という本に詳しく、いろいろな関連史料の分析と合わせて古文書の解読文も記されているのでご参照されたい。なお、同書では「国友一貫斎文書」に含まれている揚水機図(スポン樋に類する揚水ポンプか)についても初めて考察している。

 
『国友一貫斎考案の井戸掘り機 ―徳山藩の砲術師範・中川半平との交流―』

(村野 豊 著、2013年9月刊・自費出版本 B5版、2段組59頁)



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