ノスタルジック.レールT


まえがき
私は1950年代後半から鉄軌道の写真を撮って来ました。現代風の言い方をすれば「撮り鉄」をやっていたのです。
撮り集めた写真を、今改めて眺めてみると撮影時はごく普通の風景でしたが、現在では過去のものとなってしまいました。これらの中から今では忘れかけてしまっている「汽車」、「チンチン電車」および「軽便鉄道」の風景をお目にかけることにしましょう。なにぶんにも写真が古く、モノクロームなのでお見苦しい点もありますがご容赦願います。
写真をご覧になって皆様の記憶の隅に残っている風景を思い出していただければ幸いです。


汽車その1
「汽車」という言葉は私たちの世代にはなつかしい響きを感じられるのではないでしょうか。
 私たちの若き頃、少し遠方へ出かけるときには必ず汽車に乗って行きました。この場合の汽車とは蒸気機関車に牽かれた列車を指し、唱歌や童謡にも汽車を唄った曲がいくつもあり、蒸気機関車のリズミカルな排気音を擬した「シュッ、シュッ、ポッポッ」が歌い込まれています。
1955年当時、幹線である東海道本線でさえも全線は電化されておらず、他の路線は一部の例外(都市部や長いトンネルのある区間)を除いて電化されていた路線は少なかったのです。
このような時代、汽車はまだ鉄路の王者の風格を保っていました。
前置きが長くなりましたが写真をお目にかけることにしましょう。



雪晴れの驀進1960年  陸羽東線
学校の卒業を前にして学生仲間と共に東北地方へささやかな旅行に出かけたときに乗車している汽車の窓から撮りました。
  
大正生まれの名機関車C51型     1960年 新庄
前記の旅の途中、新庄で乗り換え列車を待つなか構内で待機中の185号機を撮りました。
C51型は大正末期から昭和初期にかけて281両造られ、優れた性能故、特急列車をはじめお召し列車にも使われました。

最果ての駅に着いた汽車    1963年 稚内
初秋の北海道に出かけ、札幌から夜行の汽車で稚内に行きました。近くを観光し、帰りの急行(右側のディーゼルカー)に乗る前に撮りました。機関車は大正生まれの9600型です。

峠を越える上りの汽車   1963年 狩勝峠
当時の根室本線は狩勝峠を越えて行きました。峠の上にはトンネルと信号所があり、信号所で は上り下りの列車の交換をします。また、一部の旅客列車では旅客の乗り降りもできました。
この峠を越える汽車は機関車を2台使い長い勾配に挑みました。
この風景を見て次のような童謡を思い出しました。
「お山の中ゆく汽車ポッポ ポポポポ黒いけむを吐き シュシュシュシュ白いゆげ吹いて 機関車と機関車が前引き後押し なんだ坂こんな坂 なんだ坂こんな坂 登りゆく....」なんとも情緒な感じがしますが、機関車の乗務員は必死の思いで汽車を走らせていたことでしょう。
 

峠を越える下りの汽車     1963年 狩勝信号所
先の貨物列車とは反対方向から峠を登って来た旅客列車で、機関車は前方に2台付けています。
信号所で対向列車と交換します。なお、機関車は前の写真ともD51型です。

勇払原野を行く汽車      1963年 千歳線
広い勇払原野を横切って炭山に戻る石炭列車。この線には多くの石炭列車が往復していました。
この牽引機関車は大正生まれの貨物用機関車9600型です。

湖畔を行く汽車     1967年 函館本線
この時代でも北海道では汽車が頑張っていました。大沼駅近くで撮り、機関車はD51型です。

峠を登る汽車     1967年 龍が森
東北地方の花輪線は峠の駅 龍が森(現安比高原)を越えます。ここでは上り下りの列車の交換も行います。この汽車は補助機関車を後ろ向きに付けて後押しをさせています。
機関車は大正生まれの旅客用機関車8620型です。

重連で峠を登る汽車     1969年 龍が森
 先の汽車と反対方向から峠を登る汽車ですが、機関車は前方に2台付けています。
ここに見る貨車は今では見られなくなりました。機関車は同じく8620型です。
  
D51型の1番機     1969年 大館
D51型機関車は今でもデゴイチと呼ばれ人気があり、1936年以降1115両も造られました。
そのトップナンバー機関車に偶然に大館駅で出会いました。
なお、この機関車は現在京都の梅小路蒸気機関車館に保存されています。


 次回も引き続き汽車のある風景をお目にかけることにしましょう。
  

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