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チンチン電車 その1

まえがき

 「チンチン電車」とは、かって市街電車に運転手と車掌が乗っていた頃、車掌が運転手への合図に使う信鈴の音または電車が街中を進むときに鳴らす警鐘の音が語源と聞いております。
 私も学生時代に都電を利用していましたが、信鈴が使われていて「チンチン」はGO、「チン」はSTOPの合図であったと記憶しております。
 今回ご覧に入れますチンチン電車の風景は車掌が乗っていた頃に街かどで撮ったものです。したがって、当時の建物や自動車が必ず写り込んでおりますので、当時の雰囲気をなつかしく感じていただければ幸いです。

 東京都電について

 日本でチンチン電車の最大の路線網を有していた東京都電は最盛期に、41系統延べ・200qを超える路線長、1000両を超える電車で一日100万人の乗客を運んでいました。今では近代化された荒川線だけが残され、他の路線は全部廃止になりました。このような訳で都電を優先的に取り上げてみました。

慶日の三宅坂     (1959年    11系統)
旧塗装の都電でグリーンとクリームの2色で塗分けられていました。この頃までが都電の華やかな時代でした。電車は左が6000型、右が7000型で共に新宿駅ゆきです。
この写真を撮りました数時間後に皇太子と美智子妃の馬車列がこの場所を通り過ぎました。

東京駅丸の内南口     (1969年    31系統)
 クリームにエンジ色の帯の新塗装の車体は街中では目立つ存在でした。電車は3000型三輪橋ゆきです。
左端は東京中央郵便局、正面は旧丸ビルです。

市ヶ谷駅前    (1969年   12系統)
駅前の橋を渡り、左側へ曲がろうとする6000型新宿駅ゆきの電車です。
この日は元旦で電車には日の丸が掲げられています。背景の建物には今でも残っているものもあります。

志村線のさようなら電車     (1966年   41系統)
志村線の最後の日「さようなら志村線」の車体幕を掲げて中仙道を下る6000型志村橋ゆきの電車です。
背景には今では珍しくなった浮沈式のガスタンクが2基望まれます。

 
銀座教会     (1966年   17系統)
今も存在する銀座教会前ですれ違う8000型数寄屋橋ゆきと池袋ゆきの電車です。この電車は軽量に造られたので加減速に優れていました。 

仁丹塔へ向かって  (1969年  24系統)
今浅草ではスカイツリーが建設中ですが、かって浅草には寺院の塔のほかにも象徴的な塔がありました。
古くは俗に十二階と呼ばれた「凌雲閣」、その後は写真に見られる仁丹塔が1986年まで立っていました。
電車は4000型須田町ゆきです。

中央通りを行く     (1969年    19系統)
中央通りは、沿道に有名企業の本支店、老舗商店や百貨店が並び上野ー銀座ー品川を結ぶ都電の中では第一級の街路です。このため1系統をはじめ多くの系統の電車が通る華やかな線路でした。俗に言う「電車みち」とはこの街路の華やかさを指して呼ばれたのではないでしょうか。
写真は神田今川橋あたりの風景で遠景は神田駅のホームです。電車は3000型八重洲通ゆきです。

深川の風景     (1970年    28系統)
この時期、深川には貯木場や木材加工工場が幾つもありありました。写真は仙台堀川に架かる豊住橋を渡る電車ですが型式や行き先はわかりません。この辺りは地盤が低いため橋を渡るには坂を登らなければなりませんが、これは今でも変わりません。

玉電の風景     (1966年    東急玉川線)
東京には都電のほかにも市街電車がありました。それが東急玉川線で昔は都電の路線に乗り入れていたそうです。写真は玉川通り三軒茶屋付近の様子で電車は次々にやって来ます。左が30型、他は80型です。

いも虫電車     (1966年    東急玉川線)
前の写真とほぼ同じ場所でしばらく待っていると200型と呼ばれる丸味のある電車がやって来ました。その姿からこの電車にはいろいろなアダナがつけられ「いも虫」もその一つで、他には「たまご」、「ペコチャン」などと呼ばれていました。この電車は小さな車輪を採用し他の車両より床を低くしてあるので停留所での乗り降りが容易な構造でした。


次回は、チンチン電車その2として他の町の市街電車の風景をお目にかけましょう。  


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