久我山昔話



    久箇山村
  それは、それは久我山の340 年前の事じゃつた。久我山稲荷神社の
  西側に光明寺と云う寺があった。


 
神社と寺の間に坂道が有って、 元坊坂(もとぼうさか)と呼ば れておった。 〔今でも、長老は
「モトボーザカ」と呼んでい
る〕

光明寺第四世の宥慶和尚が、寛 文十二年(1672)に亡くなった ため、供養碑が作られたそうだ。
供養碑には、「久箇山村」と彫 刻され、今も久我山 4 丁目 50 番 8 号の墓地に安置されてい るんだとさ。(平成 21 年 8 月 8)


元禄の久我山
昔、久我山東自治会の地域は、「東ノ原(ひがしのはら)」と呼ばれ
ておった。元禄(1688~1704)この広い土地に、秦家一軒と小作家一 軒の二軒しか、住んで居(お)らなかった。
現在の秦家・小作家は、共に18 代目になる。
5丁目 9番の庚申塔(1722)には、秦野友右ヱ門の苗字(みょうじ)が 刻まれており、秦家は、秦野家だったんだ。(秦 正吾さん談)(平 成25 年2月 49)







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