久我山昔話





     

岩通通り
昭和 13 年(1938)に岩崎通信機が設立され、軍需用通信機を製造し た。久我山会館前から岩通までの新道路(現:岩通通り)は畑をつ ぶして出来たんだ。 (大熊錠相さん談)農道に比べ幅広道なので、テ ニスが出来る様な大通りだと陰口もたたかれた。玉川上水には荷 車の通れる樋口橋が有ったが、自動車も通れる木造の岩崎橋を造 って、 その後、樋口橋は取り壊した。昭和 29 年に杉並区は、木造 の橋をコンクリートに造り替えたぁんだ。(平成26 年12 月 70 と 平成 30 年9月 115を編集)


久我山病院
みすず寮(杉並区久我山 1-5-10)の所に、岩崎通信機(株)の付属病 院として、昭和19 年(1944)に設立した。現在の病院の所は、結核 病棟の建物だった。病室は、畳敷きで火鉢の暖房だった。久我山に B29 爆撃機が、墜落した時の米兵を治療をしたカルテが有った。 東 院長・三輪事務長・藤田婦長・生越義信理事長のメンバーで開設された。70 年以上前の事だった。(生越仁子さん談)(平成30 年8月 114)


警防団
戦時中に、住民から選ばれた警防団があった。
木造 2階建の高井戸第二国民学校〔現 高二小〕の屋根に小屋を造 り警戒警報発令になると警防団員が登り、旗を振ったのだ。B29か ら見ると爆弾を落す、標的になったのでは ---。
昭和 19年12月3日、学校周辺に2 発の爆弾が投下され死者が出 たんだ。(平成 30年3月 109)







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