久我山昔話






元坊坂(もとぼうさか)

神田川に架かる宮下橋〔久我山3丁目 35 番先〕を北に向うと久我 山稲荷神社の脇に急な坂が在る。
砂利道の頃に坂をリヤカーで下り、止まりきれず坂下の理髪店へ 突っ込んだ人が居た。 坂を挟んで西側に光明寺と言う寺が有った が、江戸時代の半ば頃に、どんど焼きの飛び火で焼けてしまい、 今 は無い。
寺が有ったので、この坂を元坊坂(もとぼうさか)と呼ぶようにな った。 今でも古老の間では、呼んでいる。 標識でも建て置かないと 忘れられてしまう坂名だろう。(平成 23 年4月 27)


新道と踏切
昭和のはじめの頃の事じゃった。
久我山の真ん中に新道を造る事になった。それは、それは広い道幅 の5間〔約9m〕道路だったので、みんなビックリしおった。東は 庚申塔から、 西は大熊稲荷までの380間〔約700m〕の新道じゃっ た(久我山街道、現在の人見街道) 。
ところが鉄道〔今の井の頭線・昭和 8 年開通〕を通す話も始まっ て、 秦治郎右衛門さん〔今の久我山5丁目 10 番〕の所に踏切を造 るから、踏切に架かる部分のコンクリート土留は造らない事にな った。
鉄道の土地買いが始まって、畑より田んぼの方が安かったので、 秦 さんの所に踏切を造るのをやめて、田んぼに線路が敷かれてしま った。(久我山駅は田んぼの上に出来たのだ)
秦さんは、踏切を造るため土留をやめていた場所に、コンクリート 土留 〔戦後昭和30 年頃〕を造った。だから旧枠と新枠の違いが今 でもはっきり残っているのだとさ。 (平成 21 年3月 3)






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