ファンタジック長編小説 少女コビの千年ワープ
窪田登司
 
「コビちゃん、起きなさいよ。コビ、先生がにらんでるよ。ほらっ、知らないから・・」
うしろの席に座っている新里麻美が小声でコビの背中をトントンと叩きながら言ったが、コビはさっきから、うとうととして、ついに顔を机に沈み込ませて寝込んでしまったようだった。
「・・小宮山!起きろ!いまは昼寝の時間じゃないんだ、数学の時間だぞ!」
ついに先生の大声が出た。
 小宮山成美。小宮山の小と成美の美で、コビとみんなから呼ばれている。小顔で可愛く、くりっとした大きな目が愛らしいとクラスでは人気者である。数学の先生は恐いので、みんな背筋を伸ばして、真剣に授業を聞いている。
 起こされたコビは、その大きな目をこすりながら頭をかきながら周りを見渡した。ふだん仲良しにしている友達は<いいから、いいから気にしないで>というように、目配せをしていた。
「聞いてないと分からなくなるぞ!それとも寝ながら先生の話を聞いていたのか」
どーっとクラスの笑い声が響いた。
「先生、コビは天才なんです」
うしろの方から誰かが大きな声で言った。
「聞いてなくても、分かるんです。コビちゃんは」
また誰かが言った。教室中がざわざわしてきたのを制止しながら、先生は、
「じゃ、ここのxはいくらだ、分かれば今日のところは許してやろう」
と、先程からやっていた問題の答えをいきなり求めてきた。分かるわけがない、というように黒板をとんとんと叩いて言った。
「xの2乗が5だから、結局プラス・マイナスルート5です」
コビは何食わぬ顔で答えた。クラスがまたどーっと騒めいた。「どうしてわかるんだよう」とか、「だから天才だって言ったんだ」、「寝てても分かるエイリアン」とか口々に叫んでいる。
 
 コビは寝ていたのではなく、じつは校長室に行っていた。
「いいえ、ぼくは絶対に子供をはねてはいません。みんなの誤解です」
同じクラスの慎吾が懸命に校長と教頭、担任の先生、それに昨日夕方、自転車で跳ねられたという幼稚園児の母親の4人に無実を訴えている。
「じゃ、なに、ウチの子がウソを言っているとでもいうの!交差点で何人もの人たちが見ていたのよ、ウソつきはあなたでしょう!最近の中学生はこれだから困る!」
母親はヒステリックに慎吾に食ってかかっていった。子供が膝を擦り剥いてケガをした、見舞いにも来ない、場合によっては慰謝料の請求も辞さないと、学校に乗り込んだのだ。
「まあ、まあお母さん、落ち着いて下さい。・・慎吾君、さっきから同じことの繰り返しばかりだが、どうして素直にごめんなさいと謝れないんだね。君が自転車でひっかけて転ばしてのは、みんなが見ていたから事実なんだよ。謝りさえすれば、これ以上君を責めたりはしないから、正直に言い給え」
教頭先生がうんざりしたような表情で、握りこぶしを机の上にとんとんやりながら言った。
「絶対にぼくじゃないんです。交差点で黄色になったのを飛ばして渡ったのは本当で、ぼくが悪いと思いますが、男の子が飛び出してきたので、それをさっと避けて渡ったあと、その男の子が突然泣きだしたので、後を見たら転んでいたんです。そしたら、みんながぼくが自転車で転がしたように言って、ぼくを捕まえたのです。あの子にもう一度ちゃんと聞いてみて下さい。絶対に自転車はどこも触れてはいません」
 必死になって説明しているところに、いつの間に現われたのだろう、コビがドアのところに立っていた。
「校長先生、慎吾君はウソを言ってはいません。本当にあの子は一人で転んだんです。昨日夕方わたし偶然にその現場をビデオに撮っていましたので、見て下さい」
「君、きみ、いつの間に入ってきたのだね。ここは校長室だよ。無断で入ってきてはいかんよ」
いきなりつっ立っているコビを見て、校長はどぎまぎして言った。
「すみません、でも慎吾君があまりに可哀相なので、さっき、昨日に行ってきて・・」
「昨日に行ったって、どういう事だね。おかしな事を言うでない。・・君は確か、2年E組の・・」
と、今度は教頭が口を挟んだ。
「はい、小宮山成美です」
コビはちょこんと頭を下げて、持っているビデオテープを無造作に担任に渡した。
 校長と教頭はちょっと困惑したが、母親の方を向いてどうしたものかと相談し、結局校長室にあるビデオデッキで見てみることにした。・・慎吾が走ってくるところも、男の子が飛び出した瞬間もきれいに映っている。慎吾はさっと男の子を避けて通っている。しかも男の子のうしろを避けているので自転車が邪魔で転んだのでもないことがはっきり分かる。どこも自転車は触ってない。見事な運動神経といえる動作だ。あっけに取られた母親は、信じられないという表情で、二、三度ビデオを巻き戻して見ていたが、納得して校長と教頭に向かって、さっきとは打って変わって丁寧に言った。
「そうですわねェ。・・ウチの子が一人で転んだようですわねェ。・・慎吾さん、ごめんなさいね。疑ってしまって・・校長先生、お騒がせしてすみませんでした。・・それにしても、あなた・・」
と、コビに何かを言おうとして振り向いたが、その時すでにコビの姿は校長室にはなかった。
 
「小宮山君、xの値が分かったからといって、居眠りをしていいわけではないぞ。今後気をつけなさい」
「はーい」
明るく答えたそのとき、校長室から解放された慎吾が教室に戻され、入ってきた。コビはほっとした表情の慎吾に、あまり上手ではないウインクをした。
「・・沢田慎吾君、話は担任の先生から聞いていた。今日の授業は重要なところだったから、家でよく勉強しておくように。・・今日はここまで。残りの問題は宿題だ。あさってノート提出!」
 いつものように疲れる授業が終わった。
・・休み時間に慎吾は友達にわっと囲まれ、校長室に呼ばれたことを根掘り葉掘り聞かれ、無実であることが認められたことを得意げに話していた。
 
「ただいま!」
 必修クラブのあと、自主クラブのテニス部の練習で遅くなって、コビが帰宅したのは夕方7時前になっていた。玄関を入るなり、ママが真っ青の顔で出てきた。
「成美!、お父さまが大変なの!」
「え、どうしたの?交通事故にでもあったの!」
あまりにふだんと違う様相にコビはびっくりした。
「お父さまの美術館のローナ・ロッソの<橋の見える家>が盗まれたの。テレビの速報で出てきて知ったんだけど、すぐお父さまから電話があって、美術館では今、大騒ぎだって。今日は帰って来れないだろうって言ってたわ。館長という責任あるお仕事なので、・・もうどうしたらいいか・・責任取って辞めさせられるかも知れない・・」
 おろおろするママだったが、コビは交通事故で入院なんて事でなくてよかったと内心ほっとして、まだ靴も脱がないで、玄関に突っ立っている自分に気が付き、靴を揃え、カバンを抱え直して落ち着いて言った。
「<橋の見える家>、って大きさは6号くらいだったわね。よく持って行ったものね」
「感心している場合じゃないわよ。・・まだ詳しいことは分からないけど、ニュースではモルディングやガラス、マットなどはそのままで、中の作品だけを偽物と入れ替えてたそうよ。だから盗まれたのが分からなかったんだって。今日5時に閉館後係の人が見回って、何かおかしいと気が付いて、調べたら精巧に創られたイミテーションだったそうよ」
「じゃ、いつ入れ替えたか分からないのね。・・とにかく詳しいことを聞いてみなくちゃ」
「成美がそんなこと言ったって仕方がないでしょう。警察に任せておきましょう。お父さまも今頃調べられているわよ、きっと。あー、大変だ。・・いずれにしても今日は戻って来ないかも知れないから、夕食にしましょう」
・・いつもなら、7時ごろは三人揃って団欒しながらの夕食のはずが、突然の出来事のため、二人は無言のまま、いそいそと食事を済ませた。ママは後片付けの時も、テレビを付けたり、ニュースをやってなかったら、すぐ消したり、また付けたり、すっかり落ち着きをなくしていた。
 コビは宿題をするからと言って、自分の部屋に入り、三十分前の美術館にタイムワープした。
 
 美術館は地元の警察署だけでなく、警視庁の防犯課の調べ官、それに報道陣などでごったがえしていた。
「報道陣の方々はB会議室で待機していてください。ある程度の事情が判りしだい記者発表しますから」
と、大声で怒鳴っている。美術館勤務の関係者全員、もう七時前だというのに誰も帰宅させてくれない。普通は5時閉館で、その後、持ち場の仕事を済ませれば6時過ぎには帰宅できるのに、堪念したようにみんな警察の取り調べに応じていた。
 コビは美術館の職員の集まっている所にすっと現れた。しばらくして、コビに気が付いたのは、事務員の三條奈穂だった。館長のお嬢さんということで、ほとんどの事務職員はコビのことを知っているが、特に奈穂は<奈穂姉ちゃん、コビちゃん>と呼び合う親しい間柄になっていた。新しい美術品が入ったら、きまってコビは奈穂に案内されて、詳しく説明を受けたり、そのあとでお茶をご馳走になっておしゃべりするのが楽しみだった。
「あら、コビちゃん、どうしてここへ?」
「学校の帰りに寄ったら、大騒ぎしてたので、もぐりこんじゃった」
くすくすと笑ってみせた。辺りをきょろきょろ見渡したのを奈穂はすぐ感付いて小声で言った。
「お父さまは向こうの部屋よ。ひとりづつ呼ばれて警察にいろんな事を聞かれているの。わたしはまだよ。・・大変なことになっちゃった」
「大丈夫よ、わたしがきっと犯人を見付け出してやる!」
きりっとした目付きで、さらに辺りの人を見渡した。
「コビちゃんにそれができれば、警察はいらないわよ。・・あのね・・」
小声で奈穂は耳打ちした。
「あのね、犯人は内部に詳しい人かも知れないって・・」
「いわゆる内部犯行ね・・」
「そう・・」
 その時、館長の小宮山達造が頭をうなだれて、悲痛な面持ちで調べ室から出てきた。奈穂がすぐ駈けより、コビが来ていることを指差しながら告げた。
「なんだ、成美。こんなところに来るんじゃない!どうやって入ってきたんだ。誰も入れないよう厳重に警戒しているはずだぞ!」
「ごめんなさい。・・もう時間だから・・わたし帰る。そうしないと帰れなくなっちゃうから」
「何を変な事を言ってるんだ。・・三條君、すまんが玄関まで娘を送ってくれないか、警察には事情を話せば通してくれるだろう」
「はい、かしこまりました。・・コビちゃん行きましょう」
奈穂は丁寧にお辞儀をしてコビの手をとった。・・
「パパ、一つ聞きたいんだけど、<橋の見える家>は、確かニューヨークの落札で、偽物騒ぎがあったものだったわよね。もう何年も前のことで、わたしがまだちっちゃかったから、詳しいことは知らないけど、パパがおウチでよく話していた・・」
「そうだ、あれだ。もちろん、この美術館にあるものが本物だったが」
「わかった、ありがとう。・・じゃわたし帰る」
「母さんに、あまり心配するなって言っておいて」
「うん・・」
 腕時計を見ながらコビは急いで、その場から離れるように玄関に向かった。ワープしたその時間までに部屋に戻らなければ、帰るところがなくなるのだ。みんなの前で消えるわけにいかない。急いで奈穂とも別れ、自分の部屋に戻った。
 
「成美、・・また居眠りしてる」
「あ、ママ。・・すっかり寝込んじゃったみたい。今何時?」
「9時過ぎよ」
「本当に寝てしまっちゃった。テレビのニュース・・」
「そう、一緒に見ようと思って呼びに来たら、この始末」
「ごめん、ごめん」
がばっと飛び起きて、コビはすぐ居間のテレビの前に行った。すでに事件は大きく取り上げられ、<橋の見える家>の作者や作風などが解説されていた。
「ママ、この油絵、以前に偽物が現われて、パパの美術館のとどちらが本当のものか話題になったことがあるでしょう。あの時の偽物とすり替えられたのよ、きっと」
「そうかも知れないけど、滅多なことを言っちゃダメよ。お父さまに迷惑のかかるようなことになったらいけないから。・・あ、警察の発表がある」
「記者会見ね。パパも映ってる。・・あの部屋、美術館のB会議室よ。わたし知ってるの」
「成美は小さい頃から、よく行ってたものね。お父さまの部屋がどこにあるかも知っているし、でも、よくちょこちょこして美術館の中で迷子になったこともあったわよ」
「それは昔の話。いまは絶対に迷子にはならない。・・それより始まったわ」
「・・本日6時過ぎ、池の端美術館から警視庁防犯課に入った連絡により、ローナ・ロッソの<橋の見える家>が何者かに中の作品をすり替えられるという事件が発覚した。専門家の調査により模造作品であることが先程判明。ただちに捜査を開始したが、現在のところまったく手がかりは掴めていない。<橋の見える家>は数年前、ニューヨークで模造作品とは知らずに20億円で日本人絵画収集家が落札し、売買されたことがあったが、本美術館にある作品が本物であることで一躍有名になったもの。今回すり替えられた作品が、その時の模造作品かどうかは、まだ確認してない。現在専門家によって鑑定中である。・・」
 たんたんと捜査一課の課長が報告している間中、小宮山は同じ会議室の5、6メートル離れた所の仮設テーブルで汗びっしょりの引きつった顔を時々報道陣の方へ向けていた。捜査一課の報告が終わると、一斉に記者団は小宮山達造の方に向いた。
「パパだ。可哀相に震えているわ」
 でも、コビは冷静だった。いつ盗まれたのか判れば、すぐにでも取り返してやる!と心の中で叫んでいた。・・記者団の質問が始まった。
「本日6時過ぎ盗まれていた事が分かったということは、今日1日、来館者は偽物を鑑賞していったことになりますね。昨日はどうだったのですか」
「本当に申し訳ありません。わたしどもの管理と警備不十分のため大変な事態になったことを深くお詫びいたします。・・仰せの通り、本日は9時開館、その前に8時30分に職員一同出勤しておりましたので、その後にすり替えられたのではないことははっきりしております」
「じゃ昨夜ですか」
「いえ、昨夜とか、その前夜とか、特定できないのです。なにしろ、気が付いたのが本日だったわけで・・本日気が付いたのは、係が見回ったとき、額がどうも少し傾いているようだというので、係員が直す前に、みんなにその事を告げ、そしてみんなが見ている中で直したのですが、ある係員が絵の具が新しい、こんなに艶があるはずがないと騒ぎ出し、モルディングを外し、ガラスを取って調べますと、バッキングといいまして作品の裏側に敷く特殊な紙があるのですが、それがないのです。そこで初めて私が呼ばれ、作品が偽物だということが判明したのです」
「美術館では小宮山さんだけですか、本物かどうかを見分けられるのは」
「いえ、私のほかにも3名専門配属しております。本日は1名は出張しておりますので、私とあと2人でございます。その一人が本日、絵の具の艶からおかしいことに気が付いたわけです。・・ただし、見るポイントがございまして、その場所さえ判れば大抵どなたでも偽物かどうかは判別できます」
「その専門の3人は、普段はどういう仕事をしている方ですか。今回の事件には直接関係はないと思いますが、念のため教えて下さい」
「修復です。遺蹟などから発見された布片などをつなぎ合わせて元の形にする作業です。布片、木片、壷類、場合によっては人骨までございますが、私どもの2人は主に布片が専門です。普通は博物館で、そういう仕事はやっておりますが、私ども美術館でも国の依頼によって他の機関と共同でやっております。・・」
「いつすり替えられたか判らないのでは困りものですね。一ヵ月前か、一年前か・・」
「申し訳ございません。警察にお任せして、捜査していただくしか・・」
 ここまで聞いていて、コビはふと気が付いた。犯人がすり替えたのは夜だろうから、朝早く<橋の見える家>を見れば、いつやられたか判るはずだ。そうだ!偽物と本物の見分け方をパパから教えてもらおう、発見したら、その夜を徹底的にマークしよう、そう思ったら居ても立ってもいられない気持ちになった。
「ママ、ほんとに今日はパパは帰って来れないの?」
「いまのテレビのニュースでは、ある程度、例の事情聴取というのは終わったみたいだから、帰れるのではないかと思うけど、お父さまの事だから判らないわね」
 ・・テレビでの記者会見をやっている最中も、別室では事務職員の事情聴取が続けられていた。全員が終わって帰宅を許されたのは十一時をすでに回っていた。しかも帰宅時には、何を調べるのかバッグの中まで見られたのには、女子職員はもとより全員が腹立たしかった。しかし、事が事だけに面と向かって抗議する者はいなかった。
 
 次の日、コビはいつもより少し早めに目が覚めた。
「ママ、お早よう・・・パパは?」
「・・」
「ママ、寝なかったの?目が真っ赤よ」
「ええ、起きてた・・」
「わたし、今日はちょっと早くウチを出て、パパの所に寄って行く。パンと牛乳くらい持っていってあげる」
「そう、ありがとう。・・・じつはママが持って行こうかと思って、お弁当を作ったの」
「え?さすがァ。じゃあ急いで支度しようっと」
「そうね、かなり遠回りになるから、そう、三十分は余計にかかるわよ」
 急に忙しくなった。少し早起きしたとはいえ、三十分も遠回りになると、学校にはぎりぎりか、遅れるくらいになってしまう。大急ぎで朝食を済ませ、髪のブロアもそこそこに制服に着替た。
「バスの乗り場わかるわね。ハンカチ持った?忘れ物ない?」
「大丈夫、大丈夫、行ってきまーす」
 コビはすっ飛んで出て行った。
 
 美術館はまだ開いてない。コビは勝手知りたる他人の家で、裏門の職員通路に回った。警備員がいる。警備員は専属ではなく、警備会社への委託であるため、何人かが交替でやっているが、今朝の警備員は前にも二、三度会った事があり、顔見知りであった。しかし普段は一人のはずが、今朝はもう一人いるようだった。
「お早よう、おじさん。小宮山です。父にお弁当持ってきたんだけど、入りますね」
「やあ、お嬢さん、お早よう。・・小宮山館長は昨夜は一睡もしてないようだったですよ。・・じつは昨日の事件で、とても厳しいんですよ。職員以外は入れてはいけないと言われているんです。お弁当、お預かりして、私からお渡しします」
「ありがとう。でも、父にどうしても会いたいんです。元気な顔を見たいんです」
「じゃ、ここへお呼びします」
「・・父に聞きたいことがあるの。お願い、ね、通して。この通り、お願い」
コビは両手を合わせて拝むようにしてみせた。
「・・まあ、お嬢さんだから、いいか。今日は現場検証とやらで、1日臨時休館になってるんです。しばらくしたら、また警察の人が何人もやってくるよ。その前にお帰りになるようにね。・・それから警備日誌にはちゃんとお嬢さんを通した事を書いておきますからね」
「ありがとう、恩に切るわ」
 コビは急いで館長執務室に駈けて行った。2階の奥まった一室である。小学生の頃から来ているので、よく知っている。
 
「パパー」
ドアーを開けるなりコビは叫んだ。
「おー、成美か」
机の前でうつろな目をしてぼーっとしていたが、目の前に飛び込んで来たコビを見て、嬉しさによろよろとしながら立ち上がった。
「パパー」
どんと大きな胸にぶつかってコビは泣きだした。
「パパ、ママがとても心配してた。昨夜ぜんぜん寝てなかったみたい」
くしゅんくしゅんと泣きじゃくり、大粒の涙を拭きながら言った。
「ごめんよ、大変なことになった」
小宮山達造はもう昨日のように興奮してなかった。コビは本当は、また怒られて追い返されるかと半分心配していたのだが、嬉しそうに迎えたのでほっとした。
「パパ、お弁当持ってきた・・昨日から何も食べてないんじゃないかって、ママが」
「そうか、ありがとう。私も全然寝られなかった。・・それにしても、よくここへ入って来れたね。警備が厳重になっているはずだが」
「泣き落とし戦術!」
コビは泣いた顔を笑顔に変えて、お弁当を渡しながら言った。
「すぐ、学校へ行かなくちゃいけないので。・・パパ、一つだけ教えて」
コビは急に真剣な顔付きになって言った。
「何だね、改まって」
「<橋の見える家>の本物と偽物の区別はどこでするの?わたしにもわかる?」
「そりゃ、おまえにも判るけど、またどうしてそんな事を聞くんだね」
「別に・・でもどうしても知りたいの」
「教えてあげよう。・・二つ並べて比較すると、昨日テレビで言ったように、絵の具の艶が違うので、すぐ判る。でも別々に観たのでは、専門の人でないと鑑別できないくらい精巧にできている」
 コビは真剣な顔つきで、ウン、ウンとうなづきながら聞いた。
「で、どこが決定的な違いかというと、ローナ・ロッソのサインなんだ。・・ローナのエルと、ロッソのエルと、エルが二つあるが、はじめのエルの字の上の方が濃い灰色のバックで、あとのエルの字の上部の方が薄い灰色のバックになっているのが本物。ほとんど同じバックの色だと偽物なんだ。これは一目で見分ける非常に重要な部分だ。でも、当てて見る光が、蛍光灯や電球では判りにくく、紫外線を多く含んだメタルハライドランプというビデオプロジェクターなどに使われるランプか、または太陽光がいい・・」
「普通の懐中電灯ではダメなの?」
「ダメということではないが、判りにくいね」
「じゃあ、やっぱりお昼か・・」
「え?」
「いえ、別にこっちのこと。パパ、ありがとう。よーく分かったわ。ゼッタイに犯人を捕まえてやる!」
「おい、おい、成美。おまえがそんな事できるわけないだろう。気持ちは分かるが、警察に任せておけばいい。・・パパはもうどうなってもいい」
「いやよ、そんなの。きっと・・。じゃ学校に遅れるといけないから、わたし行く」
「おまえの元気な顔を見たら急に父さんお腹がすいたよ。お弁当食べよう。・・今日も遅くなるかも知れないから、母さんに、あまり心配するなって、伝えておくれ」
「うん、じゃあね、パパ。元気出して・・」
後づさりしながら手を振って出ていった。
 
 学校に着いたのは8時半ぎりぎりであったが、遅刻はしなかった。朝の学活が終わって授業になったが、コビはすぐ居眠りを始めた。タイムワープだ。
 2日前の美術館、お昼ちょうど十二時。<橋の見える家>の前に立った。天気が良いので明るくよく見える。じっとローナ・ロッソのサインを見た。バックのシャドーが同じ色の灰色だ。偽物だ!
 
「小宮山さん、朝っぱらから居眠りなんかするんじゃありません」
 社会1の日本歴史の時間である。女の先生で、小さな声でたんたんと話すので、この時間は結構居眠りをする者が多い。白羽の矢がコビにきた。
「さっき先生は何を説明したか、言ってみなさい!」
「はい、日本の縄文時代というのは大体九千年くらい前から二千五百年くらい前までを言い、その後、弥生時代になること。縄文というのは、縄を使って・・」
 コビは、よしっ今度は3日前に行こう、と考えながらすらすらと答えた。
 わーっと教室がまた騒めいた。先生は何も言わず、授業を進めていった。
 コビはすぐ居眠りを始めた。3日前の美術館。同じくお昼十二時。その日はツアーで観に来たのか、お客が多く、<橋の見える家>の前にも多くのファンが集まっている。コビは制服のままだし、今頃の時間、なんでここで一人うろついているのだ、という風に皆がじろじろ見ていたが、コビはじっと彼らがそこを去るのを待った。・・今だ!サインを確かめた。光線の具合を角度を変えながらじっくりと観察した。エルの上の灰色が左右同じだ。偽物だ!みんな偽物と知らずに鑑賞して行ったんだと思うと、ますます腹立たしくなってきた。
 
 教室に戻った。うしろの席の麻美が肩をとんとんと叩いて、小声で言った。
「コビ、また寝てたでしょう、先生じろじろ見てたわよ」
「ごめん、ごめん、ちょっとね」
「昨日、テレビで見たわよ。お父さん大変ね。私たちも行ったことがあるよね。池の端美術館。たしかコビに連れて行ってもらったんだ」
「うん、麻美と行ったの、もう半年くらい前かな。ローナ・ロッソの作品、いくつかあるけど、あの<橋の見える家>は特別よね。・・犯人のやつ、どうしても、とっ捕まえてやる!」
「凄い勢いね。・・ねえ、犯人は画商じゃない?」
「そういう事も考えられるけど、まあ、そんな事は言わないことよ。・・偽物の絵は警察が持って行ったから、数年前に問題になった物と同じ偽物だったら、それを持っていた人がいちばんに疑われることになるわよ。その辺から足がつくし、まあ、時間の問題ね」
「そうね。それに、そういくつも精巧な偽物が創れるわけないから、持ってた人が犯人よ。すぐ捕まるよ」
「警察が早いか、わたしが早いか!」
「え?」
「小宮山さんと新里さん、何をさっきから、おしゃべりばかりしているの!教室をうるさくしているのはあなた方ですよ。担任の先生に言い付けますよ!」
「あッ、すみません」
コビと麻美はほとん ど同時に返事をしたので、顔を見合わせてクスッと笑った。
 コビは前を向いて、また居眠りを始めた。4日前にワープした。お昼十二時。かなり人がいる。しかし団体ではないので、人の動きはスムーズだ。すぐ<橋の見える家>の前に行った。じーっとサインだけを見た。あまりに左下しか見てないので、来館者の何人かが不審そうにコビを覗き込んで行ったが、そんな事は気にしなかった。
 左右に差がある。初めのエルの方が濃い、右の方が薄い!これだ!コビはもう少しで声に出して叫ぶところだった。これだ!これが本物だ。よしっ、今夜やったに違いない。明日お昼はもう偽物になっていたのだから。コビはいったん教室に戻った。
 教室では縄文時代の話が続いていた。全国から縄文文化の遺跡が発見されているので、すでにこの頃から日本には先住民族が多数住んでいたことなどが説明されていた。
 コビは4日前の夜8時にワープした。赤々と電気がついている。そうだ、たしか4日前はパパは、会議があったと、帰宅したのは9時過ぎていた、8時頃まで会議があったと言っていたわ、もうすぐ終わるはずだ。そーっともう一度<橋の見える家>を見に行った。誰もいない、がらんとした館内は不気味なほど静かだ。時折、会議をやっている会話が廊下を伝わってくる。ローナ・ロッソのサインを見た。たしかに蛍光灯では判りづらい。しかし、もう本物も偽物も知っているので、すぐ見分けがついた。これは本物だ。今夜中にやられた事はますますはっきりした。高鳴る胸を押さえていったん教室に戻った。
 十時頃に行ってみようか、いや十時や十一時などよりもっと遅いだろう、十二時過ぎてから犯行に取りかかるに違いない、いやいやガードマンが見回る時間は決まっているから、その合間をぬってやるだろう、ということは時間的には、そう夜中にするとは限らない、何時頃へ行こうかなど、いろいろと考えているうちに、また居眠りを始めた。
 4日前、夜十二時。すーっと<橋の見える家>の前に行った。確かめたいが、非常口を示す常夜灯が鈍く灯っているだけで、室内は真っ暗だ。耳を澄ませて辺りの気配を探ってみたが、まったく物音一つしない。シーンとしている。そうだ、あれだけの取り替えをやれば床にゴミくらい落ちていくに違いない、それで判る!パパから懐中電灯では判別は難しいと言われていたが、一応ペン型の小型懐中電灯を持ってきた。絵の下を丁寧に照らしてゴミが落ちていないか探した。かなり時間をかけて念入りに探したが異常はない。きれいだ。いつもピカピカに磨きあげている床には塵一つ落ちてない。
 まだなんだわ、いつ来るんだろう、来るなら早く来て!焦りにも似た気持ちで懐中電灯を切ったちょうどその時、こつこつと靴音がした。だれか来る!教室に戻ろうか、いや犯人かも知れない。とっさに辺りを見渡して身を隠すものを探した。休むためのベンチ、いやソファーがある。その後に回り込んで隠れた。大きな手提げ電灯を揺らしながら、展示室に入って来た。ガードマンだ。別に室内を調べるでもなく、慣れた手つきで、入ってきた反対の出口の柱の蔭にあるボックスに、ちゃらちゃら鳴らして持っていたキーを差し込んで回して、引抜いて出ていった。何時何分に見回ったという証拠が記録されるシステムである。
 なーんだ、ガードマンか。出て行ったあと、ほっとして、そのソファーに座り込んだとき、外で車の音がした。何だ!今頃!いよいよか、いやちょっと待てよ、犯人なら車で乗り付けて音を立てて入ってくるわけがない、ガードマンの友達が一杯やろうとでも言って駄喋りにでも来たのか、とにかく調べてみよう。そーっと廊下に出て、階段を下りて、ガードマンの部屋の方に行ってみた。美術館の裏口の方である。車もそちらの方に止まった様子だった。
 壁に身をひそめながら、だんだんと近付いて行った。「ピンポーン」、裏口の職員専用の、ガードマンなどが出入りする入り口のチャイムがなった。そういえば、今朝パパにお弁当を持ってきたとき、このチャイムを鳴らした。・・しばらくして、2階の方からガードマンが下りてきた。
 入って来たのは老紳士一人である。ネクタイはしてないが、きちっとしたスーツの身なりは、どことなく品のあるハイクラスの人であることは、すぐ分かった。しかしコビは見たことのない人だった。
「あなた一人だね。だれもいないね」
老紳士は低い声の落ち着いた口調でガードマンに言った。
「ああ、・・」
ぶっきらぼうにガードマンは答えた。うしろ向きなので顔は見えない。
「約束の五百万円だ、受け取りなさい」
風呂敷で包んである四角っぽい包みを渡した。ガードマンは無造作に、しかし、やや手が震えているようだったが、包みを開けて中を確かめた。男の人の片手で持てる大きさだが、札束を5つ数えた。買収だ!あんな人がガードマンを!怒りに震えて飛び出さんばかりだったが、捕まったら教室に戻れなくなる。
「じゃ、わたしは上に行くが、あなたは普段の通り仕事をしていればいい」
 言葉少なく紳士は抱えていたもうひとつの大きな包みを持ち直して、さっと階段の方に歩き出した。ガードマンは大金を手にした喜びからか、ニッと笑って奥の部屋に持って行った。はっきり顔が見えた。今朝いたガードマンのおじさんの方ではない、もう一人の若いガードマンである。あいつだ!平気な顔をして今朝はいたのに。
 コビはそのすきに素早く外に出て車のナンバーを控えた。街頭に照らされた立派なベンツはピカピカに磨き上げられている。3階の<橋の見える家>のある展示室の明かりがついた。堂々とやるつもりなのだ。コビはガードマンに見られないように隠れながら、階段の方に急いだ。ガードマンは見回り時刻ではないため、深夜テレビを愉快そうに見ていた。
 展示室をそーっと開けて中を覗いた。やってる!裏板を外し、下敷き紙と一緒にアートワークを取り出したところだった。・・持ってきた偽物とすり替えた。
 その時、コビは果敢に飛び出して叫んだ。
「あなた!私をよーく覚えておきなさい!」
 突然、少女が目の前に現われたので紳士は腰を抜かして尻もちをついた。アワワワ、紳士は何を口走ったのか、初めは判らなかったが、やっと、顎をガクガクさせながら言った。
「お、お、お前は、だ、だ誰だ!」
「あなたこそ誰よ!いいわ、とにかく私をよーく覚えておく事ね!いいこと!」
きりっと睨み付けて言い終わるやいなや、階段の方に脱兎のごとく走って、さっと身を隠し、教室に戻った。
 
・・・・顔を上げると汗びっしょりで、ハアハアと息を弾ませていた。
「どうしたの、コビ・・夢でも見てたんでしょう」
「あー、麻美。そうじゃないけど、恐かったァー」
 授業は縄文時代に使っていた石斧や石の槍、石皿などの話であった。
 
 休み時間になった。コビは急いで校門の近くにある電話ボックスに飛込み、美術館に電話をした。警察がきているため、電話は遠慮して下さい、という返事であったが、父にどうしても話をしたいと取り次いでもらった。
「あーパパ、お弁当食べた?」
「おお、成美か、いただいたよ。おいしかった。この弁当がなかったら、私はもう倒れていたところだよ。外に買いに行くわけにはいかないし。ありがとうよ」
「よかった。・・ところで犯人分かったわよ!」
「何を言うんだ、冗談言っちゃいけないよ。父さん、いま忙しいんだよ」
「分かってる・・よく聞いて・・あのね。これから言う車のナンバーを調べるように警察に言って。その車の持ち主が犯人なの。・・神奈川33む4587、メモした?」
「あー、神奈川33む4587だね。でもどうしてそれが・・」
「とにかく調べてもらえば判る。神のお告げとでも言っておいて」
「また冗談を言う」
「ごめん、ごめん、本当なんだから・・場合によっては、わたしがその人と会ってもいいと言って。その人、きっとコビをみたら、びっくりするわよ、腰を抜かすよ」
「よしよし、一応警察に言っておく。じゃ、父さん忙しいから・・」
「ちょっと待って!もう一人共犯がいるの。・・今朝、私がそちらに行ったとき、通用門に警備の人が二人いたわよね。おじさんではない、若い方の人、あの人が買収されたの」
「おいおい、買収だなんて、只ごとではないぞ。どうしてそんな事が分かったんだ」
「神のお告げ!・・ではなく、わたしが調べたの。とにかく、お願いね。あのガードマン、大金を持ってトンづらしたら、面倒なことになるから」
「あの二人は夜勤だったから、もうすでに帰宅したよ。・・じゃ、すぐ警察と警備保障会社に連絡をとって事情聴取の形でもう一度調べてもらおう」
「ありがとう、パパ。ガードマンは若い人の方よ、よくって」
「よしよし」
「じゃーね。バイバイ・・」
 胸がすーっとした。これでいい、あとは警察がきちっと調べてくれれば、犯人は白状するに決まってる。白状しなかったら、出ていって面と向かって怒鳴ってやる!コビは意気揚揚と教室に戻って行った。
 
・・・その日のうちに逮捕というスピード解決であった。犯人の老紳士は案の定、数年前、ニューヨークで偽の<橋の見える家>を落札した絵画の収集家であった。その後、偽物であることが分かってからというもの、毎日毎日、本物が欲しいという思いがつのる一方で何度も池の端美術館に来て、いつかは取り替えようと狙っていたそうである。いずれは偽物と見破られるだろうに、という警察の調べに対して、<自分でも分からなかったのだから、誰も分かるはずがない>、という甘い考えが犯行をうながしたと翌朝の新聞に載っていた。さらに決定的な証拠品として、バッキング下敷き紙が車のトランクの中から発見されたという事であった。
 供述書には、犯行現場で少女の姿を見たとあるが、誰もそんなことは信じてはいなかった。
 
「起立!起用つけ!・・・礼!」
「お早ようございまーす」
 ちょうど、あれから一週間が過ぎた。社会1の日本歴史の時間である。縄文時代から弥生時代になった。
「弥生時代というのは二千三百年くらい前から千七百年くらい前までの、約数百年の間を言います」
「先生!縄文時代は何千年という長い期間があったのに、どうして弥生時代は数百年と短いのですか?」
誰かがうしろの方から質問した。
「それは、弥生時代になると、急速に大陸からの文化が日本に渡ってくるようになり、日本が発展したからです。その頃は日本は倭と呼ばれていました・・稲作が始まったのは、この弥生時代からです。そして耶馬台国ができたのは弥生時代後期です・・」
 今日は、いやに皆んな静かに、教科書を広げて勉強をしようという気になっているみたい。いいことだわ。・・今度はうしろに座っている麻美が質問をした。
「先生、この間、テレビを見ていたら、吉野ヶ里遺跡のことをやっていましたが、耶馬台国は吉野ヶ里にあったんですか?」
「耶馬台国は大和とも読めるところから、九州にあったという説と奈良県を中心とした近畿地方にあったという説があります。先生は中学校の時、近畿説が正しいと習いました。でも、古代史は分からないもので、畿内説と九州説が一般的です。そして実際どこに耶馬台国があったかは定説はありません。九州の場合、博多付近という説や、いま新里さんが言った吉野ヶ里などいろいろです」
<今日の内容は予習してきたから、全部わかっているつもりだけど、日本の起源にかかわることだし、面白い!そうだ!いつもパパが言っていた女王卑弥呼について聞いてみようか。パパも昔は卑弥呼は天皇の一番最初で、天照大神だと習ったと言ってたわ>、コビはさっと手を上げて質問した。
「先生、耶馬台国の女王の卑弥呼は天照大神の事なんですか?」
「そういう説もあります。神武天皇よりもっと前の、最初に日本を支配した神、それが女王卑弥呼だというわけです」
 よしっ!行ってみよう!そう思い立ったら居ても立ってもいられなくなった。
「卑弥呼が国を支配していたのは、教科書には西暦239年前後と書いてありますが、これは間違いないんですか?」
「それは魏志倭人伝という中国の文献にきちっと書かれている事なので、間違いない史実だとされています。その頃中国の魏と、当時の日本は倭と呼ばれていたのですが、その倭とが使者を送って、互いに行き来していたことが詳しく書かれています」
<へえー、今から千八百年も前か、行けるかなー>
 コビは更に続けて質問した。
「先生!卑弥呼が女王になったのは、いつなんですか?」
「それははっきり分かりません。魏志倭人伝にもはっきりと年代を書いてないからです。でも倭の国の内戦が収まったのは西暦189年頃という中国の別の文献があるので、それと卑弥呼が関係あるかも知れないですね」
 よしっ、西暦190年に行こう。そして卑弥呼が天照大神かどうか確かめて来よう。場所は?そう吉野ヶ里だ!
 コビは教科書を読んでいるような格好をしてうたた寝をし始めた。
 
 見渡す限りの広大な田んぼが拓けている。習った通りの稲作だ。しかも弥生時代の、もう後期に入っているので、田んぼも区画整理されて、きちっとしている。・・でも人がいない。いったいどこにいるんだろう。シーンとして、まさに水を打ったような静けさだ。世界中で、人間はコビだけみたいな錯覚さえした。真っ青な透き通るような空。飛行機でも飛んでくれないか、おっと今は弥生時代だ、飛行機があるわけがない。ピーヒョロロ、とんびだ!この時代からちっとも変わらない。カラスもいる、雀だ!千八百年も前なのに少しも変わらない。何だか懐かしい気持ちにさえなってきた。でも民家が全然見えない。・・淋しい・・体がゾクゾクッとした。・・恐い・・帰ろうか。
 その時、遠くでオーオーという人の声がしたようだった。耳を澄ますと、遠くに見えるちょっと小高い丘の方から聞こえる。そちらの方に行ってみた。田んぼに水を引く水路に時々足を滑らせて落ちそうになりながら近付いて行った。まだ川といった大きさではない幅の狭い水路だが、覗き込むとメダカやフナなど魚が泳いでいる。かなり深そう、落ちたら大変だ。畔道を進んで行った。
 近付くにつれて、人の声ははっきりしてきた。丘は思ったより急な坂になった。太陽の位置と影の方向から考えて、北側から登っているようだ。・・登りきって草木の蔭から覗いてどきっとした。南側斜面はなだらかな広がった住居、集落があった。
 しかしよく見ると周りに柵があって、その中にはかなり大きな火の見やぐらのような建物と、地面から一メートルほど高い床の藁葺き屋根の建物、多分倉庫だろう、これが6棟整然と並び、それに住居とも神殿とも見える立派な建物が中央にある。柵の入り口は南側に一ヶ所あるだけだ。そして集落は柵の外にある。学校で習った竪穴住居だ。数十軒はある。
 柵の中には入れないので、柵に沿って南側にそーっと回ってみた。人の声は柵の中からする。集落がはっきり見えるようになった。人もいた。四角い布の中央をうがって頭からすっぽりかぶったままの着物である。男か女かよく分からない。・・いや体つきから女性だ。背丈は小さい。髪の毛は長く伸ばし、うしろで縛っているだけだ。子供もいた!布を体に巻き付けている。その子供を連れて竪穴住居の中に入って行った。どうして、こんなに多くの住居があるのに、人がいないんだろう。いや、いるんだろうけど、住居の中に入ったままなんだ。でもどうして、・・あれこれ考えていると、柵の中のオーオーと言う声が止み、チャラチャラと金属を打ち鳴らす音が聞こえてきた。何をやっているんだろう。お祭りかナ、まさか、こんな昼ひ中からお祭りはないわよ、自問自答しながら、更に柵の入り口の方に回って行った。
 門番がいる!二人だ。さっきの女性のような頭から布をかぶっているのでなく、子供がまとっていたように体に布を巻き付けているだけの着物だ。袖とか裾などはない。手には槍のようなものを持っているが、木製のようである。
 中で何をやっているのか聞いてみよう、コビはせっかく千八百年も前に来たのだからと、勇気を出してつかつかと門番の方に歩いて行った。二人ともほぼ同時にコビを見付けて、さっと槍を構えた。と同時に一種異様な目付き、顔つきでコビを、目をパチパチさせながら見た。
「こんにちは。中で何をやっているんですか?女王の卑弥呼はここにいるんですか?」
「うううう・・」
一人が何かをしゃべろうとしているが体が震えて声に出ないようだった。もう一人が柵の中に駆け込んだ。やばいかな、とも思ったが、もうここまできたら勇気が座っていた。
 門番は二十歳前後に見えるが、背丈は小さい。コビよりちょっと大きいくらいである。槍をコビに向けて言った。
「どこから来た」
「倭の国」
コビは習ったばかりの倭という国を言ってみた。
「倭の国のどこの国の者だ」
 何と答えようかと思っているところに、中から数人の男が走ってきて、いきなりコビを取り囲んだ。さっきのチャラチャラいう金属音がとまり呪文のような唄が聞こえてきた。
「入れ!」
 何人もの男たちに囲まれているので、逃げるわけにはいかない。そのままついて行くと、さっき丘の上から見た宮殿のような建物に入れられた。内部は貝殻や銅剣、色の着いた絹のような布で飾った神棚が祭ってある広い部屋だ。中央に亀棺がある。そばにまだ子供の男の子の亡骸(なきがら)が横たわっていた。そうか、お葬式だったのか、やっと分かった。その前に座っているサイケデリックな色の布をまとった女性が呪文を唱えていた。
 部屋の中にはその男の子の母親らしい若い女性と親類、縁者だろうか十人くらいの人たちが藁で作った座布団みたいな上に座っていた。しかし、よく見ると若い男性はいない。若い男性といえば門番とコビを取り巻いている警備兵らしい数人だけである。
 コビは男たちに囲まれたまま、しばらく儀式を見ていたが、すべての儀式が終わったようで、男の子の腕に、貝殻で作った腕環をしてから、亀棺の中に足から入れ、蓋をした。再びオーオーという泣き声に似た声を全員がし始めた。
 コビもつい、いつの世もお葬式というのは悲しいものだという実感に触れ、悲しくなった。涙が出たので、ハンカチを出して拭いたら、男たちは不思議そうにコビを見つめた。ハンカチに模様がはいっているのが珍しいのか、涙を拭くという習慣がないのか、あるいはポケットから取り出したのが魔法のようだったのか、いずれにしても、男たちの表情がコビを捕まえたときとは徐々に変わっていったのがわかった。
 そういえば彼らの袈裟衣にはポケットらしいものはない。着物に何かを入れるという習慣はないようだ。それに着物には縫い代が全然ない。
 やがて亀棺は三人の若い男によって運び出された。そのうしろを母親らしい女性をはじめ藁の座布団に座っていた人たちがついて行った。・・
 広い司祭場ががらんとした。残ったのはコビと数人の男と呪文を唱えていた巫女だけになった。ゆっくりと巫女がこちらを向いた。今まで背を向けていたので顔が分からなかったが、若い。やはり二十歳前後に見える。
 じーっと見つめられ、気味が悪くなったが別に危害を加える様子もない。学校の制服のままなので、不思議なのだろう、じろじろと上から下まで眺め回す。
「突然、こんなところに来てしまって、すみませんでした」
 コビは思い切って口を開いてみた。
「そは、どこから来た」
女が言った。美しい声だ。
「倭の国です」
コビはそれしか言えなかった。
「倭の国のどこだ」
「吉野ヶ里です」
とっさに現在地名を言ってみた。
「そんな国は聞いたことはない」
「お聞きしたいのですが、あなたは卑弥呼女王を知っていますか?」
 卑弥呼、という名前を聞いたとたん、急に背筋を伸ばしてうやうやしく両手を頭の上に上げ、それから地面に顔が着くほど深いお辞儀をした。男たちもさっとコビの周りから離れ一列に並んで土下座をした。
「そは、女王の使いか」
女は両手をついたまま顔を上げて言った。
 この人は卑弥呼ではないんだ、コビはちょっとがっかりしたが、しかし、考えてみると倭の女王がこんな村落の一角に住んでいるわけがなかった。
「いえ、そうではないんですけど、・・ここは耶馬台国ですか?」
「そうだ。卑弥呼女王に統属した国だ」
「どうしてここには若い男の人が少ないんですか?」
「そは、知らぬのか」
「知りません。教えてください」
「卑弥呼女王の館を建てるため、みやこに臨んでいるためだ」
「都はどこにあるのですか?」
 胸が高鳴った。そこに行けば卑弥呼に会える!
「そは、一体だれじゃ。その衣は何じゃ」
「ちょっと事情があって、ここへ来てしまったのです。私たちの国では皆んなこういう服装をしています」
「われと同じ神か」
「いいえ、神様じゃありません。あなたは神ですか?」
 それまで、黙っていた男たちが一斉に立ち上がって再びコビを取り巻き、その一人が言った。
「無礼であろうぞ!こなたは世を治める神として卑弥呼女王から命された術姉なるぞ」
「すみません!」
コビはびっくりした。今まで温和な会話が続いていたのに、突然男たちに怒られた格好になった。
・・神か、なるほど、そういえば先程から気になっていたが、神棚のそばに筆があり、木片に文字も書いてある。全部漢字だ。こんな文字が書ける人なら、この時代なら神様しかないわ。
「あなたは、どこから来た、お方ですか?」
「北の方、海の彼方じゃ。われら神の先祖が海を渡ってきたのだ。この土地に住んでいた者は皆蛮族である。われらが水田の稲作を教えた」
 その代わり、年貢を取り立てて、だんだんと支配者になったって事ね。多分、韓国や中国からなんだわ、もともとの土着の人に、こんな漢字などなかったもの。なるほどね。でも今そんな事を言っている場合じゃない、卑弥呼だ。
「卑弥呼女王はどこに住んでいるのですか?都はどこにあるんですか?」
「行きたいか」
「はい、ぜひ行きたいんです」
「行っても卑弥呼女王には拝せぬぞ」
「どうしてですか?」
「神の王は誰にも姿を見せぬからだ」
「いいです。教えてください」
 巫女は、男の一人を手招きで呼び寄せ、何やら話を始めた。言葉がまったく分からない。日本語ではないらしい。今風で言うと、この巫女はバイリンガル嬢か。男の方は時折、ヤマ、カワ、フネ、ミチ、ミズなど日本語交じりの言葉を話している。
 今まで緊張していたので、気が付かなかったが、この人達をよくよく見ると、確かに二十世紀の私たち日本人の顔とはどことなく変わっている。どちらかと言うと、中国の人のようだ。でも顔立ちがきりっとして瞳が真っ黒で、頼もしい感じがする。こうした人たちが私たちの祖先なんだ、と何だかコビは彼らが、いと惜しくなった。
「お前の名は何という」
「コビといいます」
にこっと笑って答えた。
「コビ?面白い名じゃ。われはクコ、この男はカクキという」
 何が面白い名じゃ、クコとカクキか、コビとそう変わらないじゃない。コビは可笑しくなったが、大声で笑うわけにもいかず、我慢して、もう一度にこっと笑った。
「このカクキが、そを、都に連れて行くが、よいか」
「はい、いいですが、私一人で行くことはできないですか?」
「とてもできない。水行三日、山野陸行二日かかる処だ」
「水行って?船で行くんですか?」
「そうだ」
 海かな、どこなんだろう、コビは少し不安になったが、こうなれば連れて行ってもらうしかない。
 ワープして1日は教室では数分だけれど、5日ともなると社会の時間の大半を寝てなきゃいけない。大丈夫かな。コビはちょっと心配になってきた。そうだ、麻美に頼んで来よう。
「クコ様、少し待ってください。忘れ物があるので、取りにいってきます」
「どこに行くのじゃ」
「私の国です。すぐです」
 
 言うが早いか、素早く司祭場から出て、教室に戻ってきた。
 うしろの麻美を見ると、普段と変わらずせっせと黒板の説明をノートしていた。
「コビちゃん、今日は寝ないの?さっきから熱心に顔を上げて先生の話を聞いていたわね。感心よ」
「え?」
 そうか、大丈夫だ。この調子だ!
「ねえ、麻美。お願いなんだけど・・」
 そう言いかけたとき、教室が急にキャーという女子の悲鳴のような声も交じって騒めいた。何だろうと見渡して、コビも仰天した。教室の前の入り口付近にカクキが、のそっと立っているではないか!ぼーっとした顔で、辺りをきょろきょろ見渡している。先生もびっくりして、思わず教科書を落としてしまった。
<しまった!カクキがわたしのワープを見ていたんだ>、コビは握りこぶしで自分の頭をこつんと叩いた。見られると、その人までワープさせてしまうのだ。カクキもコビを発見した。
「コビ、コビ・・」
呼びながらコビの方にのそのそ歩いてきた。
「大丈夫よ、何も心配しなくていいのよ!」
 コビは急いでカクキの手を引いて教室の外に連れ出した。男子生徒がどーっと廊下に出てきた。
「だめ!みんな教室に戻って!」
コビは夢中で叫んだ。それがいけなかった。隣の教室から先生や生徒がどーっと出てきた。必死にカクキをかばって一目散に廊下を走った。
<捕まったら大変だ!警察に渡され尋問される!布をはしょっているだけで、ほとんど裸よ、カクキは。どんなに尋問されるか知れない!そして病院に連れて行かれる!私のせいよ!この人、そうしたら帰れなくなる!ごめんなさい、カクキ>
 コビは涙で前が見えなくなったが、なおもカクキの手を引いて廊下の突き当たりまで走った。そして階段を駈け下りた。
<そうだ!女子トイレだ!>、とっさに思いついてカクキと一緒に女子トイレに駈け込んだ。授業中でもあるし、誰もいない。
 思わずカクキを抱き締めた。千八百年前の匂いがする。うっとりする匂いだ。
 外で先生達のガヤガヤする声が聞こえてきた。
 コビはカクキを抱き締めたまま、夢中でワープした。
 
 コビとカクキは抱き合ったまま、巫女や警備兵数人のいる司祭場に現われた。二人はすぐ離れた。彼らは二人を見て一瞬戸惑いを見せたが、すぐ巫女はカクキに旅の準備をするよう命じた。準備といっても衣を普段の袈裟衣から、もう少し派手な色のついた綿布にしたことと、一本の立派な銅剣を渡しただけであった。
 コビは自分は誰もいない女子トイレにいることを思い出し、安心してカクキについて行くことにした。
「コビよ、そも、衣を変えるとよい。これを」
 巫女は祭壇の下から取り出した布を差し出した。何かで布を染めたのだろう、まだらな色がついている。外で見た母子は無地の布切れのようであったが、これは確かに特殊な人が着るもののようだ。お世辞にも立派な染め物とは言えないが、当時としては高級な着物に違いない。
<着替えるって、ここで?>、コビは男子の前で制服を脱ぐのは恥ずかしかったが、彼らは一向に、そういったことに頓着しない様子なので、思い切って制服を脱いだ。中の真っ白な下着を見て、巫女の目が輝いた。
「その衣は何というものじゃ。われは見たことがない」
 それまでずっと座りっぱなしであった巫女がすっくと立って、コビに近付き、前から後からじろじろと舐め回すように見た。触ろうとして、手がスリップに近付くとスーッと裾が手にくっついた。はっとして女は手を離し、コビから離れた。
「ああ、これ静電気よ。合成繊維だから、こういうことがあるのよ。といっても判らないよね」
 そういってコビは制服で、ごしごしスリップをこすって、手を近付けた。パチッと音を立てて小さな火花が出た。司祭場は昼とはいえ、やや暗いので、はっきりと火花が見えた。ううっと、巫女は声をだし、たじろったが、神である誇りがあるのか、男たちの前で自分の権威を落としたくないのだろう、すぐ平静を装い、コビに向かって言った。
「その衣を、われに呉れぬか」
「いいわよ、背丈も同じくらいだし、ぴったり合うみたい」
 さっさとスリップを脱いで巫女に渡した。
「こちらが前よ、わかる?」
 女はめずらしそうに、手で抱えるようにしてスリップの柔らかさや肌ざわりを確かめた。
「こんな柔らかい布は初めてじゃ。どこで手に入れた?」
「遠い、私たちの国なの」
「その身につけている衣は何じゃ」
巫女はスリップを大事そうに抱えたまま、今度は胸の方と下の方を指差した。
「あっ、これ、ダメ」
 そういってコビは、つい調子に乗って裸になっている自分に気が付き、胸と下の方に手をやった。
「クコ様は、こういった布をまとってないんですか?」
「ない。そんなものを見たのは初めてじゃ。それもわれに呉れぬか」
「これはダメ!」
 いくら何でもコビは恥ずかしかった。
 すぐ、足元に置いてあった巫女からもらった色付きの布を頭からすっぽりかぶった。ちょっと短くて、ちょうどミニスカートみたいだが、軽いし、なかなかいい。
「どう?似合う?」
モデルのような仕草をして、くるっと回って見せた。巫女はコビの下着が貰えなかったのを不満そうにしたが、今度は腕時計を見付けた。
「その腕に付けている飾りは何じゃ」
「ああ、これは腕時計・・」
<といっても分からないだろうから、飾りにしておこう>、とコビは
「大した飾りじゃないです。クコ様のしている腕環の方が、ずっと素敵です」
と、腕時計を隠すようにして言った。じじつ、巫女の腕には貝殻で作った腕環や青銅と思われる針金で作った環、着色した布などを腕狭しといくつも付けている。
 巫女は、それまでの厳しい表情から、にこやかな顔になり、笑った。
「それでは、早く行くがよい。日が暮れると道がなくなる」
「ありがとう、クコ様。・・もう会えることもないと思うけど、お元気でね。・・記念にこの制服もあげる。クコ様が着ると似合うと思うわ」
 そう言いながらコビは制服のポケットの中からハンカチとコンパクト、それに身分証明書などを取出し、制服だけをきちっとたたんで巫女に渡した。制服は濃い紺色で暗い感じがするのだろうか、初めからあまり興味を示さなかったようだが、女は手にすると、大事そうにスリップとともに胸に抱えた。
 見送りは警備兵らしき男たち数人に任せて、巫女自信は司祭場から出ようとはしなかった。コビは男たちに囲まれていったん出ようとしたが、後ろ髪を引かれる思いで、立ち止まり、後ろを振り向いた。クコは悲しそうな顔をしていた。
<ああ、神様じゃないんだ、私たちと同じ人間なんだ!>、コビは心から、そこに人間の姿を見た。<わたしが行ってしまうと、またこの人は一人ぼっちになってしまうんだ>
「クコ様!」
「コビよ、行くがよい」
 男たちに、うながされ、コビは柵の外に出た。眩しい、雲一つない紺碧の大空が広がっていた。
 
 カクキと二人だけの旅が始まった。村落の中は道路とは言えないまでも、踏み固められた地面には道筋があったが、その集落から一歩出ると、もはや道路というようなものはなかった。辛うじて人々の行き来する畔道のような、二人並ぶといっぱいになるほどの幅の狭い道である。
「人がいっぱいいて、コビが、わしの手を引っ張って走った、あの国はどこだったのだ」
 カクキが思い出したように言った。
「ああ、あの時ね。・・ごめんね。私たち夢を見ていたの」
「夢?」
「そう、そうよ、夢。・・あの国が一番幸せとは言えないのよ。カクキやクコ様のいる、この耶馬台国が一番幸せなの」
「もう一度行ってみたい」
「だめだめ、あんな所に行ってはダメ。帰って来れなくなるわよ。もう少しで捕まるところだったのよ」
「捕まると殺される?」
「殺しはしないけど・・でもそんなものよ。生きていることが、どういう事か分からなくなるような世界なの。・・それよりも、旅というのは、こうやって歩いて行くの?馬など乗り物を利用しないの?」
「馬?それは何だ」
「牛や馬はいないの?」
「ない、何のことか分からない」
<そうか、この頃は牛や馬はまだいなかったのね。じゃ、乗り物といえば・・船か・・船しかなかったんだ>、千八百年も前というのは、じつに遠い昔だということが実感として込み上げてきた。
「この辺は田んぼがなくなって雑木林ね」
「これを抜けると、また国がある」
「国?・・国って、ここは耶馬台国という国ではないの?」
「向こうの国も耶馬台国に統属している」
「そうか、国、国っていうから、本当に大きな国かと思っていたけど、そうではなくて、要するに村ね。クコ様のいるところも村なんだ」
「村?」
「そう、村という言葉がまだないのね。そしてその村にも名前が付いてない村落がいくつもあるのね。それらを支配化に置くと、大きな国になり、名前も付いたんだ。なるほどよく分かった」
コビは独り言のように、つぶやいた。
 しばらく歩いて、雑木林を抜けると、また同じような丘があって、背後に広々とした田んぼがあり、前方は集落であった。丘の上には巫女のいたような柵が施され、火の見やぐらのようなもの、倉庫のような床高家屋、それに宮殿のような佇まいの家屋があった。この集落は結構人々が往来している。しかし、やはり若い男の人の姿が少ない。
「クコ様の村はどうして人々がいなかったの?」
「若い男は卑弥呼女王の館を建てるため行った。女は、子供の埋葬のため家の中にいた」
「そうか、お葬式だったから、人々が家に篭もっていたのね。・・ここの男性も卑弥呼女王のところに行ってんだわ」
 話をしながら、村落を通る道すがら、奇妙なことに出会った。人々は私たちを見ると、皆すぐ道に膝間就き、土下座をするのだ。中には食物を差し出す者もいた。ヒエか粟で作ったお団子だ。何も土下座までしなくてよいのにと、そばに行こうとすると、カクキに止められた。
 この着物を着て、銅剣を持っているものが<大人>で、一般庶民は<下戸>(げこ)というのだそうだ。<大人>の言う事は絶対的で、食事の世話から泊まるところまで、すべてを面倒みなければいけないことになっているという。逆らったら銅剣で首をはねて殺してしまってよいことになっているらしい。
「いつ頃から、こんな習慣があったの?」
コビは人々が可哀相になってきた。
「ずっと昔からだ。剣を持って海から渡ってきた人が、倭の国を作った。その時からだ」
<いつの世も武器ね・・武器を持っている者が強いんだ。もともと住んでいた人たちには剣などなかったので、剣を振りかざされるとひれ伏す以外になかったのね。・・ひれ伏して土下座しなければいけなかったのは、昭和の時代まであったのだから、何千年も続いたことになるのね>、コビは歴史の重みをしみじみと噛みしめた。
「・・この村にもクコ様みたいな巫女がいるの?」
「いる、ここは男の祭司だ。卑弥呼女王より命され、治めている」
「カクキ、あなたも祭司になりたい?」
「なりたい。そのため文字を覚え、言葉を覚え、書を覚えた。村という言葉もさっきコビから教わって覚えた」
カクキは自慢そうに得意になって言った。
「カクキのご先祖は海から渡って来た人?」
「違う、もと倭の国にいた」
「そう・・頑張って勉強して<大人>になったのね。<下戸>は文字は知らないの?」
「知らない。話す言葉も数少ない」
「なるほどね、差が出るのは貧富の差だけでなく、そういった文武にもよるのね」
「ぶんぶ?」
「そう、文は文字、言葉、書よ。そして武はあなたが持っている、その剣のことよ」
<そうだ、パパが縄文時代や弥生時代の人は言葉の数が少なく、たとえば色などは、四色くらいしかなかったと言ってたわ。色を聞いてみよう>、コビは妙な勉強心を出した。
「ねえ、カクキ。あの空の色は何色?」
「青」
「このお花の色は?」
コビは紫色のきれいな花を指差して言った。
「青」
「これは?」
緑色の葉っぱを指差して言った。
「青」
「そう、そうなの。下戸はこういう色の言葉を知ってる?」
「ほとんど知らない。わしらが教える」
 コビは胸にジーンとするものを感じた。毎日何気なく使っている言葉も、じつは何百年、何千年もかかって大陸から日本にやってきて、日本独自の発音になり、カクキのような人が庶民に教えて全国に広まっていったのだ。・・・
 やがて二人は村落とその広い田んぼを抜けると、大きな川に出てきた。ここからは水行になるという。つまり船で行くというのだ。
「そうか、船っていうから、また海を渡って行くのかと思ったら、川を船で行くのね。・・でも船はどこにあるの?」
「あそこにある」と、カクキは遠くの建物を指差した。
 対岸は草木が生い茂っているのにこちらは至る所、草木が薙ぎ倒され、木で作った槍や弓矢の折れたものが散乱している。
「どうしたの?これ、まるで戦争があったみたい」
「そうだ。戦さが続いていた。末櫨国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、その他数十の国がそれぞれ領土を広げるため相攻撃して殺し合いをしていた」
「その国々というのは、クコ様のいるような村のいくつかを治めていた支配者のいるところね。一つの国でいくつくらいの村を治めていたの?」
「国によって違う。数十から数百だ。王はほとんどすべて海を渡ってきた者だ。互いに村々を掠奪するため戦いをしていた」
「どうして戦いが終わったの?」
「卑弥呼女王が、戦いを止めなければ空を真っ暗にする、と給うたのに、どの国もその声に耳を傾けず、戦いを繰り返した。卑弥呼女王は怒って空を真っ暗にした。それでどの国王も戦いを止め、卑弥呼女王が倭の国の女王となった。」
「きっと皆既日食だわ」
「何?」
「いえ、別に、こちらのことだけど、卑弥呼女王は神の上に立つ神ね」
「そうだ」
 二人は船着場のような所に出た。床の高い倉庫がいくつかある。竪穴住居も数戸ある。
二人がやって来るのを待っていたかのように、数人の下戸がうやうやしく草むらの中から頭を垂れ、両手を地につけたまま這うように出てきた。
「参問倭王卑弥呼船行をもって到らしめよ」
 カクキは、銅剣を前にぐっと差出しながら、力強く言った。下戸は<ははー>と言って素早く岸につないであった船に二人を案内し、藁で作った分厚い座布団を差出した。
 船はかなり大きく、人なら二十人は乗れる。戦争の時は兵士を、いまは米を運んでいるということだ。五人のうち四人が船を漕ぎ、一人が交替で休むようになっている。川は下る方向ではなく、上りである。緩やかな流れではあるが、合計六人乗っているし、流れに逆らって進むのは容易ではない。川幅は二、三百メートルはある。これは何川だろうと、コビは辺りを見渡すが、もとより分かろうはずがない。
 両岸は草木が茂り、開墾はまったくされてない。腕時計をちらっと見た。五時過ぎである。三時間は進んでいる。コビは少々疲れてきた。こういう小さい船には乗ったことがなかったし、漕ぐたびに左右に揺れるのが気持ち悪い。話をするのもぱったり止まったし、コビの疲れた表情を見て、カクキは言った。
「もう少し行くと、国がある。そこで今日は泊まる」
「国?・・村ね」
「そう、村」
 カクキは笑って答えた。コビはカクキの横顔をしげしげと見た。文武に精進し、偉くなりたいと言っていた若い青年だ。たくましく生きている。コビはほんのりと淡い慕情を抱くのだった。
「ねえ、カクキ。・・村と村は戦争することはないの?」
「ない。村と村は昔から行き来し、結婚もする。戦争をするのは、この村々をたくさん支配して国を作り、領土を広げようとするものだ」
・・左岸が拓けてきた。水路を造って、川から水を引くようにしたところもある。田んぼが見えてきた。竪穴住居も見える。そして小高い丘陵の上に、クコのいたような柵のある建物も見える。やがて船着場に着き、二人は降りたが、下戸五人はそのまま、すぐ戻って行った。明日はこの村の船で行くという。
 コビは今日は、これで三つの村を見たことになるが、一番大きい感じがした。竪穴住居の数も多い。人の往来も多く、二人を見付けると決まって土下座をするので、コビは何だか神様になったような気がしてきた。不思議な心理体験だった。可愛い子供がいたので、そばに言って何か話し掛けようとしたが、それもカクキに止められた。神はむやみにそういうことをしてはいけないのだそうである。
 村の中心に、ひときわ大きく目立つ竪穴住居があり、その住居のそばには床高式倉庫があった。
「あの建物はどうして他のより大きいの?」
「この村の長老で、一番豊かな実りを持っている者が住んでいる。卑弥呼女王が司祭場を建てるよう命令して、呪術巫女が来るまでは、その長老が、この村を支配していた」
「村民には貧富の差はないのかと思っていたけど、あるのね」
「昔はなかった。土地が拓け、開墾が進むと諍いも多くなり、それをまとめる者が必要となり、一番豊かな実りを持つ者がその役をするようになったのだ」
<縄文石器時代には貧富の差はなかったのに、弥生時代になって、だんだんと水田などによる定住が進み、集落ができると、当然貧富の差というのは表れるものなんだ>、コビはちょっと悲しくなった。二十世紀に住む自分たちも、この弥生時代に住む人たちも、結局は同じなんだ、という思いがした。
「私たち、今日はどこに泊まるの?」
「あの司祭場だ」
 門衛が二人いる。木で作った槍を持っている。初めて見たクコの司祭場とほとんど同じ造りだ。門衛は二人を何のとがめもなく、すぐ通した。同じように数人の警備兵らしき男たちが出てきたが、服装と銅剣を見ると、すぐ奥の祭壇の方に連れて行かれた。もうすでに部屋の中は暗く、顔がよく見えないが、女性だ。巫女である。
「そなたはカクキではないか」
 かなり、しわがれた声である。老婆のようだ。
「母上、カクキです」
<お母さんか!>、カクキはそれまで何も言わなかったので、コビはびっくりした。
 聞くと、カクキ一家は卑弥呼のいる都にいたが、優れた学才と卑弥呼への忠実ゆえ、母は巫女に、カクキも次期司祭への修業としてクコのところに派遣されているのだという。父は勇敢な戦死をし、弟は都で卑弥呼に仕えているという。
 コビのことを、カクキは巫女に、<卑弥呼女王のところに行く他国の使者だ>と告げた。クコは卑弥呼には会えないだろうと言っていたが、カクキは何とかしてコビを卑弥呼に逢わせようと思っていると説明していた。
・・司祭場の中を案内された。食事をする処、寝る処などが、きちっと仕切られている。コビの部屋だと教えられ、入ったとたん一日の疲れがどっと出たのか、コビはベッドの上にごろんと横になった。・・ベッドである。日本というのはベッドの習慣はないものと思っていたが、じつは竪穴住居の中でも、寝床は地面から高くしたベッドなのである。畳の上に直に布団を敷いて寝る習慣は、ずっと後の室町時代の後期、東山文化の頃からである。そしてその畳は井草の長さで決まる大きさになったことはよく知られている。
 このベッドは藁が敷き詰められたもので、快適なものだった。
 見渡すと食事をする処はあったが、作るところ、つまり台所はない様子だった。どうするのだろうと思っていたところへ、食事の用意が整ったから、という使いがきた。
 村人が時間になったら、持ってくるのだそうである。それも日替わり、つまり交替で順番に持ってくる仕組みになっているという。<そうか、この時代はまだ年貢を納めるという義務はない代わりに、こういった食事などを持ってくるようになっているのね。>
 年貢、現在では税金であるが、コビはそのルーツを見た思いであった。
 組み立て式の食卓の上にたくさんの料理が並んでいる。一日二食であるため、食べる時は腹一杯にするそうだ。料理といっても量が多いだけで、品数はいたって少ない。
 ご飯はお米の炊いたもので、野菜も入っている。その他、魚の丸焼き、貝、豆を煮たものなどである。味付けは主に塩である。
 コビはお腹が空いていたこともあり、普段家で食べると同じように、楽しく、いっぱい食べた。おいしかった。
 室内の明かりは動物の脂肪から取った油だという煤の多い、ほの暗いかがり火である。
 カクキの母老巫女は、コビのことを卑弥呼のあとを継ぐ倭の女王だと言った。卑弥呼のそばに仕え、祭りごとを助けよと何度も念を押していた。
 そして知らないことをいろいろ教わった。伊都国や奴国、不弥国などは耶馬台国の支配下になったが、まだ狗奴国の男王は卑弥呼女王に屈伏しないで抵抗していること、中国に使いを出す時は必ず真珠や青玉など宝石類、銅鏡、それに男女の人質を差し出すこと、そもそも倭というのは、倭人が付けた名称ではなく、大陸から渡来してきた人が付けたものであることなどである。
 大陸からやってきた使者が、日本人、いや二千年以上も前はまだ日本人とか倭人など名称もない土着の人であるが、その日本人に言葉が通じないまま手真似で会話をしているとき、盛んに自分のことを<わ>とか、<わし>、<われ>と言い、また自分の国のことを<わがくに>というので、この国を<倭>ということにしたのだそうだ。
 その後もすでに漢字を持っている大陸の人たちが大勢渡来し、行き来する間に、地名がないと不便であるため、一支国(いきこく、今の壱岐)とか末櫨国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などと付けられていったということである。したがって地名や人名に当てた漢字は殆どすべて大陸からやってきた人によるものである。そういえば父が言っていた。「卑弥呼」も倭人は女王のことを、「ひめこ」と言ったのに、大陸の使者が国に戻って報告するとき、倭人を下げすんで卑しい字を当てて「卑弥呼」と書いたのが始まりということだ。
 そのほか、結婚は一夫多妻で、大人では四、五人の妻を、また下戸でも二、三人は妻を召していることも知った。それは圧倒的に女性が多いからで、男の人口は少ないことによる。男子は子供の頃は体が弱く、死亡率が非常に高かったのである。
 そういえば、今朝のクコの村での葬送も男の子だった。
 
 船で川を上ること三日、そして陸を村から村へと二日、コビとカクキの二人はついに卑弥呼のいる耶馬台国へ着いた。散在する竪穴住居は今まで見たものと同じだが、とにかく土地が広い。村の入り口、出口がどことはっきりしない。広々とした水田の一角に十戸ほどの住居があるが、そういった水田と住居の組合せが至る所にある。今までの集落単位のかたまりではないことがわかる。
「ここが女王卑弥呼のいる耶馬台国の中心部なの?全然そういうようには見えないけど」
 コビは不思議そうにカクキに尋ねた。
「中心ではない。その周りだ」
「え?」
「都はこの中にある。都を取り囲むように村がある」
「・・・」
「もう少し行けば都が見える」
 カクキはもう少しと言ったが、歩けども歩けどもそういう都らしきところは見えない。田畑の畔道を通り、まだ草僕である未開の生い茂るけもの道も歩き続けた。二人は途中で何度か人の気配を感じたが、人がいるような場所ではなかったので、兎や狸など動物だろうということで、そのまま都をめざして進んだ。
・・・ついに半日歩いた。休みながらとはいえ、コビにはつらかった。
 幅十メートルほどの川に出会った。川の向こうには人の身長ほどの土塀がある。
「また川よ。ここからまた船で行くの?」
「これは川ではない。濠(ほり)だ。この濠の向こうが女王卑弥呼の都だ」
「すごい!これ、おほり?この濠が都をぐるっと取り巻いているの?」
「そうだ」
 ほとんど直線に見えるほどの濠だから、想像を絶する広さだ。
「行こう」
 カクキは姿勢を正し、腰に下げた剣をぐっと掴んで歩きだした。左右を見るとカクキの歩きだした右の方に大きな橋がある。しかしそれ以外には橋は全然見当らない。<ああ、あそこが入り口なんだ>、コビは胸がドキドキしてきた。<いよいよ卑弥呼に逢える>
 橋の入り口まで来ると、中から十数人の門衛兵がどーっと出てきた。カクキはコビをかばうようにして、剣をぐっと差し出した。門衛兵の一人が、剣に刻まれた卑弥呼命の文字を見て、さっと道をあけたが、コビは腕を掴まれて強引に引っ張られて数人の兵に捕まった。門の中には何十人という兵士が弓矢や石槍、石棒、竹槍などを持ち、土塀に沿って立ち並んでいる。異様な雰囲気である。
「カクキ!助けて!」
思わず男たちを振り払うように身をよじって叫んだ。
「止めろ!其の国の使者なるぞ!」
「嘘を申せ!使者が一人で詣でるはずがない!貴様も怪しい。捕らえろ!」
 門衛兵の隊長らしい男が命令するやいなや、あっという間に二人は数人ずつの男に引きずられるように離された。
「離して!何するのよ!カクキ助けて!」
「コビ!」
 カクキは剣のつかに手をやったが、それより早く数人の兵士がカクキの喉元に竹槍を差出し、今にも突き刺さんとする勢いで押さえ込まれた。
「コビ!必ず助けに行く。彼らの言うことに従え!」
 引きずられながら離れて行くコビに向かってカクキは懸命に叫んだ。
「私は大丈夫よ!あなたこそ無事でいて!」
コビは一人になれば逃げ出すことは簡単よ、と心の中で叫びながら、いまにも槍で刺されようとするカクキが心配だった。
 二人は反対方向に引きずられるように連れて行かれた。道行く人々は、見たこともないロングヘヤスタイルと色白の美しい少女が、強引に男達に連れて行かれる様子に、珍しそうに、また心配そうに、立ち止まり、振り返り見ていた。
 コビは抵抗さえしなければ、乱暴はしないと見て悟り、彼らの指示どおり歩いた。
 道路は整備され、住居はいままで見てきた竪穴住居ではない。明らかに異なるのは人々が多く、市場のようなものがあちこちにあることだった。今で言う八百屋、魚屋も見える。鍛冶屋、織物屋、染物屋もあるとカクキが教えてくれたが、それらしい看板もある。全部漢字だ。そういえば平かなはずっと後になって平安時代になってから表れたものだから、ここにあるはずがない、など考えながら、きょろきょろしながら歩いた。
 往来している人は大人が多く、着物はカクキと同様の着色した袈裟衣と貫頭衣が多い。剣は持っていないが、兵士やコビに土下座をすることはなかった。
「卑弥呼女王の宮殿はどこなの?」
 コビは思い切って、兵士の隊長らしい、さっきの命令した男に聞いた。彼は一瞬ぴくっと眉を引きつらせてコビを睨んで言った。
「何ゆえ知りたがる!」
 女王を暗殺にでもするため来たと思ったのだろうか、強い口調だ。
「わたし卑弥呼女王に会いに来たの」
 それを聞いて、数人の兵士達は一斉に笑った。
「どうして可笑しいの?」
「会えるわけがない。われわれも一度も会ったことはない。女王は誰とも会わない」
「どうして?」
「お前はどこから来た!・・・まあいい。これから調処(しらべどころ)に連れていくから、そこで正直に話せ」
 兵士は一層強くコビの腕を掴んで進んで行った。5分くらい歩いただろうか、普通の住居とは明らかに異なる社(やしろ)らしい建物に入って行った。何人もの役人らしい着飾った男達がコビを物珍しい目付きで見ながら取り囲んだ。今まで見てきた着物とは全く違う服装をしている。教科書や父の蔵書で見たことのある中国・唐や朝鮮・新羅の古代の服装にそっくりである。そして百済系ではなく、新羅系であるのが特徴だ。
「この女が怪しい男と城内に入ろうとしました。剣は持っていません」
「二人か。男はどうした」
「剣を持っていたので、宮社調処(みややしろしらべどころ)に連れて行きました」
「よし、下がってよい。・・女よ、こちらへ来い」
 役人に、更に奥の部屋に連れて行かれてコビはカクキを思い出し、一層不安になった。無事でいるだろうか、自分よりカクキの方が心配だ。
「座れ」
 と言って、三十センチほどの高さの半畳ほどの板間の上に強引に座らされて、周りを役人が取り囲むようにした。板間だから足が痛い。役人の姿勢がきりっとして直立したと同時に、頭に布を縄のように編んだ冠を着けた役人が出てきた。
「わしは判官アラカイという。おまえは名があるか」
「はい、コビと言います」
「どこから来た」
「さっきの男の人はカクキというのですが、その人の村からです」
「ムラ?」
「あ、いえ、国です。・・カクキに逢わせて下さい」
「名前はあるし、おまえの着ている服は身分の高いものだ。下戸ではない。どこで手に入れたのだ」
「カクキの国の司祭は卑弥呼女王から任命されたクコ様という方ですが、その方からもらいました」
 役人達がざわざわとした。「クコ様?」、「知っている」、「私もだ」と口々にクコを懐かしがるように言った。都といっても神を名乗るほどの人物であるから、クコほどの巫女は、こういった役人は皆知っているのだ。
 コビは板間の上に座布団もなく直に座らされているので、足は痛いし、もう我慢ができなく、ここぞとばかり板間の台座から降り、すっくと立って今までとは打って変わった強い調子で言った。
「私はクコ様の使いとしてやってきたのです。このような取り調べは無礼でしょう。」
 役人達は、コビのあまりの剣幕に驚いて、一瞬たじろったが、すぐアラカイは、
「証拠がない。剣を持ってない」
と、自分の剣のツカに手をかけながら言った。
「いえ、だからカクキが持っていたのです。それを兵士達が無理矢理連れ去って行ったのよ。カクキに会わせてください!」
「よし、分かった。剣は、その男を調べればすぐ分かる。それよりコビとやら、その方がクコ殿から、その服着を賜ったのには、それなりの理由があるはずだ。言ってみい」
 コビは自分の制服やスリップをクコ様に献上したことなどを話そうかと思ったが、きっと話がややこしくなるだけで、理解できることではないので、文字のことを思い出し、自分がどのくらい神に近いか示すことにした。服の中に隠し持っていたバッグから身分証明書の付いている手帳を取出し、ボールペンで、ありったけの知っている人の名前を書いた。杜甫や李白も書こうとしたが考えてみると杜甫や李白は八世紀の人、いまは西暦一九〇年、つまり二世紀だ。この人たちは知るよしもない。
 孔子、老子、孟子、荘子、司馬遷、ついでに孟子の教えの仁・義・礼・智の四文字も書いた。
 見たこともない筆で、もとよりこんな真っ白の紙など知らないものに、すらすらと文字を書くコビをみて、役人達は騒然としておののいた。覗き込む役人の一人はコビのかぐわしい黒髪の香にうっとりするものもいた。シャンプーの匂いだ。コビは、その手帳をアラカイの目の前にぐっと差し出して見せた。アラカイも顔が引きつって声も出なかった。コビは更に身分証明書の写真を見せた。カラー写真だ。アラカイは写真とコビを見比べながら、ようやく口を開いた。
「誰にこの絵を描いてもらったのだ。誰に文字を教わったのだ」
「海を渡った遠い国です。それよりカクキに早く会わしてください。そして卑弥呼女王にも会いたいのです」
「・・・・」
 アラカイは急に態度が変わって、うやうやしくお辞儀をして、奥に入っていった。
 役人達もすっかりコビに敬復し、遠巻きに前から横から眺め回した。その時、遠くでワーというどよめきが聞こえたが、役人はコビに興味を示していたので、さほど気に止めなかった。
・・・数分も待たされて、アラカイが戻ってきた。
「もとより王に会うは成らず。男王タモヒコ殿と謁見つかわす。こちらへ」
と、判官アラカイが言って歩き始めた時だった。何人もの兵士が息を切らして駆け込んできた。
「申し上げます。熊襲の軍勢が突如現われました。すぐ門を閉め応戦していますが、都の西と東の門近くには、それぞれ五百を越す軍勢が忍びよっています」
「なに!」
 慌てふためいて、すぐアラカイは奥に掛け込んで行った。
 コビは当時の戦争がどういうものであったのか、自分の目で見たいという探求心を起こした。
「私を西門に案内してしてください!」
 そう言いながら、コビは一人ですたすたと兵士の来た方向に歩きだした。
 役人達はコビの威厳ある態度に圧倒されてか、また当時のこういった学の高い女性には平服する習慣があるのか、別段止める様子もなく、兵士に向かって、
「コビ殿を案内せい!」
と命令し、自分たちはアラカイの後を追って急いで奥に引っ込んで行った。すでに大勢の女官や侍従官は入り乱れて右往左往している。
 衛兵はそれぞれの持ち場に戻って行ったがその中の一人で責任者らしい若い兵士がコビを西門に連れて行った。途中、大きな宮殿らしい建物を建てている建築現場が遠くに見えた。しかし、すでにその労働者は全員、槍や弓矢が配られ、グループ分けされ、整列していた。カクキの村の若い男の人たちも、ここに来ているはずだ。また、鍛冶屋や染物屋などで働いている人たちも、男は全員武器を持って土塀の方に急いでいた。
 土塀の外は濠になっていて、かなり深く掘ってある川のようであり、塀をよじ登ることはまずできない。城内に侵入するには門のある橋を渡るしかない。
 しかし、内側は塀の上に昇れるように階段状に石や土が盛られているところがあちこちにある。そこから弓矢や槍、石などによって敵に応戦するようになっている。ただ、武器は非常に大切なものとして扱われ、やたら弓を使ったり、槍を投げたりしないようである。それは敵側にも言えることで、塀の外から打ってこない。一対一で戦うのが原則のようである。そして勝った方が相手の武器を奪うのだ。また剣はだれも持っていない。銅剣は身分を表したり、祭器として使用されるだけで、武器として使われるものではないのだ。
 ワーワーという喚声が響くなか、コビは勇気を奮って土塀の上に身をかがませて上がってみた。いるいる。初めてみたあの布を頭からかぶっただけの服装だ。いわゆる貫頭着である。髪はボサボサ、手には石槍や弓矢、竹槍、何とも古代石器人という格好だ。人数は五百とか言っていたが、そんなにいない。二、三百人くらいだ。大げさに報告するものだと苦笑した。
 コビはそうっと土塀を下りて、自分を案内してくれた若い兵士に尋ねた。
「この人たちは、なぜ襲撃してくるの?この都を占領しようとしているの?」
「野蛮人だ。皆殺しにされる。都を占領するのが目的ではない。剣や着物、宝物、そして女を奪っていく」
「どこの国の人たちなの?」
「熊襲だ」
「狗奴国ね」
「そうだ」
 コビはもう一度土塀に上がってそーっと彼らを見た。どことなく都にいる人たちと顔つきが違う。20世紀の私たちとも違う。異なる文明を持つ人たちであることがはっきり分かる。南方系のような気がする。都にいる人たちは朝鮮半島系の顔だ。そういえば父がよく言っていた。朝鮮半島でも百済系と新羅系とは人々の思想や顔立ちは違っていて、どちらかと言うと、新羅系の人が北九州に、そして百済の人たちが奈良県大和地方に、大量に移住してきたと言っていたけど、こうやって千年も二千年もかかって皆んなが入り交じって今の日本人になったんだわ。コビは自分の先祖を見る思いで、彼らを感慨深く見守るのだった。そういえば、二十世紀の現在もなお、アメリカや中国、朝鮮、ベトナム、中東の方からどんどん日本に来て暮らしている人が大勢いるわけで、互いに結婚していけば、あと千年もしたら、日本人もずいぶん顔つきも変わっているのだろう、など考えたりした。
「危ないから下りた方がよい」
と、兵士が言った矢先、しゅーっと一本の矢が飛んできて、コビは思わず首をすくめて転げるように土塀を下りた。矢はすぐ拾い上げられ、こちらの武器になった。
「戦争というから激烈な戦いをするのかと思ったら、いたってのんびりとしているのね。一本矢が飛んできただけよ」
「そんなことはない。いったん門を破られて都の中に入ってくると、女子供も容赦なく殺していく盗賊だ」
 
 じじつ、その頃コビとカクキが入ってきた東門では、門が破られそうな攻防戦が続けられていた。死ぬまでには至らない怪我人は続出した。しかし、こういった現代なら治るような怪我でも、大きな病気になり、死んでいった者が多くいたことだろう。
 カクキは弟のクモンに逢い、容疑も晴れ、思わぬ敵の攻めに一緒に軍勢を指揮していた。苦戦を強いられていたが、まだ門は破られていない。土塀の上から応戦していた。
「兄上、ここは私に任せて、あなたは一緒に来たコビ様を探してください。おそらく西門に近い調処でしょう」
「そうか、かたじけない。それではここを頼むぞ」
 そう言うが早いかカクキは急いで西へ向かった。道行く人はすべて武装して、戦いに備えている。その間をぬって懸命に走って調処に着いたが、事情を知ったカクキは、そのまま西門に急いだ。
 
 その頃コビはイチかバチか一つのことに掛けようとしていた。それは鏡である。化粧用のコンパクトで太陽光を反射させてみるのだ。彼らはいったいどういう反応を示すか、やってみたかった。
 再び、若い兵士の止めるのを振り切って土塀に昇った。矢が飛んでくるかも知れない危険を承知で、すっくと立った。
 コンパクトを取り出して太陽を探した。鏡は直径七センチくらいあり、反射光は結構大きい。そして西日がよく当たる。コビは胸元に鏡を持ち、味方にも敵にも何をしているのか分からないように両手で抱えて反射光を調整した。まともに光が飛び込んできた敵の一人がギャーと叫んで目をおおって倒れた。いささかオーバーな倒れ方だが、かなりのショックを受けたようだ。二人、三人とギャーと叫びながら地面に伏せたり、一目散に逃げだした。
 コビは<しめたっ、これならいける!>と、自信が付き、なおも体を左右に動かして光を敵陣に向かって放し続けた。次々に何やら叫びながら後退する敵を見るのはじつに痛快だった。何十メートルも、いや何百メートルも離れている兵も、コビの胸元からピカッと閃光が走るのを見て恐れおののいた。
 この頃はまだ銅鏡といって、銅を研いて何となく顔が写る程度のものしかなかったので、鏡といっても光の鋭い反射はなかった。コビのコンパクトのようなガラスに銀メッキした鏡はまさに魔法としかいいようのないものである。
 見る見るうちに敵陣は後退していく。何がなんだか分からないで立っている敵兵に向かって、<これだっ!>と言わんばかりに光線を浴びせるコビは得意満面であった。この退散は東門の敵陣にも伝えられ、一斉に狗奴国の兵は引き上げて行った。
 味方の方も何が起きているのか分からないで茫然とするばかりであった。ただ、分かっていることは黒髪をなびかせる美しい一人の少女が土塀の上にすっくと立って左右に体を振っているだけである。まさに神である。
「コビ!」
「あっ、カクキ!」
 土塀から転げ落ちそうになりながら飛び降りて、コビはカクキに抱きついた。
「無事だったのね、カクキ。よかった」
「コビこそ、よくやってくれた。・・・もう心配ない。コビは神だ。・・・みんな聞け!ここにあられる方はわれらの国を助けに彼方から来られた神である。一千の軍勢を一人で追い払ったのだ」
 カクキは剣を高々と上げて群衆に向かって叫んだ。<また一千なんて大げさな、二、三百人くらいよ>、とコビは苦笑いした。
 
 コビは一気に神に祭り上げられてしまった。当時はまだ魔法という言葉はない。魔法とか魔法使いというのは、ずっとあとの明治時代になって西洋から入ってきた言葉で、耶馬台国の時代は、こういった奇跡を起こすのは呪術であり、神であるのだ。
 コビはカクキやクモンなどと一緒に、さっきの調処とは違う立派な建物に連れて行かれた。大勢の着飾った役人や兵士の上層部が歓声とともに迎えた。もちろんすでに卑弥呼女王にも、コビの事は知らされ、歓迎の儀式が整っていた。コビは卑弥呼に一分一秒でも早く逢いたいと思ったが、一通りの儀式が終わらないうちはどうにもならなかった。
 何人もの女官が世話をして服を取り替えられ、長い廊下を案内され、祭司場に連れていかれた。平安時代に十二単衣(ひとえ)というのがあるが、あれを簡略化したような服だ。小袖に袴(はかま)を着用し、唐衣(からぎぬ)のような上着を羽織った出で立ちである。派手な赤い色の、少々まだらな模様のあるものだが、驚いたことに絹である。コビはロングヘヤーでもあり、よく似合う。しかし、こんな姿では教室に、いやトイレだが、戻れない。戻る時はクコ様にもらった、あの服にしようなどと考えながら、彼らにされるままに従ったが、じつはあとで分かったことだが、この服装は儀式のときだけで、終わったらすぐ脱いで返したのである。
 カクキやクモンは司祭場に入れるような身分ではないらしく、ずっと前の入り口で別れたきりだ。そういえば、伊勢神宮も身分によって、入れる場所は“ここまで”と決まっている。一般庶民は入り口付近だけで、議員や知事クラスは“ここまで”、皇室の方々は”ここまで”と段々奥へとお参りできる。一番奥は天皇陛下だけである。
 祭司場は後世の平安朝などに見られるような立派なものではなく、コビから見ればただの暗い板間敷きの部屋に過ぎなかったが、ここが身分を授けられる最も神聖な場所なのだ。後で分かったことであるが、クコ様もここで巫女として、卑弥呼女王から剣を授かったということであった。役人達は板間に正座している。いわゆる現代でいう胡坐(あぐら)である。コビの左右に十人ほど残り、そのほかの女官や役人はすべて部屋から出ていった。
 中央に立派な椅子があるが、その前に立たされた。やがて衣冠姿の男が二人現われ、一人は手に銅剣を持っている。なにやら呪文のような判らないことを長々と述べたのち、銅剣をもう一人の衣冠姿の役人、男王タモヒコに渡し、タモヒコからコビに銅剣が恭しく渡された。コビは何が何だか判らないが、とにかく丁寧にお辞儀をして剣をもらった。ずしっと重い。これが身分の高さを示すものらしい。こんなものより早く卑弥呼女王に逢いたかった。しゃべって良いものやら、うっかり口をきいて儀式が台無しになってはいけないので、我慢した。
 すべての儀式が終わったようで、二人が司祭場から出て行ったが、間もなく待つほどの時間もなく、タモヒコを先頭に一人の女性を前後に守るようにして、入ってきた。
 コビは一目で、卑弥呼女王であることが分かった。胸がどきどきした。
「卑弥呼女王のおなり」
 やっぱりそうだ!。胸がさらに高鳴った。役人全員が深く頭を下げ、卑弥呼が椅子に座るまで頭を上げなかった。コビも何だか卑弥呼が本当に神様みたいに見えたので、すぐ剣をしっかり持ったまま頭を下げ、いつ上げてよいやら、卑弥呼が座ってもまだそのままじっとしていた。
「コビとやら、頭を上げてよいぞ」
 天から響くような美しい声だ。顔を上げて目の前がくらくらっとした。何と美しい人なんだ。十三才中学二年生のコビは、これまでこんなきれいな人は見たことがなかった。水晶のような透き通った瞳に吸い寄せられるようだ。服装は決して派手でなく、むしろ自分の方が真っ赤な着物を着せられて恥ずかしいくらいである。長く垂らした黒髪に頭には烏帽子(えぼし)を被り、真っ白の小袖が隠れるほど打衣(うちぎぬ)を肩から垂らしている。色はやはり赤だが薄い色だ。染め具合がすごくきれいで、自分のようなまだらな部分が全くない。足は見えないが、すらっとしたプロポーションの良さが幾重もの衣を素通りして見えるようだ。顔立ちは朝鮮系ではなく、明らかに中国系である。今は倭人になっているが、おそらく先祖は中国から渡来した人なんだろう。
 歳は二十歳前後に見える。
「コビよ、このたびはよく都を守ってくれた。礼を言うぞ」
「はい、ちょっと恐かったけれど、私にもやれました」
コビは素直に思ったことを言った。
「そなたは、カクキの国からやって来たと聞いたが、そこの生まれか」
「いえ、もっと遠い国です」
「何という国じゃ」
「国の名前はありません。小さな国です。女王様に従うことを伝えに来たのです」
コビは余計な混乱を避けるよう、女王を立てるように言った。
「そうか、それは嬉しい事じゃ。倭の国は結束して大きな力を付けねばならぬ。いま、海の向こうでは漢の国が乱れ、国が分裂しそうになっている。倭が国も過去五十年にわたって内乱が続いたがようやく治まった。しかしまだ・・・ 」
「はい、今日攻めてきたのは狗奴国の人たちでしょう。あの人たちは後の大和朝廷に滅ぼされるまで、九州全域を脅かし続けるでしょう」
「なに?コビよ、いま何と言った?」
「いえ、何でもありません。独り言です。・・・それより、お聞きしたいのですが、卑弥呼女王様はいつ女王に即位されたのですか?」
「ちょうど5年になる。十四才の時じゃ」
<ということは、ここは西暦195年だから、190年に即位、そのとき十四才ということは、生まれは西暦176年なのね。あー感激!いま1817才!わー凄い!>、コビは目を輝かして卑弥呼を見た。
「ところで、お前は何才じゃ」
「十三才です」
「そうか。いま奴奴国(ななこく)の祭司を決めるところじゃったが、コビよ、そなたを任命したい。祭りごとの子細を覚えて行ってくれぬか」
「それはできないんです!」
 コビはあとづさりしながら、泣きそうな顔で言った。あまりの態度の急変で卑弥呼はびっくりしたが、すぐ男王タモヒコが、それまで座っていたのを立ち上がって強い調子で言った。
「女王の言い付けなるぞ!聞けぬのか!」
「ごめんなさい。どうしてもそれはできないんです」
 本当に半分泣きながら答えた。
「どうして出来ぬのじゃ」
卑弥呼は優しく言った。
「私は国に戻らないといけない運命にある者です。卑弥呼様に逢いたい一心でやってきたのですが、もう帰らないといけません。国で家族や友達が心配しています」
「・・・」
タモヒコが何かを言おうとしたが、すぐ卑弥呼がそれを制して言った。
「巫女になりたい者が多いなかで、そなたは変わっているのォ。よろしい、そなたの思うようにするがよい。またいつでも戻ってくるがよい。その剣はそなたのものじゃ。それを持っておればいつでも都に来ることができる」
「はい、ありがとうございます。・・・」
 コビは、もうこれ以上、この耶馬台国(ヤマトノタイコク)には居られないことを悟った。確かに自分がここで役に立つことはあるだろう、しかし、これ以上この人たちを混乱させることは罪になる。帰らなければいけない。コビは決心した。
「短い間でしたが、私は卑弥呼女王様にお逢い出来たことだけで幸せです。もう帰ります。・・・このあと大陸では三つの大きな国に分かれます。そして、そのうちの「魏」という国に卑弥呼様は使者を送ることになります。その時には倭錦(やまとにしき)や綿衣(めんい)などを魏の国王に献上するとよいでしょう。・・・その後何十年と耶馬台国は繁栄しますが、海の向こうの辰韓、馬韓、弁韓、帯方郡などの国は次々に破れ、百済と新羅という大きな国が生まれます。そして百済の人たちが倭の東方に移住し、勢力を伸ばすようになります。それまでにぜひ強い国家を作り上げてください」
「一体そなたは・・・」
「この鏡を卑弥呼様に差し上げましょう。これで、狗奴国の人達をやっつけたのです」
 そう言って、コビはコンパクトを開いて、鏡を卑弥呼に見せた。ううっと、叫んで、あの美しい顔が一瞬引きつったが、さすが女王である。すぐ、水に写る自分の顔や銅鏡などと同じものであることを見抜き、手にとった。しばらくは声も出ないで、写る自分の姿に見入っていた。
「これは、どうやって作るのじゃ」
「残念ながら、ここでは作れません。・・・ガラスなので、強い衝撃を与えると割れるので、大切に扱ってください」
「ガラス?・・・」
「・・・これも差し上げます」
 そういってコビはポシェットから身分証明書だけ取出し、中にあるボールペンや簡単な化粧具、メモ用紙などはそのままにして、バッグとも卑弥呼に差し出した。ファスナー式の口である。開け方、閉め方を教えようと、手を添えたとき卑弥呼の手に触れた。ひやっとした冷たい手だ。しかし何とも言えない感慨がコビの胸を掛け抜けた。
 一つ一つが卑弥呼にとっては、まさに神具である。胸に抱き、じっとコビを神秘の眼差しで見つめ続けた。ようやくわれに帰った卑弥呼は、厳かな表情で静かに言った。
「どうしても帰らねばならぬのか」
「はい、卑弥呼さま」
「そうか。・・・行くがよい。コビどののことは決して忘れまいぞ」
「わたしも、卑弥呼さまにお逢いして本当に嬉しいです。・・・もう二度とお逢いできません。・・・」
 コビは目が潤んだ。
「どうしてじゃ」
「私は、この世の者ではないんです。ずっとずっと遠い国からあなた様に逢うために来たのです。少しでもお役にたったことがとても嬉しいです。・・・もう帰らないと・・・」
 どっと涙が出てきた。もうそれ以上声にならなかった。座っている卑弥呼の膝元にどっと崩れるように寄りかかった。役人達が口々に無礼であろう、と言いながらコビを離そうとやってきたが、卑弥呼は優しくそれを制し、コビの肩に手をやり、そして腕をとり、両手をとった。今度は冷たい手ではなかった。ぬくもりのあるやわらかい優しい手であった。コビは一層涙が出てとまらなかった。顔を上げてもう一度しっかりと涙の向こうに卑弥呼を見た。神々しいまでに美しいお顔であった。
「さよなら、卑弥呼さま・・・」
「行くがよい・・・元気で暮らせ、コビどの」
 コビが立ち上がるのを手伝うように、卑弥呼も椅子から立ち上がり、二人は手を取り合った。もうそれ以上卑弥呼は何も言わなかった。瞳にきらっと光るものがあったが、優しいほほ笑みを浮かべ、もう一度コビを見て、離れて行った。男王タモヒコともう一人の高官らしい役人が連れ添うように、卑弥呼は司祭場をあとにした。
 
 ・・・コビは再びもとの服装に戻され、カクキとも会えた。もう国へ帰らないといけないこと、ここでカクキとも別れないといけないことなどを告げ、別れを惜しんだ。カクキはコビと一緒に行くと言ったが、それはもとより叶わぬ夢であった。この国で卑弥呼女王に尽くして欲しいと諭した。剣はカクキに平和のために使ってほしいと頼んで返した。
 カクキは数日間の一緒の旅であったが、いろんな新しい言葉を覚えたと喜んでいた。そして<文武>に精進して立派な人間になると誓ってくれた。
 コビはワープして学校に戻れば、一瞬にして、この人達は千八百年前に消えてなくなるのだと思うと、胸が締め付けられるように痛かった。出来ることなら、このまま耶馬台国に居たかった。カクキと一緒に暮らしたかった。・・・・
「カクキ、さようなら。クモンさまさようなら。私は行かなければなりません。お二人仲良く、力を合わせて耶馬台国のために、そして卑弥呼様のために尽くして下さい・・・」
 カクキをしっかり抱き締めたコビは、涙を残し、カクキから離れた。そしてさっと物陰に入っていった。
 コビは一人、3階の女子トイレで泣きじゃくっていた。
 
 あれから一か月ほど経ったある日の6校時が終わって帰りの学活の時間。
 担任の原口先生が他の教室から6校時の講義が終わってすぐ来たのだろう、洋服に白墨の白い粉をいっぱい付けて入ってきた。
「起立!気をつけ!礼!」
号令係のいつもの大きな声が響く。
「井上がいないが、どうした」
全員を見渡したあと、井上辰男が居ないことに気が付き怒ったように言った。
「風邪らしくて、熱があるといって保健室に行きました」
クラス委員の真二が答えた。
「そうか、無断早退かと思った。あとで保健室に行ってみよう。・・・ところで春の課外授業だが、鎌倉と吉見の百穴のどちらにするか検討していたが、授業の進み具合から社会の内藤先生の強い希望で、吉見百穴およびサキタマ風土記の丘古墳に決まった・・・」
「えー!ディズニーランドじゃないのかよー」
「鎌倉の方がいいのにー」
「吉見なんとかって、どこ?」
「日光に遊びに行こうよ」
などと、てんでに口々に勝手なことをしゃべり始めて教室中がうるさくなった。
「うるさいな!お前らは。すぐワイワイガヤガヤ、雀の学校じゃないんだ!何がディズニーランドだ!何が日光だ!遊びに行くんじゃないんだ。社会の時間の課外授業だぞ!」
 いつもの風景だ。クラスとその担任は、うまくいっている場合は、このようについ教室が脱線することがある。それは互いに気心が知れている証拠であり、心底いがみ合って言っているのではない。クラスによっては担任が圧倒的な圧力で生徒たちを押さえ込んで、教室がシーンといつも静まりかえっているところもあり、担任が何を言っても何らの反応を示さず、先生に従うしかないようなクラスもあるが、そういう担任と生徒は往々にして良い関係とは言えない場合が多い。コビのクラスは結構明るいクラスで、担任の先生も人気があった。しゃべり方はメリハリがあり、説得力のある力強い言い方で、クラスの信頼も厚かった。
「そうら、怒られた。真面目にやれよ、お前らぁ。吉見のケツも知らねえのかよ。静岡県にあるんだようー。・・・ねえ先生、静岡にあるよねー」
と、いつも一番大きな声でおしゃべりをしては怒られているクラスのボス太田が言った。
「静岡にあるのは登呂の遺蹟じゃなかったかな。吉見の百穴というのは埼玉県の吉見にある遺蹟だよ」
「何が静岡だよー、バーカ」
「知ったふりすると、すぐこれだから困る!」
と、また教室がざわざわした。ボスはえへへと笑って誤魔化した。
「よし、よし、もういいから黙れ。・・・その吉見の百穴を見学することになった。午前中そこを見て、午後はサキタマ古墳のあるサキタマ資料館を回って帰って来る予定だ。ほかの学年やクラスはそれぞれ違った所に行くが、学校行事だから全校で、各クラスごとバスで行くことになっている。風邪を引いたりせんように注意しろ。それから社会の内藤先生からも説明があると思うが、吉見の百穴のことを予習して勉強しておくように。・・・くれぐれも遠足や遊びではないことを念頭に置くように。分かったな」
「はーい」
「よーし、今日はこれまで。掃除当番は3班が教室、4班は理科室だったな。さぼったりせんで、ちゃんとやっていくように」
「はーい」
「起立!気をつけ!礼!」
「さようーならー」
ワーと、いり乱れる毎日の放課後だ。ちょうどコビは3班で教室の掃除当番であった。仲良し麻美は当番ではないが、手伝ってくれた。
「ねーねー、吉見の百穴って知ってる?」
麻美が聞いた。
「ううん、ぜーんぜん。遺蹟だっていうけど、何の遺蹟なんだろうね」
コビも知らなかった。
「隣のクラスに吉見っているだろう。あいつのケツだよ」
と、そばで聞いていた男子生徒が茶化した。
「もーっ、あっちの方を掃除してて、あんたは!」
麻美が怒って言った。べーっと舌を出して、なおもちょっかいを出そうとするその男子をコビは箒(ほうき)で叩いて追っ払った。
「いつだっけ。遠足、じゃない課外授業」
麻美が机を整頓しながら言った。
「来週の水曜日よ」
コビは先生が話をしているとき、手帳のメモ欄を見て学校行事の予定日を見て確かめていたので、すぐ答えた。そしてワープして実際に見て来ようかなとも思っていた。
「そう、来週かぁ」
 掃除も終わって、今日はクラブ活動もない日なので、数人の仲良しグループと一緒に下校した。
 
 いつもより少し早く帰宅したせいか、ママはお買い物らしく留守だった。着替えたあと一人ベッドにごろんと横になったコビは、吉見の百穴ってどんな所か行ってみたくなった。予習もしておくように言われていたし、よーし行ってみようと思い立ち、地図と参考書を持ってうとうとし、来週水曜日朝十時の吉見にワープした。
 
・・・田んぼの畔道に立っていた。回りは田んぼだが向こうの方には家屋も立ち並び結構開けている。自動車の騒音も聞こえる。<こんな所にあるの?どれがそう?>、コビは不安になってきょろきょろ見渡すと、遠くに小高い山があり、それらしい雰囲気がする。<あれかな?、とにかくこんな畔道ではどうしょうもないので、大きな道路に出てみよう>、コビは急ぎ足で自動車の騒音のする方に歩いていった。橋があった。標識を見ると、市野川とある。地図を見て調べると大体の位置が分かった。国道四〇七号から入った松山・鴻巣線という大型バスがやっとすれ違うことのできるくらいの狭い県道である。そして吉見百穴方向の案内表示があった。橋から数分のところである。<ああ、ここを入るんだ>、県道から左に折れてちょっと山の中に入って行く感じである。右に松山城址という看板があり、小高い山になっている。
 そちらの方には行かないで、百穴の方の案内表示にしたがって左に折れて、そのまま二、三百メートルも行くと、お土産店もあり、広い駐車場もあった。なるほど、これなら大型バスで来ても駐車できるし、Uターンもできる。
 横穴墳墓もすぐ分かった。標高五、六十メートルくらいの小高い山に蜂の巣のように穴が見える。しかし、中に入るには観覧料を払わないといけない。団体だと安いが、一人だと中学生以上は大人料金で一五〇円だ。幸いジュースを買うくらいの小銭を持っていたのでよかった。入ると、軽食もできるくらいな二、三軒のお土産店もある。<これじゃ、勉強に来るんじゃなくて遠足になってしまうわ>、コビは苦笑しながら正面の大小さまざまの横穴墳墓を見た。
 山を刳り貫いて作った横穴がいっぱいある。入り口でもらったチケットに現在は二一九個あると書いてある。山といっても普通の土砂では、こんな穴はできない。掘ってもすぐ崩れてしまう。凝灰岩でできた丘稜である。だから硬いので、掘ったあと何も補強をしなくてもいい。古墳時代後期というから、今から一三〇〇年くらい前のお墓である。江戸時代から人々には知られていたが、本格的に発掘調査したのは、明治二〇年に坪井正五郎という学者だそうだ。当時は、これらは先住民族のコロボックル人の住居跡だとか、松山城の兵器庫だとか言われたが、現在の学説では、墳墓ということになっている。発掘したのは総数二三七基だったそうだが、現在は二一九基になっている。
 実際、中を見ると、大体一つの穴に二体が横たわって葬られたと思われる石造りの床がある。大きな洞窟になっている玄室もあり、すでに盗掘された跡もあったそうだが、発掘調査では人骨をはじめ、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)、金環、直刀、埴輪などの副葬品が発見されたようである。
 山裾の横穴にはヒカリゴケが発生している所もある。国の天然記念物に指定されているそうだ。よく見ると、緑色のコケである。三箇所くらいあったが、黄金色に光って見えたのは二箇所だった。
 平日の朝十時ということもあり、見物人は少ない。ちらほらと二、三人いたくらいであった。
 コビは一応の予習はできたので、すぐワープして帰ろうかとも思ったが、そうあわてて帰ることもないので、市野川を見ようと、来た道をゆっくりと引き返してきた。ちょうど松山城址の立て看板付近まで来たとき、それまで静かだった山道から、県道に出るところで急に騒々しくなった。何事かとそーっと遠めに眺めてみた。県道に出るT字路で乗用車同士が衝突して大きな事故になっている。そしてその向こうにバスが立往生している。乗り合いバスではなく、大きな貸切バスである。二台の事故車が道路をふさぐように、めちゃめちゃになっているので、バスが立往生しているのだ。ふと見て、コビはびっくりした。そのバスの窓に自分の学校の「文京区立聖心中学校二年E組」と表示があるではないか。ガイドさんのそばに担任の原口先生がいる。社会の内藤先生も乗っている。真二君や友達がみんな乗っている!やばい!わたしもいるはずだ。自分と出会ったらどうなるか、まだ知らない。一度もそういう経験をしたことはまだなかったからだ。とにかくやばい。すぐ百穴の方に引き返して、民家の蔭に隠れた。しかし、何だか頭がぼーっとしたり、またはっきりしたり、何だかおかしい。
 バスは前にも後にも動けないので、自動車の事故処理が終わるまで、このままというわけにいかないので、ここで皆んなを降ろした。ここからなら、百穴まで、そう遠くない。道に迷うこともない。
 原口先生と内藤先生を先頭に、友達みんなが歩いてきた。バスガイドさんは観光地を案内してくれる通常よく言われるガイドさんではなく、バスに乗務員として乗らないといけない規則になっている女性のガイドさんである。運転手となにやら打ち合せをしたあと、クラスの生徒に交じって一緒にやってきた。
 先回りして、遠くから民家に隠れて、みんなの行動を見ていた。原口先生が団体券を買ってみんなを中にいれたが、素早く抜け出して出てきた男生徒がいる。四人だ。<あ、あの連中!さぼっている!>
 こちらにやってくる。例のクラスのボス、太田信宏率いるワルだ。もちろん真から悪い仲間ではないが、トイレでタバコを吸ったり、下校後は大抵ゲームセンターに入り浸りで、勉強という勉強はほとんどしないので、各先生をてこづらせるグループである。どのクラスにも数人はいるものだ。
 案の定、私に見られているのも知らずに、それぞれがタバコを取出して、マッチやライターで思い思いの風体で火をつけて吸い始めた。プカプカと煙を出すだけの者もいるが、太田を含め、三人はしっかりと肺に吸い入れて、いわゆる一服して「いい顔」になっている。これは本物だ。
 コビはどうしようかと迷ったが、彼らに貸しを作るいいチャンスだ。思い切って、すっくと彼らの前に出ていった。
「信宏君、なにやってんの!」
「おおおっ。おめえ。どうしてここへ」
 反射的に全員がタバコをサッと落として足で踏みつぶした。そして呆気に取られてコビを見つめた。
「先生に言い付けるのか」
太田はボスとはいえ、意外と女性には弱く、また優しいところもあり、コビに対して暴力的な態度に出ることはない。
「言っていい?」
「ダメだ!言ったら承知しねーぞ」
仲間の一人である塚本が、つつっとコビの前に出てきて強い調子で言った。
「脅す気?」
コビは普段から太田には、そう敵視した気持ちは持っていないし、言動が可愛いところがあり、むしろ好感さえ抱いていたが、この塚本は人のノートやシャープペンシルを盗むのは日常茶飯事で、現金を盗むこともある。暴力も振う。分かっていても先生には誰も訴えたりしないので、のさばっているのだ。カバンを持って登校したことはまずない、いわゆる不良と名指しされるワルで、コビは嫌いな男の一人だった。むっとして塚本を睨んで、思わず太田のそばに身を寄せた。
「塚本、てめぇは黙ってろ!」
親分らしい口調で、太田は塚本の胸をかなり強く押してコビから離した。太田は身体が大きいので、小柄の塚本はよろよろっと、うしろによろめいた。
「小宮山よー、見逃してくれよ。一週間前にもトイレで見つかってよー、親同伴で説教食らったばかりなんだよ。また校長室なんていやだよ。今度はどう始末つけられるか分かんねぇからよー」
「じゃあ、タバコなんか、やめればいいじゃない!」
「それができりゃ、苦労はしねーよ」
仲間の一人が口を挟んだ。
「やめる、やめる。今日かぎりゼッテーにやめるから、先生には内緒にしてくれよ、な」
「うそばっかり」
「ウソは言わねー。ゼッテーだ。この通り」
と、太田は右手を顔の前にもっていき、拝んでみせた。
「・・・それは、そうと小宮山。おめえ、その格好は何だ。私服じゃんか。どこへ制服を隠して、こんなところで何やってんだ」
仲間のもう一人が覗き込むようにして言った。
「そう言われてみればそうだな。何だよ、それ」
と、太田もコビの洋服を引っ張るようにして言った。
「あ、これね。ちょっとワケありで」
コビは笑ってごまかしながら、後ずさりして言った。
「とにかく、見逃すから、もうこれからタバコなんか吸わないことね。どこで誰に見られているか分かんないわよ。体には悪いし」
コビは自分も先生に見付けられるとヤバイので、早くこの場から立ち去りたかった。その態度がいかにもきまり悪そうだったのを太田は見て、すかさず念を押した。
「よし、決まった。俺達もおめぇがここで私服に着替えてさぼっていたことは言わねぇからな。男と女の約束だぞ」
 男と男の約束というのは聞いたことがあるが、男と女の約束って婚約みたいだとコビは内心おかしくて笑いそうになったが、ニコニコしながら、さらに後ずさりして、バイバイと手を振って物陰にさっと隠れてワープした。
 
 コビはガバッとベッドから飛び起きた。ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。ちょうどママがお買い物から帰った時だった。
 
 ・・・一週間が過ぎた。いよいよ校外授業の日である。各クラス別に思い思いの場所に行くので、学校から出発する時間もクラスによって若干異なる。鎌倉に行くクラスもある。近いところでは、青梅の日原鍾乳洞から吉川英治記念館、玉堂美術館を回るクラスもある。コビ達もそう遠くはないので、集合は八時半、いつもの始業時間と同じである。数人の遅刻者のために、十五分遅れて出発となった。
 課外授業であり、遠足ではないので、おやつやウォークマンなどを持って来てはいけないことになっている。平日でもあるし、関越自動車道もスムーズで東松山インターチェンジまでは一時間ちょっとである。ただ、その間も内藤先生の授業はあった。マイクを持っての講義である。
「埼玉県には意外と多くの古代の遺蹟が多くあります。最初に見学する吉見の百穴もそうですが、最も有名なのは115個にも及ぶ金象眼の文字が刻まれている鉄剣が発掘された稲荷山(いなりやま)古墳です。九基の古墳群のある「さきたま風土記の丘」と呼ばれる史蹟公園にも今日は午後行くことにしていますが、そこにあります。もっと昔の旧石器や縄文時代の遺蹟や遺物も多く発見されていて、埼玉県にはすでに五千年以上も前から先住民が生活を営んでいたことが分かっています。もちろん弥生時代になって水田耕作が進むようになってからの住居跡なども多数発見されています。・・・」
 殆どの生徒は何も聞いてはいない。幾人かの女子は持って来てはいけないことになっているおやつをポリポリやっているし、男子も数人はウォークマンを見つからないように座席に深く座って聞いている。遠足や修学旅行なども含め、こういうバス旅行では一番後部席に座るのは、たいていクラスのボス陣で、よく騒ぐ連中である。前の方は乗り物酔いをしがちな、ちょっと体の弱い子やおとなしい子で、中央付近が、いわゆる普通の子である。自由に座らせると、まずこのような分布になる。コビのクラスも例外ではない。朝、登校順に自由に座席を選ぶことになっていたので、自然にこの法則にしたがっていた。
 コビは中央付近に麻美と一緒に座っていた。後の方はちょっとうるさいが、しかし内藤先生の説明はマイクであるため聞き取れる。
 コビは小さい頃から父親の影響もあって古代の歴史は好きであった。ロマンがあると父親によく聞かされていた。とくに父小宮山達造は現在は美術館の館長であるが、縄文土器に見出だされる感性に美術としての価値を位置付け、「博物」と「美術」の間には密接な関係があるという美術論を展開して学位を取った人物である。
 やがてバスは東松山インターを降りて、市ノ川に面する丘陵が見えてきた。あそこだ、コビには分かっていた。橋を渡ってしばらく行ったところで、バスガイドが、
「そろそろ吉見百穴に着くので、降りる準備をしてください」
と、マイクで居眠りをしている者たちを起こすように放送した時だった。前方でドンと車と車が衝突したような大きな音がしてバスが急停車した。コビは<しまった!事故が起きないようにしてあげればよかった>と思ったが、すでに時遅く、T字路の出会い頭の乗用車どうしの凄まじい衝突事故であった。
 この時コビは妙な気分に襲われた。フーッと意識が薄らいで朦朧としてきたのだ。自分が自分でなくなるようだ。<これはきっと一週間前の私のせいだ、近くに私がいるせいだ。もっと離れなくちゃいけない!>。
「コビ、コビちゃん、どうしたの?気分でもわるいの?コビはバスには強いはずだったのに・・・」
麻美が心配してコビの肩を揺すりながら言った。
「大丈夫、ちょっとめまいがしただけ」
 そういってコビは無理矢理笑顔をつくったが、半分寝ているようだ。<向こうの私と、ここの私とどちらが本物なの?そうだ!エネルギーの強い方が本物なんだ。だからエネルギーが行ったり来たりしているに違いない!>
 コビは麻美に支えられて、バスを降りようとしたところまでは覚えているが、その後は、麻美と一緒に横穴墓の前の立て看板の説明をノートに写しているところで突然意識がはっきりするまで何一つ覚えていなかった。
・・・・
「コビ、大丈夫?ほんとに」
「あ、麻美。・・・私変だった?」
「変も、変。おお変よ。言うなれば大・変だったわよ。何を言ってもウンウンだけ。第一まともに歩いてなかったわよ!まるで夢遊病者みたいで」
「ごめん、ごめん。凄く気分わるくて・・・でも、もう大丈夫よ」
 手元のノートを見ると結構きれいに書いているが、自分では全く書いた記憶がない。周りを見渡すと、友達の姿もちらほらで、それぞれに気の合うグループごとに見学して回っているようすだ。
<そうだ、思い出した。太田君や嫌な塚本君などはどこに行ったかな>、きょろきょろ見渡すと、いたいた。意気揚揚と勝ち誇った様子で肩で風をきって、こちらにやってくる。
「嫌な奴らがやってくるわよ。いつもあのグループは金魚のフンみたいに食っついて歩いているんだから」
麻美はいかにも嫌っている風に、書き終わったノートを閉じながら言った。
「でも、カシラの太田君は心底のワルじゃないと思うよ。お山の大将になりたいだけよ」
コビは太田だけは何かしら弁護するような気持ちになっていた。
「まあね。あいつ、おもしろいとこあるし」
 コビたちを発見すると、急に走りだしてこちらに突進してきた。
「小宮山!いつの間に、ここに来たんだ!それに制服じゃんか」
息をハーハー弾ませて太田が言った。
「そうよ。わるい?あんた達がボヤボヤしている間にちゃんと勉強も済ませたしィー」
「行きましょう、コビ。不良仲間にされたら困るから」
麻美はコビの手を取ってひっぱった。
「何だと、このやろう!」
 塚本が目をむいて麻美の方に行こうとしたが、すぐ太田は中に入って言った。
「おめぇ、不良じゃねえのか。不良だから不良と言われたんだよ。マーは何も嘘はついてねえ。がたがた怒るんじゃねえーよ」
 さすがボスだ。子分の扱いには慣れている。マーというのは麻美の愛称で、先生までがマーと呼ぶことがある。
「それにしても、コビ、おめえ不思議な女だな・・・後でノート見せろよな。レポートなんか書かせやがるんだから、いやんなっちゃうぜ。ノート見せなかったら、あの事がバレるぜ」
「何のことかしら?バレるのはそっちじゃないこと?頭から煙が立ち昇っているわよ」
コビは涼しい顔で、自分の頭をなでながら言った。
「畜生!・・・とにかくノートをコピーするんだ、いいな!」
 どうも太田はコビに気があるようだ。ノートを見るだけなら男子生徒で言うことを聞く者は大勢いる。社会好きの真二などは、とても詳しいレポートをいつも書いては先生に誉められている。ちょっと脅せば簡単なレポートまで書いてくるだろう。しかし、あえてコビにノートを見せろというのは、やはり近付きたい一心だ。コビは他の奴らでは見せるのは嫌だが、太田ならコピーをあげてもよいと思った。
「はい、はい。お殿様。あした差し上げます」
そう言ってコビは麻美が落ち着きがなく、その場から逃れようとしているのを悟って、一緒に連れ立って急ぎ足で、他の百穴の方に回って行った。
 
 約一時間ほど吉見百穴の見学をして、午後は行田市のサキタマ古墳群のある<風土記の丘>と呼ばれる公園に行った。
 例の自動車事故のあったT字路は、すでにすっかり後始末が終わって正常な道路に戻っていた。この県道を東にJR鴻巣駅を過ぎると、国道十七号道路に出る。これを数分くらい北上して、すぐ右に折れる県道があり、二十分くらいでサキタマ古墳群に到着する。バス内では相変わらずおしゃべりの場になっていた。
 各自持ってきた弁当は風土記の丘公園で食べることになっているのに、すでに先生に見つからないようにして食べた者もいる。
 やがて大きな駐車場に到着した。全国から修学旅行などで立ち寄れるように配慮されているのだろう、乗用車も含めると何十台も駐車できる広い駐車場だ。県道を挟んで両側に古墳群はあるが、駐車場側に例の有名な稲荷山古墳がある。そして反対側にあるサキタマ資料館に、その古墳から発掘された『金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)』が展示されている。これを観るために、はるばる修学旅行などで立ち寄るようにコースが組まれるとも言われている。
「バスを降りたら、県道を横断するので、車には注意して、信号無視など絶対にしないように」
 担任の原口先生がバス内のマイクを使ってみんなに注意をうながして言った。
「そして、渡ったら、左手にレストハウスがあるので、そこで弁当を食べる。食後に一緒に資料館に入るので、早く食べ終わった者も遠くに行かないように。わかったな」
「はーい」
返事だけはいつものように調子がいい。
「ちょうど一時に資料館に入る。団体券になっているので、必ず一緒に入るように。その後は自由に見学をして、資料館を出るのは時間は指定しない。出たら、この駐車場の奥の公園に行けば、さっき内藤先生が説明された稲荷山古墳や丸墓山古墳などがある。で、この駐車場に戻るのは、三時。いいな、三時だぞ・・・おい、井上!お前は何をさっきからごちゃごちゃと騒ぎ立てているんだ!先生の言ったこと、分かっているのか!」
「はーい、分かっていまーす」
「資料館に入るのは何時だ、言ってみい」
「十二時でーす」
「バーカ、アホー、チョロ」
一斉に笑い声や罵声が飛んだ。
「だから、ダメだと言ってるんだ!先生が話をしている時は、まじめに聞け!」
 原口先生は運転手やガイドさんの手前もあり、それ以上は怒ったりしなかったが、いささか閉口した様子だった。
 しかし、こうやってバスから降りる前に、マイクを使って予定を説明するのは凄くいい。レストハウスなど、広いところに行ってからだと、かなり大きな声で話しても、ちゃんと聞こえないからだ。原口先生の、こういった要領を得た指導もクラスの人気の一つである。
 バスガイドさんはにこにこしながら原口先生からマイクを受け取り、
「井上君だっけ?三時よ、このバスに戻るのは三時ですのでね。間違えないようにしてくださいね」
と、念を押すように井上の方を向いて言った。
「それじゃ、貴重品は身につけて行ってください。お弁当も忘れずに持って降りてくださいよ」
 ガイドさんが言い終わるやいなや、どーっとバスから全員降りたが早いか、一斉にレストハウスの方に向かった。よほどお腹が空いているとみえる。横断道路の信号脇にあまり上等ではないお店があり、缶ジュースなどの自動販売機があるが、男生徒はワッとそこに駆け付ける。思い思いの飲み物を確保すると、レストハウスでの食事が始まった。
 吹き抜けの、屋根があるだけの東屋(あずまや)であるが、テーブル付きの、二〇〇人くらいは入れる大きな立派なところだ。
「私、小学生のとき、父に連れられて、ここは来たことがあるわ」
コビは麻美達数人の仲間と一緒に弁当を食べながら、言った。
「コビは、お父さんがこういう仕事をしているもんね」
麻美がコビの弁当のおかずを少し取りながら言った。弁当のおかずは大抵の場合、こうしてあげたり貰ったりするのが通例である。
「ううん、仕事とは関係ないと思うけど、父は興味があるのね。古墳などが。それで私をあっちこっち連れて行ったわけ。・・・でも、あの時は、こんなレストハウスなんてなかったわ。たしか。・・・緑の多いとこで、気持ちいいわね」
「そうね。勉強じゃなくて遠足で来るといいんだ」
「そうよね。授業の延長なんていうから、乗り気しないんだ」
「この隣の建物はなーに」
「埴輪の館と書いてあったわよ」
「ハニワ?へー、行くの?」
「向こうの資料館には団体で入るって言ってたけど、ここは聞いてない。行かないんじゃん」
 あれこれ雑談しているところへ、内藤先生が横から口を挟んで言った。
「この埴輪の館には今回は行かない。時間もないし。ここは実際に埴輪を作る実習ができるようになっているんだ。高校生や一般の人も利用しているようだよ」
「わー、作ってみたい。埴輪って、こうなって、こうなって、人の顔が粘土で作られている、あれでしょう?」
「そう、そうなって、そうなって、粘土だ」
 内藤先生がちょっとおどけた様子で、手振り、手真似したので、みんなどーっと笑って口からご飯をプッと出した者もいた。
 
 一時になり、みんな揃って入館した。通常の入館料は小中高校生とも三十円で、一般は五十円である。団体料金は貰った「見学のしおり」を見たら二十名以上二十円となっていた。
 入って左の方の資料館は民俗文化財「北武蔵の農具」と題して、昔から使われていた稲作や麦作、綿作などの用具を展示している。その数一六四〇点というから、凄い数だ。サナブチと呼ばれる麦の脱穀機やタレマキと呼ばれるタネ撒き用具など、最近ではすっかり見られなくなった用具が、使われていた当時そのままの形で保存されている。
 コビ達数人のグループは最初にこの展示館を見てから、いよいよ国宝の鉄剣のある資料館に行った。博物館というと、なにかしら暗いイメージのするところだが、ここは明るくて広い。展示点数としては多いほうではないが、一つ一つが古代人の息吹をそのまま伝える遺品ぞろいだ。
 圧巻は何といっても稲荷山古墳から出土した千五百年前の遺体埋葬時の副葬品の数々である。しかも盗掘に合ってないので、そのままの形で副葬品が出土している。ただし、遺体は全く残ってなかったという。横たわっていただろう遺体の耳の位置から銀の耳飾りの環、腰の位置から帯を止める金具、首の当たりから勾玉(まがたま)、そして左右には直刀、鉄剣、槍が、その他、矢とか兜(かぶと)など十点ばかりの装身具や権力を象徴する副葬品である。
「ねえ、ねえ。これ、日本に六個ほど同じものが発見されている中国製の銅鏡だって。よくこんなものが埼玉県から出てきたわね」
 ひそひそと、麻美がコビの耳元でささやいた。みんな熱心にノートにメモを取っているので、つい話し声も小さくなる。男生徒も意外とおとなしい。館内は大きな声でしゃべると響くし、第一明るくきれいであるのが、彼らをそうさせているのだ。
「そうね、耶馬台国の卑弥呼も持っていたそうよ。それと同じかしら」
「発見された場所の地図があるけど、あれを見ると、そうではないようよ」
「そうね、いずれにしても、こんな凄いものを持っていたんだから、この古墳に葬られた人は相当身分の高い人だったのよね。この人に会ってみたいな・・・」
「鏡でしょう。こんなもので、顔がよく写るの?」
「姿見ではなくて、神を祭るとき使う神具だって」
「ふーん。しかしよく漢字が並んだものね。画文帯環状乳神獣鏡・がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)か」
 また、沈黙が続いてせっせとノートしていった。埴輪や土器壷など多数の展示物を出土場所や年代順に整理していった。
 やがてお目当ての中央にある国宝「金錯銘鉄剣」に移った。男子生徒などは、
「ただの錆びた鉄剣じゃん」
と、言いながら、ちらっと見ただけで通り過ぎて行くが、コビには背中がぞくっとするほどの感激を覚えた。小学校のとき、父に連れられて来て見たときは、こんな感激は全然なかった。それこそ錆びた鉄の棒にしか目に写らなかった。
<ああ、この鉄剣を持っていた人と会いたい>、コビは居ても立ってもいられなくなったが、ここで居眠りするわけにはいかない。
「ねえ、ねえ、この鉄剣に何が書いてあるの?、こんなに錆びているのに、よく文字が分かったわね」
麻美がコビに聞いた。
「金を埋め込んでいたため、文字の部分が錆びから守られたそうよ。でも昭和四十三年に発見したときは全然分からなくて、十年も経ってからX線で見て発見したんだって」
コビは資料を見ながら言った。
「まさにタイムカプセルね」
「なんて書いてあるって?」
「辛亥年(西暦四七一年)の七月中旬に、私、ヲワケの臣は記しておく。私の遠い祖先の名はオオヒコ、その子の名はタカリのスクネ、その子の名はテヨカリワケ、その子の名はタカヒシワケ、その子の名はタサキワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨ、その子の名は、私、ヲワケの臣である。私の家は代々杖刀人(じょうとうじん)の首長として、大王にお仕えして今に至りました。ワカタケル大王の朝廷がシキの宮におかれていた時、私は大王の天下を治める事業を補佐し、この鍛えに鍛えたよく切れる刀を作らせて、私が大王にお仕えした事を書き残しておくものである」
「そんなにきちっと文章になって残っていたの?」
「そう、全部で百十五文字の漢字ばかりだけど、鉄剣の両側に刻み込んでいたわけ」
「すごいなー。ワカタケル大王というのがその当時日本を統治していた人ね。西暦四七一年か、今から一五二二年前。エー!」
「そう、ワカタケル大王は、のちに天皇と呼ばれるようになったご先祖様ね」
「聖徳太子とどっちが古いの?」
「聖徳太子は、それから一〇〇年くらい後に現われた人よ」
「耶馬台国の卑弥呼は?この頃?」
「姫子様はねー。えー、三世紀前後だから、これより二〇〇年ちょっと前ね」
「なーんにも知らなくてごめんね」
「いいの、いいの、こんな事知らなくても生きていける」
 二人は笑いながら終わったから、もうそろそろ出ようかと内心、同じ事を考えていた。
 辺りを見たら、もうすっかりみんな外に出たようだった。館内には、ちらほらと数人いるだけになっていた。
 やがてコビはグループとも分かれ、麻美と二人で資料館の前にある旧家農家を移築した保存展示民家を一通り見学して、古墳の方に行った。
「何はともあれ、稲荷山古墳ね」
コビは貰った見学のしおりの地図を見ながら言った。
「そうそう、あの鉄剣が発掘されたとこね」
 非常に広い公園になっているので、友達はてんでバラバラで、あっちこっちに散在しているだけで込みあうことは全然ない。それに平日だし、私たち聖心中学二年E組以外には誰もいない。いや二、三人の大学生らしい見学者を見かけたが、もうどこにいるのかわからない。
 二人は駐車場をつっきって真っすぐに丸墓山古墳という円形墓に登った。石段になっていて、てっぺんまで行ける。説明看板を見ると直径一〇二メートル、高さ一八・九メートルで、わが国最大の円古墳だそうである。西暦五〇〇年頃と推定されているので、稲荷山古墳より三十年ほど経ってからのものだ。
 麻美はたったのこれしきの山に登っただけでハーハー息を弾ませている。
「麻美、あれよ。稲荷山古墳は!」
 コビは興奮気味に大声で叫んだ。前方後円墳の全容がよく見える。小学校の時、来たことがあったはずであるが、全く覚えていなかった。来る途中の広い芝生の公園は覚えていたが、いろんな古墳が一望に見渡せるのに、この古墳に登った覚えが全くない。多分登ってないのだろう。
「はい、はい、分かった。もういいよ、疲れた」
麻美はしゃがみこんで言った。
「ねー、行こうよ、あの古墳まで」
コビは稲荷山古墳を指差しながら言ったが、麻美は、
「先に行ってて、あとから行くかも知れないし、行かないかも知れない」
と、しおりの地図を見ながら、あやふやな返事をした。よほど遠いと見えたのだろう。実際には三、四百メートルくらいだろう。
「じゃ、先に行っているわよ」
 コビは一人で、今登ってきた石段とは反対の段々を下りて行った。
<麻美、ごめんね>、コビはさっと茂みに入って西暦四七〇年にワープした。
 
 コビは川のほとりに立っていた。<どこだろう、市野川かな、いやサキタマ古墳に来たのだから荒川かも知れない。でもそれにしてはこの川は荒川ほど広くない>、コビはとにかくヲワケの臣に会いたくてワープしたことを思い出した。周りは水田が開けていて、布をまとっただけの貧しい身なりの農民がそこここで草取りをしている。遠くには農家らしい草葺き屋根の家と耶馬台国に行ったとき見た竪穴式住居が散在している。草葺き屋根の方は農家を取り仕切る、のちの庄屋に発展する身分の家だろう。コビはぬかるみに足を取られそうになりながら、畔道を下りていき、農民の一人に聞いてみた。
「すみません。ここはどこですか?この川は何という名前ですか?」
 さっきから、こちらを見ておどおどしていた様子だったが、いよいよコビが近付いてくるにおよび、一層体を震わせながら、畔道に躍り出て地面に顔を押しつけて土下座をした。恐らく衣服や髪型が全く違うし、高貴な人物だと思ったのだろう。コビはすぐさとったので、落ち着いて言った。
「何も危害を加えるわけではありません。ここはどこかと聞いているのです。」
「ははー、三輪の国でございます。一度たりとも大王に逆らってはおりません。こうして働いております。なにとぞ命だけはお助けください」
まだ結構若々しい声なのに、手や顔は、四十過ぎいやそれ以上に年老いて見える。
「そこの川は何という名前ですか?」
「ははー、大和川でございます。なにとぞ命だけはお助けください。」
 三輪、大和川。ここは奈良県なんだ。コビはすぐ都のある場所であることがわかった。その時、狭い道を数人の家来を連れて、若武者が先頭で馬に乗って突進してきた。
「誰ですか、あれは」
「ははー、小碓尊(おうすのみこと)でございます。逆らってはおりません。命だけはお助けください」
なおも農民は土下座をしたまま、震えながら答えた。
「私は大丈夫よ。オウスノミコト?」
「はい。興大王の皇子でございます。狩りに出掛けるところでございます。道に出ておりますと一太刀で殺されます。なにとぞ、私めはここで・・・」
 土下座をしたまま動こうとはしない。怯えきっている。他の農民も、コビに気が付いたのか、畔道に出てピタッと頭を地面に付けて土下座をしている。よほどコビのことを大王の使いで、何かを探ろうとしているように思ったのだろう。
 やがて、その一団は凄い勢いで通り過ぎたが、二、三百メートルも行って、すぐ引き返してきた。コビ達を見付けて大声で怒鳴った。
「そこの見慣れぬ服装の童女、何をいたしておる。ここにまいれ!」
「殺される!私めはここで・・・」
がたがた震えながら農夫はコビにすがるように言った。
「そんなに小碓尊は人殺しを平気でするのですか」
「・・・」
「答えてちょうだい!」
コビは少し強い調子で言った。
「は、はい。ご幼少の頃から荒っぽい性格で。・・・」
口を閉ざしてしゃべらなくなった。
「どういうことをしたの?正直に答えないと、あなたも!」
と、コビは更に強い口調と、片足でドンと地面を叩いて言った。
「は、はい・・・大王に、・・逆らった役人を、・・馬で、・・市中を引き回して、・・体をづたづたにしたのち、・・穴を掘って、・・首まで生き埋めにして、・・殺しました・・なにとぞ命だけはお助けください」
「わかったわ。とにかくあなたは大丈夫よ。仕事を続けていいわよ」
コビはなおも呼び続けている土手の方に目をやって落ち着いて言った。お百姓がこんなに怯えるなんて、よほどあの小碓尊やらは怖くて、嫌われているんだ。
 覚悟を決めて、畔道を昇って行った。さっと数人がコビを取り巻いた。いつでもワープできる体勢にした。
「見慣れぬ童女じゃ。どこから来た!」 
 これが小碓尊か。随分生意気な若蔵だ。歳は十五、六か、身なりは立派な大人だが、どことなく幼い感じもする。顔立ちの良い細おもてで、女装すれば似合うような美男子であるが、態度がでかいのが気に入らない。髪型は例の美豆羅(みずら)である。両耳のところで長い髪を結んでいる。服装は家来は小袖を羽織っただけの粗末な足姿であるが、小碓尊は水干を羽織り、靴も他の足袋のようなものとは全く異なる物射沓と呼ばれる立派なものである。一目で狩装束であるのが分かる。戦闘用の服着ではない。
 コビは何と答えようかと考えたが、とっさに答えられないで、たじろっていたら、いきなり腰の剣をサッと抜いた。いけない!殺される!、コビはさっきの百姓の怯えていたのがよく分かった。パッとワープした。
 数人の家来と一緒に小碓尊も、瞬間に稲荷山古墳の隣の麻美が休んでいる丸墓山古墳の頂上に現われた。
<しまった!麻美だ。麻美を巻き添えにしてはいけない!>
「麻美、こちらに来て!」
コビは叫んだ。麻美は一瞬何事が起きたのか分からなかったが、数人の見たこともない、いや教科書などで見たことのある古代人そっくりの男達が辺りをきょろきょろと見渡して何やらぶつぶつ言っている。その中の一人は手に剣を持っている。麻美はさっとコビのそばに掛け寄った。
「何?この人たち!」
「説明しているひまないの!一緒に来て!」
コビは言うが早いか、もう一回ワープした。さっきの土手の上である。コビは麻美を後手にかばいながら、彼らから離れた。
「な、なんだ!今のは!そは何者じゃ!」
今度は本当に切り掛かるように剣を大きく振りかざした。コビはまたワープした。さっきの丸墓山古墳の頂上だ。なおも麻美の手を引いて後ずさりしながら言った。
「遠い国から来た神である!無礼を働くと容赦せぬぞ!」
コビは威嚇するような手振りで右手をさっと胸の所に置いて言った。
 ほんの一、二分の間に、全く同じ服を着た二人の少女が目の前に現われ、辺りは見たこともない場所だ。家来達は驚きおののいた。遠くをきょろきょろ見渡している。
「私を見なさい!」
 そう叫んで、全員が自分を見た瞬間にまたワープした。一人でも現代に置いてきぼりにしたら大変だ。
 再び大和川の土手の上に全員が現われた。
「こ、これはどういうことじゃ!」
小碓尊は大きく剣を振りかざしたまま、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてコビと麻美を見比べた。
 コビは自分だけなら何とかなるが、麻美を一五〇〇年前の時空にさ迷う事にでもしたら大変なので、一刻も早くこの場から二人だけでワープしたかった。
 そうだ!鏡だ。耶馬台国の卑弥呼を助けた時の事を思い出した。あれに限る。剣より強いはずだ。メモノートや筆記用具、身分証明書、それにさきたま資料館で買ったばかりのガイドブックなどを入れて持っていたバッグから手鏡を取り出した。真っ正面に太陽がある。いきなり小碓尊の顔面に向けて照射した。至近距離からやられたのだから堪らない。目がくらっとして見えなくなってしまった小碓尊はワーッと言って剣を放り出し、顔を押さえて地面に座り込んでしまった。
「麻美、鏡持ってない?」
「持ってるわよ」
「家来にも浴びせよう!」
 何がどうなっているのか、検討もつかないが、麻美も言われるまま、鏡を取出し、古代人に光を浴びせた。麻美の方が鏡が大きい。強烈な眩しさだ。次々と家来たちも地に伏せて目をおおった。
 いまだ!コビは麻美を抱えてさっとワープした。
「コビ、今の何?」
 もとの丸墓山古墳の頂上に現われた麻美は、辺りを見渡して誰もいないので、きょとんとして言った。
「夢を見ていたのよ。大丈夫よ。麻美」
 コビはもう少しのところで、麻美を大事件に巻き込みそうになったことを反省した。
「疲れているのよ、もう少し休んでから、おいで。先に稲荷山古墳に行ってるわよ」
「うん、先に行ってて。私、頭がくらくらする」
 コビは石段を下りて、草むらの陰から再びワープした。
 
 小碓尊をはじめ数人の家来は顔をおおって、地面に伏せている。どうやら降参した様子である。
「剣を収めなさい」
 どうだ、参ったかと言わんばかりに勝ち誇って、コビは一層威厳を持って言った。
「私はコビ。神の使いとして、この地にやってきました。もう手荒な真似はしないと誓いなさい」
「わかった。コビどの。ぜひ我が宮に来て話を聞きたい」
 小碓尊はコビのことを、見たことのない服装と髪型で、何やら未知の呪術を使う只者ではないことを悟って素直に従うようになった。
 コビは宮廷に行く前に狩りを見たいと小碓尊に頼んだ。小碓尊は喜んで承知し、コビを馬に乗せて走った。当時の乗馬には鞍がない。コビは小碓尊にうしろから抱えられるように乗っているが初めてだったので少々恐かった。しかし遊園地のジェットコースターに乗ってキャーキャー騒ぐようなわけにはいかず、必死でたてがみを握って耐えた。
 当時の乗馬は王やその一族、高官、指揮官等に限られ、また馬の数そのものもそう多くはなかった。もともと日本には馬はいなかったのだが、モンゴルの騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本、もちろん当時は倭の国であるが、弥生時代後期に移住してきた際に馬も導入されたとされている。
 小碓尊はのちの倭武尊(ヤマトタケルノミコト)であり、さらに時を経て武王(ワカタケル大王/雄略天皇)と名告り、日本を統治する天皇となるが、この系列である讃大王(仁徳天皇)、珍大王(反正天皇)の先祖は中国後漢時代には鮮卑(せんぴ)と称されていたモンゴル騎馬民族直系の有力者だったのである。三世紀、四世紀には北九州圏、出雲地方、近畿圏と三大勢力があったので、百済系の騎馬民族は先人達の渡来経路を辿って、この近畿地方に移住して勢力を伸ばしていったのである。ちなみに出雲地方の豪族は新羅から対馬海流に乗って渡来した人達で結束していた。
 小碓尊の馬さばきは荒っぽかった。コビは今にも振り落とされんばかりであった。野原では兎を、そして山中では鹿を追い、狩りをした。狩りといっても獲物を取ってくるのではなく、ただ弓矢で撃ち殺してそのままにしておく遊びである。コビはなぜそういうことをするのか、厳しく問い詰めたが、小碓尊には逆にコビのそういう考えが理解できないようであった。こうした普段の遊びが軍事訓練であり、腕を磨く修練なのである。事実、小碓尊の腕は確かだった。鹿の一瞬の動きを察して、矢をぴゅーっと鹿の右前方に、あるいは左前方にと目掛けて放つと、見事に背中に命中する。そのつどコビはキャーといって目を覆うのだが、小碓尊はコビのそのキャーが何か呪術であるかのように喜んだ。コビにとって野山を掛け巡るのは楽しかったが、動物を殺してそのままにしておくのは忍びがたい思いであった。
 夕方近くになってようやく狩りを終えた小碓尊ら一行は山を下り、里を掛け抜け、三輪の興大王(安康天皇)の宮廷に戻ってきた。宮廷といっても、のちの寝殿造や清涼殿などとは比べものにならない粗末な建物であるが、敷地の周囲を築地(ついじ)で囲むのは、すでにこの時代からやっていたようで、中央に切懸や羅文、格子などで囲まれた身舎(もや)がある。
 総門を入るやいなや門衛兵や侍従たちは小碓尊が連れ添っているコビを見て大いに驚いた。しかも小碓尊がコビに頭を下げながら非常に丁重にもてなしているのを見るにつけ、誰もがコビに対して只ならぬ恐れを抱いた。
 コビはすぐ唐衣(からぎぬ)に長袴、そして水干のような衣を着せられて巫女にさせられてしまった。興大王に謁見するための各種行事が取り行なわれ、コビはそれにしたがった。といっても、のちの奈良時代や平安時代に確立された複雑な形式とは異なり、簡単な動きと神器の奉納くらいである。予定されていた行事とは異なり、いわば飛び入りであったたため神官など役人もいない。通常、中国大陸や朝鮮半島百済等からの使者が謁見するときは、必ず貢ぎ物を献上するのが習わしであるが、コビの場合巫女になってしまったので、そういった貢ぎ物もしなくてよいようだった。
 型どうりの式が終わると皇子や興大王の妻であるナカシ姫、その他の女官(じつは大王の妻たちである)、そして中央に大王がすでに並んでいる公務殿に連れて行かれた。小碓尊や、兄の大碓命(おおうすのみこと)もいる。コビが入ってくるなり左右の椅子に座っていた彼らは一斉に立ち上がり、目の前の箱を開けた。中には香炉が入っている。部屋中が一種独特の香でいっぱいになった。この香はジンチョーゲ科の香木「沈香」だ。正倉院に所蔵されている蘭じゃ待で有名であるが、すでに千五百年も前からわが国で使用されていたのだ。歓迎の意味と部屋を清める意味が込められている。
 興大王の座っている椅子は玉座というには、みすぼらしい石でできた椅子である。中国歴代皇帝の玉座は大理石でできているが、それを真似たとしか思えない花嵩岩で作られたものである。絹衣でおおわれた分厚い座布団だけが妙に印象的である。
「コビ。そなたはどこからきた巫女であるか」
 厳かな低い声で興大王が話かけた。興大王はお世辞にも男前とは言えないぶっちょう面のいかつい顔の大男である。
「宋の泰山で修業した者」
 ぽつりと思った事を口に出した。当時の倭の国は朝鮮半島とは貿易が盛んであったが、中国大陸とは主として南朝と親しかったので、うっかり北朝の地名を言うとまずい。泰山と言ってみた。
「そうか、泰山は仙人の修業するところ。さぞかし巫女としての修業は辛いものがあったろう。・・・ところで、今わたしは困ったことに遭遇している。そちの力を借りたい」
と、興大王はコビを何となく疑りの目付きをして言った。
「というのは、もう三日三晩悩んでいるのだが、百済王から先日使いが来て、献上物の中にこんな奇怪なものが入っていたのだ」
と、羽のようなものをコビに見せた。
 コビは手にとって見ると、烏の羽である。
「はい、烏の羽のようでございます」
コビは丁寧に答えた。
「そうだ、烏の羽だ。百済王がなぜこういうものを献上品の中に加えたのか分からない。宮廷内の最も見識の高いフミヒトでも分からないのだ。そなたにこの意味が分かるか?」
 興大王は恐らく、この巫女でも分かるまいと内心思っていた。
 コビはしばらく、烏の羽を眺めていたが、余りにもきれいに揃った羽が幾分不自然に見えた。普通、鳥の羽は乾燥して、こうまで皆んなが触ると、バラけてしまうはずである。それがきれいに揃ったままであるのが、何となく気になったのである。
<そうだ!もしかして、トンチかも知れないわ。黒い羽に黒い墨で文字を書いても読めないから、それを百済王が試そうとしているのかも知れない>
 コビは賭けてみた。
「分かりました。・・・熱い湯を持ってきてください」
と、巫女らしい、威厳をもって言った。
 早速、召使が湯気の立ち昇るお湯を持参した。コビはおもむろに、羽を湯気の上でお祓いをするように左右に振った。その動作がまるで祈祷をするようだったので、興大王だけでなく、参列しているすべての人がコビに一種の畏敬を感じた。
 やがて、コビはバッグから、メモ用のノートを取出し、それに羽を挟んだ。
「プリーズ、マイ、ガッド」
と呪文を唱え、挟んだノートをグイグイと押して、パッと開いた。なんと!思った通りだ!真っ白のノートにくっきりと墨で書かれた文字が転写されている。
<やったー>、コビは嬉しくてはしゃぎたかったが、そうもいかない。怖れ多い巫女の身分だ。わざと落ち着いて文字を見た。難しい漢字がずらっと並んでいる。じっくり見ると、感謝するとか、馬四〇頭とか、真珠、青玉、生口十人とか書いてある。生口って奴隷のことである。
 コビは多分こういう意味だろうと思ったことを、さぞ分かった振りをして言ってみた。
「分かりました。この羽には、馬四〇頭や奴隷十人、またいろいろの宝石を贈ってくれてありがとう、と書いてありました」
「そうか、そうであったか!先般、百済王に遣いを差し向けて、その際、馬を四〇頭や奴隷を献上したのだ。その礼を羽に書いて寄越したのだ。百済王も意地の悪い人だ」
 興大王は苦み走った顔で、臨席しているオウスノミコトやオオウスノミコトなどを見渡してつぶやいた。
「・・・それにしてもコビどの!さすが泰山で修業した巫女だけのことがある!謎を解いてくれて嬉しいぞ」
「お役に立てて、わたしも嬉しゅうございます」
 コビはホッとして、深々とお辞儀をした。
「・・・いま倭が国は地方の豪族が勝手な振る舞いをして国を乱している。ぜひ統一して平和な国にしなければならん。
そなたの力を貸してもらえぬか」
「・・・そうしたいのですが、・・・ただ、私は、こちらにヲワケの臣が仕えていると聞いたので、会いたくてはるばるやって来た者です。会わしてもらいたのです」
 ヲワケの臣と聞いて、臨席している十数人全員がざわざわとした。
「そなたはヲワケの臣を知っているのか?」
興大王もけげんそうに尋ねた。
「はい。今どこにいるのですか」
「出雲の国に出向いている。出雲の国で八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)という巨大な大蛇が出るという噂があるので、その調査に行っている」
「いつ帰ってくるのですか?」
「分からない。遠く吉備の国では悪い国造(くにのみやっこ)が民、百姓を苦しめているとも聞き及んでいる。それらを調査してから帰ってくる。この大和の国ではナガスネヒコがわしに逆らって税を納めないし、何としても征伐して平和な国にしたいのだ」
「・・・」
「それよりコビどの。そなたを歓迎する祝宴を用意したい。そちの国の話を聞かせてくれ」
 興大王はそう言って立ち上がり、謁見の終わりを告げ、侍従達に囲まれて部屋を去って行った。
 そのあとコビはまた服を着せ替えられ、祝宴の歓迎を受けた。歌や踊り、笛や太鼓が鳴り響き、時が経つのを忘れていた。
 
 次の日、興大王は小碓尊(オウスノミコト)にコビと共に出雲に赴くように命じ、兄である大碓命(オオウスノミコト)にはナガスネヒコを牽制するように命じた。大碓命は生来温和な性格で、弟の小碓尊のような激しい気性の持ち主ではなく、大きな戦闘となるような遠征には不向きであることを興大王はよく承知していた。
「小碓尊よ。今日からおまえは倭武尊(ヤマトタケルノミコト)と名告るがよい。ヤマタノヲロチを征伐してくるのだ」
 コビはもちろんヤマトタケルノミコトと同行することに異義はなかった。
 一千人近い完全武装兵士をその日のうちに召集する力は絶大なものである。葛城一族、蘇我一族、平群(へぐり)一族などが競って大王の手柄になるよう兵を出した。それぞれの首長はヤマトタケルノミコトのもとでは統率されるが、いったん個別行動を起こすと、兵士達はすぐ敵にもなりそうな軍団である。軍旗が一族ごと異なるのが一層コビには不気味に見えた。
 馬に乗っているのは、ヤマトタケルノミコトと数十人ごとを統率する指揮官、それにコビだけである。歩いての進軍である。
 出雲に行く道程は、当時は瀬戸内海から山陽に入り、吉備を北上して大山(だいせん)を越えて行く道と、大和から北上して角鹿(つぬが)から但馬(たじま)経由で日本海側を行く方法があったが、ヤマトタケルノミコトは但馬経由で行くことにした。ヲワケの臣が、このコースを行っているはずであることと、帰りに大山経由で吉備に出ることを計画していたからである。
 旅は強行軍であった。しかし、途中の村々での歓迎は大変なものだった。都から、悪い鬼を退治に来た皇子(ミコト)ということで、厚いもてなしを受けた。悪い鬼というのは、言うまでもなく悪政をしていると言われる土地の豪族、村長、首長のことである。
 実際、ミコトは村々に入るごとに、村人にそこを支配している豪族の政事(まつりごと)を聞いて回り、民、百姓の生活ぶりを見て回った。少しでも大和大王の命令なく兵を起こしている豪族、首長が見つかると、容赦なく一刀のもとに首をはねて殺していく。こうして中央のミヤコに君臨する大王の権力は地方に浸透していった。とくにヤマトタケルノミコトの遠征は地方の豪族に恐れられた。
 
 丹後の天の橋立まで来た時のことだ。一人の老婆がヤマトタケルノミコトの前によろよろと転がり出て嘆願した。
「娘が悪神に捉えられ洞窟にとじ込められています。どうかお助けを!」
「娘の名は何と申す」
「モモヒメと申します。どうかお助けを」
「わかった。ひと刀で退治してしんぜよう。案内いたせ」
 ヤマトタケルノミコトは兵士達を宮津湾の海岸に休息させ、一人で老婆に道案内させて行った。
 よもつ平坂を通り、姪子山に来たところで、ふと見るともう老婆の姿はどこにもなかった。辺りを探すと小高い丘があり、人一人が入れるほどの小さな洞窟の穴があった。
「ここか!」
 ヤマトタケルノミコトは剣を手に中に入って行った。壁にはどくろの壁画があちこちに見える。更に奥に入ると小部屋があり、一人の少女が座っていた。
「お前がモモヒメか?」
「はい」
「助けに来た。すぐここから出よう」
「もう少し早く来てくれればよかったのに。私はもう外には出られません。たった今、黄泉(よも)の食べ物を食べてしまいました。ここは黄泉の国(よものくに)です」
と、涙ながらにモモヒメは言った。
「黄泉の国?」
「はい、そうです」
「悪神がそなたをこの洞窟に閉じ込めたと聞いたが」
「はい、黄泉の神々です」
「すぐ、出よう。悪神などひと刀で切り捨てようぞ」
「それでは、黄泉の神々の怒りを静めるよう話をしてきますから、ここで待っていてください。決して覗いてはいけません」
 そう言ってモモヒメは奥の部屋に入って行った。しばらく待っていたが、戻って来ない。更にいっときが経った。
しかし、何も音沙汰がないので、しびれをきらしたミコトは決して覗いてはいけないと言われていた奥の部屋に入ってみた。
「うっ、これは!」
 モモヒメの美しい顔だけが残り、手足や体はずたずたに腐って蛇がトグロを巻き、こちらを睨んでいる。今にも飛びかからんばかりである。
「ギャー」
 さしものヤマトタケルノミコトも、これには驚いて逃げようとすると、黄泉の女神ヨモツシコメが追ってきた。逃げようとしても足がすくんで思うように走れない。やっとのことでヨモツ平坂まで来たところで、コビに出会った。コビはヤマトタケルノミコトが一人で出掛けたのが心配で、あとをつけて来たのだった。
「おー、コビどの。そなたの呪力で退治してくれ」
 弱音を吐いてヤマトタケルノミコトはコビの後に隠れてしまった。しかしコビには何も見えない。ヤマトタケルノミコトが何を恐れているのか分からなかったが、コビは洞窟の入り口に大きな石を積み上げて、穴をふさいだ。と同時にミコトは夢から覚めたように正気に戻って、二度とこの塚には近付かないように口走った。
 兵のいるところに戻ったミコトは皆に恐ろしい体験を話して、二度と絶対に黄泉の国には近付かないように念を押した。
 この話は後世まで語り継がれ神話となっていった。黄泉の国とは王や豪族の墓である。横穴式古墳なのである。モモヒメの死体のあった部屋は玄室で、ヨモツ平坂は羨道、コビが大きな石でふさいだ入り口というのが羨門の扉石である。墓荒らしによって、埋蔵されている剣や鏡、勾玉など宝物が盗まれるのを防ぐために神話となって語り継がれたのである。
 
 一行は出雲の国の肥の川の上流、鳥髪にやってきた。八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)が出ると噂されているところである。
「大王、箸が流れてきました。この上流には人里があるでしょう」
 指揮官の一人が竹でこしらえた箸を拾ってきた。
「いかにも、これは箸だ。敵のものかも知れぬ。上流を調べてまいれ」
 さっそく、数人の兵が偵察に行ったが、まもなく一人だけ大火傷をおって、命からがら戻ってきた。そして間もなく、
<真っ赤な目・・・>と、かすかに言葉を残して死んだ。
「やはりヤマタノヲロチが出たのだ!全軍出発!」
 ヤマトタケルノミコトは先頭に立って上流に向かった。兵士達も今こそミコトに認めてもらうチャンスだとミコトに続いた。
 やがて一軒の貧しい住居があった。竪穴式住居ではなく、木造の平屋住居である。ミコトは敵の兵舎と見て、足で戸を蹴破って中に突進した。中では意外にも老夫婦と美しい娘がおびえて泣いているだけだった。
「この家にはそなた達三人だけか!」
「はい。どうかお助けを・・・」
 老夫婦はぶるぶる震えながら答えた。
「なぜ、そんなに怯えて泣いているのだ」
 ミコトは優しく聞いた。
「娘を連れに来たのではないのですか」
 老婆が娘を後手にかばいながら言った。
「何のことだ」 
「私どもには八人の娘がおりましたが、七人までヤマタノヲロチの生け贄になり、とうとう最後の、この娘、クシナダヒメを今日中に生け贄として差し出さないといけません。それで途方に暮れているのでございます」
「そうであったか。われは興大王の皇子ヤマトタケルノミコトである。そのヤマタノヲロチを退治するためにやってきた。
ヲロチはどんな姿をしているのか」
「はい、眼は真っ赤なほうずきのよう、胴は一つで、頭が八つ、尾も八つあり、身体には苔や杉が生えており、谷八つ、丘八つに渡るほど巨大な蛇でございます」
「安心して待っておれ。わしがヲロチを退治してやる」
 そう言うが早いか、ミコトはすぐに兵士に命じて村々から酒樽を集めさせた。それをヲロチが出ると噂される八つの谷に置いた。
 次の日の朝早く、夜が白々と明けようとする頃、兵を八つに分けて、それぞれの谷に突撃。そこには蛇ではなく、ヤマタの軍勢が酒を飲んで酔いつぶれてぐっすりと寝込んでいるのだった。一気にミコトはヤマタの軍勢を滅ぼしてしまった。
 八つの谷には製鉄所があり、鉄を鋳造している場所であった。ヤマタの首長は産鉄民と言われた砂鉄から鉄をとる技術を持った渡来人だった。ヲロチの真っ赤なほうづきのような目というのは、溶けた鉄を象徴するものである。そのほか、出雲には昔から銅や青銅の精練も行う技術を持つ新羅系の渡来人が多数住みついていた。
 土着の娘がさらわれたり、いやがる娘と無理矢理結婚させられる例は多数あるだろう。クシナダヒメもその一人であった。
 精練所、製鉄所、刀を作る鍛冶所を制圧したミコトは多数の鉄剣を押収し、都に持ち帰ることにした。そのうちの一刀「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がのちの三種の神器の一つとなったことは有名である。
 コビはつぶさにこの戦いを見て、スサノオノミコトがヤマタノヲロチを退治した神話を思い出した。この神話のスサノオノミコトはヤマトタケルノミコトであったこと、さらにヲロチという大蛇は製鉄所であったことを知って感動した。ただ、退治するという行為は、相手を滅ぼし、自分の勢力を延ばすという行為そのものであり、出雲勢力圏が中央の大王によって支配される第一歩であったことを理解した。
 ただし、これによって直ちに出雲が中央に屈伏したわけではなかった。
「クシナダヒメよ。大王の使いとして、ヲワケの臣という家来がこの地に来たのだが、知らぬか。百人ほどの軍勢を率いている」
「聞いております。葦原の中津国(あしはらのなかつこく)に行き、そこで戦争になり、天日槍(アメノヒホコ)に捕らえられたとのことでございます」
「なに!」
 ヤマトタケルノミコトは怒りに震えて腰の剣をぐっと握りしめた。コビも一瞬はっとしたが、<ヲワケの臣はまだ殺されてはいない。もし殺されたら、その瞬間に私もどうなるか分からない。大丈夫よ!頑張って!>、すぐ落ち着いてクシナダヒメに尋ねた。
「その葦原の中津国は、ここから遠いのですか?」
「急いで参りましても、一日かかります」
「大王、すぐ参りましょう。そしてヲワケの臣を助けてください!」
「もちろんだ。ただちに出発だ!」
 
 その頃、ヲワケの臣は天日槍(アメノヒホコ)に捕らえられ、激しい拷問にかけられていた。アメノヒホコは祖先が朝鮮・新羅であり、国にいれば王子の身であるが、美しい少女アカルヒメのあとを追って倭の国出雲まで来て結婚し、ここを支配するようになった豪族である。その本拠・斐川宮殿の裏手にある調べ処で、ヲワケの臣は裸になって鞭で打たれていた。
「言わぬか!大王はどの道を通ってくるのだ!」
「知らぬ。殺すなら早く殺せ!」
「お前の言葉には百済の発音がある!先祖はどこだ。新羅なら許してやろう」
「新羅なんかではない!遠い昔、百済からやってきた者だ。倭の国は大和大王のものだ。お前なんかに倭が国を任せられるか!」
 ヲワケはありったけの声を喉から絞りだして言ったが、なおも鞭から竹ざおに変わってメッタ打ちに打たれ続けた。
「水を、いや海水を身体にかけよ」
 そう言ってアメノヒホコはヲワケの背中をひと蹴りして悠然と出て行った。傷付いた身体に海水をかけられると死ぬほど苦しい。その痛みにヲワケは必死に耐えた。
 
 ヤマトタケルノミコトはヤマタの兵士をも傘下におさめ、総勢一千五百を超える軍団となり、葦原の中津国の近くまでやってきた。峠を超えると斐川宮殿が見えるという所まで来たところで、ミコトは兵士をかくまった。このまま突っ込んでいけば、必ずヲワケは殺されるに違いない。
 コビはヤマトタケルノミコトが指揮官とともに策を練っているところに進み出て、言った。
「大王。私に行かせてください。私なら怪しまれずに敵陣に入れるでしょう。巫女として役に立つ時です」
「そなた一人でか?それは危険だ」
「私が護衛について行きましょう」
と、指揮官の一人、栖軽臣(すがるのおみ)が申し出た。
「二人で大丈夫か」
ミコトは心配そうにコビに言った。
 コビは本当は一人の方が救出しやすいと思ったが、万一の不測の出来事を考えて一緒に行くことに同意した。
「はい、スガルノオミ、お願いします。でもその格好では・・・怪しまれないためには鎧や兜などすべての武装は解いて、巫女の付き人としての服装が良いでしょう。」
「・・・わかった」
スガルノオミは丸腰になることにちょっと躊躇したが、すぐコビにしたがった。
「そちは阿知臣(アチノオミ)を父に持つ文筆の優れた武勇。漢字が読め、論語が分かる朝臣(あそ)である。コビと共に渡来人に成り済まして入り込むとよい。そしてヲワケの臣を何としても助け出すのだ。・・・おー、安否が気遣われる・・・」
 一夜明けた肌寒い朝もやを通して、ミコトは全権を二人に託すように言った。さらに、
「もし、万一、二日経ってもここに戻ってこない場合は、全軍で攻め入るつもりだが、それでよいか」
と、念を押すように言った。
 コビは絶対の自信があったので、
「そうしてください」
と、きっぱりと言って、スガルノオミの方を見た。スガルノオミは失敗したら殺されることを意味する<二日経っても>というミコトの言葉に、コビがこれほど自信を持っていることにむしろ驚いた様子だったが、
「もちろんです。そうしてください」
と、力強く返事をした。
 二人は旅を重ねてやっと出雲に辿り着いた渡来人に成り済まして、渡来系の服装に替えた。この頃は朝鮮半島や中国からの渡来移民が多く、地方の豪族は競って彼らの獲得に躍起になっていた。それは単に鏡や宝剣などの貢ぎ物が欲しいという目先だけのものではなく、優れた文化をもたらす人々ということで歓迎されたのだ。地方の豪族が、この頃になると平地式の木造住宅になっていったのは、渡来人の中にそういった設計技術者がいたからであり、たとえば養蚕やはた織機を伝えたのは渡来人・秦氏である。
 秦氏はヤマトタケルノミコトの祖父に当たる讃大王のとき百済から渡来した貴族・弓月君(ゆづきのきみ)であったことはよく知られている。百人以上の百姓や、はた織技術者を従えて大和の地に来て、讃大王から山城に永住権を与えられ勢力を伸ばしていった。当時の百済は扶余(ふよ)族系の貴族と韓(かん)族系の貴族が互いに勢力争いをして宮廷内の内紛が絶えなかったし、また高句麗や新羅からの外圧もあって、百済での生活は平和なものではなかった。それで平和だとされていた倭の国に移住してきたわけである。
 スガルノオミの父・阿知臣(アチノオミ)は大王の家庭教師として漢字や詩歌を教えた文人としてよく知られている。その他ヤマトタケルノミコトの父・済大王の時代にも百済から陶工、画工が数多く渡来している。
 もちろん倭国大王も元を正せば大陸からやってきた貴族だったのであるが、徐々に国内を平定して大和朝廷を確立させていったのである。出雲はそのうちでも、かなり朝廷に逆らった国であった。理由は出雲の支配者が新羅系の武人だったからである。朝廷は言うまでもなく百済系である。
 コビとスガルノオミの二人は峠を下り、いよいよアメノヒホコの支配する葦原の中津国にやってきた。広々とした水田が拓けて、住宅はほとんどが木造になっている。今まで旅をしてきた山深い地域では竪穴式住居であったのが、一変して木造葦拭き屋根になっている。かなり独自の文化を発展させた地域であることがすぐ分かった。
 二人は集落が十軒ほどまとまっているところがあったので近寄って行った。そしてある一軒の農家らしい庭先に入って行った。二人の気配を感じたのか、すぐ中から女児が飛び出してきた。布一枚を身にまとっただけの清楚な服装である。五、六才か、朝鮮系とか大陸系などと言えない独自の日本人の可愛い顔立ちである。
「ここは葦原の中津国ですか?」
コビは優しい声で聞いた。
「・・・」
「父上か母上はいますか?」
「・・・」
「言葉が分からないのかしら」
「そうかも知れない。この地方は倭の言葉と新羅の言葉が入り交じって独自に発展しているので、こういう小さい子供では言葉が通じないのかも知れない」
 そこで、二人は手真似でだれかいないかを尋ねたが、にこにこするだけで、時折、「ヤン」とか「コ」、「ヨンイル」という言葉を口に出す。しばらくの間、そんなやり取りをしていると、家の中から母親らしい女性が出てきた。はじめはコビ達二人に警戒したのか、子供を急いで自分の手元に引き寄せて、無言のままじろじろ見ていたが、コビ達の服装が倭人とはちょっと違った旅姿で、しかもコビの髪型は巫女のそれであり、スガルノオミは高貴な人のする美豆羅(みづら)である。二人の落ち着いた態度と笑顔に、あわてるように子供と共に地面に座り込み、土下座した。
「何も驚くことはありません。遠い国からやって来た旅人です。葦原の中津国のミコトに会いに来たのです。宮はどこにあるのか教えてくれませんか?」
 コビは一層優しい声と眼差しで、ゆっくりした口調で言った。
「はい、そこの川を渡って、森を過ぎたところにあります」
「ミコトの名は何と申すか」
スガルノオミが聞いた。
「はい、アメノヒホコ様でございます」
「出雲の国を治めている大王か」
「いえ、この一帯、葦原の中津国のミコトでございます」
「そなたたちに良い政務(まつりごと)をしているか」
「はい、新羅の国と貿易を盛んにして、米もよく取れて。・・・私たちはアメノヒホコ様のお陰で暮らしております・・・
しかし・・・」
「しかし、何だ」
「先日、大和の大王からの使いの者という方が兵を進めて来て、戦争になり、多くの死者がでました。・・・この子の父親も、その戦争で死にました。・・・」
「それで、その大和から来た使いの者というのは、その戦争でどうなりました?」
コビが心配そうに一歩前に進んで言った。
「あなた方は大和の国の人ですか?」
「違う!何も知らぬ。だから聞いておるのじゃ!」
「・・・」
母親は、スガルノオミの意外な剣幕に、子供を抱えて黙ってしまった。
「心配しなくていいのよ。私たちはあなたの味方。で、その者はどうしました?」
コビは優しく肩に手をかけて覗き込むようにして言った。
「・・・ミコトの捕虜になっていると噂されております・・・」
<やはり>と言いかけて、ぐっと口を結んだ。やはり、などと言うと、すでに知っていたことになる。コビはスガルノオミに目配りして、急いで宮殿に出掛けることを目で語った。
「大儀であった。・・・戦争のない平和な国になることを私たちは願っている。達者で暮らせ」
 スガルノオミも、さっきの強い調子から優しい声になり、子供の頭をひとなでして、その場を立ち去り、宮殿へ向かった。
 道筋、どのようにしてアメノヒホコの宮殿に入るか、そしてヲワケの臣にどうやって近付き、そして助け出すかを話し合った。コビは巫女としての本当の修業などしたわけでないが、そのことをスガルノオミに言うわけにもいかず、とにかく巫女に関しては自力で思うようにやるしかないことを心に決めた。ここでヲワケの臣を助け出さなくては、歴史が変わってしまう。もし殺されては、稲荷山古墳もなくなってしまう。そうすると自分は無事に麻美のいる丸墓山古墳のところに戻れるかどうかも危うくなる。決死の覚悟でヲワケを救出することを心に誓った。
 
 その頃、ヲワケの臣は何日間も食事は与えられず、身体は衰弱し切っていた。数人の兵と共に宮殿の裏手にある拷問部屋の中でぐったりとしていた。アメノヒホコが入ってきたのが、ぼんやりと分かったが、もう殺されようと、どうなろうといい、という不思議な気分になっていた。
「ヲワケの臣よ。大和の皇子がオロチを攻め落としたそうだ。そして、こちらに向かったという報せがあった。もうお前には用はない!・・・処刑部屋に連れて行け!」
 そう言って、アメノヒホコは剣を抜いて家来に命令したが、家来の一人が耳打ちをした。
「・・・そうだな。・・・ヲワケよ。皇子は何人の軍勢を率いているのだ。お前は百人くらいだったな。皇子もそのくらいか」
「・・・」
「答えろ!そうすれば命だけは助けてやる!」
「何が答えるものか!百人だと?五万だ!」
ヲワケの臣はかすれた声で、うつろな目でアメノヒホコを睨み付けて言った。
「よい度胸だ。処刑するには惜しい男だ。お前を見殺しにするかどうか皇子の出方を見ることにしよう。人質にしておく。ありがたいと思え!」
 そう言って、またヲワケの背中をひと蹴りして、手にしていた剣を収めながら出て行った。
 
 一方、コビ達は宮の周りを取り巻いている堀の所まで来ていた。入り口が見えない。おそらく正門と裏門の二つくらいしかないのだろう。太陽の方向から南の方に回って行った。門らしいたたずまいをしているが、どう見ても正門とは思えない。塀の上のあちこちに物見やぐらがあり、すでに番兵がコビ達の挙動を監視していた。二人はそれに気が付いたが、慌てた様子は見せず、同じ足取りで北の方に回った。あった。立派な門だ。真北ではなく、やや北西に向いているようだ。おそらく故郷・朝鮮半島の方角にしたためであろう。
 二人が正門前に到達した時には、すでに門衛兵が幾人も出てきて、ガヤガヤと騒いでいた。
「遠い国から旅をして来た者。アメノヒホコ大王に会いたい」
と、スガルノオミはコビよりも一歩前に出て言った。大王という敬称は、すでにこの頃、大和大王にしか使えない言葉であったが、アメノヒホコは大和に反抗している豪族であるため、あえて相手を安心させるため、そう言った。
「しばらく、お待ちを。そちらの人は?」
と、門衛長らしい男がコビを指差して言った。
「あらゆる占いのできる巫女にございます」
・・・二人はずいぶん待たされた。しかも門を入って、再び堅く閉ざされたままであるため、もう逃げる事は不可能となっている。この中にヲワケの臣も捕われているのだ。二人はいささか不安になったが、いまさらどうすることもできない。大和宮殿ほど立派な建物ではないが、すべてが左右対称に造られているのがひときわ目立っている。中央のいちばん立派な建物は、屋根が青銅で葺かれている。その鮮やかな輝きは大和宮殿を凌ぐほどである。アメノヒホコがどれほどの勢力を持っているかが想像できる。これでは大和大王も目の上のたんこぶとして、一日も早く征伐したいだろう。コビはそんな事を考えながら、なおも門衛兵などのしゃべっている言葉に注目した。
 たしかに大和地方とは異なる。また今から約三〇〇年前の耶馬台国に行った時の言葉とも異なっている。独自の文化圏であることがよく分かる。
 やがて門衛長らしい男と、役人がコビ達を案内して、中央の最も立派な建物に連れて行かれた。広い飾り気のない、ガランとした部屋に通された。中央に多分アメノヒホコだろう人物が椅子に座っている。部屋の両側には武装した兵が立って並んでいる。女官など女性は一人もいない。大和で興大王に初めて謁見した時のような優雅な雰囲気はまるでない。ものものしい武官たちばかりである。
 板張りの床にコビとスガルノオミは座ったが、スガルノオミの方が二メートルほど後方に座り、コビの方があくまで上座である。そして、二人は同時に、恭しく床に頭が着くようにお辞儀をした。
「おもてを上げい・・・わしがアメノヒホコである」
「ははー」
スガルノオミは、上げた頭をもう一度深々と下げた。コビは頭を下げることなく、正面をきちっと向いてアメノヒホコを見たままである。
「そなた達は遠い国から来たそうであるが、どこの国から来たのか」
「はい、新羅の東泉寺から参りました。この巫女はコビと申します。わたくしめはスガルと申します。どうぞ貢ぎ物をお納めください」
と、スガルノオミは言って、銅鏡、鉄剣、まが玉その他貝で造った腕輪を差し出した。もう武器らしい武器は何も持っていない。丸腰になったわけである。コビもヲワケの臣を助けるためだとあきらめて、化粧用に持ち歩いていたミラーの付いているコンパクトを出した。パウダーとパフも入っている。これにはアメノヒホコもたまげた。卑弥呼女王もそうだったが、とにかくこんなに見事に写る鏡はなかったから、驚くのは当然である。
「これは何と言うものだ」
「はい、ミラーと申します」
「ミラー?」
「はい、このミラーの作り方を伝授するために、はるばるやってきました。ぜひこの地に留まるようご配慮たまわりますようお願いいたします」
 コビは下げたくもない頭を丁寧に下げながら言った。
「そうか、余はうれしいぞ。・・・だが、その前に呪術によって、そなたが敵ではないことを示さねばならん」
そう言ってアメノヒホコは、ポンポンと手を打った。
 やがて、一人の巫女と付き添い侍女三人が現われた。巫女はコビとは年格好も同じくらいで、若く、きりっと端正な顔立ちの美人であるが、とにもかくにも派手な衣裳と装飾を身にまとっている。いよいよ来たか!コビは思わず身震いをした。
 侍女の一人が石で作った皿を差出し、数本の骨をその中に入れた。鹿の骨だろうか、猪だろうか、あるいは人骨かも知れないが、長さ二〇センチくらい、幅三センチくらいの骨だ。もう一人の侍女がそれをコビの前に差し出した。三人目の侍女は何の油を燃やしているのか火を持っている
 と、突然、巫女は大きな声で何やら呪文を唱えて骨を交互に指差し始めた。コビはあせった。どういうしきたりで、何をどうすればいいのか全く分からない。これではボヤボヤしていると、すぐバレてしまう。泰山から来たとか、東泉寺から来たとか、ウソであることがすぐ分かってしまう。この時、ふと思い出した。骨による占いは燃やしてみてヒビの入り方で占うのだということを。そのために侍女が火を持っているのに違いない。コビはイチかバチかやってみた。
「トウキョウトブンキョウクリツセイシンチュウガッコウ二ネンイイグミコミヤマナルミ・トウキョウトブンキョウクリツセイシンチュウガッコウ二ネンイイグミコミヤマナルミ」
と、呪文を唱えるような感じで大声で、身体をわざとらしくくねくねさせながら唱えて、唱えている間にも、どの骨を選ぶかを考えた。そしてどれも持ち上げてみた。軽い方がいい。重いとそれだけ水分を含んでいてヒビが入りやすいはずだ。そしてなるべく筋が入ってない方がいい。十数秒のうちにコビはそれだけのことを考え、実行した。
「ヤー」
と言って一本の骨を拾い、別の石皿に載せた。見事にこの動作は当たっていた。トウキョウトなんてアメノヒホコに分かるはずがない。呪文以外の何ものでもないだろう。呪文は二度、三度同じことを唱えなければならないから、無茶苦茶な事を言うわけにいかない。コビの思いついた、とっさの機転である。
 やがて、相手側の巫女も骨を選び、別の石皿に載せ、火で焼き始めた。コビはどきどきしながら見守った。もちろんスガルノオミも同じであろう。と、突然、巫女の選んだ骨にパチッと音を立ててヒビが入った。
「オー」
という声が部屋いっぱいに響いた。コビの選んだ骨は何ともない。
「コビどのの呪術しかと拝見いたした。巫女として当宮殿に留まってもらいたい」
 
 こうしてコビとスガルノオミはアメノヒホコの宮殿に入り込むことに成功。しかし、二日経っても戻って来ない場合は、ヤマトタケルノミコトが攻めてくることになっているので、ゆっくりしているわけにいかない。二人は与えられた部屋は別々であったが直ちに行動を開始した。
 捕らえられている他国の兵士ということで、つまりヲワケの臣達の牢の場所を聞き出すことは容易だった。しかし、牢舎には武装した番兵がいつも交替で二人はいる。しかも、用もないのに、牢舎に近寄ることはできない。
 ところが、その夜、思わぬ事態が起きた。牢の中の兵士の一人が死にそうだというのだ。何人かの役人が行ったり来たりして、善後策をアメノヒホコに聞いたり、右往左往している。コビはヲワケの臣ではないかと心配した。気が気ではない。
 スガルノオミは、
「医術者である、その病人を見てしんぜよう」
と、番兵に言って、うまく牢舎に入ることができた。コビも巫女という地位で、なんなく入り込むことができた。
 死にそうだという病人は名を聞くとヲワケではなかった。家来の一人である。あまりのむごい拷問のため体中が傷だらけで、しかも食物はなく、衰弱しきっている。
 アメノヒホコは現場には来てなかった。聞くと、明日処刑するから、そのまま放っておけとのことらしい。そんな!コビもスガルノオミも、何としても助けたかった。夜でもあり、篝火もほの暗く、牢内の中は人影程度にしか見えないが、数えると五人いる。そのうちの一人が苦しんでいる。そして一人が手厚い看病をしているのが格子ごしに見えた。
<もしかして、あの人がヲワケの臣では!>、コビは直感した。
「ヲワケ様!」
 コビは呼んでみた。さっとこちらを向いた。
「・・・」
「ヲワケ様ですか?」
「そうだ」
 若い青年の声だ。ほの暗い牢内で、格子ごしに約三メートルほど離れているが、はっきりと互いの顔を見つめあった。コビは胸がじーんとした。会えた!この人がヲワケの臣なんだ!髭は伸び、汚れた顔、みずらの髪結もほつれ、やつれているが、きりっとした目から光る眼光はコビの胸中を貫いた。
<助けに参りました!>、喉から出そうな声をぐっと押さえ、
「その人をこちらへ」
と、手を差し伸べて言った。
「そなたが、看てくれるのか」
「はい、こちらへ・・・」
 すぐ、奥でおびえていた家来達が出てきて、病人を抱いて格子のそばまで運んだ。牢内に入って診たいと頼んだが、開けてくれないので、格子ごしに診ることになる。額に手をやると、ひどい熱である。
「放っておけ!どうせこいつらは明日処刑になる身だ!」
と、牢番がどなったが、コビはそ知らぬ振りで、苦しんでいる家来の顔をハンカチで拭いた。神具として肌身離さず持ち歩いているバッグにはティッシュペーパーやハンカチのほか、月に一度は使うことのある常備薬の痛み止めもある。これは解熱剤でもある。
<一時的にしろ熱が下がれば、みんなを連れてワープしょう>、そう考えたコビは牢番に聞こえないように小さい声で、スガルノオミに、
「水を持ってきて」
と、耳打ちした。コビなら錠剤を水なしで飲み込むことができるが、この苦しがっている家来は水なしでは、まず無理だろう。それに飲んだこともない妙なものを飲まされるのだから、噛みくだすかもしれない。そうすると苦いから吐き出すだろう。
 スガルノオミは牢番や役人の間をするりと抜け、
「どこへ行く!」
と、怒鳴られたが一目散に駆け出した。与えられている自分の居屋に飛込み、竹筒に水を汲み、急いで牢に戻った。役人どもの制止を振り払い、コビに水を渡した。あまりにも手際良いスピーディな動作に牢番も呆気に取られ見守るばかりであった。
 コビは錠剤を二錠、兵士の口に押し込み、すぐ水を飲ませた。水がおいしかったのか、錠剤ともごくごく飲んだ。残った水をハンカチに浸し、顔を何度も拭いた。格子ごしながら、その動作は現代流に言えば、看護婦の手際そのものであり、一部始終を見ていたヲワケの臣はコビを本当に神の使いに思った。
「これで大丈夫よ。しばらくすれば落ち着くと思うわ」
「かたじけない。そなたは一体何者であるか」
ヲワケの臣はコビの顔をしげしげと見つめながら言った。
「コビと申します。巫女として、この地にやってきました。いずれすべてが分かります。今は、この方が元気になることを祈ります」
 そう言って、コビはなおも汗びっしょりになっている兵士の顔を拭き、その手を取り、ぎゅっと握り締めた。
 スガルノオミは一段落したことを察し、
「もう死にそうだなどと騒ぐこともないでしょうから、お役人さま、どうぞお引き取りください。今夜はここで牢人たちを見張っていてあげましょう」
と、コビに目配せしながら言った。
「そうか。だが、お前たちに任せるわけにはいかない。牢番二人は置いておく。・・・よいな、よく見張っておれ」
と、役人たちは牢番に命令して立ち去って行った。
 コビとスガルノオミは、<しめた!>と、同じ事を心の中で叫んだ。ただし、コビの<しめた!>は<ワープできる!>であったし、スガルノオミの<しめた!>は<牢番二人くらい何のことはない!やっつけてやる!>であった。
 牢番はコビとスガルノオミを、アメノヒホコに召し抱えられている者として、さほど警戒することなく、のんびりと駄べっている。それに牢は堅く閉まっているし、病人はいる。すっかり気を抜いて牢の外に出て月夜を眺めたりし始めた。
 コビは腕時計を見た。薬を飲ませて三〇分は経っている。病人はあれほど死ぬほど苦しがっていたのに、うっすらと目を開け、ヲワケの臣の声にうなづけるほどになっていた。熱はすっかりひいている。さすがである。薬に対する抗体など全くない体だからだ、凄い効き目だ。コビは神以外の何者でもなかった。
 一時間ほど経ったとき、牢番はそれまで交互に歩き回っていたのが、二人とも外に出て行った。今だ!スガルノオミは素早く牢の閂(かんぬき)を抜いた。鉄製の錠前などができたのはずっと後のことで、当時は牢内から手の届かない所にある狭い牢入り口を、太い木材のかんぬきで止めてあるだけである。牢番さえいなければ容易に引き抜ける。
「さっ、早く!」
 スガルノオミは、牢内に入って、座り込んでいる兵士達を抱き起こした。衰弱しているため立つのも容易ならぬ、ふらふらの状態である。
「早く出よう!」
 その時だ。牢番の一人が戻ってきた。
「ややっ。何をする!」
「しまった!」
そう言ってスガルノオミは牢から出て牢番をやっつけようとしたが、コビはさっとそれを制して、スガルノオミを牢に連れ戻し、自分も入って行った。
「コビどの!どういうことだ!」
「いいの!わたしに任せて!」
 大声を聞き付けた牢番の一人も戻ってきて、入り口は閉められてしまった。一人がすぐ駆け出して行った。多分アメノヒホコに報告するためだろう。
「大丈夫。わたしに任せてちょうだい。この中に入りたかったのよ。そうしないと都合が悪いのよ」
「・・・」
「みんな。わたしを見てちょうだい。絶対によそ見してはダメ。一、二、三、四、・・・ヲワケさま、スガルノオミさま、六人ね。わたしを見ていて!」
 コビはパッとワープした。・・・丸墓山古墳に現われた。・・・六人だ。牢番はいない。成功だ!しかし、・・・コビは周りを見渡した。麻美など友達がいると、また面倒なことになる。誰もいない。いや、麻美がちょうど石段を下りて行くところだった。あれから大して時間は経ってない。時間と空間の積は一定値だから、空間が大きくなると時間は小さくなる。
 ヲワケの臣は妙な気分に襲われた。
「幸魂(さきみたま)、さきみたま・・・」
と、辺りを見回してつぶやいた。スガルノオミも兵士たちも一瞬のうちに夜から昼へ来て、しかも見たことのない場所だ。うろたえている。
「みんな。もう一度わたしを見て!目を離しちゃダメよ。いいこと」
 コビはヤマトタケルノミコトのいる葦原の中津国の峠にワープした。月夜の美しい薄明かりが一千以上の軍勢を照らしている。
「やったー」
 コビは喜び勇んで駆け出した。
「ヤマトタケルさま!連れ戻しました!」
「おお、コビどの!どこに?」
「あそこです。こちらに来ます!」
 よろよろしながらも互いをいたわりながら、ヲワケらが本陣中央の皇子のところにやってきた。
「あー・・・オウスノミコトどの・・・残念でございます。・・・家来達は全滅にございます。・・・」
 ヲワケの臣は崩れ落ちるようにヤマトタケルノミコトの前に膝まづいた。
「油断した父上がわるいのだ。必ず復讐してやる!・・・」
「ヲワケさま、オウスノミコトどのは、いまはヤマトタケルノミコトと名告られております」
と、コビは説明した。
「倭(ヤマト)武(タケル)の命(みこと)!おー、この方こそ、倭が大王になられる方です」
 ヲワケの臣がうやうやしくお辞儀をすると、スガルノオミも、
「ワガ タケル大王!ここにあり!」
と、軍旗をひるがえして叫んだ。兵士たちも一斉に、
「ワカタケル大王、万歳!」
と、口々に叫び続けた。
 
 次の日、斐川宮殿は一気に攻め落とされ、コビの必死の願いもむなしく、アメノヒホコは一刀のもとに首をはねられた。葦の中津国はヤマトタケルノミコトの支配下になっていった。神器として大切に保存されていたコビの献上した鏡も取り戻した。また、この時のヤマトタケルノミコトの傍若無人の振る舞いは後世まで語りつがれ、神話となっていった。
 その神話の一つが天の岩戸(あまのいわと)の物語である。荒々しい武勇スサノヲノミコトというのがヤマトタケルノミコトのことである。天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸に隠れて葦の中津国が真っ暗になったのを、榊(さかき)の枝に鏡を下げて、アメノウズメという女神が岩戸の前で踊り、天照大神の興味をそそぎ、岩戸から出させ、再び中津国が明るくなったという。この鏡が後の天皇を象徴する三種の神器の一つヤタノ鏡である。
 三種の神器とは、ヤタノ鏡、アマノムラクモノ剣、ヤサカニノまが玉である。このうちの二つをヤマトタケルノミコトは手にしたことになる。三つ目のまが玉は三輪の宮廷に保存されている。
 
 ヤマトタケルノミコト一向は、出雲街道を南下し、次の目的地である吉備に向かった。吉備地方で勢力を伸ばし、ヤマト王に反抗している伽羅汝(カラノナムチ)を征伐するためである。葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)の孫にあたるアリノオミがすでに派遣されて、ヤマト王の傘下になるよう説得していたが、そう簡単に折れる相手ではなかった。
 実際、出雲街道の街道筋に点在する村々の農民は、ヤマト王の一向と見るや、田畑や森の中に隠れてしまい、食物の補給や兵士の休息にも苦労するありさまだった。
「どうして、今までと違って、この地方の人々は大王を避けるのですか?」
コビはヲワケの臣に尋ねた。
「すべてというわけではありませんが、この地方の人は朝鮮半島の伽羅(から)の国から移住してきた人達なのです」
「伽羅国?」
「そう、新羅と百済の間にある小さな国で、いつも両国から攻められて争いが絶えない国です。その伽羅王の皇子が今から百年ほど前に、何百人もの家来を連れて海を渡り、対馬海流に乗って出雲に上陸したのですが、すでに出雲には新羅から移住してきた先住民が縄張りを敷いていたので、この出雲街道を南下して、吉備地方に住みつき、何十年も経つ間に大きな勢力を持つようになったのです。だから、この辺の人たちはヤマト王や出雲王を敵視しているのです。しかし、出雲はすでにヤマト王のものになったので、あとは伽羅の鬼をやっつけるだけです」
「鬼?」
「そう、奴らは鬼です。昔から住んでいるこの地方の民、百姓を奴隷のように扱って火傷を負わせ、また女をさらって行くからです」
「どうして火傷を?」
「ほれ、あれをご覧」
と、ヲワケの臣は、遠くに煙が立ち昇っているのを指差した。
「煙ね」
「そう、あれは鉄の精練所です」
「出雲も斐川には砂鉄が取れるし、ヤマタもそうだったけど、鉄の産地として栄えたのよね。それをあなたたちが・・・」
コビは言いかけたが、それ以上は続けなかった。
「この一帯から吉備の方にかけては鉄が多く産出され、鉄剣など武器が生産される」
「それに農具も・・・」
と、コビは、この辺りの農具は今までの木製と違って鉄製であることを発見し、ヤマト地方よりも文化が進んでいることに気が付いた。
「そう、農具や狩猟武器などもです。しかし、彼らは彼らだけで結束して、従来から住んでいる土着の倭人を奴隷のように扱うのです。そしてヤマト王に逆らって鉄製具を献上しようとしない」
 二人は馬に乗っているが、ときどき手綱を引いて足を止め、遠くを眺めながら語り合った。
 四十曲峠の頂上まで来たとき、先発の偵察隊の一人が戻ってきた。
「大王!申し上げます。アリノオミが五回目の戦闘に入り、苦戦しています。アリノオミどのはあくまで話し合いで解決しようとされたのですが、カヤノナムチは使者の首をはねたとのことでござりまする」
「鬼どもが!あくまで我々に逆らうつもりか!総攻撃して征伐してくれようぞ!」
 ヤマトタケルノミコトは怒り狂ったように、剣を抜き、びゅんびゅんと振り回しながら怒鳴った。そのあまりの剣幕に、近くにいた兵士はのけぞった拍子に転んでしまった。
「者ども、急ぐのだ!」
 新庄川に沿って南下し、勝山から久世、落合へと下り、いよいよ吉備高原へと出た。
 ・・・先の偵察隊が再び戻ってきた。
「申し上げます!アリノオミどのは千升峠で、敵二千を相手に善戦中ですが、なにしろ五百という少数軍ゆえ、追い詰められるのは必至でございます。大王が来られたことを告げてまいりました」
「よし!千升峠で決戦だ!」
 
 その頃、アリノオミは事実苦戦を強いられていた。こちらは兜をかぶり完全武装しており、戦闘訓練された精鋭兵士達とはいえ、五百人くらいである。一方のカヤノナムチの軍勢は百姓さながらの野良着風の服装そのもので、確実に矢を当てればばたばたと倒れていくが、何千という人海戦術でくる。飛んでくる矢の矢じりはすべて鉄製である。矢を折らないようにして、再びそれを使う。雨のように降り注ぐ矢を、そのまま今度はこちらが使う。応戦また応戦である。
「アリノオミどの。大王がもう少しでお着きになります!それまで、ここに踏み留まるよう頑張らなければ」
一人の指揮官が馬上から、大声で言った。
「分かっている!危ない!後ろだ!」
叫んだが一瞬遅かった。敵の首長らしい男の剣が指揮官の脇腹にぐさっと刺さった。
「ウワーっ」
 指揮官は馬からもんどりうって落ちた。
「こやつ!」
アリノオミは渾身の力で剣を振り下ろした。指揮官を差した敵の首が宙を舞った。アリノオミはすぐ馬から下りて指揮官を抱き抱えた。
「しっかりせい!」
 しかし、指揮官の口からは血が吹き出し、目はかっと宙を見つめたままだった。ぴゅーと矢がアリノオミの兜に当たり、目の前に落ちた。
「くそっ」
 再び馬にまたがったアリノオミは、猛り狂ったように敵陣の中に突っ込み、切りまくった。
「うぬらは、なぜ話し合いに応じないのだ!」
アリノオミはなおも切り掛かってくる敵を払いながら叫んだ。
と、その時、敵の一人がアリノオミの馬に飛びかかって、二人とも組み合ったままドーンと地面に叩きつけられた。弓や剣など武器を持ってないので飛びかかってきたのだ。二人は猛烈な取っ組み合いになったが、腕力でアリノオミに叶う相手ではなかった。やがてぐったりした敵兵の周りを家来たちが取り囲み、今にも首をはねようとしたが、アリノオミはそれを制止ながら、敵兵の喉もとを絞め上げて言った。
「首長のカヤノナムチはどこだ!」
「・・・」
「言え!言わぬか!」
なおも首を絞めながら言った。
「知らぬ!」
「知らぬわけはない!本陣はどこだ!」
「・・・」
「この戦陣のどこにいるのか、聞いているんだ!言え!」
「・・・ここにはいない」
「いない?」
「いない!」
「ウソを言うな!」
「・・・本当だ。カヤノナムチどのは、いつも戦闘には加わらない」
「じゃ、どこにいるのだ」
「・・・山城の宮と聞いたことがあるが、本当かどうか知らない」
「ウソを言うな!山城はカヤノナムチの居城だ!お前はカヤノナムチの家来だろう!なぜ本陣の場所を知らないのだ!」
「・・・家来ではない。ヤマトの侵略者を追い払えと命令されているだけだ。命令に従わないと、田畑を取り上げられる」
「田畑を?お前は兵士ではないのか!」
「違う」
「山城はカヤノナムチの居城だ。鬼ヶ岳にある!・・・戦闘時にもそこにいるのか!」
アリノオミはカヤノナムチの腹黒いやり方にこぶしを握って憤った。
「お前の祖先はどこだ。海を渡って来た者か」
「違う。昔からここに住んでいる者だ。カヤノナムチどのの一族が指揮を取っている。それ以外はほとんどが土着の農民だ。わしもそうだ。・・・殺すなら早く殺せ!」
 まだ若い兵士、いや本当に農民だろう、観念したのか抵抗することなく背筋を伸ばして座り込んだ。
<こんな若い農民を殺せるものか>
「見ろ、この戦いを!なぜ、お前らはカヤノナムチに忠誠を尽くして、命を粗末にするのだ!」
「土地だ!土地を取り上げられてしまう。 ・・・海を渡ってきた人々がわれわれに水田の開墾の仕方や鉄製の農具をくれた。大きな田畑ができた。それを守るのが、この戦いだ」
「違う!ヤマト大王はお前たちの土地を取り上げたりはしない。欲しいのは戦いのない平和な倭の国だ。ヤマト大王を信じるのだ!」
 アリノオミが懸命に説得しようとした、その時、遠くでわーっと大軍が姿を現した。
「アリノオミどの!ヤマトタケルノミコトどのの援軍です!」
「おー、来られたか!」
「こやつ、どうしましょう。早く処刑しましょう」
家来の一人が敵兵の喉もとに剣を突きつけた。
「待て!」
そう言ってアリノオミは、覚悟をして目をつぶっている敵兵の肩に手をかけて言った。
「貴様をここで殺すのは簡単だ。だがお前にも親兄弟、家族があるだろう。死ぬことを考えないで、生きることを考えろ。ヤマト大王は決してお前たちの土地を取り上げはしない。われわれを信じるのだ。・・・隊に戻って、無駄な戦いは止めるよう皆に言い聞かせるのだ!」
「・・・」
「どうだ、分かったか」
「・・・」
 敵兵は顔を上げ、信じられないような面持ちでアリノオミを見上げた。
 ちょうどその時、この円陣にアリノオミがいることを知ったヤマトタケルノミコトは多くの家来に守られながらやってきた。
「タケル大王どの、お久しゅうございます。ミコトがオウスノミコトどのからヤマトタケルノミコトと名告られていることは、この戦陣の中で知りました。いよいよもってご壮健うるわしく、アリノオミ嬉しゅうございます」
「おー、アリノオミ、久しいのー。大王は興大王だ。わたしは大王ではない。天下の平和を願ってやってきた」
「有り難き幸せ!」
 捕らえられている敵兵は、多くの家来を従えたヤマトタケルノミコトとその風格、そしてアリノオミの恭しい態度をつぶさに見て、カヤノナムチとは全く別世界の貴人であることを感じとった。
 ヤマトタケルノミコトは、この敵兵についての説明を聞いて、うなずきながら言った。
「アリノオミの言う通りだ。お前は隊に戻るがよい。わしの軍勢は二千だ。いつでも相手になってやる。だが、無意味な殺生はしたくない。そなたたちの土地は、必ず、このアリノオミが守る。すぐ戻るがよい。そして戦いをやめるよう農民に説得せよ」
「・・・」
「行け!」
 アリノオミが敵兵の肩を抱き上げ、敵陣地の方に追いやった。
「大丈夫かな」
「あんな奴、首をはねればいいんだ!」
「ミコトどのが、ここにいることを密告するのではないか」
などと家来たちは口々に言っているが、アリノオミは大きな声で、彼らに向かって言った。
「タケル大王を信頼するのだ!もしこれ以上戦乱が拡大しても、もはや恐れることはない。われわれには大王がついている!」
「おー」
「各指揮官に伝えろ!敵を殺すことなく捕虜にして、わが軍の味方にするようにするのだ。相手は兵士ではなく、農民だということを忘れるな!」
 
 戦闘はしばらく続いたが、少しづつ変化が表れていることは確実だった。ヤマト側の軍勢がにわかに増えたこともあるが、敵陣の乱れ、とくに隊ごとに行動している敵の動きに乱れが生じているのだ。
 徐々に動きの鈍った敵の隊陣が味方の隊に囲まれて、しかも武器を捨てる風景が目立ってきた。あくまで抵抗する敵の指揮官はその場で切り捨てられていったが、抵抗しない農民兵には危害を加えない。
 いったん、戦場がそういう雰囲気に包まれると、すみやかに広がっていった。あれほどすさまじい戦闘が繰り広げられていたのに見る間に平定していった。
 捕らえた敵の指揮官の一人に尋問すると、やはりカヤノナムチは、戦場には顔を出さず、居城の山城にいるとのことだった。千升峠での決戦はこうしてひとまずヤマト軍の勝利となった。
 コビはもちろんアリノオミとは初対面であったが、アリノオミのコビに対する態度は巫女という以上に神聖視するもので、決して近寄ろうとはしないで、遠くから頭を下げるだけであった。アリノオミは根っからの武人で、かの葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)は伯父にあたる人である。ヤマト王から絶大な信頼を得て、遠くは朝鮮半島への外交や軍事顧問として何代にも渡って貢献している。この頃の成人男性の平均身長は一六〇センチに満たない小柄であるが、アリノオミは一七〇センチの大男で、いかつい顔に、濃い髭、鋭い眼なざし、とてもヤマトタケルノミコトやヲワケの臣のような女性にもてる風体ではなかった。それがコビにはかえって魅力に思えた。一言でいいから話をしたかったが、なかなかその機会は作れなかった。
 
 いよいよカヤノナムチの居城を攻め落とすことになった。千升峠を一旦南下して下りて平野に出て、再び北西に向かって鬼ヶ岳に向かう。平野が一望に見渡せる山の頂上に山城が築かれている。ヤマトの大軍が向かっていることはすぐ分かる。カヤノナムチは二重、三重に陣地を張ったが、兵の数は圧倒的に少ない。ただ、千升峠の決戦では、ほとんどが農民であったが、ここは武装した本格的な兵士である。
「タケル大王、山岳での戦いは我が軍は初めてです。どのような作戦で攻撃しますか」
アリノオミが聞いた。
「コビどの。そなたはどう思うか。巫女として意見を聞きたい」
 コビはまさか、ヤマトタケルノミコトが自分に意見を聞いてくるとは思ってもみなかったし、そんな戦争のことなど分かるはずもなかったが、地形から見てとっさに思ったことを素直に言ってみた。
「敵は恐らく石作戦でくるでしょう」
「石?」
「そう、投石です。ほら、ご覧なさい。あの大きな石の群れ。あれをそのまま落とすのは最終的な戦法となるでしょうが、その前に、その石を砕いて雨のように投げつけてくるでしょう。落石は剣や矢より強いです。怪我人は続出します」
「それは十分考えられる」
「わたくしもその通りだと思います」
 いつもコビからは遠く離れているアリノオミが馬の手綱を変えて、近付きながら言った。
「では、それに対してどう攻めればよいのか」
ヤマトタケルノミコトは、遠くの鬼城を睨み、指差しながら言った。
「兵糧攻め、つまり敵の食料がなくなるまで、ここで持久戦とするのはどうでしょう」
と、スガルノオミが言った。
「いや、敵は一ヵ月や二ヵ月の食料は貯えておるぞ。それまで、ここで待てというのか?それはできぬ。それに、そなたには九州熊襲(くまそ)征伐に行ってもらわねばならぬ。ここでのんびりもしておれぬのだ」
「タケル大王!こういう作戦はどうでしょう。山に火を放つのです。煙攻めです」
指揮官の一人が名案だと言わんばかりに、大きな声で言った。
「あの城まで煙が届くかな。それに今は北西の風、煙はむしろこちらにくるぞ。・・・あの向こうはどうなっているのか」
「はい、城の向こうは断崖絶壁、そして下は川でございます」
アリノオミが答えて、さらに続けた。
「斜面から攻撃するのは恐らくコビどのの言うように不可能です。したがって遠回りにはなりますが、尾根づたいに兵を進め、一騎打ちするしかないでしょう」
「よし!それだ!」
 直ちに作戦は実行された。一千五百の兵を三重に斜面下および平野地帯に配置し、あとの五百を左側から遠回りさせ、尾根づたいに進ませ、カヤノナムチの固めていた要塞をことごとく打ち破りながら居城に近付いて行った。
 最後の砦での戦闘は凄まじいものだったが、石作戦をしようとしていた敵隊を撃退してからは、斜面を征服。一千以上の軍勢によって、あっという間に鬼ヶ岳山城は落城した。
 カヤノナムチの首はヤマトタケルノミコト自らが一刀のもとにはねた。敵兵は反撃する者は処刑するが、降参し武器を捨てる者は捕虜にした。
 この鬼ヶ岳の征服と多くの製鉄炉を手に入れた業績によって、アリノオミはヤマトタケルノミコトから、吉備津彦の名を与えられ、吉備地方を治める豪族となったことは歴史の示すところである。吉備地方は、その枕言葉が「まかねふく」と言われるように、鉄の産地として栄え、出雲とともにヤマト王にとって重要な要所であったことは言うまでもない。よく知られているように、「こがね」は金、「しろがね」は銀、「あかがね」は銅、「まかね」は鉄である。
 また、のちに、この吉備地方の征服は、桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治に行く桃太郎伝説を生むことになった。岡山地方は桃の産地としても栄えたため、吉備津彦が桃太郎の名に、そして鬼ヶ島は鬼ヶ岳、鬼というのが異国・朝鮮半島の伽羅からやってきたカヤノナムチ王子のことである。王子の首を取った吉備津彦は、その霊を慰めるため吉備津神社を建立したが、その鳥居は遠く祖国の朝鮮半島の方に向けている。
 
 倭武尊(ヤマトタケルノミコト)一行は、吉備津彦と別れて、次の目標である九州・熊襲(くまそ)の征伐に出発した。コビはヲワケの臣がどのようにして、誰と関東地方に行ったのかを知りたくて、一行と共にすることにした。
 吉備から高梁川に沿って下り、瀬戸内海まで至り、ここからは船で西へ向かう。大船団である。船は遠く難波や明石、淡路島の方からも調達された。すでにヤマト大王の名は絶大な権力を持っていた。
 長い船旅であった。
「熊襲って?どういう人たちなの?」
コビはヲワケの臣に聞いた。
「熊襲は、耶馬台国に徹底的に反抗した狗奴国の支配者集団の子孫です。今から百九十年ほど前に、熊襲が耶馬台国を滅ぼして、ほぼ九州全域を支配するようになり、海外との交易はせず、独自の支配を続けている野蛮人です」
「朝鮮半島とか、中国とかから渡来した人たちではないのですか?」
「熊襲は、もともと南方から渡来してきた人びとです。だから土着の倭人や朝鮮半島から渡来してきた人とは、文化や物の考え方がことごとく違っていて、争いは絶えなかったのです。そして土着の倭人を次々と滅ぼして勢力を伸ばしていきました」
「そういった九州の情勢をヤマト大王は知らなかったのですか?」
「まだ、百九十年前というと、ヤマト地方も整備が整っておらず、百済からの移住者で混乱していたからです」
「混乱?」
「混乱といっても戦争ではありません。どの地区に住むかという割り当てみたいなものです。渡来人は倭の国のかなり北の方まで移住していきましたが、土着の人々との争いを避けるよう集団化して村を作りました。しかし、特に集中して勢力を伸ばしたのが、新羅からの出雲地方、伽羅からの吉備地方、百済からのヤマト地方、中国からの北九州地方、南方からの南九州と分かれて、独自に整備されていったのです」
「じゃ、耶馬台国を滅ぼしたのは、ヤマト大王ではないのね」
「ヤマト大王ではありません。ヤマト地方を整備している間に熊襲が耶馬台国を滅ぼしたのです。それを知って、ヤマト大王は大層お怒りになり、倭の国を統一して平和な国にすることを誓われたのです」
「でも、もう百年以上経ちますね」
「はい、なかなか全国の統一までいきません。・・・わたしの祖先はヤマトに宮廷ができたときから大王に仕えています」
「ヲワケの臣の祖先はタカリのスクネどのですね」
「え?コビどのがどうしてそれを知っているのですか!」
「巫女ですから、そういう事は知ってるの」
と、コビは笑顔を見せながら言った。船は瀬戸内海の小島の間をぬうように走っている。
「タカリのスクネのご子息はテヨカリワケでしょう。ヲワケさまの父上はカサヒヨさまですね。済大王や讃大王に仕えたことも知ってるわ。タカリのスクネどのより以前の上祖は分かっているの?」
「わたしたちは家系を非常に重んじます。七代にわたって記録していますが、それ以前は大王に仕えている者ではなかったため、記録はありません。そのため最初の祖は一般にオホヒコとするのが習わしです。・・・あなたは不思議な人です。葦原中津国の斐川宮殿でコビどのに助けられた時から、ただの巫女とは思えなかったのです。ヤマトの国の人ではないし、いったいコビどのは・・・」
「いいのよ、そういう心配をしなくて。わたしはヲワケさまに会いたくて遠くからやって来たの。もう少し一緒に旅をしましょう。わたしが何かの役に立つ事もあると思うわ」
 二人が甲板の上で語り合っているのを見ていたスガルノオミは、話が途切れたのをきっかけに二人に近付いてきた。
「おー、スガルノオミどの。戦闘、戦闘でゆっくり話もできなかったのー。今もコビどのに感謝していたのだが、葦原中津国では貴殿には世話になった。コビどのと二人で斐川宮殿に乗り込んでくるとは思いもよらなかった」
「いや、コビどのの活躍がなかったら、貴殿の救出は叶わなかっただろう。それにしてもコビどのの呪術は凄い。今までに見たことも聞いたこともない術だ」
「その話はもういいわ。それより、ヲワケ様とスガルノオミ様は以前から知り合いなのですか?」
「知り合いどころではありません。幼なじみです。一緒に遊び、喧嘩をし、勉強し、武術に励んだ仲です。わたしは常にヲワケどのが目標でした」
「いやいや何の。わたしこそスガルノオミどのが目標で、ここまでやれてこれたのだ」
「兄弟みたいね」
「むしろ兄弟では、こうはいかなかったでしょう。兄弟では、弟が兄をしのいで、兄の存在が薄くなるという例はよくあること。わたしたちはいつも切磋琢磨し合って、勉強も一緒にしました」
と、スガルノオミが懐かしそうに揺れる船上から真っ青な空を仰いで言った。
「スガルノオミ様は論語も分かると、ミコトが仰せでしたね」
「いやいや、わたしよりヲワケどのの方が優れています。遠征が長い分だけヲワケどのより遅れを取ったのではないか」
笑いながら言った。
「コビどのは?どこで?」
と、ヲワケの臣が遠慮がちに、しかも真相を知りたそうに聞いた。
「私は父から。それも門前の小僧習わぬ経を読むですわ」
「なに、それ?」
「なんですか?」
ヲワケの臣とスガルノオミは殆ど同時に目を丸くして聞いた。
<ああ、まだ小僧とか、経など無い時代なんだ>、コビはいささか照れくさくなって頬がほてるのを感じた。仏像などが徐々に倭国にももたらされてきてはいたが、まだお経を読むなどの仏教信仰はなかった時代である。
「いえ、そのー。・・・大したことではありません・・・」
「ぜひ、コビどのに論語を教えてもらいましょう。のー、ヲワケどの」
「いかにも。われわれが習ったのは、王仁(ワニ)の子弟フミノオミからです。・・・コビどの!漢字を教えてください!」
「・・・漢字は何個ほど知っているのですか?」
「わたしは一千文字は書けるようになった」
と、ヲワケの臣が先に口をきった。。
「わたしはそんなに書けません。五百か六百でしょう」
スガルノオミは謙遜しているのか、ずっと少なめに言った。
「書物があれば読むことによって漢字は覚えていくのですが・・・」
「書物?書物って何ですか?」
と、ヲワケの臣が好奇心いっぱいの面持ちで聞いた。
「大王や中国の皇帝に献上するフミは知っていますね。それを多数集めて分厚い一冊にしたようなものです。中国にはすでに多くの書物があります。倭が国ももう少しすれば、そう、あと百年もすれば、昔から言い伝えられている伝承を一つにまとめて書物にするようになるでしょう。そのためには漢字を知らなければなりません。そのため、今後ますます渡来人の奪い合いが始まるでしょう」
「・・・」
「ごめんなさい、奪い合いなんて。つまり漢字を知っている渡来人は優遇され、漢字を覚えた人が倭が国を背負っていくのです」
「教えてください」
「教えてください!」
二人同時にコビの手をとって嘆願した。
 コビは例の呪術用バッグの中からメモ用紙とボールペンを取出し、論語の一節
【後生可畏】
と書いた。
「ああ、知ってます!こうせい、おそるべし」
と、嬉しそうにスガルノオミが言った。
「私も習いました。若い人は努力すれば、その進歩向上はおそるべきものがある、という意味です。・・・そのフデは何ですか!」
 ヲワケの驚きはコビの持っている紙とボールペンに集中した。当時は紙はまだ倭国内では作られておらず、もっぱら木片に墨で字を書いていたから、驚くのも無理はない。ボールペンも然りだ。
「ああ、これは遠い国から持ってきたもので、もうこれだけしかないので、大切に使わないといけません。これは紙と言います。これはボールペン」
「作り方を教えてください!」
二人同時に言った。
「ここでは作れないのです。いずれ百済から作り方が伝わるでしょう」
そう言いながらコビは再びメモ用紙に
【有朋自遠方来、不亦楽乎】
と書いた。有名な部分だ。
「知ってます。ともあり、えんぽうよりきたる、またたのしからずや」
ヲワケの臣が言った。
 コビはあることに気が付いた。それは、この頃すでに中国語ではなく、日本読みをしていることである。中国の漢文も日本独特の発音になっていることに感動した。この発音から徐々に、この時代から五百年ほど経って日本独自の平仮名文字ができることになるのだ。コビは嬉しくなって、更に知っている孟子の漢文を書いてみた。
【以五十歩笑百歩則如何】
 今度はスガルノオミが答えた。
「五十歩をもって百歩を笑わば、すなわちいかんとす」
 コビは知っている限りの漢文を書いて見たが、すべて二人は知っていた。一千文字くらいしか知らないと言ったが、少なくとも中学生コビの知っている漢文はすべて理解している。
「あの兵士の皆んなも漢字を知っているのですか?」
「いえ、漢字を勉強できるのは大王に仕えている一部の者だけで、指揮官でも読める人は少ないです。書けるとなると、もっと少なくなります」
と言ったあと、ヲワケの臣はボールペンをぎこちない手つきで持って、自分の名前
【乎獲居臣】
と白い紙に書いて喜んだ。
 スガルノオミも「わたしにも」といって、
【須軽臣】
と書くと、子供のように喜んだ。
 コビはメモ用紙を半分づつに分け、またボールペンとシャープペンをそれぞれ二人に与えた。そして、知らない漢字を教えても必ずしも通じるとは限らないので、漢字はむやみに教えるよりは、むしろ逆にどういう漢字を彼らは知っているのかを教わることにした。
 千五百年以上も前なのに、現代と同じ音で、同じ意味がいくつもあるのを知って興奮した。たとえば女の人とくに高貴な女性を「ヒメ」といい、漢字は「比弥」であった。男の人の「彦」や彦根城の「ヒコ」は「比跪」または「比古」であり、昔は「卑呼」とか「卑狗」と書いていたことがあるとのことだ。こどもの「コ」は「児」である。また「首長」は「オサ」と読むことを教わったが、現在でも「長」は「オサ」とも読む。
 こうして瀬戸内海の船旅は戦争に行くとは考えられない平和なひとときであった。
 
 途中海賊らしい一団が見えたが、ヤマトの大軍であることを知ると、島蔭に隠れてしまい、争いにもならなかった。また沿岸の人々の歓迎は大変なもので、ヤマト軍への信頼は絶大なものであった。食料だけでなく、剣、弓矢など武器の献上も多数に及んだ。
 夜は沿岸の入江に船を休め、兵士は船内で寝食したが、ヤマトタケルノミコトやヲワケの臣、スガルノオミ、そして他の指揮官などは豪族の館で厚いもてなしを受けた。
 一行は二夜で、備後灘から安芸灘、伊予灘、周防灘を走り、九州に上陸。陸行では二千の大軍を率いてこうはいかない。瀬戸内海の引き潮の流れに乗ると船は早い。
 コビの地理感では、今の福岡県と大分県の県境の中津の山国川に船団は入っていった。中津にはヤマト王に従属している豪族、中津彦が城を構えている。その夜はそこで一息入れた。中津彦は熊襲(くまそ)の中心が球磨にあること、そしてヤマト軍と対決するため、すでに熊襲軍は阿襲(あそ、のちの阿蘇)に向かっていることなどを地図を広げて説明した。
 地図といっても当時の地形はまるで九州とは似ても似つかぬ瓢箪型で、瓢箪の窪みの左側に球磨と菊池(現在の熊本県にある)が殆どくっついて書いてある。瓢箪の右側が、ヤマト軍の入った中津である。瓢箪の口の部分に末櫨国とか、伊都国、不弥国と書いてある。コビはおかしくなって吹き出しそうになったが、笑うわけにもいかない。
 
 そういえば以前、父に1450年頃のポルトガル人の描いた日本地図を見せてもらったことがあったが、日本には北海道がなかった。九州はサツマイモのようで、四国は小さく、朝鮮半島は細長い半島で、その先っちょは現在の五島列島の近くまで伸びていた。たったの500年、600年ほど前の地図でもそうなんだから、今は1500年前のヤマトタケルノミコトのいる時代だ、とても地図なんて出来なかっただろうし、あっても瓢箪型の、しかもこれがきわめて貴重なものだったに違いない。コビは正確な地形を描いてあげようかとも考えたが、それはむしろ混乱を招くだけだと思ったのでやめにした。というのは、彼らには距離と時間の関連が掴めないからだ。つまり比較的往来の多い場所は短い道程として書くし、未知の場所は遠く描く。瓢箪型九州の地図を信じている彼らに、正しい地形を教えても何にもならないだろう。
 更に、<邪馬台国はどこにあったか>という論争だ。文献派と考古学派に分かれて論争しているが、文献というのは「魏志倭人伝」しかない。この中には倭国への道程や邪馬台国の位置がかなり詳細に記述されているが、それをそのまま信じて現代の“精確な”日本地図に当てはめて考えている愚かさである。<九州は(日本列島は)太平洋上にあることになる>とか、笑ってしまう。当時の地理概念と現代の超精密距離測定技術には雲泥の差がある事を考えるべきだ、 <邪馬台国はどこにあったか>という論争は考古学発掘調査などでアプローチすべきだと父が力説していたのをコビは思い出した。
 
 作戦会議とも言える話を聞いていると、どうやら中津から山国川に沿って道があり、それを行くと阿蘇に到達すると考えているようだ。実際には現在の日田市から大山川に沿って、今度は南下しなければならないが、彼らにそういうことが分かるはずがない。というより、話全体が、すでに阿蘇に行けるとしているわけである。
 いよいよ翌日、ヤマトの二千の軍勢が、その阿蘇に向かって進んだ。二千という軍勢は決して多い数ではない。しかし、すでに各地の豪族はほとんどヤマト王に従うことを誓っており、場合によってはその豪族たちの抱えている軍が加勢してくれる。それほど熊襲は九州全域にわたって悪名高い支配者だったのである。
 ヤマトタケルノミコトは進軍中、名もない土地にいくつかの名前をつけていった。たとえば、山国川沿いに美しい渓谷があるが、これを大和の渓谷と名付けた。のちの耶馬渓(ヤマケイ)である。またそこから千メートルクラスの山々がいくつも見えるが、最も高くひときわ美しい山に、中津彦から彦を取って、彦山と言った。のちの英彦山である。
 一行はそのいくつかの山を越え、現在の日田盆地に出てきた。この日田も日いづる田というところからヤマトタケルノミコトが付けた土地名と言われている。
 中津彦の先導で、ここからは大山川に沿って南下し、さらに杖立川を上流へと進み、阿蘇山に向かう。大観峠を越えれば阿蘇である。
 
・・・この頃、すでに熊襲の大軍は阿蘇に到達していた。熊本平野をうるおす流れ、白川に沿って上り、戸下から黒川に沿い北上し、ヤマト軍を迎え打つために続々と集結していた。じつに三千の大軍である。
「カワカミノタケル首長どの!申しあげます!ヤマトの軍はたったの五百との報告にございます」
「五百だと!たったの五百でわが軍を攻めようというのか!バカめ。一人もヤマトには帰れないようにしてやる!」
 二千を五百くらいに過小報告するなど、なかなかのものだ。しかし、兵士の士気を高めるには戦争にあっては常識的なことである。
「ヤマト軍は大観峠に集結しているようです」
「そうか、わが軍は二手に分かれる。二千は黒川側から、あとの一千は今夜中に一の宮側に行かせよ。挟み打ちにして皆殺しにしてやる!」
 熊襲の首長はカワカミノタケルという狗奴国の王、菊池彦の子孫である。耶馬台国を滅ぼしたあと、狗奴国は百五十年にわたって、わが者顔で北九州をはじめ九州全域で暴れ回り、隼人(はやと)として恐れられた。しかし、熊襲の先祖は南方系の人々であったため、朝鮮半島や中国との交易をしなかったのが結果的には命取りになってきた。じっと我慢の子であったヤマト勢力が九州に及び始めて、徐々に熊襲の勢力は衰え始めていた。しかし、いまや三千の軍勢でヤマト軍を迎え打つというから、まだその力は強大である。
「三千と五百か!わしの相手ではない!早うヤマトタケルノミコトの首を見たいものじゃ!今夜は明日の凱旋に備えて祝宴じゃ!酒だ、女だ!女を呼べ!ありったけの女を集めるのじゃ!」
 
 あっという間に、村々にその命令は伝わり、若い女性が次々に連れ出された。大観峠で待機しているヤマトタケルノミコトのところにも、この話は偵察隊によって直ちに報告された。
「タケル大王どの!攻めるのは今です。熊襲の首長は祝宴を上げようと女を村々から連れ出しているそうです」
「このごに及んで何を考えているのか!熊襲の鬼め!ヤマトをなめるとどういう事になるか思い知らせてやる!」
「ヤマトタケルノミコトさま。私に行かせてください!」
コビが名乗り出た。
「コビどの!コビどのまで何を言い出すのですか!」
「いえ、本気です。私は女、何の疑いもなく熊襲の首長に接近できます。私に考えがあるのです」
「・・・」
 コビには妙案があった。何とかして熊襲の首長に接近して、酒の酌をする。そして目と目が合った瞬間にワープして現代に連れてくるのだ。そして暴れ回れば警察に捕まえてもらう。そうすれば、阿蘇では首長がいなくなったということで大混乱し、戦争も停戦になろう。話し合いになれば、道も開けるだろう。首長はいずれ助け出し、タケル大王に引き合わせ、殺し合いだけはしないよう頼む。そういったシナリオがコビの脳裏にあったのだ。
「お願い!私に行かせて!」
コビは嘆願するように、もう一度タケル大王に膝まづいて言った。
「・・・わたしも行こう」
「え?タケル大王が?」
側近の一人が目を丸くして言った。
「そうだ。わたしは女装する。そしてコビどのと二人で乗り込む。コビどのを一人で行かせるわけにはいかない」
「・・・」
 今度はコビが息を呑んだ。<せっかく一人で行くからワープして熊襲の首長を連れ出せるのに、あなたまで来られては・・・>、躊躇したが、<ま、いいか。なんとか切り抜けよう>、コビはそう決めた。
「それでは、そうしましょう。二人で敵陣に乗り込みましょう!」
「コビどの!心配でございます!」
ヲワケの臣が間を入れず叫ぶように言った。
「ヲワケさま、いいのよ、心配しなくて。タケル大王が守ってくださるわ」
「その通りだ、ヲワケの臣よ。わしには考えがある。・・・祝宴が終わる今夜半までには必ず戻ってくる。もし万一、明日、夜明けまでに戻って来ない場合は、総攻撃してこい。コビどのを守って必ず身を隠して、ヲワケの臣、スガルノオミ、そなた達の来るのを待っておるぞ」
「なにとぞ、ご無事で!」
スガルノオミはいささか興奮して、涙さえ浮かべて言った。
「ヤマト大王どの。女装するには髪型を変えなければなりません」
中津彦が大王の前に進み出て言った。
「そうか・・・どのようにするのだ。コビどのは?」
「コビさまも髪が長いですが、それは巫女の髪型ですから、村の娘にはなれません」
 そう言って、中津彦はすぐ二人の髪型を変える準備に入った。熊襲は男も女も同じように髪を側髪も後髪も一緒にして頭のてっぺんで結んで後に流している。これは倭人とくに豪族や貴人の結い方である美豆羅(みずら)とは全く異なる。
 熊襲の人々、あるいはそれに従っている南方系の人たちは美豆羅はしない。そういえばコビは阿蘇に来るまでの道すがら、村人の髪型が今まで見た出雲や吉備地方とは違うことに気が付いていた。とくに大人は男も女も同じ髪型であり、着ている服装によって見分けるしかないようだった。着物は袴ではなく、うちぎという長い単衣の着物である。
 二人は、兵士が近くの村人から拝借いや事実上は奪取してきたのかも知れない女性用着物を着た。
 ヤマトタケルノミコトは細面(ほそおもて)の美男子で、女装はよく似合う。しゃべらなければまず男とは思えないくらいである。
 コビはクスクス笑ったが、本人は超真面目である。
 こうして二人はすっかり村の娘になりきってヤマト軍から抜け出た。
 
・・・宴会をするという場所まできた。大勢の熊襲の家来たちが準備をしている。女たちも十人はいる。不安そうに立ちすくんでいる。周りに垂れ幕を吊しただけの首長の本陣である。
「ここで宴会をするの?」
コビはそっとタケル大王に聞いた。
「館があるのかと思ったが、そうではない、ここだ!首長の本陣なのだ!」
「だれが首長なんでしょう」
「わからない。そのうち確かめよう。コビどの、わたしから離れないように」
 そういって、二人は女たちが立ちすくんでいるところにそっとやってきた。あとは待つしかない。
 やがて夕暮も押し迫り、松明(たいまつ)が灯され、準備がすっかり整うと、どこからともなく、いかにも大将という風格の男が十人ほどの家来に守られるようにしてやってきた。それぞれの場所に座ると、女たちも酌をするよう配属された。コビとタケル大王は離れないようにとしていたが、そうもいかなかった。横並びに家来を三人挟んで座ることになった。
「明日は、ヤマトの鼻高をへし折るのだ!その前祝いに今夜は大いに飲め!」
「おー!カワカミノタケル首長!この世で最も強いお方、それはカワカミノタケルどの!」
 臨席した家来二十人ほどの全員が口を揃えて言った。
「そうだ!わしが最も強い男!だからタケルの名がある。ヤマトタケルノミコトだと!あれはタケルではない!クソタケだ!」
「おー」
<何をほざくか!>、ヤマトタケルノミコトはこぶしを握りしめ、いまにも飛びかからんばかりに怒った。
<あれが熊襲の首長か>、コビはまざまざと顔を見た。髭をはやし、毛深い手足、胸毛も濃い。顔は大きく、あだ名を付けるとしたら、まさに熊だ。それと比べると女装のタケル大王の美しいこと、どこから見てもヒ弱い女性だ。
・・・しかし戦争はいけない。多くの兵士が死んでいく。殺し合いをさせてはいけない!コビは何とか首長のそばに行って、じかに酌をしたかった。
 ふと横を見ると、家来の一人が女装タケル大王に何やら話かけている。<いけない!バレる!>、コビはとっさに、
「さ、どうぞ、どんどん飲んで下さい。カワカミノタケルどのに代わって!」
と、強い酒なのだろう、アルコールがプンプン匂う壷を、その家来の椀に注いだ。壷も椀も土器であるが、どこで手に入れたものか、ウワぐすりを使用したものだ。
 思いっきり、今流で言う色目を使って注意を引き付けた。
 ・・・酒宴も進み、皆んなかなり酔ってきたようだ。この垂れ幕の外でも兵士達が騒いでいる。飲んでいるようだ。
 隣の家来がしつこくコビに絡んでいる。手を腰にやったり、肩にかけたりしつこい。コビは、そのたびに酒でうまくかわしていたが、ついに見かねたヤマトタケルノミコトがそばに行って、その家来の腕を捻り上げた。物凄い力である。
「いててて、こやつ、何をしやがる!」
 一斉に皆んなの視線が集まった。
<しまった、ここで喧嘩にでもなれば、一辺に男であることがバレでしまうじゃないの!>、コビは二人の間によろけるように入り込んだ。そしてタケル大王の耳元でささやいた。
「だめよ!もう少しの辛抱よ!」
「もう我慢ならん!行くぞ!」
 見ると、着物の中に剣を隠し持っていた。ツカに手をやっている。<ダメ、殺し合いは!>、
 コビはさっと立ち上がって、壷を叩きながら踊り始めた。もう夢中だった。知っている唄も歌いながら必死で踊った。着物の裾がはだけて、足や胸があらわに出る。小さな乳房が篝火に揺れる。そんな事はどうでもよかった。必死で踊り続けた。カワカミノタケルも家来達も大喜びである。こんな踊りは今までに見たこともない。ディスコとストリップの踊りを一緒にしたようなものだ。家来達は手を叩き、壷を叩き、喜び騒いだ。
 コビは踊りながら、徐々に首長のそばに寄って行った。何とか目と目が合わないか、合えば色目でも使ってどこかに連れ出す。ここでワープすれば、何人も現代に連れて行くことになる。場合によっては、それも止むを得ない。コビは色々の事を頭の中で模索しながら、無我夢中で踊り続けた。
 と、その時だ!。女装したヤマトタケルノミコトが、たったったっと着物の中に手を突っ込んだまま、首長に近付いた。
「だめっ!」
 コビは叫んだが、遅かった。剣を抜くが早いか、
「やーっ」
と、一刀のもとにカワカミノタケルの首をはねた。首は宙を舞い、血を吹き出しながら、地面にゴロンと転がり落ちた。
「きゃーっ」
 コビは目をおおった。凄まじい光景だ。憎悪が起こす殺戮。人間ってどうしてこうなんだ!コビは一瞬、マリ・アントワネットがギロチンで首を落とされたという話を聞いたとき嘔吐したのを思い出した。小学校六年の時だ。しかし、いまやコビは強くなっていた。
 見ると、ヤマトタケルノミコトは酔っぱらってふらふらしながら逃げまどう家来達を次々に切り付け、倒していた。側近や指揮官など、ほとんどは殺してしまっただろう。
「もうやめて!逃げましょう!何百という兵がいるのよ!」
「よしっ!コビどの、よくやってくれた!」
「よくやったじゃないわよ!」
 コビは泣きたい気持ちだった。何のために恥ずかしい踊りをしたのか!何にも分かっちゃいない!
 二人は手を取って脱兎のように駆け出した。垂れ幕の中の出来事を知った兵士は何人もいたが、すでに泥酔状態である外の兵士達には、駆け出した二人が敵であるなどの判断力はもうなかった。あっという間に二人は闇の中に消えて行った。
 
・・・次の日、戦いはなかった。首長と幹部指揮官を失った熊襲軍に、ヤマト軍を相手に戦う士気はもはやなかった。
 かくして、ヤマト大王に最後まで抵抗した九州の熊襲は、ヤマトタケルノミコトとコビによって征服された。このコビと女装したヤマトタケルノミコトが熊襲を討った場所は乙姫と名付けられ、後世まで語りつがれることになった。現在も阿蘇に地名として残っている。
 敵の兵士達は分断され、ヤマト軍に併合された。ヤマトから来た兵士の何人かはそのまま残り、監視役に当たることになった。そのため後の事であるが、地名に故郷のヤマトや河内(カワチ)と同じものが付けられた。大津、加瀬、垂玉などそうである。
 
 スガルノオミは百人ほどの家来達と共に、ヤマトタケルノミコトから菊池川流域の支配を命ぜられ、この地に留まることになった。・・・・
「そちに、このヤマト大王の紋が刻まれた神剣を授けよう。これがわたしの証しである。これによって平和で豊かな土地を築くことができる」
「ははー、有り難き幸せ!」
 スガルノオミはミコトから神剣を授かった。ずしりと重い鉄剣である。戦いには使用しない神剣で、いわゆるヤマト大王の象徴である。手渡すとミコトはさっと馬に乗り、整列したヤマトの軍を見渡した。
 スガルノオミはコビに別れを惜しんだ。
「・・・コビどの、コビどのとはヤマトを出発した時から、ずっと一緒に旅をしてきました。ヤマタノオロチを退治し、斐川ではヲワケどのを救出し、そして吉備、阿蘇と長い旅でした。わたしは、この地、菊池が生涯を捧げる地となるでしょう。二度とコビどのとはお目にかかれないかも知れません。・・・いつまでもお元気で、ワカタケル大王に仕えて下さい」
「スガルノオミさま!」
 コビは巫女ではなく、一人の少女となって大粒の涙を流した。
「ヲワケの臣どの、そなたもコビどのをお守りし、大王にお仕えし、ヤマトの繁栄を共に築いてください」
「そなたこそ、身体には十分留意し、末永い活躍を祈る。・・・船旅で、コビどのと三人で交わした友情は生涯忘れぬぞ」
 ヲワケの臣は涙こそ見せなかったが、込み上げる熱い感情を抑えるのが精一杯であった。
「いかにも、忘れぬものぞ。文字によって自分の意志を書き記す喜びを教えてくれたはコビどのであった。・・・コビどの、ありがとう。コビどのとヲワケどののことは生涯忘れない。・・・」
 三人は手を取り合って別れを惜しんだ。ヤマトタケルノミコトは馬にまたがり、じっと見つめていたが、やがて力強い声で出発の合図をした。
「ヤマトに凱旋だ!出発!」
 阿蘇に来る時は、兵は約二千であったが、帰りは約一千になっていた。これは戦いによって失ったのではない。この地方の豪族にとって代わり、一層の平定をするために居留したためである。ある者は自ら、そしてある者はミコトの命令によって、この地に残った。
・・・スガルノオミは、のちに、ミコトから授かった鉄剣に文字を彫り、銀で文字溝を埋めて象眼した。これを自分の死後、墓に一緒に埋めるよう遺言を残したのであったが、一五〇〇年以上経ったある日、菊池川流域の江田船山古墳から発掘されることになった。
 
10
 ヤマトタケルノミコトは、まるでヤマトの王のように、大和川に凱旋した。すでに大和や河内(カワチ)には、ミコトが熊襲を討ったことが知れ渡っており、大和川の河口には大勢の豪族が歓迎に集まっていた。
 大和川の河口は瀬戸内海航路の最大の拠点として、歴代のヤマト王が開いたもので、百済や中国の使者は必ずこの大和川をさかのぼって奈良盆地に達する。ただ、百済系の豪族は、もう一つ北の淀川に入って京都盆地に移住した者も多かった。
 瀬戸内海航路の九州側拠点は、今回のヤマトタケルノミコトが入った中津川や駅館(やっかん)川河口である。そのため中津や宇佐は神代の昔から栄えたところで有名である。
・・・三輪の宮殿に英雄として大歓迎で迎えられたミコトは、さっそく戦利品の数々を興大王に献上した。
 三種の神器のうちの二つ、ヤタノ鏡とアマノムラクモノ剣も差し出した。ヤサカニノまが玉はすでに宮殿に祭られているので、これで大王の象徴がすべて揃った。その他ヤマトでは作れない鉄剣の数々、宝玉などの祭器も奉納した。
 その夜は盛大な祝宴が開かれ、もちろんコビも招かれた。祝宴といっても、現代の、あの飲めや歌えの乱稚気騒ぎではなく、酒は出るが、熊襲のような飲みっぷりではない。主に手柄の発表会なのである。こういう事があった、ああいう事があったと、その先々での戦闘や危険に逢った事を尾ひれを付けて大げさに自慢する。
 たとえば、出雲で退治したヤマタノオロチは、実際には大蛇ではなく、鉄鉱炉だったのに、ミコトは頭が八つもある大蛇だと言ったし、吉備制圧の話では、その首長カヤノナムチの名はひとことも出ない。すべて「鬼」である。鬼退治したと話す。しかも、調子ついたミコトは、
「鬼は雉(きじ)になって逃れようとしたので、わたしは鷹になって追い掛け、首を掴んで投げ飛ばした。そして首をはねると、血が川となって流れた!」
などと、身振りよろしく豪語する。熊襲征伐ではコビの踊りは天女の舞いである。
「コビどのは天女になって舞いを舞った。それをうっとりと見とれている熊襲の首を掻ききった」
となる。
 あるヲワケの臣の家来の一人は、コビとスガルノオミが葦原の中津国の斐川宮殿に忍び込み、ヲワケの臣と自分達を助け出した時のことを、二人で敵を全員やっつけたと説明する。とくにコビの呪術は、この世のものではなく、一瞬にして二千の軍勢を石にしてしまったと目を輝かせて報告した。
 コビは聞いていて少々滑稽にも感じたが、これが、この時代の現実であることを悟り、自分も祝宴に乗じるのだった。
 
 ふと見ると、ヲワケの臣が心なしか肩を落とし、元気がないのに気が付いた。時々、うつろな目で、コビの方を見る。
「ヲワケさま、どうかなさったのですか?」
コビはそばに行って、声をかけた。
「ああ、コビどの・・・」
「飲み過ぎかしら?」
「そういう事ならいいのだけれど。・・・コビどのとお別れしなければならないかも知れません・・・」
「え?」
コビはとっさの事で言っている意味がさっぱり分からず、どぎまぎした。
「そんな・・・わたし、ヲワケさまとお別れするなんていやです・・・」
 気が付くと、コビはヲワケの臣の手をしっかり握っていた。
「長い遠征から帰ったばかりだというのに、すぐあさってには、今度は東の国、蝦夷征伐に行けとの命令が、興大王から出るとのことです」
 蝦夷(えぞ)というのは北海道のことである。コビは驚いた。<九州から戻ったばかりなのに、すぐ北海道とは!>
「もう決まっているのですか?」
「いえ、正式に命令を受けたわけではありませんが、側近の侍従から、興大王は、そのお積もりだとのことなのです。そして、スガルノオミどのが菊池に残ったように、今度はわたしが多分、蝦夷に残ることになるでしょう・・・そうするとコビどのとはもう・・・」
「蝦夷って北海道よ!、どこにあるのか知ってるの?」
「ホッカイドー?、いえ、知りません。倭の国の果てだとのことです。冬は穴に寝て、夏は枯草の巣に住み、毛むくじゃらの獣のような野蛮人だと教えられています」
<ああ、なんて事なの!アイヌの人たちをこのように教えられているんだわ!>
コビは少々怒りにも似た気持ちになったが、ぐっと抑えた。
「・・・漢語の勉強をする暇がないじゃないのよ!せっかく宮廷に戻れたというのに。それに皆んな、もう身体はくたくたよ・・・」
「コビどのは、ここに残って立派な巫女になってください。わたしは大王にお仕えする身です。どこへでも行く決心はついています」
「わたしも行くわ!ヲワケさま!・・・あなたは北海道には行かないんです。関東地方までです!」
「え?ホッカイドー?、カントーチホウ?」
「ええそうよ、わたし知っているの!ヲワケさまは蝦夷の方まで行きません。武蔵の国までです。わたしも一緒に行きます!」
「コビどのの言っている意味がよく分かりませんが、大王はコビどのが遠征にご一緒することを望むでしょうか」
「大王が何と言おうが、わたし行く!」
 コビは少し強い調子で言いながら、ヲワケの臣の胸に抱きついた。
・・・祝宴は延々と夜半まで続いた。
 
 翌日、午後になってようやく予想していた通りになった。ヤマトタケルノミコトとヲワケの臣が大王に呼ばれ、
「そなた達によって倭が国の西方半分がヤマトの支配下になった。あとは東方の荒人を征伐し、ヤマトに反抗している豪族に和平を申し出させることが残っている。すぐ、明日から出発いたせ。ヤマト軍は新たに組織した一千の兵を調達する。蝦夷を征伐するのじゃ」
というものだった。
 コビはヤマトに残るよう命令された。しかし、もとよりコビがそれを承知するはずはなかった。ヲワケの臣のそばにいたいという願いだけでなく、遠征では、できるだけ戦闘をしないで、殺し合いをしないで、和平を勧めたいという強い信念があったからである。
「わたしはヲワケの臣にお逢いするために、はるばる遠い国からやって来た者。一緒に遠征に加わることが出来なければ、すぐ故郷に帰ります」
と、きつく嘆願し、ようやく一緒に行く事になった。
 かくして、休む暇もなく、ヤマトタケルノミコト一行は一千の兵を引き連れて、またも遠征の旅に出ることになったのである。
 
11
 コビは九州なら陸路よりも瀬戸内海を船で航海する方が早いので、理解できるが、東方遠征がまさか船によるとは思いもよらなかった。再び大和川から盛大に見送られて船団が出ていくことになった。
 その日は、淡路島と紀伊半島の間の友ケ島水道を抜け、紀伊水道を南下し、紀伊半島を左手に見ながらぐるっと志摩半島から伊勢湾に立ち寄った。
 じつは新羅の渡来人が対馬海流に乗って容易に出雲や丹後に行き着けたと同じように、黒潮に乗る、このルートは弥生時代の昔から行なわれていた。だから南方系の漂着者が九州だけでなく、東海地方や東北地方にも達していたのである。
・・・伊勢で船団を休め、ミコトとコビ、ヲワケの臣、それに数人の側近は、ミコトの叔母の伊勢・倭比売(ヤマトヒメ)の処に身を寄せ、厚い待遇を受けた。ここでも熊襲征伐の話で持ちきりになったが、最後にヤマトタケルノミコトは、遠征、遠征という余りに苛酷な大王の仕打ちを彼女に訴えた。しかし、倭比売は、
「そなたの武勇を見込んでの大王の願い。いま討たなければ、いつ、だれが討ってくれようぞ。そなたには辛いだろうが、行って蝦夷を征伐してくるのじゃ。・・・そなたの持参した神器・アマノムラクモノ剣は、この伊勢に奉納するのは、そなたが遠征から戻ってきてからにしよう。持って行くがよい。これがいかなる災難からも、そなたを守ることであろう。そしてコビどののお相手としてオトタチバナ姫を一行に加えることにしましょう。無事に役目を果たして戻ってくることを望みます」
 そう言って、三種の神器の一つである剣を神にいったん奉ったあと、再びヤマトタケルノミコトに渡した。
 オトタチバナ姫はちょうどコビと年格好も同じくらいで、鼻筋の通った端正な顔立ちと大きな目、長い髪、そしてその神々しい姿態は見る者を夢の中に誘い込むようであった。
 翌日、伊勢から伊勢湾を北上し、船団は木曽川に入り、錨を降ろし上陸した。濃尾平野を視察するためである。
 途中、知多半島沖で数隻が一団となった海賊に出会ったが、武装したヤマトの兵にはひとたまりもなかった。船もろとも、あっという間に滅ぼしてしまった。コビは、あまりに素早い彼らの攻撃とヤマト軍の応戦に、巫女としても成すすべもなく、ただ呆気に取られて見守るばかりだった。聞くと、彼らは 斐川や木曽川に入って、里に上がっては掠奪を繰り返して生活している土地を持たない蛮族であるとのことだった。そういえば瀬戸内海にも、航海する船を襲っては、交易品を掠奪する海賊がいた。
・・・陸路の場合は鈴鹿山脈を越えなければならない。しかし、この時代にはまだ確定した陸路というものはなく、十人程度の移住者が旅することはできても、一千の軍勢が移動できるような道はなかった。
 そして養老山地もある。これを抜けると、広大な水田が拓けた一面の濃尾平野である。
「この地方もヤマト大王の支配下なの?」
コビは、整然とした立派な田園に目を見張って、そばにいた指揮官の一人に聞こえるようにつぶやいた。
「はい、左様でございます。この豊かな土地によって倭の国が栄えております。歴代の倭国大王が百済からの移住民の多くを、この地に派遣し、開墾と農耕の仕方を土着の人々に教え、いまの平和があるのでございます」
 その会話が聞こえたのか、ヤマトタケルノミコトがつかつかとやって来た。
「この地方には渡来人が多く住んでいる。・・・鵜飼いといって、鳥を使って魚を取る習慣があるとも聞いておるぞ。それも渡来人によってもたらされたものだ」
「そうなんですか。<こんな昔から・・・>ウを使ってアユやフナを取るんですね。・・・岐阜の長良川が有名だわ」
「え?ナガラガワ?」
「いえ、こっちの事・・・」
<まだ長良川という名称はないんだ>、コビは歴史の重みを感じた。
 九州遠征でもそうだったが、ヤマトタケルノミコトは行く先々で、名もない川や山に名前を付けていった。また、その土地の豪族に祭事を教え、民、百姓から取る年貢も決めていった。武装したヤマト軍を見るにつけ、豪族は反抗するものは殆どいない。ヤマト大王に従属することを誓っていった。東海道の基礎を築いたのは、この東方遠征の帰路だったと言われている。
 
・・・遠州灘を航行し、駿河湾にも入って視察、さらに伊豆半島を周り、相模湾に入ったのは二日後である。
 疲れが溜まった頃だが、それに追い打ちをかけるように風が強くなり、船が大きく揺れるようになってきた。
「もう少しで蝦夷に着くから!」
と、ヤマトタケルノミコトはコビに元気付けるように説明した。<天気が良ければ富士山が見えるだろうに、蝦夷はすぐそこだと思っているのね>、コビは何も反論しなかった。
 小さな二、三十人乗りの船は、木の葉のように揺れ始めた。コビは悪天候の中、地理を頭に浮かべて、いまどの辺を航行しているのか一生懸命に見渡した。いよいよ風が強くなり、雲行きがあやしくなってきた。きっと雨も降りだすに違いない。
「台風が近付いているわ」
コビは、大きく揺れる船と空を見てヲワケの臣に言った。
「タイフー?」
「嵐よ。雨と風がひどくなるので、船を早く港につけて互いに縛ってないと、沖に流されてしまうわ!」
「それは大変だ!」
 ヲワケの臣は急いで船を近くの港につけるよう指示を出したが、何十捜もの船に、それが伝わるには時間がかかった。
「風向きから判断して、そう大きな台風ではなさそうだけど、早めに入江に入った方がいいわ」
 巫女の言うことだから、指揮官などにとっては絶対的である。伝令が右往左往し、船は大きく進路を変えている。コビは地理感に間違いがなければ、正面にうっすら見えているのは房総半島で、左が三浦半島だろうと判断した。左に大きく回って東京湾に入れば、波もかなり小さくなるはず。しかし、もうそんな余裕はなかった。夕刻も迫ってきた。一刻も早く入江に入る方が安全だろう。
 どう考えても、そして、いくらコビでも、見えている三浦半島の先端が城ケ島側か、観音崎側かなんて分からない。
 だんだんと雨も強くなり、いくつかの船は座礁したり岩に打ち上げられたりし始めた。少々苛立ってきたとき、大変な事態が起きた。
「コビどの!来てください!」
ヲワケの臣が悲痛な面持ちで甲板をよろよろしながらやってきた。
「なーに?なんなの?」
「オトタチバナ姫が・・・」
「姫がどうしたの?」
 船酔いでもして、具合が悪くなったのかと思い、コビはヲワケの臣と一緒に船底の彼女の休み処に急いだ。
 すでにヤマトタケルノミコトも来ており、頭を垂れて姫にすがっている。家来達も床に頭をすり付けて泣いている。姫は落ち着いた表情で、みんなを眺めていたが、コビとヲワケの臣が入ってくると、静かに言った。
「わたしが海の神の生け贄になれば、この嵐はおさまります。・・・往かせてください」
コビはやっと情況がわかった。これは大変だ。そんなことをして台風がおさまるわけがない。
「オトタチバナ姫!よしてください!姫さまが生け贄になったからといって、嵐がおさまったりはしません!」
コビは叫んだ。
「タケル大王さま!あなたからも止めてください!」
「・・・」
「どうして!どうしてなの!」
コビはその場の不思議な雰囲気にぎょっとした。
「ヲワケさま!大王に言ってください!そんな事をしても無駄なんです!迷信なのよ!」
「メイシン?」
「そう、迷信。人の命で自然現象を変えることなんて出来ないんです!」
「大王!どうか姫どのに思い留まるよう説得してください!」
ヲワケの臣は、ミコトのそばに行って嘆願した。
「・・・」
「コビどのの呪術を信じて、どうか姫のお命をお助けください!」
 なおも、ヲワケはミコトにすがって頭を垂れたが、ミコトはそれに応じなかった。
「わたしは天下を治める現人神(あらびとがみ)である。オトタチバナ姫は神に仕える巫である。コビどのでも海神の怒りを鎮めることはできない。姫にはそれができる。この嵐を鎮めるのは姫以外にはいない」
「それは違います!間違っているのです!あしたになれば、この嵐はおさまります。どうか尊い命を無駄にしないでください!」
コビは懸命にミコトと姫に向かって叫んだ。そしてミコトのそばに行こうとしたが、家来達に止められ、動けなくなってしまった。
「どうぞ、悲しまないでください。わたしは海の神のおそばに参ります」
「やめて!」
 コビの声は姫の耳には入らなかった。姫はすっくと立ち上がり、甲板に向かって歩き始めた。
「やめて!お願い!」
コビはありったけの力を振り絞って家来の腕を払いのけて、姫の後を追ったが、間に合わなかった。オトタチバナ姫は自ら海に身を投じた。
・・・コビは、またも自分の無力を知らされて甲板に泣き崩れた。嵐は吹き荒れ、何艘も船は転覆し、多くの兵士が海に呑まれた。コビ達の船はようやく入江に入って難をのがれた。
 
・・・次の日、悪夢の台風は嘘のように過ぎ去り、真っ青な空に晴れ上がった。この事件は、後に、走水(はしりみず)の海でオトタチバナ姫が生け贄になって神の怒りを鎮めたという神話になって語り継がれることになった。走水は現在、三浦半島の観音崎の近くに地名として残っている。一行が非難した入江は浦賀と久里浜である。
 しかし、ヤマトタケルノミコトは蝦夷に流れ着いたと説明した。コビは三浦半島であることは分かっていたが、とくに教えようとは思わなかった。
 無事だった兵士は直ちに呼び集められ隊の編成を組み直したが、総勢五百くらいになっていた。しかも船の損傷も甚大で、武器や食料も大半失われ、あの、強力な軍事力を誇るヤマト軍とはとても思えない状態になっていた。
 
 一行は浦賀水道を通り、現在の東京湾に入った。やがて船団は河口に入って行ったが、コビにも、そこが多摩川なのか、隅田川なのか、あるいは荒川なのか、はたまた江戸川なのか見当はつかなかった。極度に疲れていたし、方角を確かめて頭の中で地理を思い浮かべるなど、とてもできる状態ではなかった。もとより、ヤマトタケルノミコトやヲワケの臣にも分かるはずはなかった。
 船団は、かなり河川内部まで航行できた。両岸は水田が拓け、耕作技術は濃尾平野で見たものと殆ど変わらない。
 ところどころ村落があり、ヤマト軍一行を百姓らしい人影が遠くから恐る恐る見守っていたが、ミコトが説明する蝦夷の蛮族らしい攻撃など全くない。ミコトはいまもって、この地を蝦夷と思い込んでいる。
 やがて船団は、船の補修をする者と、あらぬ攻撃に備えて居残る兵士数十人を置いて、ヤマト軍は徒歩で行進して行った。
「油断をしてはならぬぞ!」
 ミコトは非常に神経質で、いつ蛮族の攻撃があるかと神経をとがらせていた。
・・・かなり内陸に入って来た。やがて百戸ほどかたまっている村をヤマト軍は包囲するような陣を組んで止まった。ミコトはすぐ、使いを出し、この村の首長に会いたいと折衝したが、この村には首長はいないと言う。もっと北の方だという。その夜は厳重な警戒のもとに野宿であった。
 次の日も行進は続けられた。同じく百戸ほどの群落があったので首長に会いたいと折衝したが、いないと言う。もっと北だという。全く武器を持たない平和な農民そのものである。更にヤマト軍は河川に沿って進んだ。また百戸ほどの集落があったので、首長に会うことを折衝したが、やはりいなかった。もう少し北の方に行くと森が続き、小高い丘陵があり、そこに首長が住んでいるという説明であった。
 ヤマトタケルノミコトは、蝦夷を討つという使命感からだろうか、何かに取り衝かれたように行進した。ここは蝦夷ではないんだとコビは何度説明しようと思ったか知れない。しかし、その度に無駄な口論になるようなことはやめようと思いとどまるのだった。
 やがて丘陵が見え始めて、コビはやっとこの辺りが、どこか分かった。来る途中ずっと左に見えていたのは狭山丘陵であろう、そして向こうに見えてきたのは、武蔵丘陵だ!そうだ!それに違いない、右前方遥か遠くに見える山は筑波山だ、その左に見える山々は日光山地(足尾山地)だ!コビはいささか興奮した。
<戻って来た!沿って来た川は荒川なんだ!関東平野はなんて広いんだろう!>、水田の続く向こうは、まだ開墾されてない広々とした緑の続く原野だ。ずっと続いている。なんにもない。原野そのものだ。
 
 ヤマトタケルノミコトは、小高い丘陵の裾に土塀で仕切った比較的大きな藁葺き屋根の屋敷が点在するのを見付けた。明らかに農家ではない。そこの一軒に使いを遣った。
 やがて召使いを数人連れて出てきた主人は、ヤマトの軍勢を見るなり、土下座をして地面に平伏した。
「ヤマトの大王さま!私はジンウイと申します。ここの国王は私ではありません。チュモン国王に、お引き合わせ致しますので、どうぞこちらへ」
 そういって、頭を垂れたまま、
「さ、どうぞこちらへ」
と、案内し始めた。ミコトは兵士を丘陵の裾に残したまま、ヲワケの臣以下十数人の家来だけを従えて用心深く付いていった。三軒目の屋敷に着いたところで、しばらく待つように言われた。
<蝦夷の蛮族が、こんな立派な屋敷に住んでいるのか>、ミコトは半信半疑であったが、なおも戦闘の構えを崩さず待った。三軒といっても、一軒当たりの敷地が広いので、兵士達がいるところからは数百メートルはある。
 やがて、屋敷の中に入るよう使いがやってきたが、ヤマトタケルノミコトは、それを拒み、首長の方から、こちらに出てくるよう指示した。屋敷内で何が待ち受けているか分からないと判断したのだ。何かあれば、即座に攻撃を開始し、一挙につぶすだけの心の準備はしていた。
 広場に立派な木製の椅子が二つ用意され、ミコトの要望どおり、外で会見が行なわれることになった。さっきのジンウイという人物と、ひときわ飾りの多い着物を着た首長らしい人物が、数人の側近を連れて出てきた。全く武装はしてない。
「さ、どうぞ、お座りください。わたしがチュモンです」
 落ち着いた物腰で少しも敵意を示さない。ミコトの方はコビの巫女姿以外は全員完全武装で、少しでも動くと兜の音や剣のかちゃかちゃこする音がする。相手側は絹づれの音である。大きな違いだ。ミコトとチュモンが椅子に座り、向かい会った。
「わたしは現人神(あらびとがみ)ヤマトタケルノミコトである。ヤマト大王から命を受けて、この蝦夷の地を平定に来た。そちは国王と名告っているのか!」
ミコトはいきなり<国王とは気に入らない!>というように切りだした。
「え?ここは蝦夷ではございません。幸魂(さきみたま)でございます。もっともサキミタマという地名は、わたしどもの祖先が幸せを願って付けた名前で、ヤマト大王の命名ではございません」
 コビは<しまった!ここは蝦夷ではないことを、やはり教えておくべきだったか>と反省したが、もう遅い。
「なに?ここは蝦夷ではないのか!」
「蝦夷はもっともっと北の方の国でございます。・・・わたしの祖先は百済王族です。この地に渡来したのは、もう百年ほど前です。その頃はまだヤマト大王は、この地を治めてなかったと聞いております。倭の国に帰化した祖先は、この地を豊かな国にして、王として今に至っております」
「王はわたしだ!勝手なことは許さん!」
「いえ、決して勝手なことをしたわけではありません。先祖伝来の言い伝えによりますと、ヤマトとイズモが発展していた頃は、この地はまだ開拓しておらず、農民は貧しい暮らしをしていたと聞いております。サキミタマがご覧のように豊かな土地に変わったのは、わたしたちのもたらした農耕器具と指導によるもの。ヤマトの許しを得る必要はなかったはずです」
「王はわたしだと言っているのだ!百済の王族の子孫とはいえ、この地で王を名告ることは許さん。倭国王は、ヤマトにミヤコを持つ我々だ!」
「はい。いずれこの日が来ると言い伝えられておりました。・・・ヤマト大王に栄えあれ」
 コビは一部始終を見ていて、涙が出る思いだった。武力衝突は一切なしで、ヤマトに従属した彼らの柔軟な姿勢に頭が下がった。それに引き替え、武力をバックに話を進めるヤマトタケルノミコトは強引だった。一言一言が権威に満ちあふれ、逆らえば一刀のもとに首をはねてしまうぞという態度が、相手にひしと伝わっていた。・・・
「弓矢などの兵器を隠している倉はどこにあるか」
「武器はいっさい持っておりません。いままで、その必要がなかったからです」
「農民に武器を与えて、兵士を組織するようにはしてないのか」
「農民には農耕具を与えます。武器を与える必要はありません」
「他国から攻めてきたらどうする!」
「この百年以上、そういうことはなかったのです。渡来人がやってきても、サキミタマの住人はこころよく受け入れ、争いはなかった。そのため、この地方は広い範囲に渡って平和が続いています」
「わかった。・・・海を渡り、川を昇ってきたのだが、この地方を、わたし倭武尊(ヤマトタケルノミコト)の武を取って、武州と名付けよう」
 武州はのちに武蔵と変更されるが、そのルーツはここにあったのだ。そして幸魂(サキミタマ)は埼玉の語源として知られている。かくしてヤマトタケルノミコトは戦闘をすることなく、サキミタマをヤマトに従属させた。
 
・・・やがて、この噂は武州全域に及び、ヤマト大王の名のもとに統一されることとなった。
 ヲワケの臣の予想は的中した。その後の彼の活躍はすばらしく、広大な関東平野を駈けめぐり、大王直轄の屯倉(ミヤケ)を増設し、官僚を置いて監督させ、武州全域にその名を轟かせ、その功績からミコトに、この地に残るよう命令されたのだ。
 ヲワケの臣は承諾した。拒否することはできない。いや、命令だからというだけではなかった。この地は平和である。この平和を維持するためにも、この地に残ろう。そう思ったのである。
 
・・・長かった遠征の旅も、ここサキミタマでミコトとも別れることになった。
「ヲワケの臣よ。よくぞ、ここまで私に尽くしてくれた。思えば、わたしとそなた、それにスガルノオミとは子供の頃からいつも一緒だった。ヤマトの地でもっと一緒に漢語の勉強もしたいと願ったが、いまやスガルノオミは菊地の地に、そしてそなたは、ここサキミタマに残る。ヤマトのために尽くしてくれ・・・」
「はい、タケル大王どの!遠く離れていても、わたしの心はいつも大王のおそばにあります。・・・何かあれば、いつでもお呼びください。すぐ参ります」
 二人は広大な緑一面の関東平野を眺めながら語った。
「・・・ところで、コビどのの事だが。・・・そなた、コビどのをどう思っておるか」
「どう?と仰せられますと?」
「にぶい奴じゃ、わしと一緒にヤマトに戻ってもいいかと聞いておるのじゃ」
「・・・」
 ヲワケは、あまりの忙しさで、すっかりコビの事は忘れていた。コビも巫女ということで、新しい神社が建立されるたびに、この広い関東平野のあちこちに駆り出され、ヲワケとゆっくり話をする暇はほとんどなかった。今もジンウイの子供が病気だと聞いて、その屋敷に行っている。
「どうなのだ」
「はい、・・・コビどのと別れるのは辛ろうございます・・・しかし大王が・・・」
ヲワケは遠慮がちに、うつむいて答えた。
「わたしが?わたしがどうなんだ?わたしに遠慮することはない。・・・やはりのォー・・・コビどのを妻にする気はないか」
「え?」
 突然のミコトの言葉にヲワケは自分の耳を疑った。<そんな!あれだけの呪術を使う巫女どのを、大王が離すわけはない>、ヲワケはコビに初めて出雲で会った時から、ずっとそう思い込んでいた。
「コビどのを、そなたは妻にする気はないかと聞いておるのだ」
「大王とコビどのさえ承知してくだされば、わたしは・・・」
「そうか、それで安心した。・・・わたしは走水の海でオトタチバナ姫を失って以来、コビどのには悪いことをしたと思っていた。コビどのの悲しみは、わたしへの憎しみに変わっているようにも思えた。恐らくコビどのは、わたしとヤマトには帰らないだろう。そなた達二人が、この地に残ってくれれば、わたしはそれに越したことはないのだ」
「大王、有り難き幸せ!」
 ヲワケの臣は思わずミコトの足元に膝間づいた。コビには淡い恋情を抱いてはいたが、大王のそばに仕える巫女という事以外には到底考えられないことだったのである。
「わたしはいよいよ明日、ヤマトに向かうことにする。そなた達との別れだ」
「大王!」
 
・・・その夜は、盛大に別れの宴が催された。コビはヤマトタケルノミコトから、<一緒にヤマトに戻らなくてもよい、ここに留まるように>と言い渡されたときは、ちょっと信じられない思いだった。ヤマトに戻るように命令されるとばかり思っていた。もとより一緒に行く気はなかったが、こうすんなりと留まるように言われると、気持ちの整理に戸惑うのだった。
 しかし、ここに留まるとしても、そう長い間いるわけにもいかない。もうそろそろ帰らないといけない。ミコトともヲワケの臣ともいよいよ別れのときが来たことを、宴が進むにつれ強く感じてくるのだった。
 コビはミコトに酌をした。初めてヤマト川の土手の上で会ったときの事を思い出した。偉そうな高慢な態度が気に入らないと反感を持ったものだった。もう少しで切り捨てられそうになったものだ。しかし、長い遠征の旅を一緒にしてきて、こうして酌をし、明日は別れとなると、コビの胸に込み上げる熱い情が湧いてくる。目と目が合ったとき、コビはどっと涙が出てきた。
「そなたは泣いておるのか」
「・・・」
「嬉しいぞ。・・・わたしはそなたの言う事を聞かず、いつも勝手な事ばかりやってきたように思う。いまこそ謝りたい。許せよ、コビどの」
「いいえ、いいんです。わたしは大王の力になれるだけの巫女ではなかったのです。・・・歴史は変えられませんでした・・・」
コビはうつむいて、小さな泣き声でつぶやいた。
「なに?何と申した」
「いえ、なんでもございません。わたしの力が及ばなかったのです。・・・大王は明日からヤマトへの帰路に旅立ちますが、お別れにどうかわたしの言うことをお聞きください。・・・相模の国で、そこの国造(くにのみやっこ)によって攻撃されます。枯草に火をつけられ、火の海に囲まれ、方角が分からなくなります。しかし、大王は出雲で手に入れ、倭比売(ヤマトヒメ)から授かった天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をお持ちでしょう、それを使って剣のおもむく方向に枯草を薙ぎ倒して進んでください。そうすると川に出て、ヤマト軍は無事にその戦いを乗り切り、相模の国を平定することができます。その剣は、その後は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼び、伊勢に祭ってください。・・・それから、甲斐の国、信濃の国を経て、尾張の国まで帰ったところで、ミヤズ姫という美しい姫に出会い、大王と親しくなりますが、そこの伊吹山の山賊が襲ってきます。その時も絶対に草薙剣を手元から離してはいけません。・・・こうしてヤマトへの帰路は東海道の基礎を築くことになり、やがてヤマトにお戻りになられたミコトは興大王のあとを継ぎ、武王と名告られ、倭が国の最高君主となられます。・・・」
「それは、まことか!」
 だまって聞いていたヤマトタケルノミコトは、目を輝かせて言った。
「はい、わたしの全勢力を傾けて占った呪術によって分かったことです。決して間違いはございません」
 コビは自信に満ちた視線を大王に向けて、はっきりと言った。
「そうか。・・・肝に命じて覚えておこう。コビどのの呪術によってわたしは救われた。礼を言うぞ。・・・この地に留まり、
ヲワケの臣と二人で平和に暮らせよ」
「・・・」
 コビは二人で暮らせ、という言葉にハッとした。<ひょっとしてミコトは、わたしとヲワケどのを・・・それはいけない!不可能な事!>
「わたしも、まもなく故郷に帰らなければなりません。・・・大王!お願いがあります。大王のお持ちの剣で、呪祭用の長い鉄剣がありましたね。あれをヲワケの臣に授けてくださいませんか」
「おー、よくぞ気が付いた。わたしの証として、ぜひ授けようぞ!」
 さっそく、その鉄剣が用意され、ヲワケの臣が呼ばれ、宴を中断しての授受式となった。最高の栄誉である。ヲワケの臣の嬉しそうな顔は、コビも初めてみた。
<これでいい。わたしが歴史を作った!>、コビは有頂天になった。
 
 次の日、いよいよヤマトタケルノミコトとも別れることになった。コビはもう涙は見せなかった。悲しみはなかった。多くの家来たち、兵に守られてミコトは去っていった。
「さようならー、ご無事で、さようならー」
 手を振りながら、声の続くかぎり、そして丘陵の影に見えなくなるまで叫び続けた。
 
・・・コビはふとわれに帰って、急に淋しくなり、泣けそうになった。それはミコトと別れた事ではなく、そばにいるヲワケの臣とも別れないといけないことだった。ヲワケの臣は自分の事を何も知らない。もう行ってしまう自分の事をどのように思っているのだろうか。胸が締め付けられる思いで悲しかった。
「コビどの・・・」
「はい、ヲワケさま」
 コビは瞬間的に、ヲワケの臣の目を見て、それが何を言おうとしているのか分かった。<いけない!それを言ってはいけない!>
「コビどの・・・」
「はい、ヲワケさま。わたし、あなたにお話したい事があるの」
「・・・何でしょう・・・」
「タケル大王に授かった鉄剣の事ですけど、あの鉄剣に文字を刻んで欲しいの」
「え?どういう事ですか?」
「わたし、ヲワケさまのご先祖はオホヒコさま、タカリのスクネさま、テヨカリワケさまであることを知っているのです」
「そうでしたね。熊襲征伐に行く途中、船上で・・・」
「ええ、そのご先祖さまとヲワケさまのこと、そしてヲワケさまがタケル大王にお仕えした事を鉄剣に刻んでほしいのです」
「それは・・・大王から賜った鉄剣に、そういう傷を付けるなんて、・・・いくらコビどののご命令でも・・・」
「お願い!わたしの願い聞いて!固い鉄片で文字を刻むのよ。そして錆びないように、その文字の上に金箔を押し込めるの」
「なぜ、そういうことをするのですか?」
「わたしだと思って・・・」
「・・・」
「その鉄剣、わたしだと思ってやってほしいの・・・お願い!」
「・・・」
「わたし・・・わたし、ヲワケさまとお別れしないといけないんです。この地に留まることはできないんです!」
 コビは、今まで我慢してきた感情が堰を切ったように、どっと吹き出して泣き崩れた。
言葉を失い、茫然とするヲワケの臣だった。<本当だろうか>、信じられない表情で、ヲワケの臣はコビを抱き起こした。
「コビどの!」
「ごめんなさい、ヲワケさま・・・もう何も言わないで。わたし、遠い国に帰らないといけないんです。・・・ヲワケさまは、この地を統率する首長になられた方です。わたしは・・・わたしは・・・」
「コビどの!分かりました。・・・長い遠征の旅で、どんなにコビどのに勇気付けられたか、そして楽しいひとときが得られたか、生涯忘れはしません。そしてコビどのの言われる金錯銘(きんさくめい)鉄剣は必ず作ります。わたしの宝剣として、いやコビどのの宝剣としてお守りします」
「ヲワケさま!」
 二人はしっかり抱き合った。
「ヲワケさま、さようなら!・・・目をとじて!」
 ヲワケの臣が目を閉じた瞬間、コビは大粒の涙を残してワープした。
 
「コビちゃん!、コビ、何をそんなところで泣いてるの。もうバスに集合の時間よ!」
麻美がコビの肩を揺すった。
「先に行ってて!」
 コビは稲荷山古墳の木陰で泣いていた。
(完)(1993年夏)