「博士、冥王星の軌道傾斜角は確かに従来の十七度から十五度くらいになったようです。間違いありません」
と、助手の茅場修は興奮気味にコンピュータの結果を見ながら言った。
 2日前、ここ野上東都天文台で、東都大学天文学部武田俊雄教授を中心とする太陽系惑星研究室と、チリのS天文台が別々に、冥王星の軌道が従来言われていたものと違うことを発表し、世界中の天文学者が注目し、何かの間違いではないのか、あるいは従前から言われていた未知の第十惑星の影響かも知れぬと騒がれているところである。
 今も冥王星の軌道が、S天文台の発表と食違いがないかを丹念に観測、コンピューターにかけて軌道計算をしたところだ。
「確かに軌道方程式は従来のものと、現在では違っています。このまま軌道が固定されたとすると、今までの軌道面に対して約二度傾くことになります」
 コンピューターのディスプレーを見ながら茅場は早口で言った。
「もう一度、冥王星の現在位置を確認してみよう」
 武田博士は落ち着いた口調ながら、まだ信じられない面持ちで言って、望遠鏡のあるドームに上がって行こうとした。
ちょうどその時電話が鳴った。茅場が何やら応対していたが、
「先生、新聞社からです。その後の冥王星の動きはどうかという問い合わせです」
 武田博士は困惑した表情で、
「はい、武田です。・・・・その件は、まだ現在では何も言えないのでご了承下さい。・・・・地球に重大な危機が迫っているなど、とんでもありません。・・・・一両日中には発表します。・・・・はい、判りました」
 丁寧に応対したが、とんでもないことを言うものだと、ぶつぶつ独り言を言いながら、ドームへ急ぎ足で上がって行った。茅場も急いでデータをまとめて、小脇に抱え、博士の後を追った。
 外で車の音がした。誰か来たようだ。
 
 ドームでは、白浜宏美が熱心に望遠鏡を覗きながら、コンピューターと連動で動く架台の変動がないかをチェックしていた。この2日間、茅場修と交替で夜遅くまで冥王星の観測を続けている助手である。助手といってもまだ学部に在学中の学生で、茅場修は先輩である。卒業後、研究室に残り武田博士のもとで助手として研究に従事し、将来を有望視されている茅場修を、白浜宏美は心ひそかに慕っていた。
 白衣のよく似合う細身の白浜宏美は、望遠鏡を操作する手もおぼつかない様子だが、懸命に正確なチェックを行なっている。ドームに上がってきた二人に気付いて言った。
「CCDからの信号は、正確に茅場さんのところのコンピューターに送っていたと思いますが、結果はいかがですか」
「ああ、ありがとう。おかげで正確な軌道計算ができた。S天文台の発表と同じだよ」
と、茅場はやさしく答えた。
「赤道儀の応答が少しくらいずれても、恒星定点を何十ポイントもコンピューターにメモリーしていますので、正確に惑星の動きは捉えることはできますが、でも、やはり架台の制御も正確な方がいいと思いまして、監視していました」
と言いながら、白浜は制御監視モニターとキーボードのあるデスクの方に行って、綿密にチェックしたポイントと、その時刻をメモしたノートを持ってきた。
 そのノートと茅場の持ってきたデータを見比べながら、頭をたてに振りながら武田博士は、
「新しい軌道方程式による冥王星の位置と、現在の観測位置は完全に一致しているね」
と、満足そうに、しかし事の重大さを諭すように二人を見ながら言った。
「もう十二時を回った。今夜は遅いから白浜君は帰りたまえ。私が送ろう。茅場君、すまないが君は、CCD撮影装置をコンピューターに連動して、三十分おきの自動測定に切り替えるようにセットしてくれないか。もうあまり細かいデータを取る必要もなかろう」
「はい、三十分おきのデータで、大雑把な軌道計算は出来ます。今後どのような動きをするかは判りますから」
 私は茅場さんと一緒に・・・・と言おうとした白浜宏美は、武田博士の顔をちらっと見てうつむき加減に、チェックデータを茅場に渡した。
「僕は、このデータをコンピューターに補正項として入れて、自動測定に切り替えてから帰ります」
「そうしてくれ給え。二人共、この2日間よくやってくれた。これでわれわれの発見した事実と、S天文台の発表した事実は確認出来たね。さっき新聞社から問い合わせがあったが、明日いままでの経過を発表しよう」
「・・・でもどうしたんでしょうね。冥王星だけが急に動きがおかしくなるなんて。何だか怖いみたい」
 白浜宏美は、さっきのちょっと見せた淋しげな面持ちはもうどこにもなく、可愛いいあどけなさの残った顔を茅場に向けて、あまり怖そうになく言った。
「うん、僕にも判らない。ひょっとすると第十惑星のせいかもしれないよ。だとすると第一発見者になりたいな。よしっ、観測強化だ!」
「おい、おい、あまり意気がるなよ。第十惑星というのは、随分前から取り沙汰されて観測され尽くされているし、可能性は非常に薄い。ただ私は・・・・」
「そうですね。・・・・先生の多変数位相渦理論の応用に一つに、水星の近日点の移動の計算がありますが、あの補正項が、今回の事件と関係があるかも知れませんね」
と、茅場は思い出したように、武田博士と白浜を交互に振り向きながら言った。
「質量と速度、それに位置が分かれば、先日計算した先生の方程式の補正項としてコンピューターに入れるんですが」
と、白浜も博士に頼まれて計算したプログラムを思い出しながら言った。茅場も頷きながら、丸い天井ドームを見上げて言った。
「そうだね。とにかく早く冥王星の異変の原因を突き止めたいね」
「大きな彗星が近ずいて冥王星に影響を与えたんじゃないかしら」
 白浜宏美も同じように望遠鏡の先の方からドーム越しに夜空を見上げながら言ったが、すぐそれを否定するように、
「でも、この2日の間、冥王星とその周辺を丹念に観測してきたけど、そんな彗星らしきものはなかったわね」
と、茅場に向かって、念を押しながら言った。
「うん、なかった。それに計算上も、そんな大きな、冥王星に影響を与えるほどの彗星は今は太陽系にはないはずだよ」
「すぐ内側の軌道の海王星は、現在は冥王星から見ればちょうど太陽の横っ腹にあるし、位置としては冥王星の外にあるから、その影響というのは全く考えられないし」
 博士も困惑した表情で言った。
「とにかく、冥王星の軌道に何らかの変動があったのだから、今後はその周辺に何か異変を起こすような物体がないかを、見逃すことなく観測することだね。よろしく頼むよ」
 
 ちょうどその時、下からハァハァと息を咳ながら、武田美枝子が上がってきた。武田博士の令嬢で、某大2年生である。白浜宏美のどちらかというと、おとなしい内気な性格と反対に、明るく活発な行動派タイプの女性である。すぐに茅場修と白浜宏美が肩がすれ合うほど接近して立っているのを見付けて、
「あら、茅場さん、今晩は。先日はどうも」
と、言いながら、2人を割くように間に入って来た。茅場は「ハァ?」と返事でもない、聞き返すでもない返事をした。何が先日あったろうか、一瞬考え込んでしまったが、別に何も思い出せない。
 白浜宏美は判っていた。いつもの彼女の振る舞いである。何かにつけて冷たく当たるのだった。先だっても、2か月位前だったが、一人で観測機器の調整をしている時、「修さんはいる?」と、電話がかかってきたので、ここには居ないことを告げると、間もなくそれを確かめにやって来たことがあった。また夜食やおやつなどを白浜はいつも持ってくるが、美枝子はそれを見付けると、さっと脇に置いて自分の持ってきたものを前に出すような意地悪なことをやっていた。
 白浜宏美は2人に遠慮するかのように、武田博士の方に行った。
「お父さま、新聞社からひっきりなしに電話がかかってくるわ。いったいどうなっているの」
「いや別に大したことではない。お前が心配することはない」
「別に心配はしないけど。茅場さんと一緒なら」
 そう言って茅場の腕をとり、
「ねェもう終わりでしょう。帰りましょう。私の車で送らせて」
と、急かした。
「ありがとう。でもまだこのデータをコンピューターに入れないと」
「じゃ、わたし待ってる」
 爛漫な娘の振る舞いに武田博士も苦笑いをした。
 十月の夜もまだ暑い。山頂は幾分平地より気温は低いとはいえ、やはり暑い。今年は例年になく台風がなく、雨が降らず快晴が続き、天体の観測には絶好であったが、2日前から急にニューヨークやパリなどで大雨が降り続くようになり、至る所で普段と違う気象に見舞われるようになっていた。
 
 武田博士と白浜宏美を見送ったあと、再びドームに上がって、二人だけになって、美枝子は落ち着かない態度になった。あんなに父親の前でははしゃぐような言動だったのが、急におとなしくなり、甘えた声になった。
「ねえ、この二日間、ここに入り浸りで、何があったの?」
「うん、太陽系の一番外の軌道を回っている惑星は冥王星だね。もっとも今は海王星の方が遠くにあるけど。・・・・その冥王星の軌道が従来の計算上の軌道とずれた事をぼくたちが発見したんだ。チリのS天文台でも、その事を見付けて、ぼくたちより少し時間的にはあとだったけど発表したので、世界中で、といってもまだ天文に関係している人達の間だけのようだけど、競ってそれを確かめようとしているんだ。ぼくたちも発表した以上間違いがあってはいけないので、徹底的に確認の観測を続けたわけ」
「それで、間違いないの?」
「間違いない。確認できた」
「白浜さんは、どうして観測に加わるの?、あんまり関係ないんじゃない?」
「いや、そんな事はないよ。彼女はコンピューターのソフト開発をしたので、プログラムの変更とか、定数の入れ替えなどで、凄く活躍しているよ」
「天体観測で、どうしてコンピューターがいるの?」
「恒星は位置が変わらないね。でも惑星はどんどん動くね。その位置変化をコンピューターに入れて軌道の計算をするんだ」
「ふーん。そういうコンピューターの操作なんて茅場さん一人で出来るでしょう」
「出来るけど、でもやはり・・・・」
「それで、その星が、冥王星?がどうなるの?」
「どんなにもなっていない。軌道がちょっとずれただけで、今は安定した軌道になっている」
「そんな事でどうして大騒ぎするのかしら。あっちの方の星の事で。・・・・あら、ごめんなさい。悪いこと言っちゃった。いまの、茅場さんに言ったんじゃないんだから」
「もう聞いちゃった」
 優しい目で、ほほ笑みながら、茅場は美枝子をにらんだ。美枝子は笑いながら、あとずさりしながら、逃げた。
「あ、ごめん。コンピューターに何かデータを入れるって、さっき言ってなかった?」
「そうだった。観測装置を自動に切り替えたり、やらなきゃいけない事がいっぱいあるんだ。美枝子さん、手伝ってくれる?」
「え?私に出来る事あるの?」
「あるさ、このコンピューターにね・・・・」
と言いながら、キーボードに向かって忙しく何かを入力した。
「このコンピューターのディスプレーに、三十分おきとか、この部分・・・・終了時間とかパラメーターが次々に変わるから、順番にインプットされているかどうか、見ていて欲しいんだ」
「お安いご用だわ」
「もし、このアラームがついたら電話して。そこの電話で05」
「うん、わかった」
 茅場は階下のコンピューター室に駆け足で下りて行った。美枝子は嬉しくてわくわくした。<私だってお手伝いできる>、そういう気持ちが体全体に浮き浮きしたものを感じさせるのだった。
 ディスプレーのカーソル位置の数字が次々に変わっていく。ドーム内の制御装置と、このコンピューターおよび階下のコンピューターが連動して、完全にメモリーされたようだった。機械って凄いな、まるで生きているみたいだ、と美枝子はめずらしさに目を懲らした。
 美枝子は電話機を取って05を回した。茅場がすぐ出た。
「どこが間違ったかなあ。すぐ行くから待ってて」
「ううん。そうじゃないの。アラームはついてない。声が聞きたかったの」
 甘えた声で言った。
「もう、びっくりしたなあ。どこか間違ったと思ったじゃないか」
「ごめんなさーい」
「・・・」
「怒ったの?ねえ、返事して。もしもし、修さん・・・・」
「物凄く怒った。人が一生懸命にやっている時、びっくりさせた人が、この宇宙に一人いる。懲らしめるから、そこで待ってて」
 美枝子は茅場が上がってくるのが待遠しかった。胸がどきどきした。こういう気持ちはどこから来るのだろうか。
美枝子が茅場を知ったのは、2年前である。高校3年の秋だった。茅場が学部を卒業後、父武田博士の惑星研究室で助手として残り、修士も修めたいと自宅に願いに来た時だった。すらりとした長身と、いつも理知的な面持ちの中にも学者ぶったところが全くない、男らしいきびきびした言動に、心を惹かれたのだった。
 美枝子は階段のところまで行って待った。茅場が駈けてきた。階段の下から睨まれた。どきんどきんと胸が高鳴ったが、自分でもなぜ両手を左右に広げたのか分からなかった。勢いよく上がってきた茅場の胸に飛び込んだ。思いっきり胸の中で甘えた。生まれて初めて唇の柔らかさを知った。
「修さん・・・・」
「なに?」
「ううん。別に何でもない・・・・」
「・・」
 このまま離れたくない、このまま何時間でも抱かれていたい、そういう気持ちでいっぱいだった。ほんの三十秒、一分くらいだったろうが、何時間も経ったようだった。
「あと、コンピューターにデータを入れるの?」
 手を握り合ったまま、少し離れながら、茅場の顔をうつむき加減で見ながら、美枝子が言った。
「ああ、それが残っている」
「終わってから、お弁当食べましょうか。お夜食持ってきたの」
「わー、嬉しいな。本当はお腹が空いていたんだ」
「じゃないかと思ってた」
 二人は顔を見合わせて声を出して笑った。