城山探訪 参考文献

城山歩きの時の参考にされると、一味違った発見があるかもしれません。
文字が置き換えられないところは、●で記しましたので、ご了承ください。・・・は省略部分です。

「遊房総記」
文化中、台命によりて、我が公は房総に、会津候は相州各要害の地に大筒台場を取建てらる。是より先、御鋳炮方井上左大夫殿など巡見あり。我が公にも、成瀬奉行、杉山軍師、広瀬教授等の諸先輩及び先考開善府君砲家に場所見立てを命ぜらる。斯くて房州台場は洲崎に築きて勝崎と称し、陣屋は波佐間に在りて松岡と呼び、又、白子に遠見番所を置いて梅岡と唱ふ。総州台場は城山に築きて平夷山と称し、陣屋は百首に在りて竹岡と改む。富津は竹岡遊軍出張の場処なりしが、文政五年、房州の防備をこの地に移さる。・・・
・・・村の入口左手なる松翁院と云ふ寺には・・・ 村、西の方は海に臨む。南に小川あり。村東二里許の白狐村より発源し、ここに至りて海に入る。前岸巌然として突起するものを城山とす。里見氏の墟なり。其の西麓は即ち十二天社にて砲●あり。村東半里許の山下に備前公陣屋あり。これ我が公の旧営にて、陣外に植ゑ置かれたる松林、殊に繁茂せり。砲術場など、昔の如く東北の隅にありて、演放の音聞ゆ。・・
川を越えて川向村。夫より燈篭坂と云ふ石坂を登る。これ台場往来の正路なり。捷径は十二天社の傍より登りて、いと峻急なりき。坂上右折すれば、山背通り台場に至れども、木戸ありて入ること許さず。城山の巓に遠見番所、其の下に火薬庫見ゆ。坂を下りて浜手へ出づれば、津浜と云ふ。城山西南の麓なり。ここにも砲●番所あり。仰ぎ望めば、所謂る平夷山台場、山腹少平の処に屹然たり。但し、是は勝崎に対し、彼は陽の台場とて海岸へ現出し、ここは陰の台場とて前に小竹など排列し、屋根は芝を覆ひ置かれしが、今は竹を切り、芝もなく、何処よりも顕はに見えて、亦陽の台場なり。 ※ ●は土偏に敦の字。
 
 
「甲寅紀行」
此方にては百首村の出崎に御旗山ありて、詮議すとなり。海より東の方は百首なり。古城山あり。里老の伝に云く、里見刑部大夫義実、永享年中房州に入て安西、金鞠、丸、東條を亡し、長享二年戊申に卒す。年七十二、其子刑部大輔成義上総の国を攻んと欲す。時に作網海の城主此を聞て、降を乞て曰く、里見氏能倭歌を詠せると聞く、願くは今百首の和歌を詠じて送らば、兵を迎ふるに及ばすして城をあけ渡すべき由云ひ送る。故に則ち里見百首の和歌を詠じて之に送り、因て作網海の城主速に退き、里見其家臣正木左近将監平実次をして城主となし、則ち作網海を改て百首と名付るなり、作網海の前の城主は、武田八郎氏信が氏族なりと云ふ。又或は云く、「城主正木氏和歌を好む。曽て群臣と酒宴の次でに、士卒と共に一座にして百首の歌を詠ず。因て、地の名とすとも云ふなり。城は前の丑の年に潰亡せり。今歳甲寅に至りて九十五年なり。城山の中段に正木が取立てたる三社大明神あり。明神の棟札は千年ばかりに成れり。別当延命寺にも棟札の写有りとぞ。又、不動山、燈篭坂(蟷螂坂とも書也)見ゆるなり。・・・
 
「板東八館譜」里見氏譜
原文の漢文体を書き下しにしました
文明三年三月十五日、義実及び子の義成、兵を率いて峰上、造海両城を攻む。
義実大峯を経て峯上に逼す。玉木城と名づくは城真里谷道観の守る所なり。城兵二百人出で、戦死者数十人。・・・道観逃れて造海に走る。義実往きて義成に会ひ、義成兵三百余騎を率いて造海を攻む。城道観の子丹波の守る所なり。其の臣佐久間藤内左衛門、・・・十六日、進みて城を囲む。道観父子勢に屈し、請ひて曰く、・・・和歌百首を咏じて之に賜はば、而る後に降らん。・・・道観乃ち兵三百七十騎を率ゐ出でて降る。後更に造海を百首村と云ふ。
 
「小倉本里見家系図」
二代成義改里見刑部大輔 
文明三辛卯年、義実父子二手になり、玉木造海両城に向ふ。三月十五日義実先陣、正木弾正上総国峰上領玉木城上明城とも真里谷荒内入道道環を攻む。玉木城百人ばかりこもりしが、三十人討死して落城、道環廃木、城に火を懸け造海へ逃げ退く。義実其の勢を以て大峯通り造海へ押寄せる。里見義成は真里谷丹波(道環子也)篭城の造海へ向け、明金まで出陣す。丹波が臣佐久間藤内出張す。義成が先陣安西は軍開始以前に、忍んで敵地に入りて窺ふ。鋸山に伏勢有り。義実陣を取り堅め、夜に入りて船に乗り、金谷浦へ廻り、井戸城の誤り攻め掛く。真里谷勢敗北す。早旦に造海城に寄せ掛く。真里谷入道は玉木より夜中に造海へ逃げ来たり、丹波と内談これ有り、里見殿文武の達人と聞ゆる間、此所の風景百首詠じ給はば、味方仕るべき旨を峯上次郎清治を差し遣す。
里見家此の旨届け聞く。
 造り海かけ引自由なりければかかりし魚にひとしきは敵  里見義成
 夜をこめて燈篭坂を越えぬれば味方の光日の出ますます  同
 風そよぐ萩生の野辺を狩りくらし今ぞ里見る有明の月  小倉貞光
歌書別に有り。百首送りしかば、降参に出でたり。里見父子白浜に帰る。
 
「里見九代記」
里見刑部少輔義成公の御事
 上総國真理谷丹波が籠りたる造海の城を攻め給ふ時、城方より弱弱と城を渡さんこと無念に思ひ、「里見殿は文武の明白なりと承る。然らば急ぎ此所の体を百首の歌に詠じ給はば、御味方に参るべき由」申す間、即ち百首を詠みて遣さる。その中に、
 造海かけひき自由なりければかかりし魚にひとしきは敵
 夜をこめてとうろう坂を越えぬれば味方の光り日の出ますます
 つくろうみ川瀬定めぬ折なれど下れる水は入るる大海
余の歌別書にて見るべし。かくの如く歌百首詠み遣されければ、即ち降参したりけり。
 
「里見代々記」
かくて年月を経るほどに、文明三年卯春、大将刑部殿へ仰せられけるは、「足下にもはや廿五歳、軍大将にも立つべき頃なり。我は未だ五十余歳、少しも年の若き内、上総國を攻むべきなり。急ぎ勢を催して打立たばや」と仰せけり。義成聞し召し、「左こそ候へ。其の儀ならば二手になりて、攻め申さばや」と宣ひけり。「左あらば打立て」とて大将には先づ真理谷党の内に道観入道と云ふ者、峯上城に玉木の城と名づけ閉ぢ籠り、己が領分の民を恣に悩す由、「手初めに彼を攻め潰さん」とて向ひ給ふ。刑部殿には、道観が一子真理谷丹波といふ者、つくらみ(●海)と云ふ処に城郭を構へ、海陸の関所とし、閉ぢ籠りたりと伝へ聞き、彼の城を攻め落さんと、父子二手になりて出陣あり。頃は三月十五日、玉木の城を攻め給ふに、城中に百人ばかりぞ見えにける。既に戦始まりて首二三十切り捨てたり。残る雑人ばら、皆散り散りに落ち失せたり。道観入道を尋ぬるに、行方更に知れざりけり。城中に火を掛けて、それよりつくらみ城を心掛け、大峰通りに差し掛る。正木大膳を先手とし、血気盛んなる若者共、都合其の勢二百余騎、軍太鼓を叩き立て、曳曳声を出して押したりけり。義成公には安西勝峯を先手にて、明金まで押し給ふに、丹波家臣に佐久間藤内と云ふ者出張して居たり。安西是を見て、「彼は定めて海陸の関守と覚えたり。群臣の血祭りに矢軍せよ。刀汚すな、者共」と下知すれば、大勢の軍兵共差し取り引き詰めさんざに射る。敵防ぎ戦ふ其の隙に、忍びの者を遣して案内を窺ひ見るに、「鋸山に少々防勢を隠し置き、其の外には人も見えず候」と申す。義成公聞し召し、「今宵は陣所に燎絶やすな」とて夥しく焼き立てさせ、密に軍兵を引具して船に取り乗り、金谷に漕ぎ廻し、阿戸り攻め給ひ、明日早旦にはつくらみ(●海)城を押つ取り巻き、一度にどつと揚ぐ。然るに、真理谷入道道観は、昨日の軍に打負けてやうやう忍び出で、此の城へ逃げ入りしが、とても叶ふまじと思ひ丹波と談合極め、一通りの文を認め、峯上次郎清治と申す者に持たせて里見殿へ遣さる。清治文を持つて御前に罷り通り、「是は此処の城主真理谷丹波が使者にて候」とて、一通を差し上げて帰りけり。即ち披いて御覧ずるに、「かねて承り及び候に、里見殿には文武両道達者に御存じなり。誠にさる御事候はば、此の里の気色一時の間に百首の和歌に連ねさせ給ふへ。さ候はば城を渡し降人に罷り出で、永永御旗下に属すべし」とぞ書いたりける。大将御覧じて、「あはれ彼等が有様を考ふるに、軍したらぱ゛打負けは必定なり。無下に城を渡さんも余り本意なし。ただ直に望を懸け、命を助かりて旗下に付かばやとの、父子が談合ござんなれ。浅ましき士の振舞かな。よしよし、命を助け得させよ。いざ、草臥休めに我も連ねんに、士共も思ひ思ひに仕れ」とぞ宣ひける。軍兵共も、「丹波が有様、扨も是非なく望みたり」と、思ひ思ひ連ぬ。大将の御歌に、
 里を見よはげしき春の山あらし世をつくろうみにさはらざりけり
 世をふるまでとうろふ坂と聞くときはゆききの人の夜半のたよりか
 討ちもせずうたれもせざるたび人の百首の望つらねまゐらせ
かやうの御歌連ね給ひけり。。人々の歌者取り集め、百首揃へて丹波が方へ遣さる。義実公は山路通りを経て着かせ給ひけるが、この体御覧あり、御満悦限りなく、先づ人馬を休めんため、一引き返し、「長南は重ねて攻めん」とて、白浜へ帰陣あり。
※ ●は口偏に刷の字。
 
「房総軍記」
真理谷 入道父子降参の事
斯くて文明三年辛卯冬の十月、里見刑部大夫義成は、房州一円を切り靡け、剰へ、上総根古屋城主正木大膳、同弾正降参の後、威を房総両国に振ひければ、両国の勢七百余騎を引率して、上総國の峰上城に進発し、真理谷入道及び真理谷丹波を攻めたりけり。先づ入道が城へは、正木大膳を先鋒の大将として義真自ら向ひ給ふ 。其の勢四百騎なり。刑部大夫義成三百余騎を率して、真理谷丹波が籠りたる造網に向ひ給ふ。義真の四百余騎は大嶺より押し寄せ、入道道環と相戦ふ時、義成の三百余騎は明ケ根に向ひけり。真理谷丹波が家臣、佐久間藤内左衛門百余騎を率し、城を開いて打つて出で、終日矢軍をして日を暮しけり。爰に義成忍びの者を入れて丹波が陣中を窺ふに、「鋸山の険阻を恃み、勢数十騎ばかり伏せ置き、其の外の口々には敵一人もなし」と告げたり。義成これを聞いて、陣中に大篝を焚かせ、士卒六十人を残し置き、自ら二百余騎を率して潜に船に乗り、金谷浦より敵の後へ抜け出で、時分を見すまし、鯨波を一声上ぐるや否や、短兵急に攻め立つれば、なじかは以てたまるべき、丹波一戦にも及ばず、忽ち城を捨て、跡を暗まし落ち失せたり。それより里見造網に押し寄せ攻め討つこと急なり。大将丹波並に城中の者共、一同に評定しけるは、「里見は大勢、味方は小勢なり。始終戦ふとも利あるまじ。降参するより外あるべからず。然れども、今更城を明け渡さば、世の人に腑甲斐なしとや笑はれん。所詮、義成は文武の達人と聞けば、百首の和歌を望み、義成百首の歌を詠じて送らば、それにて城を開け渡すべし」と、内談一決し、翌日義成の陣中へ使者を以て云はせけるは、「君の威勢、朝日の如く、民を養ひ士を恵むこと今に始めず。慕ひ奉る処なり。殊更、君には文を好み、武を励み、和歌の道を好み給ふ由、予てより承る。今、君百首の歌を詠じて城中へ賜はらば、速に城を開き、永く御旗下に従ひ、軍忠を尽すべし。然らずんば勝負を一時に決して、運を天に任すべし」と。二人の使者言葉を尽して云ひければ、義成聞いて感ぜられ、乃ち百首の歌を詠じて城中に送り給ふ。これよりして造網村を百首村と名づくといへり。
 
「房総里見軍記」
真理谷丹波防戦の事。並に百首歌の事。
かくて文明三年七月、里見刑武少輔義実同太郎義成相分れて、真理谷道隈子息丹波が造海の城へ押寄せ給ふ処に、丹波が長臣佐久間藤内は智謀兼備の者なれば、謀を含んで明金といふ処に出張を構へ相待つ処に、義成卿三浦半左衛門を先手とし、村上、大島、山本、高梨を従へ、其の勢都合千余騎にて、敵陣を睨み同じく野陣を催しけり。稍あつて、敵陣より射手打ち入るほど、すらすらと出で、味方の陣へ雨の如く射かくれば、同じく味方よりも手だれの精兵三十人ばかり出して、佐久間が陣頭を射立てたり。佐久間下知して弓を納め、手勢百人を引いて味方近く進み来る。義成是を見給ひ、「あれ射立てよ」と下知
し給へば、射手三十人休陣の備へより入り代りて、元筈、うら筈、円月の如く引き丸め、一度に切つてぞ放しける。その矢未だ戦場まで届かざるうち、内藤百騎の備へ疎らになりて逃げて行く。先手三浦半左衛門すでに備へを繰り出さんとしける処に、義成急ぎ下知して、「やれ待つべし。不思議多し。敵は聞ゆる真理谷の兵、この義成を支へんと思ふ程なる武士共が、未だ白匁を合せざる内に揚巻を見する事やはある。これ一つ。里見向ふと聞くならば、城へは三分残し、此処へ七分の大勢を引いて出張すべきに、二百騎にも足らざる勢を以て掛け合すべきや。これ二つ。丹波これを出す程の武士ならば、定めて駆ろう゛んざい代りの者あるべきが、手合せの軍に一度矢射かけて、速に備へを動すべきや。・・・
翌十日の早天に、造海の城へぞ押し寄せ給ふ。道隈は、昨日義実卿との戦ひに敗北し、夜中に内通して当城に籠り居たれば、父子八方に心を配り、詰り詰りには人数を廻し、防御の備を固めし程に、音に聞えし真理谷入道道隈、同じく丹波信隣なれば、なかなか心易くは落ちず。然る処に、義成の方より黄にかへし茶の鎧着たる武士、塀下に馳せ来り、「福原佐蔵種吉当城の一番乗りなり。続けや面々」と呼ばはる処を、真理谷下知して、はしり木を以て突き落とせば、堀へ落ちて死したりけり。是を見て里見勢の中に印藤七郎、小川平八、百騎を率ゐて、塀下に付く処を、城中より筈黒の矢を以て射出せば、小川平八胸板を射抜かれて命を落す。寄手少し色めく所を、「得たりやおう」と、真理谷丹波は大長刀にて渡り合ひ、七郎がわたがみ刎ねて馬より落ちる処を、信隣は首を取らんと駆け寄れば、三浦半左衛門太刀振りかぶり馳せ来る。丹波兵を返して手早く城に入り、弓を以て是を防ぐ。かくて、流石の義成も攻めあぐみ給ふ所に、義実卿も、峯上の道隈造海城に逃げ入りたるより、其の儘義成卿と一所になり、数日此所に対面し、兵糧の道を断ち塞ぎて攻め給ふ。扨こそ城中次第に糧乏しく、兵気やうやう衰へけり。真理谷父子相談して、「当城糧さへ続きぬれば、やみやみと渡すべきにあらねども、是非に及ばぬ次第なり。さりながら、空しく相渡す事やあらん。難渋をいいひかけ、若し此の儀甲斐なくば城中引き払つて討つて出で、討死するのみなり」とて、家来柏崎彦六左衛門に命じ、「里見の陣に至り、斯くの如く申すべし」と言ひ渡せば、やがて柏崎は小具足ばかり着し、かはらげの馬に打乗り、大音に申しけるは、「是は里見殿の御陣へ、当城主真理谷父子より使者として罷り出でたり。必ず卒爾し給ふ な。取次の衆を賜はるべし」と、扇を開いて平伏の体を示しければ、義成卿これを見て、「只今城中を出でたる武者、全く戦ふ者に非ず。この程の籠城、糧乏しきに難渋して、使を出せし有様なり。誰かある、取次ぎすべし」と、言葉の下より、同じく小具足に身を固め、大島右京手綱かいくり出で向へば、柏崎馳せ付け、ひらりと下馬す。大島も同じく下馬す。双方礼儀し、「我は真理谷三河入道道隈父子の使者として是まで罷り出でたり。御本陣へ御案内下され候へ。かく申すは、同じ内に柏崎彦六左衛門正照と申す者に候」と申しければ、大島乃ち案内して本陣へ同道す。彦六左衛門蹲踞して、「扨も真理谷父子微勢を以て、此の程より防御の備へを結び、今日まで罷り在り候。里見家武名高く候所に、籏下に属し奉らんと存ぜしかども、流石に総州の真理谷、空しく降参も無下に残念の至り、あはれ里見殿は文武の達人と承り候間、此所の体を百首の歌に詠み給ふならば、弦を外し、剣を伏せ、御味方仕り候べしと、申送りたり」と、演説したりければ、太郎義成につこと打笑ひ、「心得たり」とて、則ち料紙を柏崎に与へて、即座に百首詠み給ふ。
 造り海かけひき自由なりければ掛りし魚にひとしきは敵
 夜をこめて燈籠坂を越えぬれば味方の光り日の出ますます
 つくら海の河瀬定まる折なれば下れる水はいなしたいがい
 (百首の歌、事多きがゆゑに爰に略す)
斯くの如き即吟を、柏崎書き認め、大きに感じて、丁寧に式礼し、則ち有りの儘に披露しければ、かの百首の歌を見て、真理谷父子大きに感じ、又驚き、籏を巻いて降参す。さてこそ里見父子免じ給ひて、籏下に付け給ふとなり。
 (此処を今に百首と云ひ伝ふとなり)
 
「房総里見誌」
つくら海城退治。付、百首村之事。
既に文明三年辛卯春に至り、義実公に向かひて云ふ。「汝早二十余年、軍団をも持つべき頃なり。吾も五十に余れば、齢若き内、上総國を攻むべきなり。諸士に其の旨告げよ」とて、國中は云ふに及ばず、上総の軍将迄に触れたれば、各々士卒を従へ、「早打出でん」と一決す。其の時、大将諸士に謀策を告げて云ふ。先づ出掛けには、真理谷党類にて道観と云ふもの、真理谷をも不義して、我意を搆へ、峯上領に玉木の城と名付け閉ぢ籠り、領分の土民を犯掠す。然れば吾が手は玉木を攻め討つべし。成義は道観が一子真理谷丹波と云ふ者つくら海に一城を構へ、海陸の関所とし、四民を悩す由なれば、彼を攻め討つべし」とて、文明三年の春、軍勢を二手に分け、正木氏を先陣として、玉木の城を攻め給ふに、城内に士卒僅か百人ばかり籠りたる体にてありけるを、揉み立て揉み立て攻めければ、城の大将は逃げ出で、雑人ばらも散々に落ち失せけり。寄手城中に乱れ入れて、此所彼所に番兵少々残し置き、「軍神の血祭り、門出よし」と悦び給ひ、夫より直につくら海を指して攻め寄せ給ふ。山路険阻なれども、血気に逸る強兵二百余騎、正木清直を先手とし、軍太鼓を叩き立て、山路遙に押寄せ給ふ。時に成義公は、安西式部を案内とし、明ケ根近く攻め寄せ給ふに、丹波が家臣佐久間藤右衛門と云ふ者出張して居たりければ、安西が云ふやう、「大方彼は此処の関守たるべし。刀穢すな。矢軍ばかりして、敵の用意を試みよ」とて、大勢の軍兵ども差し詰め引き詰め散々に射立てけり。其の時、日暮れければ、又忍びの者を入れて、敵の要害を窺はせけるに、彼の斥候立帰り申すやう、「此の表には敵少々ばかり控へて候。其の外は山野に伏せたる体にて候。是は味方が、敵を小勢と侮りて打つて掛らん時、わざと逃げ退き、味方追ひ出づれば、山谷まで引き寄せ、彼の伏兵起こり出でんと謀りたるかと見え候」と申しければ、大将成義公聞し召し、「さもあらんぞ、唯遠篝で陣を張るべし」との御下知に任せ、夜中絶さず数カ所にて炬火焼き棄て対陣したる体に見せけり。斯くて安西案内能く知りたれば、軍兵を引率し、小船どもを保田の浜より乗り出し、夜陰に金谷の津に着けて、船ども勢揃ひし、陸路を経て敵のございました志し、闇夜に松明を細くして鋸山の谷合に討つて入る。大将成義公は、本名の山間に軍兵を出し、相図の貝鼓を打立て、鬨を作り、「唯一揉みに」と攻め立て給へば、案に相違の伏兵どもは途を失ひ、散々に逃げ廻る。寄手の軍兵競ひ掛りて追ひ散し、軍勢を纏めて本陣にぞ集めける。斯りし程に、夜も明ければ、早旦につくら海の城を押取り巻き、鬨の声をどうと揚ぐ。真理谷道観入道は、昨日の軍に打負けて、漸く此の城に逃げ入り、丹波と一処に籠りけるが、成義多兵を以て取り囲みたれば、防ぐ術もなく、逃げ出づべき道もなし。然る上は、「里見方へ申越すべき旨あり」と、峯上次郎清春と云ふ者に、一書を渡して使者となす。其の趣は、「予て承り及ぶところ、里見家は文武両道備り給ふ由、誠にさあるものならば、此処の興体を一時に和歌に連ね給はば、甲弓を外し、御幕下に参り、以来君の為に忠勤し、永く恩下に服すべし。聊か違心有るまじき証拠として、峯上次郎を質として送り奉る」と演説す。大将を初め三浦・安西、大きに笑ひ、「道観父子、日頃の広言と違ひ、一戦に及ぶべき力もなく、又、無下に城を渡さんも口惜しと思ひ、何をか品にして降参せんと思ひ付いての所望ならん。云ふ甲斐なき敵の所存、あな薄情けれ。よしあらば、望みに任せん」と各々疲れを休めながら、即興の和歌百首連ねて、丹波が使者に送られければ、真理谷父子降人となつて、城を明け渡し、城兵散々になりにけり。
 成邦私に云ふ。大将の詠歌二十首、諸侍の歌八十首と、古来里見記に見えたれども、歌をば載せず。偶々四五首ありと雖も、曾て和歌とは見えず。卑しくして而も義理通ぜず。一向信じ難し。案ずるに、今百首村灯籠坂の海手の山を、つくろ海の城跡と云ひ、彼の詠歌は治国安民の基にして、目出度祝歌也とて、其処の産社、三社大明神の番内に百本の杉の木を植ゑ、右の歌を短冊に各々附けて崇め奉り、仍て其所を百首村と号すと。云々。惟ふに、古来の里見記には歌をば載せずして置きたりしを、昔より物毎に鹿末の国風なれば、其の歌の記絶えたるなるべし。但し、其の時の和歌、短冊に認めて奉納したるのみにて、書き留めざるか。或は、中頃好事の者あつて、徒に偽歌を伝へ置きたりしを、歌の可否をも弁へず、里見記に加へたるものか。今百首村の号有るを以て見れば、歌は本拠ある正歌なるべし。後人若し此の歌を求め給はば可なり。又、一説に、此の時の戦に、城兵の首百級討ち取て、是を祭り、因る仍て百首村と云ふとの一書あれども、更に理に当たらず、城兵に何の誉れ有りて、後人死者を神社と尊崇せんや。第一に神前に穢らはしき事にこそあらめ。此の説は非として、百首の歌の説を可とせん。又、此の三社明神の事、其の開基往古の事にして、安房大神宮・洲宮明神・瀧口明神、右三社を合祭して三社明神と号す。去る寛文年中に件の社再造に付、予が祖父遷宮師として百首村に到る。是往古の来記を聴き得んが為なりとかや。祖父右伝記を聞き読み聞かせけるが、其の文に、
 上総國天羽郡造網神社者、安房大神宮・洲宮明神・瀧口明神、件の三社合祭処也。開闢は養老三年己未始造立之。次建立応永廿九年壬寅九月吉日。理世安民所也。大檀那大御所源持氏、高瀧近江守氏重、衆人倍威、怨敵皆悉失威、子孫繁昌所也。並時代官国秀、大工幸崎左近将監、神主長尾式部少輔平義真、同源主金吾沙彌日円。
又の再興に、
大檀那武田八郎氏信、正年十一歳。土屋上野入道了本吉成、長尾宮房久、正年十五歳云々。
右は棟札の表云々。本文略之。
斯くて義実公も山路を伝ひ、此所まで着かせ給ひけるが、成義公及び三浦・安西より右の次第を申上げ給へば、義実大きに御悦喜有りて、「一先づ兵士軍馬を休めよ」と宣ひ、重ねて長南攻めの順路を定め置かれ、勝鬨を行ひて、白浜に御帰陣なされけり。              房総軍談記。但し文は作意。
 私に云ふ。小倉日記に拠れば、此の時の城方の名有る首数百級、浜辺に梟し並べ、夫より百首村と云ふ。大将成義仰せけるは、「此の萩生城の風景賞するに堪へたり。恰も秋の最中なれば、此所にて興ぜん。小倉民部は先祖歌道の家なれば、心懸けあるべし」と宣へば、定光が歌に、
 風そよぐ萩生の野辺を狩りくらし今ぞ里見が有明の月
大将御感有りて、「小倉は文武の侍也」と御賞美有りけり。此の時百韻の連歌、於此所興行あり。此の事を世上にて「和歌を敵より所望せり」と云ひ伝ふるは誤也と見えたり。時節も秋の最中とあれば、大に違へり。可否は知らず。
 

1    里見軍記 ほか
2006.10.12 Thu. 

2    遊房総記・甲寅紀行・坂東八館譜
2006.10.12 Thu. 

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