四 面 楚 歌 項羽本紀第七
1 時、利あらず
語釈
鴻門の会より四年の歳月が流れる。この間に項王は、沛公を漢王に封じ、自らは西楚の覇王と号して天下の実権を握った。しかし、人々の心は次第に暴虐な項王を離れて、寛容な漢王に帰し、ついに楚と漢との勢力は逆転するに至った。紀元前二〇二年、項王の軍は垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県の南東)にあって、漢軍に包囲された。
ノ ス ニ ナク ク ビ ノ
項 王 軍 @壁 垓 下。兵 少 食 尽。漢 軍 及 諸 侯 兵
二 一
ムコト ヲ ナリ キ ノ スルヲ チ
囲 1之 数 重。夜 聞 漢 軍 2四 面 皆 A楚 歌、項 王 乃
レ 二 一
イニ キテ ク ニ タル ヲ レ ゾ キ
大 驚 曰「漢 皆 已 得 楚 乎。是 1何 楚 人 之 多
レ
ト
1也。」
チ キテ ム ニ リ ハ ニ セラレテ フ
3項 王 則 夜 起 飲 帳 中。有 美 人、名 虞。常 幸 従。駿
二 一 二 一
アリ ハ ニ ス ニ イテ ニ チ シ ラ
馬、名 騅。常 騎 之。於 是、項 王 乃 B悲 歌 忼 慨、自
レ レ
リテ ヲ ク
為 4詩 曰、
レ
キ ヲ フ ヲ アラ カ
「力 抜 山 C兮 気 蓋 世 時 不 利 兮 5騅 不 D逝
レ レ レ レ
ノ ル カ キ ス ヤ ヤ ヲ セント
騅 不 逝 兮 可 2奈 何 虞 兮 虞 兮 3奈 若 3何」
レ 二 一 レ
フコト ス ニ ル
歌 E数 闋、美 人 F和 之。項 王 泣 数 行 下。左 右 皆
レ
ク シ ク ギ ルモノ
泣、4莫 能 仰 視。
二 一
(注)@壁 城の中にたてこもる。A楚歌 楚の地方の歌を歌う。B悲歌忼慨 悲しげに歌い、憤り嘆く。C兮 調子を整える助字。D逝 進む。E数闋 「闋」は歌が一曲終わることを言う。ここでは数回の意。F和之 項王の詩に答えて歌う。
一 書き下せ。
二 口語訳。
項王の軍は垓下に立てこもった。兵は少なくなり、食物は尽きた。漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲んだ。夜になって、漢軍が回りで楚の歌を歌うのを聞いて、項王は大いに驚いて、「漢は既に楚を得たのか。何と楚の人が多いことか。」と言った。そこで、項王は夜起きて帳の中で酒宴を催した。美人がいる、名は虞。いつも寵愛されて従っていた。駿馬がいる、名は騅。項王はいつもこれに乗っていた。ここで、項王は悲しく歌いいきどおり嘆いて、詩を作って言った。
力は山を動かし、気力は世を覆い尽くすほど意気盛んだった
しかし、今、時勢は私に味方せず、騅も進まなくなってしまった
騅が進まなくなったのを、どうすればいいのだろうか
虞よ、虞よ、お前をどうすればいいのだろうか
数回繰り返し歌い、虞美人はこれに和した。項王は涙を何度も流した。左右の家来も皆泣き、顔を上げることができなかった。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 垓 下 2 諸侯 3 駿馬 4 為詩 5 若
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 諸侯
2 帳中
3 駿馬
4 左右
5 四面楚歌
6 抜山蓋世
五 二重線部1〜4の文法問題に答えよ。
1 何〜也
2 奈何
3 奈〜何
4 莫
六 傍線部1〜5の問いに答えよ。
1 指示内容を記せ。
2 どのような意味か。
3 こうした理由を説明せよ。
4 (1)この詩の形式を記せ。
(2)「詩」には項王のどのような心情が込められているか。
5 具体的にはどういうことを意味するか。
解答
一項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰はく、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。項王則ち夜起ちて帳中に飲す。美人有り、名は虞。常に幸せられて従ふ。駿馬あり、名は騅。常に之に騎る。是に於いて、項王乃ち悲歌コウ慨し、自ら詩を為りて曰はく、 「力は山を抜き 気は世を蓋ふ 時利あらず 騅逝かず 騅逝かざるを奈何すべき 虞や 虞や 若を奈何せん」と。歌ふこと数ケツ、美人之に和す。項王泣数行下る。左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。
三 1 がいか 2 しょこう 3 しゅんめ 4 つく し 5 なんじ
四 1 多くの大名。 2 とばりの中。 3 すぐれて良い馬。 4 近臣。
5 1楚の項王が 垓下で漢の軍に囲まれ、夜四方から来た漢軍が城壁の周りで盛んに楚の地方の歌を
歌うのを聞き、頼みとしていた楚の人民も漢ニ)屈服したかと絶望した故事。
2周りに反対者またh敵が多くて孤立していること。
6 力や気力の強大なこと。
五 1 感嘆 何ぞ〜や 何と〜なことよ 2 疑問 いかん どのようか
3 反語 いかんせん どうしようか(いやどうしようもない) 4 否定 なし ない
六 1 項王軍。 2 味方と思っていた楚の国の人が敵になっているンを知って驚いた。
3 別れの宴をもとうとして。
4 (1)七言古詩。
(2)自分の力と気に対する自負心。敗戦の因は軍にある。愛する者との別れの辛さ。
5 戦いが有利に展開しなくなったこと。
詩 第一句 自負心。 第二句 天運だ(責任転嫁。)。第三句第四句 悲痛な思い。
2 項王の最後
イテ ニ チ ス ンカタ ラント ヲ ノ シテ
於 是、項 王 乃 欲 東 渡 烏 江。 烏 江 @亭 長、A儀
レ 三 二 一 レ
ヲ ツ ヒテ 二 ク モ ナリト
船 待。謂 項 王 曰「B江 東 雖 小、地 方 千 里、衆 数 十
二 一 レ
タ ル タルニ ハクハ ギ レ リ ノミ リ
万 人。亦 足 王 也。願 大 王 急 渡。今 独 臣 有 船。漢 軍
レ レ
ルモ シト テ シ ヒテ ク ボスニ ヲ ゾ ルコトヲ サン
至、無 以 渡。」項 王 1笑 曰「天 之 亡 我 我 1何 渡 為。
二 一 レ
ツ ハ ノ リテ ヲ ス
且 2籍 与 江 東 子 弟 八 千 人、渡 江 而 西。
二 一 レ
シ ノ ルモノ ヒ ノ レミテ トストモ ヲ
3今 無 一 人 還。 縦 江 東 父 兄 憐 而 王 我、
二 一 レ
ノ アリテ エン ニ トモ ハ リ ラン ヂ ニ ト
我 何 面 目 見 之。彼 不 4言、籍 独 不 愧 於 心 乎。」
レ レ レ 二 一
チ ヒテ ニ ク ル ノ ナルヲ スルコト ノ ニ
乃 謂 亭 長 曰 「吾 知 公 C長 者。吾 騎 此 馬 五 歳、
二 一 二 一 二 一
タル シ テ ニ クコト ナリ ビ スニ ヲ
所 当 無 敵。嘗 一 日 行 千 里。不 忍 殺 之、
レ レ レ レ
テ ハント ニ
5以 賜 公。」
レ
チ メ ヲシテ リテ ヲ セ シテ ヲ ス リ ノ
乃 2令 騎 皆 6下 馬 歩 行 持 D短 兵 接 戦。独 項 王
二 レ 一 二 一
ノ ス ナリ ノ モ ル ヲ ミルニ タリ
所 殺 漢 軍、数 百 人。項 王 身 亦 被 十 余 創。顧 見 漢
ヲ ニ
ヲ ク ハ ガ ニ ト
E騎 司 馬 呂 馬 童。 曰「若 非 吾 故 人 乎。」馬 童 7F
二 一
し ニ シテ ニ ク レ ト チ
面 之、指 王 翳 曰「此 項 王 也。」項 王 乃
レ ニ イチ
ク ク フト ガ ヲ ニ
曰「吾 聞 漢 G購 我 頭 千 金 H邑 万 戸。
ニ 一
ニ ノ セント チ シテ ス
8吾 為 若 I1I徳。」及 自 刎 而 死。
レ
(史記、項羽本紀)
(注)@亭長 宿場の長。A儀船 舟を出す用意をする。B江東 長江下流の東南岸の地。C長者 徳の高い人。D短兵 刀・剣などの短い武器。E騎司馬 官名。騎兵隊長。F面 顔をそむける。G購 賞をかけて求める。H邑万戸 一万戸の町。I徳 恩恵を施す。
一 書き下せ。
二 口語訳。
こうして項王は東の烏江を渡ろうとした。烏江の亭長が船の用意をして待っていた。項王に「長江の東は小さいといっても千里四方あり、民衆も数十万人います。また王になるのに充分です。どうか大王様、急いでお渡り下さい。今私だけが船を盛っています。従って漢軍が来ても渡ることが出来ません。」と言った。項王は笑って、「天が私を滅ぼそうとしている。(それなのに)どうして渡ることをしようか(渡るつもりはない)。また、私は江東の若者八千人とこの川を渡って西へ向かった。今一人の帰る者もいない。たとえ江東の父兄が憐れんで私を王にしても、私自身何の面目があって彼らに会えようか。たとえ彼らが何も言わなくとも、私自身が心に恥じずにいられようか。」と言った。そこで亭長に、「私はあなたが立派な人物であることが分かる。私はこの馬(騅)に乗って五年になるが、向かうところ敵なし(かなう者はいなかった)。かつて一日に千里を走ったこともある。これを殺すに忍びない。あなたに差し上げましょう。」と言った。
そこで、部下の者に命じて、皆馬を下りて歩行させ、刀や槍を持って接戦させた。項王だけで数百人を殺した。項王自身も十数カ所の傷を負った。振り返って漢の騎司馬・呂馬童を見つけて「お前は私の幼なじみではないか。」と言った。馬童は顔を背けて、王翳に指さして、「これが項王だぞ。」と言った。項王は、「私は漢が私の首に千金と一万戸の領地を賞金として掛けていると聞いている。私はお前に施してやろう。」と言った。そこで自ら首をはねて死んだ。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 烏江 2 江東 3 縦 4 憐 5 面目 6 愧 7 嘗 8 賜 9 購 10 自刎
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 面目
2 接戦
3 創
4 故人
5 自刎
五 二重線部1、2の文法問題に答えよ。
1 何 2 令
六 傍線部1〜8の問いに答えよ。
1 ここには項王のどのような心情がこめられているか。
2 誰のことか。
3 どういうことか説明せよ。
4 どういうことか。
5(1)「公」は誰を指すか。
(2)こうしたことからどのようなことが分かるか。
6 なぜこうしたか。
7 「面」したときの呂馬童の気持ちはどのようなものか。
8(1)「吾」、「君」はそれぞれ誰を指すか。
(2)誰のどういう気持ちが込められているか。
構成
1 2 |
節 |
時利あらず 垓下 驚く 最後の酒宴 虞美人と唱和 項王の最期 烏江亭長「ここを渡れ。」 項王「出来ない」@天が滅ぼす A父兄 顔向けできない。B恥だ。 下馬接近戦 数百人殺す → 「知り合い。」 「手がらを立てろ。」 自決。 |
項羽 |
←数重に囲む ←四面楚歌 呂馬童 呂馬童「項王だ。」 |
沛公 |
主題 項羽の最期
解答
一
是に於いて項王乃ち東して烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長、船を・(ギ)して待つ。項王に謂ひて曰はく、「江東小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願はくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り。漢軍至るも以て渡る無からん。」と。項王笑ひて曰はく、「天の我を亡ぼす。我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。今一人の還るもの無し。縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてか之に見えん。縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。乃ち亭長に謂ひて曰はく、「吾公の長者たるを知る。吾此の馬に騎すること五歳、当たる所敵無し。嘗て一日に行くこと千里。之を殺すに忍びず。以て公に賜はん」と。乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。独り項王の殺す所の漢軍、数百人なり。項王の身も亦十余創を被る。顧みて漢の騎司馬呂馬童を見て曰はく、「若は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳に指さして曰はく、「此れ項王なり。」と。項王乃ち曰はく、「吾聞く漢我が頭を千金・邑万戸に購ふと。吾若の為に徳せん。」と。乃ち自刎して死す。
三 1 うこう 2 こうとう 3 たと 4 あわ 5 めんぼく Eは 7 かつ
8 たま 9 あがな 10 じふん
四 1 人に合わせる顔。世間に対する名誉。面子。
2 近づき戦う。また、敵と入りまじって戦う。(国)互角の戦い。
3 きず。 4 古くからの知り合い。(国)死んだ人。 5自分で自分の首を切って死ぬ。
五 1 反語 何ぞ〜ん どうして〜か(いや〜ない)
2 使役 使AB AをしてBせしむ AにBさせる
六 1 天運とあきらめた、英雄の落ち着いた笑み。
2 項王。
3 江東の若者八千人がみな戦争で死に、一人も生きて帰らなかったということ。
4 項王への恨みごと。
5 (1)亭長。(2)この地で死ぬと決めた。
6 死を覚悟して最後の戦いをするため。
7 敵として追って行っても正視できない気持ち。
8(1)「吾」項王。「君」呂馬童。
(2)項王の知り合いの者に手がらを立てさせてやろうという気持ち。
2 天 之 亡 我、非 戦 之 罪 也
於 是、項 王 乃 上 馬 騎。麾 下 壮 士、騎 従 者 八 百 余 人。直 夜 潰 囲、南 出 馳 走。平 明、漢 軍 乃 覚 之、令 騎 将 灌 嬰 以 五 千 騎 追 之。項 王 渡 淮。騎 能 属 者、百 余 人 耳。項 王 至 陰 陵。迷 失 道、問 一 田 父。田 父 紿 曰g左^左。乃 陥 大 沢 中。以 故 漢 追 及 之。項 王 乃 復 引 兵 而 東、至 東 城。乃 有 二 十 八 騎。漢 騎 追 者 数 千 人。
項 王 自 度 不 得 脱、謂 其 騎 曰g吾 起 兵 至 今、八 歳 矣。身 七 十 余 戦、所 当 者 破、所 撃 者 服、未 嘗 敗 北、遂 覇 有 天 下。然 今 卒 困 於 此。此 天 之 亡 我、非 戦 之 罪 也。今 日 固 決 死。願 為 諸 君 快 戦、必 三 勝 之。為 諸 君 潰 囲、斬 将 刈 旗、令 諸 君 知 天 亡 我、非 戦 之 罪 也^乃 分 其 騎、以 為 四 隊、四 嚮。漢 軍 囲 之 数 重。
項 王 謂 其 騎 曰g吾 為 公 取 彼 一 将、令 四 面 騎 馳 下、期 山 東 為 三 処^於 是、項 王 大 呼 馳 下。漢 軍 皆 披 靡。遂 斬 漢 一 将。是 時、赤 泉 侯 為 騎 将、追 項 王。項 王 瞋 目 而 叱 之。赤 泉 侯、人 馬 倶 驚、辟 易 数 里。与 其 騎 会 為 三 処。漢 軍 不 知 項 王 所 在。乃 分 軍 為 三、復 囲 之。項 王 乃 馳、復 斬 漢 一 都 尉、殺 数 十 百 人。復 聚 其 騎、亡 其 両 騎 耳。乃 謂 其 騎 曰g何 如^騎 皆 伏 曰g如 大 王 言^
(三) 我 何 面 目 見 之
於 是、項 王 乃 欲 東 渡 烏 江。烏 江 亭 長、ヲ 船 待。謂 項 王 曰g江 東 雖 小、地 方 千 里、衆 数 十 万 人。亦 足 王 也。願 大 王 急 渡。今 独 臣 有 船。漢 軍 至、無 以 渡^項 王 笑 曰g天 之 亡 我、我 何 渡 為。且 籍 与 江 東 子 弟 八 千 人、渡 江 而 西、今 無 一 人 還。縦 江 東 父 兄 憐 而 王 我、我 何 面 目 見 之。縦 彼 不 言、籍 独 不 愧 於 心 乎^乃 謂 亭 長 曰g吾 知 公 長 者。吾 騎 此 馬 五 歳、所 当 無 敵。嘗 一 日 行 千 里。不 忍 殺 之、以 賜 公^
乃 令 騎 皆 下 馬 歩 行、持 短 兵 接 戦。独 項 王 所 殺 漢 軍、数 百 人。項 王 身 亦 被 十 余 創。顧 見 漢 騎 司 馬 呂 馬 童 曰g若 非 吾 故 人 乎^馬 童 面 之、指 王 翳 曰g此 項 王 也^項 王 乃 曰g吾 聞h漢 購 我 頭 千 金 邑 万 戸_吾 為 若 徳^乃 自 刎 而 死。
(史記、項羽本紀)