杜子春伝
語釈
ニ ク ニ
老 人 者 方 @嘯 於 二 A檜 之 陰。
ニ 一
ニ ニ ル ノ ニ
1遂 與 登 B華 山 C雲 臺 峰。
ニ 一
ルコト ニシテ ル ノ ヲ ニシテ ズ ノ ニ
入 四 十 D里 餘、見 一 處 室 屋 E嚴 潔、1非 常 人 居。
ニ 一 ニ 一
カニ ヒ ス ノ ニ リ
F彩 雲 遙 覆、G驚 鶴 飛 翔。其 上 有 H正 堂。
ニ リ ニ 一
ニ リ サ ス
中 有 I藥 爐、高 九 J尺 餘、紫 焔 焰 光 發、K灼 煥 窗 戸。
ニ 一
リ ヲ
L玉 女 九 人、環 爐 而 立、青 龍 白 虎、分 據 前 後。
1
(注)@嘯 口をすぼめて高い声を出すこと。A檜 ひのき。B華山 華陰市にある山。C雲臺峰 華山の東北の頂上。D里 距離の単位。この当時の一里は役560メートル。E嚴潔 厳かで清らかなこと。F彩雲 美しい雲。G驚鶴 長さの単位。この当時の一尺は約30センチメートル。H正堂 表座敷。I藥爐 仙薬を作る炉。J尺K灼煥 日の光の明るいさま。L玉女 仙女。
一 書き下せ。
二 口語訳。
老人は、ちょうど二本の檜の陰で口をすぼめて高い声を出していた。そこでいっしょに華山の雲台峰に登った。四十里余り山の中に入っていくと、一軒の家が見えた。厳かで清く世俗の人の住まいとは思えない。美しい雲がはるか上空よりたちこめ、鳳凰や鶴が飛び回っている。その上手には表座敷があり、中に仙薬を作る炉が置いてある。その炉は高さ九尺余りで、紫の炎が輝き、窓や戸を明るく照らしている。仙女が九人、炉の周りに立ち、青竜と白虎が、前後に分かれてひかえている。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 嘯 2 嚴潔 3 遥 4 驚鶴
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 常人
五 二重線部1の文法問題に答えよ 。
1 非
六 傍線部1の問いに答えよ。
1 (1)杜子春は何をしに行くのか。
(2)雲台峰が人界と全く違っているということを印象づける一文を抜き出せ。
解答
一 老人は、方に二檜の陰に嘯く。遂に与に華山の雲台峰に登る。入ること四十里余にして、一処の室屋を見る。厳潔にして常人の居に非ず。彩雲 遥かに覆ひ、鸞鶴 飛翔す。其の上に正堂有り、中に薬炉有り。高さ九尺余、紫怩光発し、窓戸に灼煥す。玉女九人、炉を環りて立ち、青竜白虎、分かれて前後に拠る。
三 1 うそぶ 2 げんげつ 3 はる 4 らんかん
四1 普通の人。
五 1 否定 あらず ない
六 1 (1)仙人になる修業をするため。
(2)「玉女九人、環爐而立、青龍白虎、分據前後。」
2
ノ ハ ニ レントス タ セ
其 時 日 將 暮。老 人 者 1不 復 M俗 衣、
レ ニ 一
チ ノ
乃 N黄 冠 絳 帔 士 也。
チテ ヲ リ ニ ム ヤカニ ハ ヲ
持 白 石 三 丸、酒 一 O巵、遺 子 春、2令 速 食 之。
ニ ヲ ニ 一 ニ 一レ
ハルヤ リ ヲ キ ノ ニ シテ セシム
訖、取 一 虎 皮 鋪 於 内 西 壁、東 向 而 坐。
ニ ヲ ニ 一
メテ ク ンデ カレ ルコト モ
1戒 曰、「愼 3勿 語。雖 尊 神、惡 鬼、夜 叉、猛 獸、
レ ニ
アリ ビ ノ ルト ト スル ズ ニ
地 獄、及 君 之 親 屬 4P爲 所 困 縛 萬 苦、皆 非 眞 實。
一レ ニ 一
ダ ニ カ ラ シク ンジテ ヲ カレ ルルコト ニ シ シク
但 當 不 動 不 語。5宜 安 心 莫 懼。終 無 所 苦。
ニ レ レ ニ レ 一レ レ レ
ニ ニ フ シム
當 一 心 念 吾 所 言。」
ヒ ハリテ ル ルニ ヲ ダ ノ オフ タシテント
言 訖 而 去。子 春 視 庭、唯 一Q巨 甕、滿 中 貯 水 而 已。
レ レ レ
(注)M俗衣 俗世間の人の着る衣服。N黄冠絳帔 黄色の冠と赤いうちかけ。仙人になる修行をする人の服装。O巵 杯。P爲所困縛萬苦 縛り上げられて多くの苦しい目に会う。Q巨甕 大きな瓶。
一 書き下せ。
二 口語訳。
そのとき、日はすでに暮れようとしていた。老人は、もはや俗人の服を着ず、なんと黄色の冠と赤いうちかけを身につけた道士の姿であった。白い石の丸薬三つと、酒一杯を持ってきて、子春に渡し、すぐに飲むように命じた。飲み終わると、一枚の虎の皮を取り出し、部屋の西側の壁の下に敷き、東向きに座らせた。そして戒めて言った、「決してものを言ってはいけない。偉そうな神・悪鬼・夜叉・猛獣・地獄が現れ、またおまえの親族が縛り上げられて多くの苦しい目にあったとしても、皆真実ではない。ただ動かず、ものを言わずにいなさい。心を落ち着けて恐れることがないようにすれば、結局何の苦痛もない。一心にわしの言ったことを思っておればいい。」と。言い終わると去っていった。子春が庭を見ると、ただ、ひとつの大きなかめに水がいっぱい満たされているだけだった。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 俗衣 2 一巵 3 雖 4 困縛萬苦 5 巨甕
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 夜叉
五 二重線部1〜5の文法問題に答えよ。
1 不 復
2 令
3 勿
4 為 所
5 宜
六 傍線部1の問いに答えよ。
1 この中で老人が最も言いたいことは何か。
解答
一
其の時、日は将に暮れんとす。老人は、復た俗衣せず、乃ち黄冠絳嬖の士なり。白石三丸、酒一卮を持ちて、子春に遺り、速やかに之を食らはしむ。訖はるや、一虎皮を取り、内の西壁に鋪き、東向してせしむ。戒めて曰はく、「慎んで語ること勿かれ。尊神・悪鬼・夜叉・猛獣・地獄あり、及び君のの困縛万苦する所と為ると雖も、皆真実に非ず。但だ当に動かず語らざるべし。宜しく心を安んじてるること莫かるべくんば、終に苦しむ所無し。当に一心に吾が言ふ所を念ふべし。」と。言ひ訖はりてる。子春 庭を視るに、唯だ一の巨甕の、中を満たして水を貯ふるあるのみ。
三 1 ぞくい 2 いっし 3 いえど 4 こんばくばんく 5 きょおう
四 1 インドの鬼神。姿は凶悪で人を害することもあるが正しい仏道を守る。
五 1 部分否定 復た〜ず 二度とは〜しない 2 使役 令AB AをしてBせしむ AにBさせる
3 禁止 なかれ するな 4 受身 為A所B AのBする所と為る AにBされる
5 再読文字 宜しく〜べし 〜するのがよい
六 決して物を言ってはならない
3
道 士 1適 去、A旌 旗 戈 甲、千 乘 萬 騎、
徧 滿 B崖 谷、C呵 叱 之 聲、震 動 天 地。
有 一 人 稱 大 將 軍、身 長D丈 餘、人 馬 皆 着
E金 甲、F光 芒 射 人。
親 衞 數 百 人、皆 杖 劍 張 弓、直 入 堂 前、
呵 曰、「汝 是 何 人、21敢 不 避 大 將 軍?」
左 右 竦 劍 而 前、逼 問 姓 名、
又 問 作 何 物、3皆 不 對。問 者 大 怒、
G摧 斬 爭 射 聲 2如 雷。竟 不 應。
4將 軍 者 極 怒 而 去。
(注)@道士 仙人になる修行をする人。A旌旗戈甲 軍旗と矛・甲冑。B崖谷 深い谷。C呵叱 大声で怒鳴る。D丈 長さの単位。この当時の一丈は役3メートル。E金甲 黄金の鎧。F光芒 光線。G摧斬爭射聲 きりつけ射殺そうとして迫ってくること。
一 書き下せ。
二 口語訳。
道士が立ち去るやいなや、軍旗をかかげ矛や甲冑を身につけた、千の兵車や万の騎馬兵が、深い谷をうめつくし、大声で怒鳴る声は、天地を揺り動かすほどだった。一人の大将軍と名乗る者がいた。身の丈一丈余り、人馬ともに黄金のよろいを着け、その光は人を射るようである。護衛の兵は数百人いて、皆剣を抜き弓を張り、まっすぐに表座敷の前に入ってきて、怒鳴りつけて言った、「おまえは何者だ、大将軍の前を避けぬとは。」と。左右の者が剣をかざして進み、詰め寄って姓名を問い、また何をしているのかと問うが、子春は一切返事をしない。問うた者は大いに怒り、斬りつけ射殺そうとして迫ってくる声は雷のようだったが、とうとう答えなかった。将軍は怒り狂って去っていった。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 旌旗戈甲 2 呵叱 3 光芒 4 摧斬爭射聲 5 竟
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 千乘萬騎
五 二重線部1、2の文法問題に答えよ。
1 不敢〜
2 如
六 傍線部の問いに答えよ。
1 どういう意味か。
2 どういう意味か。
3 主語を記せ。
4 これ以後、猛虎、毒竜などの会十の襲来に対して、また、大雨による洪水にたいして、杜子春はそれぞれどう対応したか。
解答
一
道士適に去りて、旌旗戈甲、千乘萬騎、徧く崖谷に満ち 、呵叱の聲天地を震動す。
一人有り代将軍と稱す。身の長丈餘、人馬皆金 甲を着け、光芒人を射る。
親衞數百人、皆剣を抜き弓を張り弓、直堂前に入る。呵して 曰く、「汝は是れ何人ぞ、敢へて 大 將軍を避けざらんや。」と。左右剣を竦てて前に、逼りて姓名を問ひ、又 何物を作すかを問ふも皆 對へず。問ふ者大いに怒り、摧斬爭射の聲雷のごときも竟に應へず。將軍は怒りを極めて去る。
三 1 せいきかこう 2 かしつ 3 こうぼう 4 さいざんそうしゃのこえ
5 つい
四 1 千両の兵車と 一万人の騎兵。皇帝の壮大な行列のたとえ。
五 1 反語 敢えて〜ざらんや どうして〜しないだろうか(いや〜ない)
2 比況 ごとし ようだ
六 1 去るやいなやすぐに。
2 大将軍の行軍を避けぬとは不敵な奴め。
3 杜子春
4 襲来に対してー顔色一つ変えなかった。 洪水に対してーきちんと座って見向きもしなかった。
4
ニシテ モテ アリ
俄 而 猛 虎、毒 龍、@狻 猊、獅 子、蝮 蝎、萬 計、
シテ ヒ ミ シ セント
A哮 吼 拏 攫 1而 爭 前 欲 B搏 噬、
ニ 一
イハ ビテ グ ノ ヲ レバ カ リテ ク ズ
或 跳 過 1其 上。子 春 C神 色 不 動、有 頃 而 散。
ニ 一 レ レ
ニシテ トシテ
既 而 大 雨 D滂 澍、雷 電 E晦 瞑、
リ ノ ニ リ ノ ニ クコト
火 輪 走 2其 左 右、電 光 掣 其 前 後、目 不 得 開。
ニ 一 ニ 一 レ レ
ニシテ ノ ノ サ アリ
須 臾、庭 際 水 深 丈 餘、F流 電 吼 雷、
ハ ク ノ スルガ カラ ス
勢 若 山 川 開 破、不 可 制 止。
ニ 一 レ ニ 一
ハ ブモ ニ ハ シテ ミ
瞬 息 之 閨A波 及 坐 下。子 春 G端 坐 不 顧。
ニ 一 レ
(注)@狻猊 虎豹を食べると言う想像上の動物。A哮吼拏攫 ほえてつかみあう。B搏噬 つかみくう。C神色 精神と顔色。D滂澍 雨がひどく振り注ぐさま。E晦瞑 真っ暗。F流電吼雷 走る稲妻ととどろく雷鳴。G端坐 きちんと座る。
一 書き下せ。
二 口語訳。
すると突然、猛虎・毒竜、墫猊・獅子、まむし・さそりが万を数えるほど現れた。ほえてつかみ合いながら先を争って近づき、子春をつかみ食らおうとしたり、頭上を跳び越えたりする。しかし子春の気持ちも顔色も変わらないので、しばらくすると退散した。やがてどしゃぶりの大雨が降り、雷が鳴り稲妻が光りあたりは真っ暗になり、火の輪が子春の左右を走り、稲妻が前後を駆け抜け、目を開けることができない。間もなく、庭先の水の深さは一丈余りになり、走る稲妻ととどろく雷鳴の勢いは山が崩れ川があふれたようで、押し止めることができない。瞬く間に、波は膝元まで及んだが、子春はきちんと座ったまま見向きもしなかった。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 哮吼拏攫 2 搏噬 3 晦瞑 4 須臾 5 端坐
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 瞬息
五 二重線部1の文法問題に答えよ。
1 而
六 傍線部1、2の問いに答えよ。
1 どこの上か。
2 指示内容を記せ。
解答
一 俄かにして猛虎・毒竜、墫猊・獅子、蝮蝎 万もて計ふるあり。哮吼拏攫して争ひ前み、搏噬せんと欲し、或いは跳びて其の上を過ぐ。子春の神色 動かざれば、頃く有りて散ず。既にして大雨 滂厶として、雷電恂暝、火輪 其の左右に走り、電光 其の前後に掣り、目 開くを得ず。須臾にして、庭際の水の深さ丈余、流電吼雷あり、勢は山川の開破するがごとく、制止すべからず。瞬息の間、波は坐下に及ぶも、子春は端坐して顧みず。
三 1 こうこうだかく 2 はくぜい 3 かいめい 4 しゅゆ 5 たんざ
四 1 またたきや呼吸の間。極めて短い時間の例え。
五 1 助字 順接
六 1 杜子春の頭の上。 2 杜子春。
5
ク ノ ニ レリ
將 軍 曰、「 此 賊 妖 術 已 成。
カラ ム シクハ ラ ニ シテ ニ ラシム ヲ
不 可1使 久 在 世 間。」敕 左 右 斬 之。
レ レ 三 二 一 二 一 レ
リ ハリ テム カ ユ ニ
斬 訖、@魂 魄 被 領 1見 A閻 羅 王。
レ ニ ニ
ク レ チ ノ ヘテ セヨト ニ
曰、「此 乃 雲 臺 峰 妖 民 乎。 捉 付 獄 中。」
二 一
イテ ニ
于 是 B鎔 銅、鐵 杖、C碓 擣、D磑 磨、E火 坑、
シミ シ ルハ 二 メ
鑊 F湯、刀 山、劍 樹 之 苦、2無 不 備 嘗。
レ 二 一
レドモ ニ ヘバ ヲ キニ ブ ニ セ
然 心 念 2道 士 之 言、3亦 似 可 忍、竟 不 呻 吟。
二 一 レ レ 二 一
(注)@魂魄 たましい。A閻羅王 地獄の王。閻羅大王。B鎔銅 溶かした銅。C碓擣 臼でつくこと。D磑磨臼でひくこと。E火坑 火の穴。F湯 煮えたぎった釜。
一 書き下せ。
二 口語訳。
将軍は言った、「この賊はすでに妖術ができあがっている。長くはこの世にとどめておくことはできない。」と。側近の者に命じて子春を斬り殺させた。斬り終わると、子春の魂は閻魔大王の前に連れて行かれた。閻魔大王は言った、「これが雲台峰の妖民か。ひっとらえて地獄に引き渡せ。」と。そこで子春は溶かした銅の中に入れられ、鉄の杖で叩かれ、臼でつかれたり、ひかれたり、火の穴や煮えたぎった釜に入れられ、刀の山や剣の樹に登らされたりという地獄の責め苦で、味わわぬものはなかった。しかし、心の中で道士の言葉を思い続けると、それもなんとか我慢できたので、とうとう最後までうめき声さえ出さなかった。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 魂魄 2 閻魔王 3 鎔銅 4 碓擣 5 磑磨 6 呻吟
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 呻吟
五 二重線部1、2の文法問題に答えよ。
1 使
2 無 不
六 傍線部1〜3の問いに答えよ。
1 主語を記せ。
2 端的にあらわしている部分を五字以内で抜き出せ。
3 どういう意味か。
解答
一 将軍曰はく、「此の賊 妖術 已に成れり。久しくは世間に在らしむべからず。」と。左右に勅して之を斬らしむ。斬り訖はり、魂魄 領かれて閻羅王に見ゆ。曰はく、「此れ乃ち雲台峰の妖民か。捉へて獄中に付せよ。」と。是に于いて鎔銅・鉄杖、碓擣・磑磨、火坑・瓱湯、刀山・剣樹の苦しみ、さに嘗めざるは無し。然れども心に道士の言を念へば、亦忍ぶべきに似、竟に呻吟せず。
三 1 こんぱく 2 えんまおう 3 ようどう 4 たいとう 5 がいま 6 しんぎん
四 1うめく。
五 1 使役 使AB AをしてBせしむ AにBさせる
六 1 杜子春の魂魄(殺された杜子春)
2 「慎勿語」(2の5行)
3 我慢できそうだったので。
6
ダ シ ミ ヲ カニ ニシテ シ フ
數 年、恩 情 甚 篤。生 一 男、僅 二 歳、@聰 慧 無 敵。
二 一 レ
ハ キ ヲ フモ ヘ クモ ヲ ニ シ
盧 抱 兒 與 之 言、不 應。A多 方 1引 之、終 無 辭。
レ レ レ レ
イニ リテ ク シトテ ノ ヲ カモ ハ
2盧 大 怒 曰、「昔 B賈 大 夫 之 妻、C鄙 其 夫、纔 不 笑。
二 一 レ
レドモ テ ノ ルヲ ヲ ケリ ノ ミヲ ハ ニシテ レドモ バ ニ
然 觀 其 射 雉、尚 3釋 其 憾。今 吾 又 陋 不 及 賈、
二 一 二 一 レ レ
ハ ザル ダ ルノミ ヲ モ ニ ハ
而 4D文 藝 非 1徒 射 雉 也。而 竟 不 言。
二 一レ レ
ラバ ノ ト シム クンゾ ヒント ノ ヲ
大 丈 夫 2爲 妻 所 鄙、3安 用 其 子。」
チ チ ヲ テ ツ ニ
乃 持 兩 足、以 頭 撲 於 石 上、
二 一 レ 二 一
ジテ ニ ケ グコト
應 手 而 碎、血 濺 數 歩。
ハ ジ ニ チ レ ノ ヲ シテ エ シテ ヲ
子 春 愛 生 于 心、忽 忘 5其 約 6E不 覺 失 聲
二 一 二 一 レ レ
フ ト
云、「4噫。」
(注)@聰慧無敵 並ぶ者がいないほど聡明なこと。A多方 いろいろな方法。B賈大夫 春秋時代の賈の国の太夫。太夫は古代の高級官僚。風采のあがらぬ太夫が美しい妻をめとったという話。C鄙 身分が低いこと。D文藝 学問。E不覺失聲 思わず声を出す。
一 書き下せ。
二 口語訳。
数年の間、夫婦の情愛は大変深かった。男の子が生まれ、二歳になったばかりなのに並ぶ者がないほど聡明であった。盧は子供を抱いて母親に話しかけるが、返事がない。いろいろな方法で気を引いてみたが、どうしてもものを言わない。盧はたいそう怒って言った、「昔、賈の国の大夫の妻は夫を軽蔑して、少しも笑わなかった。しかし、夫が雉を射るのを見て、気持ちを和らげたという。今わしは身分が低く賈大夫には及ばないが、学問についてはただ雉を射るぐらいのものではなくもっと上等なのだぞ。それでもどうしてもものを言わないのだな。立派な男子が妻に侮辱されて、どうしてその息子なんぞいるものか。」と。そして子供の両足を持ち、その頭を石の上に打ちつけた。打ちつけると同時に頭は砕け、血が数歩飛び散った。子春は愛の気持ちが心に生じ、ふと道士との約束を忘れ、思わず声を出して、「ああ。」と言った。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 甚篤 2 賈大夫 3 乃 4 噫
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 大丈夫
五 二重線部1〜4の文法問題に答えよ。
1 徒
2 為 所
3 安
4 噫
六 傍線部1〜5の問いに答えよ。
1 誰が誰に対してどうすることか。
2 理由を記せ。
3 (1)主語を明確にして口語訳せよ。
(2)理由を記せ。
4 意味を記せ。
5 何か。
6 理由を記せ。
解答
一 数年、恩情甚だ篤し。一男を生み、佶かに二歳にして、聡慧敵ふ無し。盧はをきとふも、応へず。多方 之を引くも、終に辞無し。盧 大いに怒りて曰はく、「昔 賈大夫の のをしみて、纔かも笑はず。然れども其の雉を射るを観て、尚ほ其の憾みを釈けり。今 吾はにしてにばざれども、而も文芸は徒だに雉を射るのみに非ざるなり。而も竟に言はず。大丈夫 のしむと為らば、安くんぞ其の子を用ゐん。」と。乃ち両足を持ち、頭を以つて石上につ。にじてけ、血 濺ぐこと数歩。子春は愛心に生じ、忽ち其の約を忘れ、覚えずして声を失してふ、「。」と。
三 1 はなはだあつし 2 かたいふ 3 すなわ 4 ああ
四 1 意志が強く立派な男。
五 1 限定 徒だ〜のみ ただ〜だけだ
2 受身 為 A 所 B AのBする所と為る AにBされる
3 反語 安くぞ どうして〜か(いや〜ない)
4 感嘆 ああ ああ
六 1 夫の廬が妻に対して気を引こうとすること。
2 いろいろな方法で気を引いても返事をしないから。
3 (1)賈大夫の妻が夫に対するわだかまりを解消して、気分を和らげた。
(2)雉を射る技術がすばらしかったから。
4 学問については賈が雉を射る技術よりも優れている。
5 「決して物を言ってはいえない」と戒めた道士の言葉。
6 息子に対する愛情が生まれたから。
7
ノ ダ マ ハ ス ノ ニ
噫 聲 1未 息、身 坐 故 處。
二 一
リ ノ ニ メテ ナリ
道 士 者 亦 在 其 前1@初 五 更 矣。
二 一
ル ノ ノ チ ヲ
見 其 紫 焰 穿 屋 上、
下 二 一
コリテ シ ニ クルヲ ジテ ク
大 火 起 A四 合、屋 室 倶 焚。道 士 歎 曰、
上
ス ヲ チ シ カクノ リテ ノ ヲ ズ ノ ニ
「B錯 大 誤 餘 乃 如 是。」因 提 其 髮 投 水 甕 中。
レ レ 二 一 二 一
ダ クナラ ハ ム ニテ ク
C未 頃、火 息。道 士 前 曰、「D吾 子 之 心、
レ
レタリ
喜 怒 哀 懼 惡 慾、皆 忘 矣。
ノ ダ ラ ハ ニ メバ ヲシテ カラ ノ
所 未 臻 者、愛2而 已。向 3使 子 無 噫 聲、
ハ リ モ ス
吾 之 藥 成、2子 亦 E上 仙 矣。
キ
4嗟 乎、仙 才 之 難 得 也。
レ
ガ ハ シ ネテ ル レドモ ハ ホ ル ノ ト ルル
吾 藥 可 重 煉。而 子 之 身 猶 5爲 F世 界 所 容 矣。
二 一 二 一レ
メヨ ヲ ト カニ シテ ヲ ム ラ
勉 之 6哉。」遙 指 路 使 歸。
レ レ レ
(注)@初五更 午前四時ころ。A四合 四方を取り囲む。B錯大 貧乏書生。人を見下げて言う語。C未頃間もなく。D吾子 おまえ。相手を親しんで言う語。E上仙 仙人になる。F世界 俗世間。
一 書き下せ。
二 口語訳。
「ああ」という声がまだ終わらないうちに、子春の体はもとのところに座っていた。道士もまた彼の前にいた。午前四時ごろになったばかりであった。先の炉の紫の炎が屋根を突き抜けて、大火が起こり四方を取り囲み、家が丸焼けになるのを見た。道士はため息をついて言った、「貧乏書生めがわしをしくじらせてこんなことをした。」と。そこで子春の髪をつかんで水がめの中へ投げ込んだ。間もなく、火は消えた。道士は子春のほうに近づいて言った、「おまえの心は、喜び・怒り・哀しみ・恐れ・憎しみ・欲望については、すべて忘れ去った。まだ忘れなかったのは、愛だけである。さきほどおまえが『ああ』という声を出さなかったなら、わしの薬は完成し、おまえも仙人になれたのだ。ああ、仙人の才能は得がたいものじゃ。わしの薬は再び練り直すことができる。しかし、おまえの体はやはり俗世間に属することになる。元気で暮らせよ。」と。そしてはるかな道をさし示して帰らせた。
三 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 忽チ 2 穿ツ 3 因リテ 4 嗟乎 5 而カレドモ
四 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 喜怒哀懼
五 二重線部1〜6の文法問題に答えよ。
1 未
2 而已
3 使
4 嗟乎
5 為〜所
6 哉
六 傍線部1〜の問いに答えよ。
1 この時は「初五更」だが、杜子春が初めにその場に「坐」した時を示す語句を抜き出せ。
2 指示内容を記せ。
3 杜子春が最後まで失わなかったものはなにか、漢字一字で抜きだせ。
解答
一 噫の声 未だ息まざるに、身は故の処に坐す。道士は亦其の前に在り。初めて五更なり。其の紫怩の屋上を穿ち、大火 起こりて四合し、屋室佝に焚くるを見る。道士 慄じて曰はく、「措大 余を堝つこと乃ち是くのごとし。」と。因りて其の髪を提げて水甕の中に投ず。未だ頃くならずして、は息む。道士 前みて曰はく、「吾子の心、喜怒哀懼悪慾、皆忘れたり。未だ臻らざる所の者は、愛のみ。向に子をして噫の声無からしめば、吾の薬は成り、子も亦上仙す。嗟乎、仙才の得難きなり。吾が薬は重ねて錬るべし。而れども子の身は猶ほ世界の容るる所と為る。之を勉めよや。」と。遥かに路を指して帰らしむ。
三 1 たちま 2 うが 3 よ 4 ああ 5 しか
四 1 喜び、怒り、悲しみ、楽しみなど人間の感情の総称。
五 1 再読文字 未だ〜ず まだ〜ない 2 限定 のみ ただ〜だけだ
3 使役 使AB AをしてBせしむ AにBさせる
4 感嘆 ああ ああ
5 受身 為 A 所 B AのBするところとなる AにBされる
6 感嘆 かな だなあ
六 1 「日将暮」(2 一行)
2 杜子春 3 「愛」
構成
1 2 3 4 5 6 7 |
節 |
雲台峰 日暮れ 数年 午前4時 |
時 場所 |
仙人になるため行く 丸薬三つ 酒一杯 飲む 答えない 顔色を変えない きちんと座っている うめき声さえ出さない 「ああ」=愛 声を出し仙人になれない |
杜子春 |
老人=高い声 玉女 老人=「声を出すな。見るものは真実 ではない。」 大将軍=「誰だ?」おどす 猛虎・毒竜など=襲来 大雨 洪水 閻魔王=地獄の責苦 盧(夫)=二歳の子を石にうちつける 道士「喜び・怒り・哀しみ・恐れ・憎しみ・欲望は忘れた。愛は忘れなかった。」 |
その他 |
主題 母の子に対する愛を捨て去ることが出来ず仙人に馴れなかった。
参考
インドの説話 『大唐西域記』三蔵法師玄奘(600〜664年) 伝説
『杜子春伝』 『太平広記』(978年) 奇怪小説 劉向子への愛
『杜子春』 芥川龍之介(大正9年) 童話 盧=夫盧=夫小説 母への愛
杜子春
芥川芥川龍之介
一
或春の日暮です。
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。
若者は名は杜子春といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になつてゐるのです。
何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。
しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。
するとどこからやつて来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、ぢつと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、横柄に言葉をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」
老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な答をしました。
「さうか。それは可哀さうだな。」
老人は暫く何事か考へてゐるやうでしたが、やがて、往来にさしてゐる夕日の光を指さしながら、
「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
「ほんたうですか。」
杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行つたか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶白くなつて、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞つてゐました。
二
杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。
大金持になつた杜子春は、すぐに立派な家を買つて、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵の酒を買はせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植ゑさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂へるやら、その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位です。
するとかういふ噂を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのです。
しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。するとやはり昔のやうに、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた儘、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐る恐る返事をしました。
「さうか。それは可哀さうだな、ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
老人はかう言つたと思ふと、今度も亦人ごみの中へ、掻き消すやうに隠れてしまひました。
杜子春はその翌日から、忽ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いてゐる牡丹の花、その中に眠つてゐる白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
ですから車に一ぱいあつた、あの夥しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すつかりなくなつてしまひました。
三
「お前は何を考へてゐるのだ。」
片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問ひかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでゐたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」
「さうか。それは可哀さうだな。ではおれが好いことを教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの――」
老人がここまで言ひかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。
「いや、お金はもう入らないのです。」
「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」
老人は審しさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」
杜子春は不平さうな顔をしながら、突慳貪にかう言ひました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。柔しい顔さへもして見せはしません。そんなことを考へると、たとひもう一度大金持になつた所が、何にもならないやうな気がするのです。」
老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました。
「さうか。いや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」
杜子春はちよいとためらひました。が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、訴へるやうに老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になつて、仙術の修業をしたいと思ふのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でせう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になつて、不思議な仙術を教へて下さい。」
老人は眉をひそめた儘、暫くは黙つて、何事か考へてゐるやうでしたが、やがて又につこり笑ひながら、
「いかにもおれは峨眉山に棲んでゐる、鉄冠子といふ仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好ささうだつたから、二度まで大金持にしてやつたのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやらう。」と、快く願を容れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。
「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。――が、兎も角もまづおれと一しよに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、幸、ここに竹杖が一本落ちてゐる。では早速これへ乗つて、一飛びに空を渡るとしよう。」
鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、口の中に呪文を唱へながら、杜子春と一しよにその竹へ、馬にでも乗るやうに跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のやうに、勢よく大空へ舞ひ上つて、晴れ渡つた春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでせう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱ひ出しました。
朝に北海に遊び、暮には蒼梧。
袖裏の青蛇、胆気粗なり。
三たび嶽陽に入れども、人識らず。
朗吟して、飛過す洞庭湖。
四
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞ひ下りました。
そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるものは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行つて、西王母に御眼にかかつて来るから、お前はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」と言ひました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐます。」
「さうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行つて来るから。」
老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨つて、夜目にも削つたやうな山々の空へ、一文字に消えてしまひました。
杜子春はたつた一人、岩の上に坐つた儘、静に星を眺めてゐました。すると彼是半時ばかり経つて、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があつて、
「そこにゐるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにゐました。
所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく嚇しつけるのです。
杜子春は勿論黙つてゐました。
と、どこから登つて来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思ふと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも窺ふのか、暫くは睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなのです。杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待つてゐました。
すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しよに瀑のやうな雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つてゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに聳えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯に違ひありません。杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。
が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の鎧を着下した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉の戟を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしてゐる所だぞ。それも憚らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。
しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでゐました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」
神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。
この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」
神将はかう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。
北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れてゐました。
五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き荒んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて森羅殿といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、階の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な袍に金の冠をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ跪いてゐました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」
閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の笏を挙げて、顔中の鬚を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇はせてくれるぞ。」と、威丈高に罵りました。
が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に畏つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
地獄には誰でも知つてゐる通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄といふ焔の谷や極寒地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を抛りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、――その苦しみを数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り杜子春を階の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言ふ気色がございません。」と、口を揃へて言上しました。
閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひついたと見えて、
「この男の父母は、畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。
鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」
杜子春はかう嚇されても、やはり返答をしずにゐました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、好いと思つてゐるのだな。」
閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」
鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の鞭をとつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもゐられない程嘶き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏してゐたのです。
杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で。」
それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……
六
その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反つて嬉しい気がするのです。」
杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩つてゐました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」
鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。
(大正九年六月)