古文へもどる(28)百四十二 心なしと見ゆる物も
(1)
1@心なしと見ゆる者も、2よき一言はいふ者なり。1あるA荒夷2の恐ろしげなるが、Bかたへにあひて、
A「御子はおはすや」と問ひしに、B「一人も持ち侍らず」と答へしかば、C「さては、3物のあはれは知り
給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたり
し、さもありぬべき事なり。C恩愛の道ならでは、4かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、
子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
(2)
世をすてたる人3のよろづにDするすみなるが、なべて5Eほだし多かる人4の、よろづにへつらひ、望み
深きを6見て、無下に思ひくたすは、ひがごとなり。7その人の心になりて思へば、まことに、悲しからん親
のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば、盜人をFいましめ、ひがごとをの
み罪せんよりは、8世の人の飢ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、G恆の産なき時は、恆
の心なし。人窮りて盜みす。世治らず5して、H凍餒の苦しみあらば、とがのもの絶ゆべからず。9人を苦し
め、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、I不便のわざなり。
(3)
さて、いかゞ6して人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あ
らむこと疑ひ7あるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。
(注)@心なし ものの道理や情趣が分からない。A荒夷 荒武者。荒々しい東国の武士。Bかたへ 方荒の人。C恩愛の道 親子・府ふ・兄弟などの間の愛情。Dするすみ 係累がないこと。Eほだし 足手まといなるもの。Fいましめ ここでは捕縛するの意。G恆の産なき時は、恆の心なし 一定の生業がないと、人間として常に持っていなければならない動疑心がなくなる。『孟子』梁の恵王上編に「若民則無恒産、因無恒心。」とある。H凍餒の苦しみ 凍えたり、飢えたりする苦しみ。I不便のわざ 気の毒なこと。いたましいこと。
一 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 荒夷 2 恩愛 3 慈悲 4 孝養 5 盜人
二 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 おはす
2 情けなし
3 ものす
4 慈悲
5 なべて
6 へつらふ
7 むげに
8 思ひくたす
9 ひがごと
10 かなし
11 おごる
三 傍線部1〜9の問いに答え、3か所の波線部「ひがごと」の意味の相違を記し、A〜Cの会話は誰のものか記せ。
1 具体的にどんな人か抜き出せ。
2 「よき一言」の例として、筆者が上げている者があれば抜きだせ。
3 どう言う考えを「もののあはれ」をしるものとしているか。
4 指示内容を記せ。
5 どういう人か。またこれと反対の意味内容を持つ語句を抜き出せ。
6 主語を記せ。
7 指示内容を記せ。
8 文構造を説明せよ。また、(2)の出だしの一文の文構造も説明せよ。
9 誰の行為か。
波線部「ひがごと」の意味の相違を記せ。
A〜Cの会話は誰のものか。
四 二重傍線部1〜7の文法問題に答えよ。
1、7の違いを説明せよ。
2 、3、4の違いを説明せよ。
5、6の違いを説明せよ。
五 口語訳
(1)
ものの道理や情趣が分からないと見える者も、いい一言をいうものである。ある荒武者で恐ろしそうな人が、傍らの人にあって、「御子様はいらっしゃるか。」と尋ねた時に、「一人も持っていません。」と答えたので、
「それでは、情けある心は知りませんね。薄情な御心でいらっしゃいますと大変おそろしい。子供ゆえに万事の趣は知られるのです。」と言ったのはそうもあるはずのことだ。親子・夫婦・兄弟などの間の愛情でなくては、こういうものの心に、慈悲の心がおころうか(いやおきない)。孝養の心がな者も、子供を持ってこそ親の志は思い知られるのだ。
(2)
世を捨てた人で、万事に係累がない人が、一般に係累が多い人がいろいろと追従し、望みが深いのを見て、むやみにけなすのは間違いだ。その人の心になって思えば、本当にいとおしい親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもするはずの事だ。だから、盗人を捕縛し、悪事をだけ罰しようとするよりは、世の人が飢えず、寒くないゆに、世の中の政治をしたいものだ。人は一定の生業がない時は道義心はに。人は、窮して盗みをする。世の中が治まっていなくて、」凍えたり飢えたりする苦しみがあるならば、罪を犯す者は、絶えることはない。人を苦しめ、法を犯させて、それを罰することはいたましいことだ。
(3)
ところで、どうして人に恵むかと言うと、上の者が贅沢、浪費をやめ、人民をかわいがり、農業をすすめれば、下の者に利益があることは、疑いない。衣食、尋常であるうえに悪事をする人を、本当の盗人というべきだ。
構成
(1)
ある荒夷 「子=人情。」
筆者 親子の情愛→慈悲の心
(2)
「ほだし多かる人」
盗み 親・妻子のため
政治=経済生活の確立
例 孟子
(3)
人々に恵みを与える政治
浪費× 人々を可愛がる 農業奨励
主題 慈悲の政治
(28)百四十二 心なしと見ゆる物も 解答
一 1 あらえびす 2 おんあい 3 じひ 4 こうよう 5 ぬすびと
二 1 いらっしゃる。 2 薄情だ。 3 sる。いる。 4 仏菩薩が衆生に示される最高の思いやり。
5 一般に。6 追従する。 7 むやみに。やたらに。 8 悪く思う。けなす。
9 悪事。 まちがい。 10 いとおしい。11 ぜいたく。
三 1 ある荒夷。 2 「子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」
3 情けある心を持つこと(恩愛の道。慈悲の心)。4 ある荒夷。
5 妻子や財産など人の自由を束縛するもののある人。「よろづにするすみなる」
6 「世を捨てたる人のよろづにするすみなるが」 7ほだし多かる人。
8 格主 飢ゑず
世の人の やうに
寒からぬ
(2) 格同
世を捨てたる人の 格主 へつらひ 見て
なべてほだし多かる人の ひがごとなり。
よろずにすうすみなるが 望み深きを 思ひくらすは
S1 S2 V2 V1
S3 V3
S2+V2=O1
9 為政者
ひがごと 間違い 悪事 悪事 Aある荒夷 Bかたへ Cある荒夷
四 1 連体詞 7 動あり体ラ変 2 格同 3 格同 4 格主 5 接助
6 し動す用サ変 て接助