(6)(灌頂巻)大原御幸 1186年法皇建礼門院を訪問
語釈
(1)
文治二年の春のころ、A法皇、B建礼門院C大原の閑居の御住まひ、御覧ぜ1まほしうおぼしめさ
れけれども、二月三月のほどは風激しく、余寒もいまだ尽きせず、峰の白雪消えやらで、谷のつら
らも1うちとけず。春過ぎ夏2来たつて、D北祭りも過ぎしかば、法皇、2夜をこめて 大原の
奥へぞ御幸なる。
(2)
西の山のふもとにE一宇の御堂あり。すなはち寂光院これなり。3古う作りなせるF前水・木立、
よしあるさまの所なり。3「G甍破れては霧不断の香をたき、枢落ちては月常住の灯をかかぐ。」
とも、かやうの所をや申すべき。庭の若草茂り合ひ、青柳の糸を乱りつつ、池の浮き草波に漂ひ、
錦をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤波の、うら紫に咲ける色、H青葉まじりの遅桜、
初花よりもめづらしく、岸の山吹咲き乱れ、I八重たつ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声も、
君の御幸を待ち顔なり。法皇、これを叡覧4あつて、かう
ぞおぼしめし続けける。
J池水にみぎはの桜散りしきて波の花こそ盛りなりけれ
ふりにける岩の絶え間より、落ちくる水の音さへ、Kゆゑびよしある所なり。L緑蘿の垣、翠黛の
山、4絵にかくとも筆も及びがたし。
(注)@文治二年 一一八六年。A法皇 後白河法皇(一一二七〜一一九二)。B建礼門院 清盛の娘。、徳子(一一五五〜?)。高倉天皇の中宮、安徳天皇の母。C大原の閑居大原の寂光院。今の京都市左京区大原草生町にある。D北祭り 陰暦四月に行なわれた京都の賀茂神社の例祭。E一宇 建物を数える語。棟。F前水 「泉水」と同じ。庭先池。G甍破れては霧不断の香をたき、枢落ちては月常住の灯をかかぐ 出典未詳。「枢」は「扉」と同じ。H青葉まじりの遅桜、初花よりもめづらしく 『金葉集』に「夏山の青葉まじりの遅桜初花よりもめずらしきかな」(夏 藤原盛房)とある。I八重たつ雲 幾重にも重なっている雲。「八重」は山吹の縁語。J池水に・・・ 『千載集』(春下)所収の歌Kゆゑびよし あるわかりげに趣の深い。L緑蘿の垣、翠黛の山 緑の蔦葛のはいかかる垣根 緑の蔦葛のはいかかる垣根、緑黒色の眉墨のような山。
一 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 建礼門院 2 二月 3 三月 4 前水 5 叡覧
6 緑蘿
7 翠黛
二 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 余寒
2 御幸
3 あやまつ
4 叡覧
5 ふる
三 登場人物を抜き出せ。また、傍線部1〜4の問いに答えよ。
1 あとにどのような言葉を補うと前後の文意がよくつながるか。補うべき言葉を三 十字以内で現代語で答えよ。
2 どのような意味か。
3 (1)「霧不断の香をたき」とはどのような状態を描写したものか。
(2)「かやうの所をや申すべき」とあるが、「甍破れては・・・灯をかかぐ」を実景として叙述しているのはどこか。一文をぬき出せ。
4 説明せよ。
四 二重線部1〜4の、穏便の種類と元の形を記せ。
(2)
女院の御庵室を御覧ずれば、軒には蔦・朝顔はひかかり、AしのぶまじりのB忘れ草、C女院の
「瓢箪しばしばむなし、草D顔淵がちまたにしげし。E藜 深く鎖せり、雨原憲が枢をうるほす。」
とも言つつべし。F杉の葺き目もまばらにて、1時雨も霜も置く露も、漏る月影にあらそひ て、
Gたまるべしとも見えざりけり。後ろは山、前は野辺、Hいささ小笹に風騒ぎ、I世にたたぬ身の
ならひとて、J憂きふししげき2竹柱、都の方の言伝ては、K間遠に結へるませ垣や、わづかに言
問ふものとては、峰に木伝ふ猿の声、貔がつま木の斧の音、これらがおとづれならでは、Lまさき
の葛青つづら、来る人まれなる所なり。
法皇、「人やある、人やある。」と召されけれども、御いらへ申す者もなし。はるかに1あつて、
老い衰へたる尼一人参りたり。「女院は、いづくへ御幸なりぬるぞ。」と仰せければ、「この上の
山へ花摘みに入らせ給ひて候ふ。」と申す。
(注)@女院 建礼門院のこと。Aしのぶ ウラボシ科のシダ植物。B忘れ草 ユリ科の多年草。やぶかんぞう。C瓢箪・・・うるほす 『和漢朗詠集』に「瓢箪 空、草滋顔淵れる器。D顔淵 清貧に甘んじた孔子の弟子の名。「原憲」も同じ。E藜 あかざ。アカザ科の一年草。F杉の葺き目もまばらにて 屋根に葺いた杉の皮もすき間だらけで。Gたまる こらえる。とどめる。Hいささ小笹 少しばかりある丈の低い小笹。「いささ」「をざさ」と音を整えた。I世にたたぬ身 世の中にたちまじって生活しない身。J憂きふししげき 「悲しいことが多い」の意と「節がたくさんある」の意とを掛ける。K間遠に 都からの便りが「間遠」な意と、ませ垣(竹や木の垣)の「目が粗い」意とを掛けるLまさきの葛青つづら ていかかずらとつづらふじ。つるを「繰る」ことから「来る」を引き出す。
一 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 女院 2 蔦
3 瓢箪
4 時雨
5 野辺
二 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 野辺
2 言問ふ
三 登場人物を抜き出せ。また、傍線部1・2の問いに答えよ。
1 何がどういう状態であったことを言ったものか。
2 (1)何を「竹柱」と言い表わしたものか。文中から漢字二字で抜き出せ。
(2)「竹柱」の縁語が二つある。文中から抜き出せ。
四 二重線部1の音便と元の形を記せ
(3)
女院の御製とおぼしくて、
思ひきや深山の奥に住まひして雲居の月をよそに見んとは さて、かたはらを御覧ずれば、御
寝所とおぼしくて、竹の御さをに麻の御衣、紙の御衾なんどかけられたり。さしも本朝・漢土のた
へなるたぐひ数を尽くして、@綾羅・錦繍の装ひも、さながら夢になりにけり。供奉の公卿・殿上
人も、1おのおの見参らせしことなれば、今のやうにおぼえて、みな袖をぞしぼら1れける。
さるほどに、上の山より、濃き墨染めの衣着たる2尼二人、岩のかけ路を伝ひつつ、下りわづら
ひ給ひけり。法皇これを御覧じて、「あれは何者ぞ。」と御尋ねあれば、老尼涙を押さへて申しけ
るは、「花がたみひぢにかけ、A岩つつじ取り具して持たせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひ候
ふなり。つま木に蕨折り具して候ふは、鳥飼の中納言B維実の娘、五条大納言C邦綱卿の養子、先
帝の御乳母、D大納言佐。」と、申しもあへず泣きけり。法皇も5
Eよにあはれげにおぼしめして、
御涙せきあへさせ給はず。女院は、「さこそ世を捨つるE御身といひながら、今かかる御ありさま
を見え参らせんずらん恥づかしさよ。消えも失せばや。」とおぼしめせども、かひぞなき。3宵々
ごとのF閼伽の水、結ぶ袂もしをるるに、G暁起きの袖の上、山路の露もしげくして、しぼりやか
ねさせ給ひけん、山へも帰らせ給はず、御庵室へも入らせ給はず、御涙にむせばせ給ひ、あきれて
立たせましましたる所に、H内侍の尼参りつつ、花がたみをば給はりけり。
「4I世をいとふならひ、何かは苦しう候ふべき。はやはや御対面候うて、J還御なし参らつさ
せ給へ。」と申しければ、女院御庵室に入らせ給ふ。「K一念の窓の前には、摂取の光明を期し、
L十念の柴の枢には、聖衆の来迎をこそ待ちつるに、思ひのほかに御幸なりける不思議さよ。」と
て、泣く泣く御見参ありけり。
(注)@綾羅・錦繍 貴人の美麗な衣服。羅はうすもの、繍はぬいとり。A岩つつじ 岩の間に生えているつつじ。B維実 藤原伊実(?〜一一六0)太政大臣伊通の子。C邦綱藤原邦綱(一一二二〜一一八一)。富裕の聞こえが高かった。D大納言佐 藤原輔子。「佐」は「典侍」と書くのが正式。E御身 自敬表現。F閼伽の水 仏に備える水。G暁起きの袖の上 『新古今集』に「しきみつむ山路の露にぬれにけり暁起きの墨染めの袖」(雑歌中 小侍従)とある。H内侍の尼 少納言入道信西の娘(一説に孫)、阿波の内侍。前に出た「老尼」も同じ人。I世をいとふならひ 世を捨てた人の常のこととして。J還御なし参らつさせ給へ 法皇にお帰りいただくようになさいませ。K一念の窓の前には、摂取の光明を期し 念仏を一回唱えるごとに、窓から差し込む光のうちに、如来の救いの力を期待し。L十念の柴の枢には、聖衆の来迎をこそ待ちつるに 十声の念仏(を申すとき)には、この粗末な庵の塀を開けて、仏菩薩の迎えを待っていたのに。
一 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 深山 2 雲居
3 衾
4 綾羅
5 錦繍
6 供奉 7 公卿
8 殿上人
9 蕨 10 閼伽
11 袂 12 還御 13 聖衆
14 来迎
二 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 雲居
2 さながら
3 かけ路
4 花がたみ
5 よに
6 せきあふ
三 登場人物をを抜き出せ。また、傍線部1〜4の問いに答えよ。
1 何を見たというのか。
2 誰と誰のことか。文中の言葉で答えよ。
3 女院のどのような心情が込められているか。
4 「何かは苦しう候ふべき」とあるが、この内侍の尼の、女院を強く促した言葉は 女院のどのような気持ちを推し量って言ったものか。文中から抜き出せ。
四 二重線部1の文法問題に答えよ。
1 基本形 文法的意味 活用形
五 口語訳
(1)
文治二年の春の頃、法皇は建礼門院大原の寂光院のお住まいをご覧になりたくお思いなさったけれども、二月三月の頃は、風激しく余寒もまだ終わらず、峰の白雪も消えず、谷のつららもとけない。春が過ぎ、夏が来て、賀茂神社の例祭も過ぎたので、法皇は夜の明けないうちに、大原の里へ外出なさった。
(2)
西の山の麓に、一棟の御堂がある。すなわち寂光院がこれだ。古く造り為した、泉水、木立、由緒ある様の所だ。「甍が破れては霧が立ちこめ不断の香をたいているようであり、枢落ちては月常住の灯を掲げる。」というのもこういう所を申すのだろう。庭の若草はしげりあい、青柳が糸のような枝を乱しつつ池の浮き草は波に漂い、錦をさらすかと見間違う。中島の松にかかっている藤波がうち紫に咲いている色、青葉混じりの遅桜、初花よりもめずらしく岸の山吹咲き乱れ、幾重にも重なっている雲の間から山ほととぎすの一声も君の御幸を待ち顔である。法皇はこれをご覧になってこうお詠みになった。
池の水に汀の桜が散りしいて波の花の方が今盛りだ。
古くなった岩の絶え間から落ちてくる水の音でさえわけありげに趣の深いところだ。緑の蔦葛のはいかかる垣根黒緑色の眉墨のような山が見え、絵に描くと言っても筆も及ばない。
女院の御庵室をご覧になると、軒には蔦、朝顔がはいかかり、しのぶまじりのやぶかんぞう、「瓢箪しばしばむなしい。草は顔淵の巷に茂っている。あかざが深く鎖している。雨は原憲の枢を潤している。」といいつついる。屋根に葺いた杉の皮のふき目もまばらで、時雨も霧も置く露も漏る月の光に争って防ごうとも見えない。後ろは山、前は野原、丈の低い小笹に風騒ぎ、世の中に立ちまじって生活しない身のならいとして、悲しいことが多い。節の多い竹柱の粗末な家に住み、都からの便りが間遠で、柴・竹を荒く結った垣根やわずかに訪ねる者としては、峰で木を伝う猿の声、貌が爪木の斧の音、これらが訪れるのでなければ、ていかかずらとつづらふじ、来る人はまれである。
法皇は「だれかいるか?だれかいるか?」とお召しになるが、お答えなさる者もいない。はるかに老い衰えた尼が一人参上した。「女院はどこへ御幸なさった。」とおっしゃるので「この上の山へ花摘みにおはいりになさっています。」と申す。
(3)
女院のお造りになったとおもわれる
おもってきたか(いやこない)。深山の奥に住まいを立て、かなたの月を他の所から見ようとは、。
さて、側をご覧になると、御寝所と思われて竹のお竿に麻の御衣、紙の御衾などかけられている。それにしても日本・中国の絶妙なものの数は多くして、綾羅・錦繍の装束も、すべて夢になってしまった。供奉の公卿・殿上人も、おのおのが見申したことなので、今のように思われて、皆袖を絞られた。
そうしているうちに、上の山から、濃い墨染めの衣を着た尼二人、山の険しい道を伝いながらわずらいながら下りて来た。法皇は之をご覧になって、「あれは何者だ。」と尋ねられるので、老尼は涙を抑えて申すことに、「花かごを肘にかけて岩の間のつつじを取って持たせなさっているのは、女院でいらっしゃいます。たきぎにわらびを折って添えてございますのは、、鳥飼の中納言維実の」娘で、五条大納言邦綱卿の養子、先帝の御乳母、大納言佐。」と申し終わらないうちに泣き崩れる。法皇も誠にお思いにって、御涙も我慢なされなかった。女院は、「そのように世を捨てる御身ちいっても今こういう様子を見え申さないようにしよう。恥ずかしいこと。消えてしまえ。」とお思いになるが、甲斐がない。宵々ごとに閼伽のが袂もしおれるのに、暁起きの袖の上山路の露もしげくしぼりかねなさった、山へも帰りなさらない。御庵室へもお入りならない。御涙にむせびになり、呆然とお立ちなさった所に内侍の尼がsんじょうし、花かごを」いただいた。
「世を捨てた人の常として、世を嫌う習い、なにがくるしいいか(くるしくない)。早くご対面なされて法皇にお帰りいただくようになさいませ。」と申したので、女院は御庵室へお入りになる。「念仏を一回となえるごとにマドから差し込む月のヒアkりおうちに如来の救いの力を期待し、十度念仏(を申すときには)このそまつな庵の塀を開けて、仏菩薩の来迎を待っていたのに、思いの外に御幸だったとは不思議さ世。」と言って泣く泣くお目にかかることがあった。
構成
主題 後白河法皇の寂光院訪問 |
(1) (2) (3) |
節 |
文治に年 春 峰の白雪 二三月 風 余寒 谷のつらら 夏 西の山の麓 寂光院 前水 若草 青柳 池の浮き草 中島の松 藤波 遅桜 山吹 ほととぎす 岩 水の音 垣 山 (庵室) 蔦 朝顔 忘れ草 あかざ 杉の葺き目 小笹 竹柱 ませ垣 (訪ねるもの)猿の声 斧の音 葛 青つづら (尼)「花つみ」 (女院)歌「思ひきや」 竹のさお 麻の衣 紙のふすま 上の山 (尼二人) (老尼)「女院と大納言佐」 (女院)「恥ずかしい。」 庵室へ入る。 対面する。 |
寂光院の様子 |
|
行けない。 御幸 歌「池水に」 ご覧になる。 「だれか?」 「どこへ?」 「誰?」 |
法皇 |
(6)(灌頂巻)大原御幸 1186年法皇建礼門院を訪問 解答
(1)(2)
一 1 けんれいもんいん 2 きさらぎ 3 やよい 4 せんずい 5 えいらん
6 りょくろ 7 すいたい
二 1 秋になって夜の寒さをかんじること。 2 上皇、法皇、女院の外出を言う尊敬語。
3 見間違う。 4 天皇や上皇がご覧になる。 5 古くなる。
三 法皇
1 それでしばらくお出ましを見合わせになっていらっしゃった。
2 夜の明けないうちに。
3(1)荒廃して、霧が入り、絶えず香を炊いているように見える。
(2)「杉の葺き目もまばらにて時雨も霜も置く露も、漏る月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。」 4 絵に描こうとしても筆も及ばないことだ。
四 1 ウ音便 まほしく 2 促音便 来たりて 3 ウ音便 古く 4 促音便 ありて
一 1 にょういん 2 つた 3 ひょうたん 4 しぐれ 5 のべ
二 1 野のあたり。野原。 2 訪ねる。
三 女院 法皇
1 日の光が屋根の隙間から漏れてくるのと同じように、時雨や霜や露が容赦なく室内に漏れてくる状態。
2(1)庵室。 (2)世 ふし
四 1 促音便 ありて
(3)
一 1 みやま 2 くもい 3 ふすま 4 りょうら 5 きんしゅう
6 ぐぶ 7 くぎょう 8 てんじょうびと 9 わらび 10 あか
11 たもと 12 かんぎょ 13 しょうじゅ 14 らいこう
二 1 雲 2 すべて 3 険しい崖に木材を棚のように掛け渡して作った道。
4 花かご 5 まことに 6 せき止める。我慢する。
三 女院 尼二人 法皇 御乳母
1 建礼門院が中宮であられたときの宮中での華やかな生活。2 女院と大納言佐
3 仏道修行を通じて、こらえてきた苦しみや悲しみ。
4 「今かかる御さまと見え参らせんずらん恥ずかしさよ。」