(4) 猟師、仏を射る事 巻八の六
語釈
(1) 昔、@愛宕の山に、久しくおこなふ聖ありけり。年ごろおこなひて、A坊を出づることなし。西の方
に猟師あり。この聖を貴みて、常にはまうでて1もの奉りなどしけり。
(2) 久しく参らざりければ、B餌袋にC干飯など入れて、まうでたり。聖、よろこびて、2日ごろのおぼ
つかなさなどのたまふ。その中に、ゐ寄りてのたまふやうは、「このほど、3いみじく貴きことあり。この年
ごろ、他念なく経を保ちたてまつりてある4しるしやらん、この夜ごろ、D普賢菩薩、象に乗りて見えたまふ。
今宵とどまりて拝みたまへ。」と言ひ
ければ、この猟師、「よに貴きことにこそ候ふなれ。さらば、泊まりて拝みたてまつらん。」とて、とどまり
1ぬ。
(3) さて、聖の使ふ童のあるに問ふ、「聖のたまふやう、いかなることぞや。5おのれもこの仏をば拝み
まゐらせたりや。」と問へば、童は、「五、六度ぞ見たてまつりて候ふ。」と言ふに、猟師、6「我も見たて
まつることもやある。」とて、聖の後ろに、寝ねもせずして起きゐたり。
(4)7 九月二十日のことなれば、夜も長し。今や今やと待つに、夜半過ぎ2ぬらんと思ふほどに、東の山
の峰より、月の出づるやうに見えて、峰の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さし入りたるやうにて、明くな
り3ぬ。見れば、普賢菩薩、白象に乗りて、やうやうおはして、坊の前に立ちたまへり。聖、泣く泣く拝みて、
「いかに、Eぬし殿は拝みたてま
つるや。」と言ひければ、「Fいかがは。この童も拝みたてまつる。Gおいおい、いみじう貴し。」とて、猟
師思ふやう、「聖は、年ごろ経をも保ち、読みたまへばこそ、その目ばかりに見えたまはめ、この童、わが身
などは8、経の向きたる方も知らぬに、見えたまへるは、心得ら れぬことなり。」と心の内に思ひて、「9こ
のこと、試みてん。これ、罪得べきことにあらず。」と思ひて、とがり矢を弓につがひて、聖の拝み入りたる
上よりさし越して、弓を強く引きて、4ひやうど射たりければ、御胸のほどに当たるやうにて、火をうち消つ
ごとくに て、光も失せ5ぬ。谷へHとどろめきて、逃げ行く音す。聖、「これは、いかにしたまへるぞ
」と
言ひて、10泣き惑ふこと限りなし。男申しけるは、「聖の目にこそ見えたまはめ、11わが罪深き者の目に
見えたまへば、試みたてまつらんと思ひて射つるなり。まことの仏ならば、6よも矢は立ちたまはじ。されば、
あやしきものなり。」と言ひけり。
(5) 夜明けて、I血をとめて行きて見ければ、一J町ばかり行きて、谷の底に、大きなる狸の、胸よりと
がり矢を射通されて、死して伏せりけり。
(6) 聖なれど、無知なれば、かやうに化かされけるなり。猟師なれども、Kおもんばかりありければ、狸
を射殺し、その化けをあらはしけるなり。)宇治拾遺物語)
(注)@愛宕の山 今の京都市右京区上嵯峨の北にある山。A坊 僧の住む建物。B餌袋食料などを入れて携える入れ物。C干飯 飯を干して乾かしたもの。水にひたして食べる旅行用・保存用にする。「乾飯」と同じ。D普賢菩薩 仏の教化を助ける菩薩の一つ。釈迦の右脇にいて、白象に乗る。Eぬし殿 あなた。Fいかがは どうして拝まないことがありましょうか。Gおいおい はいはい。承諾する気持ちを表す感動詞。Hとどろめきてごろごろと大きい音がして。I血をとめて 血の跡をつけて。J町 長さの単位。一町は約一一0メ−トル。Kおもんばかり 思慮。物事の性質を深く考えること。
一 次の語の読みを現代仮名遣いで記せ。
1 宇治拾遺物語 2 愛宕 3 奉る
4 餌袋 5 干飯 6 普賢菩薩
7 今宵
8 夜半 9 失せぬ 10 狸
二 次の語の意味を辞書で調べよ。
1 おこなふ
2 年ごろ
3 まうづ
4 奉る
5 のたまふ
6 よに
7 夜半
8 すさまじ
9 つがふ
10 あやし
三 登場人物を抜き出せ。また、
傍線部1〜11と12の問いに答えよ。
1 どんなものか。
2 (1)「おぼつかなさ」とはどういう意味か。
(2)なぜか。
3 具体的にどのような事実をさしているか。その部分を抜き出せ。
4 どういう意味か。
5 誰をさすか。
6 どういう意味か。
7 この日の月の出はいつごろか。
8 どういうことか。
9 指示内容。
10 聖が「泣き惑」ったのはなぜか。
11 なぜ自分を「わが罪深き者」というのか。
12 狸は何をきっかけに現れ消えるか、漢字一字で抜き出せ。
四 二重線部1〜6の文法問題にこたえよ。
1 品詞名 基本形 活用形
2 品詞名 基本形 活用形
3 品詞名 基本形 活用形
4 こういう語を何というか。
5 品詞名 基本形 活用形
6 品詞分解 口語訳
五 口語訳
(1 )昔愛宕の山に長い間仏道修行する聖がいた。長年の間仏道修行して、坊を出たことがない。西の方に猟師がいる。この法師を貴んでいつも参って物をさしあげなどした。
(2) 長らく参らなかったので入れ物に干した飯など入れて伺った。聖は喜んで日頃の気がかりなどおっしゃる。そのうちに、にじり寄っておっしゃることは「このたびたいそう貴いことがある。長年の間一心に経を保持申している効験だろうか、ここ数年来普賢菩薩が象に乗って見えなさる。今夜泊まって拝みなさい。」と言ったもで、この猟師は「実に貴いことでございます。それならば泊まって拝みましょう。」と言って泊まった。
(3) さて、聖の使う童に尋ねる。「聖がおっしゃることはどういうことか。お前もこの仏を拝み申したのか。」と尋ねると、童は「五六度見申しましてございます。」と言うので、猟師は「自分も見申すことがあるかも知れない。」と言って聖の後に寝もしないで起きて座っていた。
(4) 九月二十日のことであるので、夜も長い。今か今かとまつうちに、夜中を過ぎただろうと思ううちに東の山の峰より月が出るように見えて、峰の嵐ももの寂しいのに、この坊の中は光が射し込んだようで明るくなった。見ると普賢菩薩が白象に乗って、だんだんいらっしゃって、坊の前に立ちなさった。。聖は泣く泣く拝んで「どうしてあなたは拝み申したのですか。と言ったので、「どうして拝まないことがありましょうか。この童も拝み申します。はいはいたいそう貴いです。」と言って、猟師が思うことには、「聖は長年経を持ち読みなさればこそその目だけに見えなさるのに、この童・自分などはお経がどちら向きに置いてあるのかもわからない(文字が読めないので)のに見えなさるのは理解できないことだ。」と心の中に思って「このことを試してみよう。これは罪になることではない。」と思って、とがった矢尻の矢を弓に当てて聖が拝んでいる上から頭越しにのしかかるようにして、弓を強く引いてひゅっと射たところ御胸の当たりにあたるようにして、火を消すように光が消えた。谷へごろごろ大きい音がして逃げていく音がする。聖、「これはこれはどうなさったのか。」と言って大いに泣き惑った。男が申したことは、「聖の目には見えなさるが、私のような罪深い者の目に見えなさるので試してみようと思って 射たのだ。本当の仏ならばまさか矢は当たりなさらないだろう。だから、奇怪な物だった。」と言った。
(5) 夜が明けて血の後をつけていって見ると一町ほど行くと谷の底に大きな狸が胸から矢を射通されて死んで伏せっていた。
(6) 聖であるが、無知なのでこのように化かされたのだ。猟師であるが、思慮があるので、狸を射殺し、その化けの皮をはがしたのだ。
構成
比較 |
(1) (2) (3) (4) (5) (6) |
節 |
愛宕の山 久しぶり 九月二十四日 光=普賢菩薩の出現 当たる 光消える 谷底に狸 |
時 場所 |
|
信心 |
長年修行している 世間知らず 「普賢菩薩が象に乗ってきた」 → 童「五六度見た。」 → ←拝む 無知で化かされた |
聖 童 |
罪人 無知 合理的 |
←尊敬 食物を上げる ←伺う ←「泊まって拝もう。」 ←童に様子を聞く ←自分に見えるのはおかしい ←矢を射る「本当の仏なら矢は当たらない」 思慮があるので化かされない |
漁師 |
主題 信仰心より思慮が大切だ。 *類話 『今昔物語集』巻二十第十三話
(4) 猟師、仏を射る事 巻八の六 解答
一 1 うじしゅういものがたり 2 あたご 3 たてまつ 4 えぶくろ 5 ほしいい
6 ふげんぼさつ 7 こよい 8 よわ 9 う 10 たぬき
二 1 仏道を修行する 2 長年の間 3 行く、来の謙譲後 参詣する 4 与ふの謙譲後 さしあgる
5 言ふの尊敬後 おっしゃる 6 実に 7 夜 夜中 8 ものさびしい 9 矢を弓の弦にあてる
10 奇怪だ
三 登場人物 聖 猟師 普賢菩薩 童 狸
1 食糧など 2 きがかりさ 3 たえず物など持って来る猟師がしばらくかおをみせなかったから 3 この夜ごろ・・・乗りて見えたまふ 4 効験(霊験 御利益) 5 聖の使う童 6 自分も仏を拝み申すこ
とがあるかもしれない 7 夜遅く夜半過ぎごろ 8 文字が読めない 9 普賢菩薩を矢で射ること
10 猟師の犯した罪におそれおののいたから 11 猟師は動物を殺して生活している(殺生戒を犯している) 12 光
四 1 2 3 5 助動詞 完了 ぬ 終止形
4 擬声語 6 よも副 矢名 は係 立ち動四段立つ用 たまは補助動たまふ未 じ助動打ち消し推量止 矢はあたりなさらないだろう