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さくらのありがとう - 曽我くんの大変な三日間

「おい起きろ、清々しい朝だぞ」
「んぐ」
 うるさい、と言おうとしたが、声が出ない。
「ど、け……!」
 首にまとわりつく冷たい手を振り払い、大きく息をする。危ない、危うく本当に逝くところだった。俺を殺しかけた(本人的には「起こした」)張本人はどこ吹く風で「良い天気だな」とのたまう。
「お前なあ、常識ってもんがあるだろ」
 目の前を漂う幽霊をズビシ、と指差し、説教開始。
「常識、ねえ」
「たとえば夜中にコッソリ襲わないとか」
「……むしろそれは常套手段だと思うが」
「うるせえ、卑怯なもんは卑怯だ」
 幽霊に突っ込まれてひるむ俺。負けんな!
「それよりもほれ、時計を見てみろ」
「――ぎゃあぁあ!」
 時計を見れば遅刻寸前だった。
 トーストをくわえながら登校してるけど、残念ながら「曲がり角で転校生の美少女とぶつかって〜」的な事は起こらない。これが現実だ。
 さて、現状を説明しよう。
 俺は曽我基麻呂そがもとまろ。私立桜陰学園中等部の三年。母方の実家は三代続く和家具屋、白野屋。困ったときは是非ウチまで!
 で、ここからが重要。
 さっきから幽霊がしきりに話しかけてくるが、無視。向こうも一方的に話してるから無問題。
 この幽霊が最重要。
 名前を厩皇子と名乗ったコイツは、俺を殺しに来たと言い、失敗した(させた)かと思ったら、居”憑”いていた。
 ――曰く、「いつでも殺せるように」らしい。
 全く以て良い迷惑だ。おかげで今朝みたいに死にかけることが多くなった。何だか無駄に神経が図太くなっている気がしなく無い。
「あだっ」
 デコが痛い。どうやら電信柱に思い切りぶつかったみたいだ。うう痛。
「ははは、前を向いて歩かないからだ」
 そう言う皇子は(こう呼ばないと怒るので)後ろ向きに電信柱を通り抜けるという器用な芸当をこなしていた。
「お前面白いことになってるぞ」
 悔し紛れにそう言えば、「お前には出来まいよ!」と、どう返したらいいのか分からない返事が返ってきた。

 教室の中は騒がしく、目前に迫った夏休みのことで話題は持ちきりだった。
 ――夏休み、俺にはきっと無いだろう。主に建具屋の修行で。
 俺のすぐ傍の席では、何やら怪談話が盛り上がっていた。どうやらオカルト部(そんなんあったっけ)の合宿があるらしい。
「そーいえばさ、知ってる? 真夜中に季節外れの桜が咲くんだってさ」
 へえ、集団が沸く。
 じゃあ夏休み、いついつどこどこで集合な。部長らしき人がそう号令をかけたのと同時に、先生が入ってくる。オカルト部は蜘蛛の子散り散りに各々のクラスへ帰って行った。
 授業はつつがなく進行し、帰りのHRも問題なく終わった。つまりは、いつも通りだ。
 皇子には学業を邪魔してはならない、という変なポリシーがあるらしい。そのおかげで俗に言うドタバタギャグというのも起こらなかった。
 まあ、毎日平和だから良いけど。
「あの」
 そんな平和な帰り道、俺は、一人の女学生に呼び止められた。制服を見る限り同じ中学だ。それにしては随分大人びた雰囲気を持つ人だなあ。
「何でしょう」
「これを、渡していただけないでしょうか」
 そう言って細い手が差し出したのは、一通の手紙。桜を模した封筒が色鮮やかで、綺麗だな、と思う。
「誰に渡せば」
山名辺やまなべ学さんに」
 そう言った彼女の声は震えていて、今にもかき消えてしまいそうだ。こういうのを、恋する乙女、って言うのかな。
「よろしくお願いします」
 彼女は腰を折って礼をすると、きびすを返してどこかへ行ってしまった。

「当てはあるのか?」
 黙ってやりとりを見ていた皇子が唐突に言ったので、声を上げそうになった。堪えろ自分。ここで声を上げたらヘンシツシャだ。
「うーん、聞いたことある名字だった」
 他人に聞かれないように、小声で話す。
「私は知っているぞ」
「え?」
 思わず皇子の方を向く。向いた先にドヤ顔が居たので、張り倒そうかと思った。
「国語科教師だ。古参の」
「国語――ああ!」
思い出した思い出した。あの優しそうなおいじさんか!
「って、え?」
 これを先生に渡せっての? 片手に持った桜色の封筒を見下ろしながら思う。
「いやいやいや」
 それはないだろう。人違いだ。
「皇子ぃ、他に山名辺って奴知らねえ?」
「知るかそんな奴」
 ですよねー。だからといって、この手紙を山名辺先生に渡すのも、なんかなあ。
「何を躊躇っているのだ」
「だってよお」
「明日、その手紙をその山名辺先生に渡せば良いだけの話ではないか。簡単な仕事だ」
「うーん、そうだな」
 何か腑に落ちないけど、まあ、そうなんだろう。とりあえず納得して、家までの残りの距離を走って帰る。

「渡しちまったぜ」
 日は改まって、朝礼前に俺は職員室に駆け込んだ。先生達に凄く変な目で見られたけど、気にしない。
 ちなみに相変わらず校内では皇子は干渉してこないので、俺の呟きは喧噪の中に消える。
 今日も特に問題は起こらない。普通の日常だ。
 帰り道、どうしてか俺の足は真っ直ぐ家に向かず、学校の敷地内にある大桜へ向かっていた。
「どこへ行くのだ」
 人がいないのを見計らって、どこからかにゅっと皇子が現れた。
「んー。大桜」
「あの樹齢百年とかいうあれか」
「うん」
 大桜は敷地の奥まったところに生えている。そういう訳で、俺は帰宅軍団から一人離れて敷地内を歩いていた。
「しかし今の時期は見に行ってどうするというのだ。春はともかく、夏は青々と葉桜が茂っているだけだろう」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
――アスファルトの照り返しが辛い……。チクショウ、まだここ学校内だぞ。あーうちに帰ってれば良かった。
「聞こえているぞ」
「聞くんじゃねぇ!」
そんな会話をしながら大桜へと向かう。今の時期は立派な幹に葉が青々と茂っている、はず――。
「嘘だろ」
「残念ながら現実だ」
 そこには、見事な薄桃色の花を散らす桜の大木があった。不思議と、うだるような暑さもない。ここだけ、季節が春に戻っているみたいだ。
 木の手前に、一人の女の人が立っていた。
 昨日の彼女だ。
「渡してくれて、ありがとうございます」
 お辞儀をしながら彼女は言った。
「え、と……。どうして?」
 僕の質問に、彼女は曖昧に笑うだけで答えない。
 その姿はどこか、背後の桜のように散ってしまいそうな儚さがあった。
 彼女がそのまま黙って一礼すると、その体は薄桃色に染まる。
 枝が僅かに揺れる程度の風が吹くと、彼女の体は桜の花びらとなって散った。背後の桜も風に消えた。
 ――アリガトウ。
 その声が、再び頭の中に響いた。瞬間、うだるような暑さが戻ってきて、俺はめまいを起こしそうになった。

「起きてるか、起きてるな、おい」
 皇子にネコダマシをされて、我に返る。
「あれは衝撃映像だったわ……」
 俺は自分の家の自分の部屋で、ベッドに横になっていた。半分自作で、そのせいかギイギイ言う。
「何だったんだ」
「あれは地縛霊だ」
「は、ジバクレイ?」
 冗談はよしてくれ。背筋がゾッとなるのが分かる。――ギシッ。ベッドが妙に響く。
「そうだ。あの女は大桜に縛られていたわけだ。この世に未練があったんだな。
 それが何らかの縁で未練が無くなって、消えた」
「ああそう」
「ま、お前は利用されたって訳だ」
 天井を見上げていると、視界に皇子のドヤ顔が入ってくる。うざい、失せろ。
「ついでに言うと、真夜中に桜の花が咲くというのも、奴の仕業だろうな。きっと誰かに見つけてもらいたかったんだろう」
「ま、成仏したならそれで良いさ」
 ――誰に見つけて欲しかったのであれ。
 寝返りを打ったせいで、ベッドが大きな音を立てた。

 次の日。つまり、俺が初めて大桜の霊にあってから、二日経った。
 俺は今日も大桜に来ていた。成仏した後の木が見たかったからだ。
 当然花は咲いておらず、古木は沈黙を保っていた。
 いつも通りかと思いきや、木の前には先客が居た。
「山名辺先生」
「ああ、君か」
 少しだけ振り向いて、穏やかな声で山名辺先生は言った。
「この木はね、私がまだ学生だった頃からここにあったんだ」
 静かな声で先生は語る。俺は黙ってその話を聞いていた。
「まあ、私が学生の頃なんて戦時中だからね、いつか焼けてしまうと思っていたんだが。不思議なことにここら一帯が燃えてもこの木だけは残っていたんだ」
 おかげで命を救われたよ。最後は呟くように言って、先生はそっと木に触れた。
「だから今まで、恩返しと思って一生懸命守ってきたのだが……。どうやら、寿命みたいだね」
 先生の話を聞いてから木を見上げると、心なしか木が嬉しそうに見えた。木を撫でる先生の手はどこまでも優しい。何となく得心が付いた
 彼女は、山名辺先生に見つけてもらいたかったんだ
「あの、先生」
「ああ、少々語りすぎてしまったね」
 山名辺先生は俺の方を振り向いて優しく笑うと、俺の横を通り過ぎて校舎の方へと歩いて行った。
「本当に成仏しちまったんだな」
 先生が完全に見えなくなったのを見計らって、皇子に声を掛ける。
「ああ、あの霊が桜の寿命そのものだったんだろうな」
「だから『ありがとう』か」
 桜の木は、「さようなら」と手を揺るように風に揺れていた。