「和基さあ、ウチ来る? 新しい漫画が……」そこまで言って、幼馴染みはため息を吐いた。
「お前漫画興味ないんだったな」
「普通に読むし。手塚治虫とか、藤子・F・不二雄とか、石ノ森章太郎とか」
「古(ふる)!」
それは帰り道でのことだった。偶然別の小学校に通っている幼馴染みと出くわしたのだ。あの電話をした日から、彩花と遭遇することもなくなっていた。結局何がどうなったのか分からないままの四日間だったから、幼馴染みの提案は渡りに船だった。
幼馴染みの家に向かうバスの中で、家に連絡を入れる。今日寿紀(としき)の家に寄っていくから。そう言うと、電話の向こうの母親は笑いをこらえた声で、いってらっしゃい、と言われ、電話は切れた。
ふと、四日前の記憶が蘇る。あのとき自分はなんて言った? 確か、さい姉ちゃんと二人で話をしたいと言ったはずだ。
「最ッ悪」
これは完全に誤解された。
「どうかしたか」
「いいや」
引きつった表情のまま首を振る。そうか、と幼馴染み――寿紀は頷いて、また他愛ない話を始めた。
「なあトシ。お前んち猫飼ってるらしいな」
「ん、ああ、グー助か。なんだ、アネキから聞いたの」
寿紀が驚いたのは一瞬だった。それはそうだ。和基と彩花は小学部と中学部に分かれているとはいえ、同じ学校に通っているようなものなのだ。だから和基も大した反応をせずに、ただ、おー、と間延びした声を上げた。
やはり彩花は自身の異常を家族に言っていないらしい。寿紀の態度からそう察する。
「でもなあ、グー助の奴酷っでえの。拾ってきたのアネキなのにさ、アネキには全然懐かねえ」
「でもさい姉ちゃんは可愛がってるふうだったけど」
実際に彩花の弟である寿紀の目の前で「さい姉ちゃん」と呼ぶ違和感といったらない。寿紀は大して気にしていない様子で(多分もう長いことそう呼んでいるからだろう)、和基の言葉を笑い飛ばした。
「なんかの間違いだろ。あんまりにも懐かないんで、最近じゃあのアネキもとうとう愛想尽かしてる」
「へえ」
妙なことだった。ハンバーガーチェーンでのあの態度はどう見ても「愛想を尽かしている」風ではなかった。むしろ真逆。写真の中の猫を慈しむような――。
「でも急に猫の話なんてどうしたんだよ?」
和基の思考を遮るように、寿紀が話しかけてくるからはっとなった。
「これぐらいしか共通の話題がないだろうが」
「ああ、そうだな」
和基の言葉に、寿紀が遠い目になった。
あくまで「幼馴染み」と言う名の腐れ縁である二人には、いつも共通の話題が欠けていた。寿紀はそれを和基の世間知らずのせいと言う。『ドラえもん』を知っているそれのどこが世間知らずだというのか。
「母さんただいま、和基連れてきたから」
「ちょっと! 連絡!」
「俺の部屋にいるんだからいーじゃん」
ぽんぽん交わされる軽快な会話をBGMに、二階の寿紀の部屋までの階段を駆け上がる。勝手知ったる他人の家だ。上り終わったところで、誰かにぶつかった。頭に触れる柔らかい感覚。例えるなら、マシュマロみたいな……? 触れたのは一瞬のことで、直ぐに柔らかいのは離れて行った。
「ああ、ごめん。あれ、これ私が謝るべき?」
頭上からさい姉ちゃんの声がする。え、あれ? と混乱しているうちに、視界に彩花の顔が現れた。
「今、何が」
「ああ、混乱してるならちょうどいいや。忘れて」
「今、さっき、ひょっとして」
「考えるなー」
彩花に頭をつかんで振り回される。あの柔らかい感覚が消え失せていくようだ。
不意に視界を猫が横ぎった。黒猫だった。何とはなしに不吉だ、と思う。ふと脳裏に「彩花ではない彩花」から見せられたグー助の写真が蘇る。グー助は黒と白の斑猫だったはずだ。
「さい姉ちゃん」
「ん? なに」
「さっきの、グー助?」
彩花は和基の問いに少し思案してから、ああ、と得心したように声を上げた。2人の視線の先では、階段の踊り場からさっきの黒猫がこちらを見上げていた。
「グー助ねー。小さい頃は白黒のぶちだったんだけど、大きくなるにつれて真っ黒になっちゃってねー」
今はあの有様、かわいくないわーと締めくくる。のんびりとしたその声は、いつもの彩花のものだ。そしてその言葉は、寿紀の言うように「猫に愛想を尽かした」それだった。
成長につれて真っ黒になる猫などいるのだろうか。そもそもあれは「普通の」猫なのかどうかすら和基は怪しんでいた。
和基は彩花に視線を戻して、訊いた。
「さい姉ちゃん、あの猫どうしたの」
「どうしたって、拾ったのよ。それがどうかした?」
そう、と頷いて再び踊り場へ視線を遣る。そこにはもうグー助の姿は見当たらなかった。
そのあとは寿紀に最近の漫画事情を教えてもらって(最近の漫画は初っ端で主人公が死んだりする。展開が急だ)、スナック食べたりレースゲームで遊んだり(負け越した。……バナナめ)してから家に帰った。
……というのを家に帰って母に言うと、なんかすごくがっかりされた。心当たりはあるけど、腹立つからいちいち勘違いなんか解いてやんない。
和基の家は寿紀に「図書館みたい」と評されるような家である。寿紀曰く静かで、本が多いからだという。異論はない。だってそのものずばりであるから。
そんな和基の家の食卓はいつも静かだ。父は和基の幼い頃に事故で死んでいて、母と祖父と和基とで食卓を囲む。父がいた頃もこんなだったから、別にさみしくとも何ともない。
「ねえ、じいちゃん」
「む」
食事が終わって、部屋に引き上げていく祖父に声をかけた。色々言葉を選んでから、簡単な質問を投げかけた。
「動物相手に鳴弦(めいげん)って効く?」
鳴弦とは矢を番えずに弓を鳴らす動作のことだ。唐突な質問に、祖父はなぜそんなことを訊く? という探るような眼を向けてきた。ご尤もである。それに対して、和基は知り合いがちょっと、ともごもご言い訳めいたことを応えた。
「鳴弦は邪気を祓う動作だ。だから重要なのはその動物が邪気を持っているかどうかだが」
和基はそれを聞いて、居ても立っても居られない心地になった。そして祖父の言葉がまだ途中だというのに、慌てて自分の部屋に逃げ込んだ。
襖を占めて、それにもたれるようにへたり込む。動物にも鳴弦は効く。その事実を知った途端、走ったわけでもないのに興奮して、心臓が脈打っていた。いいや、まだだ。まだグー助が犯人だと決まったわけじゃないじゃないか。
――試してみよう。
効かなければいい。効かなければ、つまり「悪いもの」ではないのだから。
逸る心を抑えながら、そう決めた。
そう決めなければ、この興奮は治まりそうもなかった。
幸いなことに、明日は土曜日。学校はない。
翌日の朝、和基は電話の前で唸っていた。何しろ自分の中で突発的に決まった計画だから、どうやって彩花を呼び出すかの言い訳を決めていなかったのである。そんな和基を、母親が生温かい視線で応援したことなど彼は知らない。
いろいろ考えて、勉強を見てもらうことにした。本来の目的はそこにないし、彩花が勉強のできるほうかと言われると首をかしげるしかないが、これが一番「それらしい」誘い文句だと思ったのだ。
案の定、電話の向こうの彩花は訝しげだった。
『勉強? 見てもいいけどさ、正直和基くんのほうが頭いいんじゃないの』
「予習だよ予習。中学でどんなこと習うのかなって」
『真面目だねー』
結局彩花は茶請けに出される和菓子につられるようにして、和基の家へとやってくることになったのだった。
「ねー、お休みしようよ」
「え、もう?」
昼ご飯を食べて、彩花に英語や数学を教えてもらっていた矢先のことだった。英語はともかく、数学は苦手であるらしく説明が雑だった。これが感染ってくれたらどうしてくれよう。
彩花を咎めるような口調で言ったが、彼女の言葉は実のところ渡りに船だった。
「道場行こうよ。こう狭くっちゃ方も凝るでしょ」
「ああ、うん。そうね」
そして彼女は足元で寝転がるグー助を見た。
「こいつ連れてくる意味あった?」
「まあ、来ればわかるよ」
和基はこの勉強会にグー助を連れてくることを念押ししていたのだった。さもなくば茶請けは出せない、と人質ならぬ物質をとって。これが思いのほか効いて、高級素甘のためなら! と寿紀曰く仲の悪いらしい飼い猫を連れてくることも厭わなかった。
「それじゃあ、俺は弓道の型練習してるから。楽にしててよ」
「わあ、真面目」
棒読みの彩花の声を背中に聞きながら、構える。弦に指をかける。引く。溜めて――放つ。残心。放った態勢のまま姿勢を保ち、射った先を見据える。今回は型だけだから振りだが。ゆるりと息を吐いて、姿勢を戻す。
背後からおお、という感嘆の声が聞こえてくる。それでも奢らない、気は抜かない。狙いは猫。グー助が射程の中に入ったときが、機会。
和基は機会を待った。型を構えるふりをして、弦を引く。
そしてそれは来た。グー助が、和基と的の真ん中にふらりと現れたのだ。グー助は和基に気づくと、何故か駆け寄ろうとしてきた。
和基は目一杯弦を引き絞って、放った。不可視の矢が、グー助の小さな体に刺さる。そんな幻覚が見えた気がした。グー助はぷぎゃっと小さな声を上げて、ごろごろと地面を転がった。
――やった、やってやった。
和基は昂った心を静めるように、姿勢を保っていった先を見つめた。そこには猫の骸があるだけだった。――いや、猫は生きていた。猫は何か信じられないものを見るように和基の方を見て、そして息絶えた。
「あららあ」
今までだんまりを決めていた彩花が沈黙を破った。そして淡々と言った。
「死んじゃったの」
「多分」
和基の胸の内を占めていた昂りは急に消えて、罪悪感でいっぱいになった。嫌っていたとはいえ、目の前で飼い猫が死んでしまったのだ。心優しい彩花が何も思わないはずがないだろう。
彩花はグー助の側に駆け寄ると、その動かない体を突っついた。猫の体から出血はなかった。けれど息の根は確実に止まっていた。
「和基くん」
彩花の顔がこちらを向いた。そこには笑みが浮かんでいた。それは、いつか見た「彩花ではない彩花」の笑みだった。
「ありがとうね」
その言葉に、心臓を握りつぶされそうな気分になったのはどうしてだろう。
寝子違い・了