Novel
ねこちがい・前
ああ、私の勘が当たってしまった!
――『ハムレット』1幕5場
「へい、和基(かずき)くん!」
掛け声とともに、背中への衝撃。どうも背後へのしかかられたらしかった。声と行動で、自分が幼馴染の姉の襲撃にあったことを察する。
「なんですか彩花(さいか)さん。……あー、彩花先輩?」
「ひっどいなあ、昔はさい姉ちゃんって呼んでくれたのにさ。今呼んでくれてもいいのよ」
振り向きながら言うと、彩花はヘイ、カモン! といつにも増して、やけにテンション高くそう言った。元々普段から訳もなくはしゃいでいるような人だけれど、今日は輪をかけてテンションが高い。変なはしゃぎように眉尻が上がる。いつも通りといえばいつも通りだが、違和感を覚えるのだ。そしてなんだか無性にイラッとする。絡まれてウザいという幼馴染みの気持ちが少しわかった気がした。
「それにしても珍しいね」気安いせいか、この人に敬語を使おうという気にはならなかった。
「学外で会うなんてさ」
和基の言葉に、彩花は途端に叱られる寸前の小学生みたいに大人しくなって、困ったように眉間を寄せた。彼女は少し考え込むように唸ってから、丁度道の途中にあったハンバーガーチェーンを指差した。何か悩み事でもあるのだろうか。
「ここで話すのも何だからさ、あそこに入ろうよ。奢らせてもらうよ?」
「別に、あの程度なら自腹切れるけど」
「あーも! これだからボンボンは! 先輩には奢られる! それに小学生に自腹切らせるなんて格好悪いじゃん」
さっき先輩って呼んだら即座に撤回してきた癖に。そう内心で突っ込みつつ、和基は彩花に押されるようにしてハンバーガーチェーンへと足を踏み入れた。
部活生が帰宅する時間帯とかぶっていたせいか、店はそこそこ混んでいた。慣れない、賑々しい空気にたじろぐ。あまり馴染みのない店だったから(こういうところが周りから「ボンボンだ」という割れる所以なんだろうが)、注文は彩花に任せ、自分は空いている席を探す。探すだけでも結構なひと苦労だった。二人掛けの席に掛けると、弓道クラブの荷物が思いの外かさ張って邪魔だった。
彩花が来るまでの暇つぶしに鞄から文庫本を取り出したところで、はっとする。彼女は帰宅部だったはずだ。それなのにどうして弓道クラブの和基と帰宅時間がかち合うのだろう。いくら中学生の授業時間が長いとはいえ、もう六時半だ。
「おまたせ」
「早いね」
混雑していたから、もっと待つと思っていた。文庫本を閉じながらそう言ったところで、彩花の持つプレートに視線がいく。ハンバーガーとSサイズのカップが二つずつに……ポテトのMサイズだろうか、よくわからない。
「お茶でよかったよね」
誤魔化すように彩花は言った。こういうところの待ち時間はよく知らないのだけれど、この量なら確かにそう待たないのかもしれない。
「もしかしてお小遣いピンチだったり」
「しないから! 全然!」
プレートをテーブルに置きながら、彩花は和基に被せるように言った。果たして彼女の言葉は本当だろうか。
「学校でなにかあったの」
彩花の帰宅時間が遅れる理由なんて、それしか思いつかなかった。別に友達と遊んでいた、とかだったら和基もここまで構わないし、恋人とデートしていたの、とかだったら勝手にしなよと思う。
「なんでもないよ」彩花はそう言って、頭を振った。表面的にはいつも通りに見える。なのに感じるこの違和感は何だろう。
「なにもないの。ただ、寝てただけ」
それを相談しに来たんだけどね、と彩花は笑う。そうなんだ、よかった。と安堵しかけて、ようやく違和感の正体に気づいた気がした。
「寝てた?」
「うん」
「こんな時間まで?」
中学生の授業が何時に終わるのかよく知らないが、大体二三時間は寝ていたんじゃないだろうか。
「そうなるねえ」
彩花は暢気に言って、机の上のポテトをつまんだ。
「それが本日のお悩み相談?」
和基の質問に、彩花はポテトを口に含んだまま頷いた。それは悩みに値するのだろうか。単純に自身の過失である気がする。
ややあって、彩花は口の中のものを嚥下すると、詳細を語りだした。
「なんだかねえ、最近よく寝ちゃうんだよ」
「ふうん」
「あ、それは興味ないってアレだね? 結構重大な問題なんだかんね。夜寝たー、と思ったら次の日の2時間目に目を覚ましたり」
「その時間に起きたってこと?」
彩花の言っていることが、本人のハイテンションのせいで若干訳のわからないことになっている。
「違う違う。なんか私の知らないうちに着替えて、ご飯食べて、バス乗って登校したってこと。家族全員に確認とったから間違いない」
「寝惚けたままあれこれ準備して登校したってことじゃないの?」
「それは私も考えた。寝惚けたまま食事する人とか実際いるっぽいし」
けどねえ、と彩花が急に声のトーンを落とした。それだけで不気味な雰囲気が漂ってくる気がする。根っからのムードメーカーなだけあって、テンションがそのまま場の雰囲気を左右してしまうようだった。
「同じようなことが何回もあって、流石に気味が悪いから寝ないようにしたの。いや、極論だなってのは私でもわかるけど。なんていうの? ひにひにねているじかが長くなっている気がしたの。――で、今日は本当に眠くてね、帰りのHR終わった途端に寝ちゃって」
気がついたらここにいたんだよね。という言葉に、周囲の喧騒が遠くなった気がした。
これは、あれだ。本当にまずいやつだ。確か、ええと。
「睡眠障害?」
「んー。かも」
「病院行きなよ」
「病院」のフレーズに、彩花は唇を尖らせてそっぽを向いた。どうも今まで学校での件を含め、家族に黙っていたものだから、今更打ち明けづらいのだという。
「それにさ、言ったら言ったで、大騒ぎになるでしょ」
「そりゃ、自分の娘が睡眠障害になったってんなら大騒ぎにならないわけがないでしょ」
彩花の両親をだしにすれば、彼女は面白いように身を強張らせた。いや、面白くはないか。そうやって強張るのがいっそ哀れで、思わず烏龍茶のストローをかじりながらあらぬ方向を向く。
なんというか、「強くて優しいさい姉ちゃん」の見てはいけない部分を見た気分だった。よく見れば彩花のドリンクはコーヒーだった。しかもブラックの。それが彩花の切迫を表しているようで、思わず目を逸らす。違う、さい姉ちゃんはそんな人じゃない。今彩花の目を直視してしまったら、取り返しのつかないことが起こる気がしてならない。
「それもそうか」
彩花が小さく呟いた。横目で伺うと、ふにゃふにゃになったポテトをつまんでいるところだった。眼が合うと、彩花はポテトのようにふんにゃり笑って、さっさと片付けよう、と言った。その目元には濃い隈が浮かんでいる。
――ああ、「強くて優しいさい姉ちゃん」の、本当に見てはいけない部分を見てしまった。立ち入ってはいけない部分に、土足で上がり込んだかのような気分だ。
「私はともかく、あなた門限きついでしょ」
「お互いさまだと思うけど」
女子中学生と男子小学生の門限を同列に扱わないでもらいたい。
それから、和基は度々彩花と出くわすようになった。そういうときは必ずハンバーガーチェーンで和基相談室が開かれる。内容は毎回寝すぎてしまう、その一点に尽きた。彩花によると、なにが切欠なのかも分からないという。
和基は医者ではないのだから、原因も何も分かったものではない。霊的なあれそれなら、どうにかならなくもないとは、思わないでもないが。
ここ最近慣れたジャンキーな味の塊を飲み下す合間に、そう結論づけて、眠い眠いと愚痴る彩花の声に耳を傾けることにした。
「あー、うー。寝そう」
「寝たらどう? 30分ぐらいしたら起こすからさ」
「うー……。お言葉に、甘えて……」
もにゃもにゃと断りを入れてから、彩花は机に突っ伏した。咄嗟に彩花の邪魔にならないようにプレートを手前に退げる。
そうして、1分経つか経たないかのうちに、彩花ががばりと顔を上げた。やはり周囲が煩いせいで寝つけないのだろうか。
「どうかしたの」
「どうもしないよ」
そっちこそどうしたの? とでも言いたそうな表情で彩花は首を傾げた。なにかがおかしい。
「でも、眠いって」
「ああ、うん……。でも、ここで寝るのはさ、流石にね」
目元を擦りながら、穏やかな苦笑を浮かべる。あれだけ眠い眠いと言っていたのに、今更外聞を気にするのか? この人が?
「そういえば、なにか、眠くなるのに切欠になったって思えるものこととかって、ある?」
聞いたってわかりやしないだろうが。駄目元で和基は訊いた。
彩花は暫く思案げに唸ったあと、ぞんがいあっさりと、猫かな、と呟いた。
「猫?」
「うん、そう。最近飼い始めたんだけどね」そう言いながら鞄の中を探る。恐らく携帯を探しているのだ。
「名前はグー助っていって――よく寝てるからね――あった。ほら、これ」
携帯に表示された画像には、黒と白の斑の猫が写っていた。それを見て、胸のうちに巣食っていた違和感がぶわりと大きくなったのが分かる。
「ついつい構いすぎてさ、それでうっかり夜更かししちゃうんだよね」
まるでそれが寝過ぎる原因であるかのように語る。
「普段の」彩花はグー助のことを一切言及しなかった。それどころか、こうやって眠気に襲われるようになった切欠がなんなのかすら理解できていなかったし、そもそも「寝すぎること」が怪奇現象でもあるかのように思っている節も見受けられた。
なのにこの違いは一体なんだろう。
「へえ、じゃあさ」
声は出たけれども、口の中はなぜかからからに乾いていた。
「朝、ちゃんと起きることが出来てるんだね?」
訊かれた彩花は、一瞬不思議そうな表情をした後、頷いた。
「だって起きなきゃ学校に行けないじゃない」
――嘘だ!
(なんか私の知らないうちに着替えて、ご飯食べて、バス乗って登校したって)
彩花は起きた自覚がないまま登校していて、それを和基に相談してきていたのに。なのに。目の前にいるこの彩花は、何者だ。
「朝ちゃんとご飯食べてる?」
「うん」
「着替えしてる?」
「んー? うん」
「バス間違えたりとか、してないよね」
「どうしたの、私そんな生活能力なさそう?」
汗で濡れたシャツがクーラーで冷まされて寒い。張り付いたそこが気持ち悪かったが、目の前で起こっていることのほうがもっと気持ち悪い。
あの 「強くて優しいさい姉ちゃん」の見てはいけない部分よりも、もっと薄暗くて、気味の悪いものを眺めているような気分だ。「ような」ではなく、これは真実気味の悪いものだ。
怪訝そうな彩花と別れて、最悪に程近い気分のまま帰宅すると、母親にひどく心配された。多分ひどい顔色をしていたのだ。そして夕食の後、追い打ちをかけるような電話が鳴った。
「和基、彩花さんからお電話よ」
そう母親に居間に呼び出され、電話機の子機を押し付けられる。母は複雑そうな表情で、二人で話したいんですって、と静かに言った。
さい姉ちゃんからの電話、二人で。そのキーワードだけで頭がいっぱいになって、この二つの単語と、帰っていた時の自分の態度が母にどんな勘違いをさせたのかなんて、頭が回らなかった。
早足で部屋に向かいながら電話に出る。
「もしもし?」
『ああ、もしもし? 和基くん? 夜分にごめんね』
ちょっと確認したいことがあって、そう彼女は切り出した。
『簡単に訊くね。私、いつ、あの店を出たの?』
彩花の質問の意味を計りかねて、自室へ向かっていた足が止まる。それを知ってか知らずか、彩花は続けた。
『お店で寝たところまでは覚えているの。でも、気付いたら。目が覚めたらって、言えばいいかな。とにかく横断歩道の真ん中で……。危うく轢かれそうになっちゃって』
最後の言葉は自虐するかのように明るかったが、それは彼女が無理に明るく振る舞っている証左のように聞こえてならなかった。
「つまり、また無意識のうちに行動してたって?」
『そうなるね』
電話だから、今彩花がどんな表情をしているのか分からない。でもこの硬質な声音からして、強張った顔をしているんじゃないだろうか。
しばらく二人とも黙ったままだった。彩花は泣き言も言わず、かといって和基の方が気の利いたことを言えるわけでもなかった。ただ、時間と、通話料が浪費されていく。
「さい姉ちゃん、グー助はどうしてるの」
ふっと思いついて、和基は口を開いた。
『私、和基くんにグー助の話したっけ』
彩花の声があからさまに強張った。
「うん、昼間に。あの店で」
彩花はしばらく黙ってから、吐息のような声で、そう、と答えた。
『ありがとう、和基くん』
「は?」
『原因が、分かったかもしれない』
それじゃあね。彩花は感情のない声でそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
和基は直観した。多分これは「いけないもの」だ。人に障りをもたらすものが、きっと彩花に憑いている。――おそらくグー助が。
でも、猫は執念深いというけれど、虐められたわけでもない飼い猫が一体何をするというんだ。
それが分からないまま、四日が過ぎた。