テイソクがそこを通りかかったのは、偶然と言ってよかった。事務手続きをするため、中央事務へ訪れた際に、たまたま通ったのだ。
中央喫茶室。公にはそう呼ばれていた。石の城ピリカ=スィエナの一階ホール。談話室とも、単に喫茶室とも呼ぶ奴もいる。要は暇な奴らが集まって、下らない話をしている場所だ。少なくともテイソクはそう認識していた。
だから、広いホールの中心部から、聞き覚えのある声が聞こえてきたのも、偶然なのだ。
「はい、俺の勝ち」
いつも用事を済ませると、壁に沿うように設置された階段を上っていってしまうから、中央喫茶室なんて気にもかけたことがなかった。だからだろうか、ホールに知り合いがいることに、酷く驚いている自分がいた。
どうも勝負事をしていたらしかった。ホールの一部が興奮冷めやらぬ様子だ。手近にいる男に何事かと、問う。
「知らないのか、お前さん。アーサーが五連勝したとこだぞ」
「何で?」
テイソクの質問に、それも知らないのか、と男は呆れたように眉を寄せた。
「チェスだ、マジック・チェス」
男の答えに、今度はテイソクが呆れたような視線を投げかけてやる。
「暇な奴らだな」
「な……!」
男の声が詰まったかと思うと、不意に背中を突き飛ばされた。その因果関係を考える間もなく、テイソクは人だかりの最前列に立たされていた。周囲からは、感心したような、嘲笑するような、あるいは憐憫のような声が飛び交う。
いったい何が起きたのか。それを理解する前に、目の前、もっと正確に言えば斜め前の椅子に腰かけた男と目が合った。年は三つか四つは上。褐色の肌に、目も髪も茶色だ。男――低地の(ローランド)アーサーはゆったりとした服を着て、それでも油断なくテイソクを観察していた。痛いくらいの視線が、嫌というほどこちらに刺さってくる。
視線は、どうしてお前がここにいるのか、と問うてくる。テイソクはその視線から目をそらして、アーサーの目の前にあるボードに目を落とした。
ボードは四角く、マスが白黒二色に分かれている。それを見て、ようやく自分の置かれた立場を自覚した。
――つまりは、このアーサーとの挑戦者に仕立て上げられたという訳だ。
「しかし困ったな」挑戦者の椅子に腰かけながら、テイソクは言った。
「俺、一度もマジック・チェスをしたことがないんだが」
その言葉に、周囲は騒めき、アーサーは茶色い目を瞬かせた。当然だ、と心の中で独り言(ご)ちて、言い訳するように言った。
「言っておくが、俺は挑戦者になりたくてなった訳じゃないからな。誰かに推薦されちまったんだ」
「ああ、なるほど」テイソクの言葉に、アーサーは得心したように目を細めた。
「要らんことを言った訳だな」
なんだこいつは。心の中を読まれたようで、気味が悪い。アーサーと自分とは、お互いに「そんな名前の同級生がいる」という程度の知り合いだ。だから相手が何を考えているかなんてわかりっこないのだ。
その表情を見て取ったのか、簡単なことだ、とアーサーは肩を竦めた。
「ここにいる奴らは確かに暇な奴らだ。だが、それをお前に指摘されて受け受け流せるほど、プライドの低い奴らでもないんだよ」
なあ、学年主席のヤン・テイソク。と、芝居がかった調子で言う。アーサーの説明に、ただ、ふうん、と納得の意を示しながら、だったら馬鹿にされないよう努めろよ。学年末席、留年生の低地のアーサー。そう内心で毒づいた。末席のくせに、大人ぶった態度が癇に障るのだ。
アーサーの言葉に反応して、最高学年主席様はどんな戦い方を見せてくれるんだろうなあ、そんな、嘲笑とも期待とも取れる声が方々から上がる。これはもう逃げられない。テイソクは諦めて、アーサーと向かい合う席に座った。
「自己紹介はいらないな」
「そうだな」
お互い、名前だけは知っている。主席はどうの、末席はどうのと、たびたび比べられることがあるからだ。アーサーの差し出した手を黙って握り返す。大きな骨ばった手だった。飛び級してきた自分の手が、すっぽりと覆われてしまう。おまけに握力も強い。それらがなんだか無性に悔しかった。
考えるのをやめて、二人の間におかれたボードに視線を落とし、それを観察する。マス目が白黒に分かれているのはチェスと同じ。だが、あえて異なる点を挙げるとすれば、駒がガラス製であることと、駒の種類が異なることだろうか。
「あー、ルールが分からないんだっけ」
思い出したようなアーサーの言葉に頷いて、駒をじっと眺めた。クイーンとキングがいるのはチェスと同じ。二列あるうち、前列に並んでいるのは、ポーンだろうか。
突然視界いっぱいに、本が突き出された。一拍置いて、それがルールブックだと気付く。更に一拍置いて、アーサーがルールブックを突き出していることに気がついた。
「これ、読みながらでもいいぞ」
アーサーのとんでもない発言に、背後の観客たちがざわついた。それに精神が逆なでされている気がする。お前は分からないだろうから、というアーサーの気遣いが、何より腹が立つ。
まるで、お前はできないんだもんな、と言われているみたいで。
「はあ?」
苛立って、思ったよりも低い声が出た。舐めているのか。ひったくるようにしてルールブックを手に取った。その時のアーサーのうっすらとした笑みに、神経がいきり立って仕方ない。そのせいで苛々して、ルールブックの内容が頭の中に入ってこない。
「これはマジック・チェスだ。つまりチェスの変形。だから基本的な部分はチェスと一緒」
言って、アーサーはポーンらしき駒に触れた。
「前列に並ぶのは歩兵(ポーン)、彼らは先陣を切る」
「それは分かる」
テイソクの返事に、アーサーはよし、と頷いた。その上から物を言うような態度が、無性に癇に障る。
「三分――いや、二分待て。駒の動きを頭に入れるから」
テイソクの言葉に、観客も、そしてアーサーも驚きの声を上げた。
「二分でいいのか」
「ああ」
フィールドは八マス×八マスのモノトーン。つまり前列に居並ぶポーンの数は八。その後ろに、弓兵、竜、守護者、女王、王が並ぶ。それぞれの特性があるが、そこまでを頭に叩き込めば十分だろう。テイソクは、その特性を忘れないよう頭の中に刻み込んだ。
「二分経った。それじゃあ、始めようか」
アーサーの声に、テイソクはルールブックを閉じた。本当に大丈夫なのか? と心配そうな視線を投げかけてくるが、余計なお世話だ。
「順番は」
「公正に、サイコロで」
「いいのか?」
訝しげにアーサーは言う。それには応えず、奇数だ、とだけ言った。アーサーは無言で盤上に置かれていたサイコロを、真上から落とす。サイコロは転がって、五の目を示した。
「五――お前が先攻だ」
「そうか」
賽は投げられた。――ゲームスタートだ。
テイソクは端のポーンの駒を動かした。
アーサーも応えるように真ん中のポーンを動かしてくる。問題はここからだ。
ポーンの後ろの弓兵(アーチャー)を前に出した。アーチャーは二マス先に攻撃ができる、特異な駒だ。だが、その作戦が裏目に出たかもしれない。
「そー来るかあ」
感心したように言って、アーサーは頬を釣り上げた。そうして、アーチャーと向かい合う位置にいる、左から二マス目のポーンを動かした。
アーチャーを横へ一つずらす。二マス先がアーチャーの射程だから、近づく前に破壊してやる。
――そうして、その時はきた。
ポーンを破壊する。だが、その奥から出てきたものに戦慄する。
「竜(ドラゴン)……!」
凶悪な駒だ。真っ直ぐしか進めない代わりに前方六マスを破壊する駒。まだ射程ではないが、いったん射程に入れば、飛び出しているアーチャーもポーンもただでは済まない。
――いったいどうすればいい?
盤上を探る。はっとして、飛び出ていないポーンを動かした。最悪、キングが無事ならそれでいいのだ。
「なるほど。確かにそれが、現状の最善策かもね」
アーサーの、黒のドラゴンが一気に距離を詰めてくる。そうして、アーチャーに向かって炎を吹き付けた。距離を取っていたのが幸いして、ポーンは無事だ。
「運が良いね」
「ありがとう」
視線は上げず、盤上に落としたまま素っ気なく応えた。さっき動かしたポーンを前進させる。準備は整った。
これで最初のポーンは消えるだろう。そんなテイソクの確信とは裏腹に、アーサーはドラゴンを動かさず、反対側――右側のポーンを動かした。
一体何を考えているのだろうか。その引っ掛かりに首を傾げながらも、出口が開いて、ようやく動けるようになった守護者(ガーディアン)を、ドラゴンの斜め前に持ってくる。
これで斜め前にいるドラゴンを、ポーンとガーディアンで待ち伏せする体勢ができた。
ガーディアンの攻撃力は低い。その代わり、相手の攻撃に一回耐えることが出来る。場所が場所だけに、ポーンを救うことは叶わないが、これでドラゴンの足止めができる。
不意にドラゴンの駒に目をやると、その中身に、黒く光る液体が溜まっているように見えた。気のせいだろうか。
黒のポーンが前進する音に、思考が途切れる。黒の右辺。だがその後ろにはガーディアンが控えるのみだ。ガーディアンに攻めてこられても、怖いことはない。
とにかくこのドラゴンを退治せねばならない。ガーディアンでは攻撃力が足らない。かといって、ポーンの攻撃範囲は前方一マスだけだ。そう思いかけて、胸中で否、と唱えた。
――確か斜めに攻撃し、かつ敵の駒を取る方法があったはずだ。
ルールブックの内容を頭の中に思い描きながら、ガーディアンとポーンでドラゴンを攻撃する。そうして、ポーンを二マス下がらせた。
確かこうだったはずだ。
ポーンをニマス動かし終わったところで、ぴゅう、という口笛が聞こえた。
「よくわかったね。ポーンが盗人(シーフ)にもなるってこと」
盗られちった、そういうアーサーの顔に焦燥はない。見ているだけでこちらが追い詰められそうなその表情に、ただ覚えていただけだ、と答える。
「へえ?」
「かなり初心者向けのルールブックだったからな。ストーレン(盗人化)のことも書いてあった」
そうだったかな。アーサーは視線を高い天井へ遣って、思い出すように考え込んだ。どうも素で忘れていたらしい。
だが、視線を落として困った困った、という姿はどうにも素に見えなかった。
かくして試合は再開される。黒の、アーサーの番だ。
「だが宝の持ち腐れだったなあ」
アーサーの一言に、テイソクは唇を軽く噛んだ。そうだ。ドラゴンやガーディアンの駒は自分の陣地に二つ以上置けない。確かにこれでは宝の持ち腐れだ。テイソクは手に入れたドラゴンの駒を、強く握りしめた。
そんなテイソクの口惜しさを知ってか知らずか、悠々とした態度でアーサーは駒を動かした。
――クイーンの、駒を。
クイーンの向かう先は、ガーディアンが抜けて守りががら空きになった右辺。その動きに、はっとする。このためにわざわざドラゴンを犠牲にしたのだ。テイソクは咄嗟に右辺のドラゴンを前進させようとした。ドラゴンは真っ直ぐにしか動けないが、それをカバーして余りある攻撃範囲の広さがある。
ドラゴンを動かすために、その前にいる邪魔なポーンを動かす。早くクイーンを始末してしまいたいのに。苛立って仕方ない。
そんなテイソクの様子を嘲笑うかのように、クイーンが迫ってくる。クイーンの駒の中は、始まったときにはなかったはずの、黒い液体で満ちていた。
そうして、白のポーンがクイーンに破壊された。
だが、これで邪魔者が消えたわけだ。ドラゴンが思う存分に攻撃できる。ドラゴンがクイーンに向かって火焔を吐いた。
ところが、それはクイーンの駒に届かず、白の、テイソクのドラゴンへと跳ね返った。
「何!?」
訳が分からず、立ち上がる。何が起こったのか、理解ができなかった。ドラゴンは間違いなくクイーンに攻撃した。だが、攻撃したはずのドラゴンの方が破壊されている。立ち上がってじっと目を凝らしても、事実は覆らない。
「ざーんねん」
アーサーはポーンを一つ手に取って、テイソクの目の前にかざして見せた。駒の中に、やはり黒い液体が溜まっている。
「これ、なんだかわかるかい」
いいや、と首を振ることしかできない。
「魔力だよ」
そう告げるアーサーはどこか得意げだった。へなへなと椅子に座りながら、アーサーの説明に耳を傾けた。
「これはマジック・チェスなんだ。だからそこに魔力が関わるのは当然の道理だろう?」
「ああ」
「で、どんな風に関わるかっていうのが」
「駒の中の、魔力」頭が空っぽになってはいたが、それでもアーサーのいうことはどうにか理解できた。
「駒に、魔力を溜めていたんだな」
そしてその方法は、おそらくターン経過。
「そうそう。魔力を最大まで溜めれば、駒の特殊能力を使える。例えば」そこでアーサーはポーンを元の位置に置いて、先程ドラゴンの攻撃を防いだクイーンに触れた。
「このクイーンは、攻撃を反射する――カウンター能力」
そのルールブックにも書いてあったろ。テイソクが立ち上がったせいで、床に落ちたルールブックに視線をやりながら、アーサーはそう締めくくった。
「どうする? 盗ったドラゴンでリベンジするか?」
ゲームを続けるか。その問いかけに、テイソクは首を横に振った。アーサーの方が一枚も二枚も上手(うわて)だ。盗った黒のドラゴンを出したところで、それを相殺する術(すべ)を出してくるだろう。対して自分は、黒のドラゴンを出すことしか術がない。
――負けだ。
テイソクの降参に、アーサーはただそうか、とだけ言った。不意に、視界に片手が入ってくる。のろのろと顔をあげると、アーサーがこちらへ片手を差し出していた。
「いい勝負だった」
言って、アーサーはにっと笑った。邪気のない笑みに、なんだか馬鹿にされているような気分になる。死ぬほど口惜しかったけれども、握手を断るのは無礼だろうと、目を合わせないように握手を受けた。
<了>