2.升買うて分別かはる月見かな
古い記憶というのは、変なことを断片的に覚えています。子供のころ見ていた芝居のテレビ中継の一場面で、雛祭りの夜に橋の上から貝の放生会をしようとした青年が、巡査の不審尋問に会うというのがありました。通りかかった芸者が、「私も貝を放しに来た」と、東京(江戸)の風習だと説明して事なきを得る。巡査がそれぞれの名前を問いただしたのに、その芸者は、青年の名前の隣に「同じく妻」と書かせます…。今にして思えば、泉鏡花の「日本橋」という作品を戯曲にした新派の舞台なのですが、その後の筋は何にも覚えてなくて、きっぷのいい江戸ッ子芸者が、薩摩出身の巡査の無粋を嗤った様子を子供心に「格好いい」と見ていた気がします。
でも、「雛祭り」に貝を放すのか、その時は、「あー、そんなもんかな」と思いながらも、なんとなく「なんでやろう?」と胸にひっかかっていました。(思えば、変な子供ですね…)

最近読んだ「大阪名所むかし案内 絵とき『摂津名所図会』」(本渡章著 創元社)という本の中に、「住吉の浜」を紹介している章があり、それで、「貝」と「雛祭り」の縁の一端を知ることとなりました。

住吉の浜、住吉大社の前の浜辺ですね。
ここは、昔、白砂青松の名勝地であったことは有名です。で、その浜辺は、旧暦三月三日の雛祭りのころの干潮時は、潮が大きく退いて、付近海は広大な干潟になったのだそうです。驚いたことに、尼崎辺りまで歩いて行けたという。
 
その干潟で、人々は潮干狩りをし、蛤や浅蜊を取って、お雛様にお供えしたそうです。で、蛤の貝殻を、子供たちはおままごとの器に使って遊んだ、とあります。
旧暦の三月三日。つまり、三日月のころで、新月に近いですから、このころは大潮なのでしょう。一面に広がった干潟で、人々は弥生の浜風をほほに、雛の節句を楽しんでいた。
季節の移ろい、月の満ち欠け、潮の干満に人々が呼応して暮らしていた時代のお話でござますね。デジタル時計のカレンダーみながら日を数えるだけの今の世には味わえない風情があったのでございますね。

そんな訳で、雛祭りでもないのに、住吉大社に行ってみたくなりました。

今、南海電車の住吉大社の駅を降りても海岸ははるか遠く、そうした風景をしのぶよすがは、駅から西にある「高燈篭」くらいでしょうか。元は、さらに200m西にあったものを、復元した資料館です。

この高燈篭は、鎌倉時代に建てられた日本最古の灯台と言われ、地元の人たちが明治の末まで守って来ましたが、戦後、台風などで木造部が破損、さらに昭和40年代に高速道路建設のため礎石部も解体されることになったため、名勝を保全しようとこの地に復元されたと説明書きにあります。
  元に戻って、住吉大社の方に歩くと、住吉公園の中に松尾芭蕉の句碑があります。

「升買うて分別かはる月見かな」

(稲の収穫を祝う住吉大社の年中行事)升の市に行って升を買ったら、気が変わって句会に出ずに月見をした…。

住吉さんに御参詣したあと催された句会に出席する予定やったのが、体調不良でドタキャン。その言い訳に作らはった句やそうです。

元禄7年(1694年)9月13日のこと。

十三夜、後の月の月見ですね。
芭蕉は、このひと月ほど後に、大坂・心斎橋の宿屋で客死します。このころから調子悪かったんでしょうかね。
といいながら、住吉大社に御参詣です。

参道の入り口あたりに、「住吉駕籠」の駕籠屋さんがお客さんを呼んでいたのでしょうね。たくさん並んでおります常夜灯には寄進した人や団体の名前が彫ってあります。
「さこは」(右から読んでください)と書いてあるのは、大坂の魚問屋「ざこば」からの寄進。
「は」は、ぐにゃぐにゃしてますが、変体仮名の「は」で、時々お蕎麦屋さんの看板にあるのと同じ文字です。

名所の太鼓橋は、工事中で平成21年12月まで通行止め。石の橋を渡って本殿へ。
途中、桂米團治、子米さんら米朝事務所の4人による「升の市住吉寄席」のポスターが貼ってありましたが、その隣に過激派4人の指名手配のポスターが並べてありました。なんかおかしいので、一枚撮っときました。
 
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浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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