淀屋橋
「淀屋橋」は大阪を代表するビジネス街の入り口です。
地下鉄の出口を上がったらすぐに向こう岸の市役所が見えます。
落語では、「池田の猪買い」「牛ほめ」で池田に行く道筋に登場します。その他、「菊江仏壇」では、淀屋橋から御堂筋をちょっと南に行ったろころにある「淀屋小路」の商家に芸妓を呼び込んで騒動となります。

豪商・淀屋が架けたことからその名があります。
橋 長 53.5m
幅 員 36.5m
橋 種 RCアーチ
完 成 昭和10年
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水晶橋から大江橋を臨む
堂島川に架かる「水晶橋」は、大阪地方裁判所の南側から、大阪市役所の北側へと渡る橋です。なんでも、もとは、水質改善のために設けられた可動堰のゲートとして作られたそうですが、後に橋として整備されました。

ここから西を臨むと「大江橋」が見えます。

「淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡って、お初天神・・・」(池田の猪買い)の大江橋です。
大江橋
橋 長 81.5m
幅 員 36.5m
橋 種 RCアーチ
完 成 昭和10年
水晶橋
橋 長 72.33m
幅 員 9.09m
橋 種 鉄筋コンクリート+アーチ
完 成 昭和57年10月
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 鉾流橋から水晶橋を臨む
「鉾流橋」のたもとで、天神祭の「鉾流神事(川に神鉾を流し、その年の神霊渡御地・お旅所を決定する行事)」が行われます。

北詰めには天満警察署があり、その向かいに天神さんの鳥居が立っています。鳥居は警察署に面しているのですが、なんとなく、警察署の鳥居のようにも見えます。ここから、ちょっと東に行ったろころに「志津可(しづか)」という鰻屋さんがあって、江戸風焼きでおいしいです。
橋 長 98.2m
幅 員 12m
橋 種 鋼桁
完 成 昭和4年(昭和55年拡幅
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 栴檀木橋から観た水上バス
この辺に昔は狸がぎょうさん棲んでいて「千たぬき橋」が訛って「せんだんのきばし」になった・・・という嘘はもうええですか?

江戸時代に中之島の蔵屋敷へ渡るために賭けられた架けられた橋だそうです。この橋から南への通りは「三休橋筋」ですが、「栴檀木橋筋」とも呼んだそうです。レトロな建物が残る町並みです。
橋 長 86.37m
幅 員 15.74m
橋 種 5径間連続鋼床版桁、ラーメン式鉄筋コンクリート
完 成 昭和60年11月
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 難波橋から中央公会堂
浪華の三大橋のひとつ「難波橋」

落語の世界では、夕涼みの名所として知られます。「遊山船」「船弁慶」など、川面に船を浮かべての散財組と、橋の上からにぎわいを眺める庶民の暮らし…。その対比が面白い。それにしても、昔の人は、長屋の貧乏暮らしでも、芝居の一場面、謡曲のさわりくらいはちゃんと知っていて、それを楽しんでいたのですね。

レジャーの多様化で、楽しみも増えたせいもあるのでしょうが、社会全体で「楽しさ」を共有できていたころもまた、素敵だったのではないかと思ってしまいます。

橋の上から、橋が16も見渡せたので「四四十六」の洒落で、四隅にライオンがいてるらしいです。獅子が4頭おるのなら、4×4×4=64で、橋が六十四橋見えなあかんのではないでしょうか・・・ねぇ?
橋 長 187.15m
幅 員 21.80m
橋 種 連続合成桁 鉄筋コンクリートアーチ
完 成 昭和50年

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 天神橋の途中の中洲の噴水
浪華の三大橋のふたつめ、「天神橋」はかつては大川を一気にまたぐ長大な太鼓橋だったようです。

「初天神」の親子は参道の露天で凧を買って、城の馬場へ凧揚げに急ぎます。この天神橋を渡ったのでしょうね。でも、天神さんから、城の馬場って、現在のNHK大阪放送局があるあたりですね。
結構あります。寅ちゃん、ぐずぐず言わずに歩いたのは、やっぱりお父ちゃんと一緒で楽しかったのでしょうね。

現在は、中之島が随分と整備されて水辺の遊歩道を難波橋から天神橋まで散策できます。

中洲の上流の端っこに、大きな噴水が30分に一回放水して綺麗です。

綺麗ですけどねぇ、安もんの大砲みたいな無粋な姿はどないぞならんのでしょうかね。

からくり人形にして、傘の先からぴゅーっと、水出すとか、竜神さんの口からどっと、雨を降らせるとか・・・。特大の小便小僧・・・は、やめといた方がいいでしょうね。

・・・はいはい。

橋 長 210.7m
幅 員 22m
橋 種 鋼アーチ
完 成 昭和9年
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 天満橋
「天満橋」も浪華の三大橋のひとつ。
橋の北側に、同心町、与力町の町名が残っているように、江戸時代のお侍たちの通勤路だった。

大坂町奉行所は、東と西に分かれていて、大坂城の北西角に南北に並んで建っていたそうです。

どうして?・・・って言われましても、そうなっておりましたので仕方がありません。東西町奉行所は、月番、つまり隔月で新規の公事、訴訟を引き受けておったのだそうです。

享保9年(1724年)の大火で東西の町奉行所が一緒に焼失してしまったため、その後西町奉行所は、本町橋の東詰に移転します。

危機管理のリスク分散というやつですね。

「佐々木裁き」に登場する名奉行、佐々木信濃守は実在する人物で、幕末の人ですから、この時の西町奉行所は、本町橋の方です。

橋 長 151m
幅 員 9.5×2m
橋 種 鋼桁
完 成 昭和10年
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 今橋と葭屋橋はV字型に架かる
 
東横堀と大川が交差する地点に架かっているのが葭屋橋です。
江戸時代に「蟹島遊郭」という色里があり、そこへ行くのに架けたというのですが…。蟹島なんて出てくる落語は聞いたことがないのです。「築地」とも呼んだらしいけれど…。

この橋の東詰は、今橋と接していて、V字型に架かっています。
文化三年(1806年)の摂州大阪地図を見ると、離れて架かっているようです。

今橋は、大坂の市街が西に向かって拓け始めた江戸時代の初め、元和から寛永にかけての頃に架けられた橋。「今」新たに架けられたから「今橋」やねんて。

今・・・ちゅうても、もう300年以上も昔ですけどね。

この橋を渡って、ずーーーと西に行くと、鴻池さんの邸宅跡があります。「鴻池の犬」のクロが走り回っていたのは、その界隈でしょうね。
現在は「大阪美術倶楽部」になっております。 
葭屋橋
橋 長 49.2m
幅 員 19.5m
橋 種 鋼桁
完 成 昭和41年
今橋
橋 長 68m
幅 員 9m
橋 種 鋼桁
完 成 平成6年
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 高麗橋の東詰には里程元標跡の石碑
高麗橋は、大阪の街道の起点だったそうで、東詰に里程元票跡の碑があります。大坂から何里、と言う時には、ここを起点に 測ったのですね。西詰には、高札場があってお触れなどが掲出されておりました。

高麗橋といえば、「百年目」の番頭が舟遊びの屋形船をつけるのが、このあたりですね。「堅物」で通っている番頭はんですが、屋形船には幇間やら芸者を乗せての散財。東横堀から、大川へ出て、桜の宮へと繰り出します。
橋 長 62.5m
幅 員 11m
橋 種 RCアーチ
完 成 昭和4年
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 平野橋
東横堀を南下すると、平野橋。
大坂城築城のころからある古い橋やそうです。
大塩平八郎の乱の折、反乱軍はこの橋を渡って、大坂城に向かおうとしたそうです。

橋 長 62.5m
幅 員 11m
橋 種 RCアーチ
完 成 大正15年
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 大手橋
 大手橋というのは、大坂城の大手門に続くので、そう名付けたというのですが、大手橋に改称されたのは大正時代になってから。

古い地図には「思案橋」という名前で載っています。橋のたもとにある碑文によると、太閤さんが橋の名前を考えさせたが、なかなか決まらず、思案したから、とか、西詰が行き止まりで、右に行くか、左に行くか思案したから、とか、諸説があるそうです。
橋 長 62.5m
幅 員 11m
橋 種 RCアーチ
完 成 大正15年
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 本町橋には…河太郎が出る?
「 商売根問い」で、あほが、尻子玉を餌に河太郎(がたろ=河童)を獲りに来るのが本町橋です。

東横堀は、この橋の南で東へとくねっと曲がっております。ここを「本町の曲がり」と呼んだそうです。この写真ですと左側なんですが、次の農人橋まで行ってみると、その曲がりがよく分かります。

で、ここで、川の流れが渦を巻いていて、そのそこに河童が潜んでいると恐れられたそうです。

実際、その渦に飛び込んで入水自殺を図る人も多かったらしく、一種魔界の入り口だと思われていたのでしょうか。

確かに、今でも、街中やのに、なんとなく陰気な感じのする場所ではあります。

ちなみに、この「曲がり」にも遊郭があったらしです。
橋 長 46.5m
幅 員 21.6m
橋 種 鋼アーチ
完 成 大正2年(昭和44年架替
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浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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