お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ
小西来山
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お暑うございます。・・・のに、冒頭は、年の暮れで失礼しました。
あんまり暑いので、川べりをぶらぶらと散策をしようと思いつきまして、淀屋橋から、天満橋、それから南へ折れて、東横堀側を本町橋まで、ちょっと橋巡りでございます。
江戸時代は、大阪は縦横に水運の堀がめぐらされておりまして、「浪華の八百八橋」などと称せられましたが、実際は200くらいやったそうです。
ところが、このうち、幕府(公儀)が架けて管理したのは12か所だけで、あとは、大阪の豪商などが自力で架けたのですね。民間活力の活用というやつです。
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大江橋 |
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水晶橋 |
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鉾流橋 |
難波橋 |
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天満橋 |
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■市役所 |
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■中央公会堂 |
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噴水■ |
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淀屋橋 |
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栴檀木橋 |
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天神橋 |
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葭屋橋 |
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今橋 |
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高麗橋 |
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江戸時代は、大阪三郷(天満、北、南)には地子銀(税金)が免除された経済特区でしたので、ま、その代わりといやあ、なんですが、儲けた分は自分の町の整備やなんかに還元していた訳です。
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平野橋 |
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大手橋 |
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淀屋橋で知られる豪商・淀屋も、橋の整備などには力を入れておりますし、世界で初めての米の先物取引の市場を開いて活躍したのですが、それでもお金が贅沢が過ぎて「闕所(けっしょ)」所払いとなってしまいます。
(実際は、淀屋に大金を借りていた大名の借金帳消しのための踏み倒しだったとの説もありますが・・・ま、きっとそうでしょうね)
そんな訳で、上方落語には、あまりお侍が出てこないのは、ほとんど商人の自治都市であったからでして。人口にしてからが、大坂の当時の人口は約40万人。このうちお侍はといいますと、元禄時代で8410人(なんか、えらい細かいところまで分かっているようですが・・・。 |
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本町橋 |
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そんなような、勘定やったらしいです。
冒頭の川柳も、そんな気分を表した作品ですが、どうやら、作者は「けしからん」とお叱りを受けて、蟄居した、てな話も伝わっておるようです。
というようなことで、今回の橋巡り。それぞれの橋の写真をクリックして頂くと、詳細が読めるようになっております。お試しください。
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