心中天網島余聞 ~ たが袖乙吉の鯉塚

文楽の人間国宝・竹本住太夫さんが引退されるとのことで、文楽劇場にチケット買いに行きましたら、
「申し訳ありません、あいにく完売しました」
とのこと。あらら。しもぉた。
で、ございます。
でも、せっかくなので、文楽ゆかりの地をと思いまして、「心中天網島」の紙屋治兵衛と小春の心中をした場所「大長寺」を訪ねることにしました。

よもやま話のついでに、講談師の旭堂南青さんに大長寺に行く話をしますと、
「あ、あそこには、たが袖乙吉ゆかりの鯉塚もありますねん。いっぺん行きたかったんです」
と、おっしゃる。ほなら、旅は道連れでございましょ?
ご一緒しました。

ぶらぶらと、「道行き 名残の橋尽くし」をたどりましたが、ま、そこらへんは、前に行きましたんとえろうかわりません。こちらをご覧ください>>>逍遥記No.34
大長寺は、大阪市都島区中野2丁目にございます。
元は現在の藤田美術館あたりにあったそうで、美術館の正門がその元のお寺の山門やそうです。
で、大長寺までたどり着きましたが、門が閉ざされおりまして、もしやお留守ではと思ったのですが、インターホンを押して南青さんが、「鯉塚、比翼塚にお参りさせてほしい」とお願いすると、「どうぞ、開いていますから、入ってください」とのこと。早速境内に入れてもらいました。
   
 左が小春治兵衛の比翼塚、右がたが袖乙吉の恋塚
 南青さんのいう「たが袖乙吉」というのは江戸時代の侠客です。まだ、無名時代に、大川で体に巴紋の浮かび上がった6尺もあろうかという大きな鯉を生け捕りにしました。

「これは淀川の主鯉に違いない」というので、しばらく見世物にしておりましたが、やがて死んでしまいます。死骸を大長寺に葬って、住職が回向しましたところ、夜中に侍の亡霊が現れました。

私は、大坂の陣で命を失ったものだが、どういう訳か鯉に生まれ変わり成仏できずにいたところ、ご住職のありがたいご回向で成仏できました。

と語って、姿を掻き消したそうです。後には、大きな3枚の鱗が残っておりました。

その後、乙吉が侠客として名を挙げていくというのが、講談に残されております。
とは、南青さんからの受け売り。「聞いたことありませんねん」というと、「最近、ほとんどやる人ないんですけどね。私は時々かけるもんで、ぜひ、来てみたかったんです」と、おっしゃる。

さ、その鱗が、お寺に大事に保存されているというので、応対に出てこられた住職の奥様に、おそるおそる「見せてもらえますか」と尋ねると、「文楽ゆかりの地で訪ねてこられる方はいらっしゃるのですが、講談の方は初めてです、どうぞ、こっちに」と案内していただいたのが玄関わきの展示ケース。
塗りの文箱入った鱗が三枚。ほんに大きい。直径3~4cmはありそうです。
小春治兵衛の遺書文箱の隣には、2枚の紙に書いた「小春治兵衛の遺書」

享保5年10月14日の「お十夜法要」にお参りした紙屋治兵衛と曾根崎新地紀之国屋小春が、大長寺境内じ入水自殺した時に金3両と共に残した書置き。

「今宵ありがたき御おしえにあずかり忝く存奉候、私共浅間敷見の果、みらいのほども おぼつかなく存候、何とぞあなきあとの御とむらい被成下候はば忝存奉候、これのみ御頼み申上度書遺申候 以上 十月十四日 治兵衛 小春
大長寺殿

と書いてある。薄墨で書いた、丁寧な筆跡でした。お寺には「真筆」として伝わるそうです。

ちょうど、外出からお帰りになったという西田恵心住職もお出ましいただき、いろいろと説明をして頂きました。
鱗をゆびさしニッコリわらう南青さん
貴重な寺宝を見せていただけたのも、南青さんの熱心さが通じたからでしょう。
いやぁ、ほんま、本日は「旅は道連れ、情熱大陸」と題す一席、読み終わりとさせていただきます。