老人の昔語り その2

 昨年の今頃は東海自然歩道の愛知、静岡県境にある「阿寺の7滝」付近を歩いていました。それから1年、まさかのコロナ騒ぎで引き籠り生活になっています。他府県への移動の自粛となってはどうすることもできません。年寄りはじっとしていると足が弱って来るので、今は再開に備えて可能な限り近辺を歩くようにしています。目標は一日8キロから10キロ、2時間余りをノルマにしています。そんな訳で、今月も昔語りを継続することになりました。

シンガポールの思い出

 昔、貨物航空に在籍していた頃によく訪れていたのがシンガポールとアンカレッジでした。シンガポール便は徹夜で飛んで早朝に着いて、一泊して翌日の早朝に出て帰って来るのですから、今思い出してもすさまじいスケジュールでした。シンガポールへは最初は成田から直行便で6時間余りでしたが、のちに関空ができたので、関空経由となり、パイロットにとっては真夜中に働く時間が長くなりました。シンガポール・チャンギ国際空港には明け方の6時頃に到着しました。日本からは沖縄、台湾付近から、南のルートだとフィリッピンの上空から今中国が進出して来て問題になっている南沙諸島上空を通り、ボルネオの北を飛んで東から接近します。北のルートだと香港の南からベトナムの東を通るルートでした。深夜に、巨大なボーイング747の操縦席にたった3人だけで無言で座っていると、心底から眠くなってきます。睡魔との闘いを何とか乗り切って6時間経過すると、マレー半島の突端にあるシンガポールからの無線が入るようになります。あたりはまだ真っ暗ですが、24時間空港のチャンギは照明で明るく輝いています。無事着陸して駐機場に入ると仕事はおしまいです。さっさと手荷物を片付けて、迎えのマイクロバスに乗ってターミナルビルへ向かいます。駐機場から少し走ったら入国審査場近くのゲートに到着します。入国審査もあっという間に終わり、外の駐車場で待っているホテルからの迎えのマイクロバスに乗り込みます。空港から15分程走るとホテルへ到着します。しょぼくれた目でチェックインを済ませて、とりあえずはベッドにもぐりこむのですが、この時点で帰り便の出発までは24時間を切っています。

 チキン・ライスかチキンカレー

 やっと明るくなりかけた頃に眠りについて、大体は昼頃に目が覚めます。お腹が空いているので、起きだして昼ご飯を食べに街へ出ていきます。熱帯の昼の強烈な日差しを避けて、地下街やビルの中の冷房が効いているところを選んで歩きます。食べ物は何でも揃っているのですが、無難な味のチキン・ライス(スープで炊いたご飯の上に、たれをかけた蒸し鶏か照り焼きチキンが載っている)か、ジャガイモと骨付き鳥肉が入ったココナツミルク味のカレーあたりに落ち着きます。昔は屋台だった店がビルの中に入ってフードコートになっているのです。ゆっくりと昼食を終えて、少し目が覚めてくると市内を散歩しました。

 植物園と蘭の花

 散歩先としては、市内にあって、歩いて行ける植物園によく行きました。とても立派な公園で、入場は無料で、きれいに整備されているし、あまり人もいないという私にとっては好条件が揃っていたからです。園内をゆったりと散歩していると、蘭が展示されているエリアがあったり、ブーゲンビレアが美しく咲き乱れていたりと興味は尽きません。英国系の国へ行くと公園とゴルフ場はどの国でも見事に維持されています。有難いことです。
 植物園から歩いて町中に出て、行きつけの花屋に行くことがありました。よく買うので親爺とは顔なじみになっていて、私との買い物の手順もすっかり出来上がっていました。蘭の花は一本がシンガポールドルで1ドル(80円ぐらい)と決めているので、「50本入りの箱を3箱」などと注文すると、いろんな種類の花をミックスして箱に入れてホテルまで届けてくれるのです。花屋で150ドルを払い、買い物はあっという間に終わります。翌朝チェックアウトするときにホテルで受け取ることになっているのです。
 蘭の花はバンコックやクアラルンプールでも買うことができるのですが、国によって微妙に種類が違うのです。私の印象では、値段は高いのですが、シンガポールの花が一番種類も豊富で品質が良いようです。バイオの技術を駆使して工場で造られる蘭の分野ではシンガポールが一歩先を行っているようです。

 上海蟹

 9月から1月までのシンガポールの楽しみは、上海蟹を食べることでした。「中国へ行って食べればいいじゃないか」と言われそうですが、これには事情があるのです。当時の貨物航空会社では上海も香港も日本からの距離が近いので日帰りの仕事になっていて、泊まりが無かったのです。そんな訳で、シンガポールで上海蟹を出す中華料理屋の中で地元の人に評判のいい店を探すことになりました。教えてもらった店は、値段も手ごろで生きのいい蟹が食べられたので、季節になるとよく通いました。アパートの一階にある普通の中華料理屋さんなのですが、店内では上海蟹がゴムで縛られて泡を吹いています。一人1匹では物足りないので、いつも3匹ずつ注文していました。暫くすると、赤く茹で上がった蟹が出てきます。テーブルの上に山と積んだ蟹の、甲羅に入った味噌を頬張って、紹興酒をグイっと飲む至福の時間を楽しむのでした。メスは11月まで、オスは1月まで食べることができました。蟹の季節以外には中華料理やタイ料理のスチームボートなどをよく食べていました。

 ゴルフ場

 シンガポールは日本の淡路島位の大きさの国なのですが、意外にゴルフ場が沢山あるのです。プロの試合もするセントーサ島にあるセントーサ・ゴルフクラブは日本でも有名ですが、その他にもチャンギ空港のそばにもあります。私がよく行ったコースはラッフルズ・ゴルフクラブでした。このコースは島の西側の、マレーシアのジョホールバル寄りにありました。今は名前が変わっているようですが、36ホールある立派なゴルフコースでした。シンガポールに来てもさすがに一泊ではゴルフに行く時間的な余裕はありませんが、飛行機の都合で時たま2泊になることもあります。そういう時は2日目の早朝から出かけていきました。早朝の涼しい時間帯に行って午前中に終わらせようという作戦です。午後のスコールを避けるのも理由のひとつです。一旦スコールに会うと土砂降りが1時間以上続くのでビールを飲みながら雨が止むのを待つ羽目になります。途中で止めて帰ってきたこともありました。コース一面水浸しになって、とてもゴルフをする状況ではなくなります。


 通常のパターンでの仕事の流れでは、シンガポール到着から20時間後ぐらいの、午前4時頃に起きだして、ホテルからマイクロバスに乗り、空港に向かいます。事務所でフライトに必要な書類を確認して、飛行機に乗り込むのは午前6時前で、まだ真っ暗です。さすがにこの時間帯は飛行機も飛んでいないので、すんなりと離陸すると一路北に進路をとってバンコックに向かいます。途中シャム湾上空で美しい日の出を見て、約2時間の飛行のあと早朝のバンコック・ドンムァン空港に進入していきます。到着後2時間ほど荷物の積み下ろしをして、再び成田に向けて離陸します。5時間前後のフライトで、夕方成田国際空港に帰着することになります。このパターンだと仕事開始から40時間余りでシンガポール、バンコックを廻って帰って来ることになるわけです。現地では2度の食事とちょっとした散歩が楽しめました。「せっかく行ったのだから、もう少し滞在できないのですか」と思うかもしれませんが、いいのです、また次の週も行くのですから。