老人の昔語り
先月の原稿は、「何も書くことが無くなりました」と無条件降伏してしまいましたが、じっと自宅にいることがこんなに息苦しいとは思ってもみませんでした。それでも朝になり、夕方になりして日は過ぎていきます。さすがに「今月も原稿はお休みします」というわけにはいかないので、ここで気分を変えて年寄りの特技である「昔語り」でもやりましょうか。「年寄りはおなじ話を繰り返す」ということをご理解の上で、気が向いたらお読みください。長い年月の間に見た風景の中で、自分の記憶をたどるときに必ず思い出すという光景があるものです。何十年たってもその瞬間の風景が鮮やかによみがえってくるのです。
タイ・バンコックの記憶
タイのバンコックへ初めて行ったのは今から35年ほど前のことでした。当時は海外旅行が盛んになってきた頃でした。丁度今、中国の人達と世界中どこへ行っても出会うように、そのころの日本人団体客は外国の観光地に大型バスを乗り付けていました。旅行ガイドブックに載っている場所を、ガイドさんに連れられてバスに乗って移動し、写真を写しまくり、時間が来ればレストランでみんなが知っているタイ料理で食事をして、売店でお土産を大量に買い込むという団体旅行のスタイルは、日本人から中国人や韓国人にそっくり受け継がれているようです。2018年にタイのパタヤに行った時、観光バスがひっきりなしにビーチに来て、団体客が写真を撮って帰って行くのを見て、昔のことを思い出しました。
日本から6時間の飛行でバンコックに着きます。当時はまだ定期便ではなかったので毎日飛行機が飛ぶわけではありませんでした。現地に着いて3泊か4泊して帰りの便までバンコック滞在という、乗員にとっては誠にありがたいスケジュールでした。初めてのバンコックとはいえ、先に飛んだクルーからの「申し送り」は聞きこんでいました。例えば「屋台のものは食べるな」「水はちゃんと栓のしてあるミネラル・ウォーターを買って飲むこと」「道端の道祖神の祠で高い花飾りを売りつけられるから気を付けろ」「タクシーは乗る前に料金を交渉してから乗ること」「オート3輪(ツクツク)は危ないので乗ってはいけない」などというものでした。いずれも行って経験しなければわからないような事柄に、多少の尾ひれがついたものでした。
道路は大渋滞が当たり前
交通事情はすさまじいものでした。35年前のバンコックにはまだ高速道路は無く、ドンムァン空港から市内までは15分程で行くはずが常に大渋滞で、ホテルにいつ着くかわからなかったような時代です。交通マナーは存在せず、車はちょっとでも隙間があると割り込んでくるので、それが更に渋滞をひどいものにして行き、その上道端をオート三輪がぶっ飛ばしていくという有様でした。交差点はどこも大渋滞で、交通警官が手信号で交通整理をしていました。私がこれまで経験した道路事情の中で一番驚いたのは、「ベトナム、サイゴンの2輪車の暴走」、2番目に「バンコックの渋滞」が入り、3番目が「マレーシア、クアラルンプールの高速道路での無謀運転」となります。どれも一つ間違えれば命に係わるものでした。最近タイにゴルフに行って感じることは、随分と高速道路網も整備されてきたし、交通マナーもよくなってきたということです。
食べ物について
初めてのバンコックで一番注意したのは水と食事でした。当時は副操縦士という身分だったので、こういったことの手配は仕事の一部の様なものでした。仕事が終わって無事ホテルに着いてから帰国便に乗るまで事故もなく平穏に過ごすのが大切なことなのです。とりあえずは外に出てビールと水を買いに行きます。これは「ホテルの水道水は決して飲んではならない」という申し送りに従ったものでした。当時はまだコンビニという便利なものはありません。スーパーか雑貨屋を探して、「ちゃんと栓がしてあるミネラル・ウォーター」を買いました。夕方になると、夕食を食べに行くわけですが、みんなバンコックの知識はあまりないので、とりあえずロビーに集合して、聞きかじりの情報を各人が披露して相談することになります。「火を通したものが良かろう」ということになり「タイシャブ」あたりに話が落ち着きます。スマホのない時代なので、ここからが面倒なのです。ホテルのコンシェルジェに店を教えてもらい予約します。場所が遠ければホテルからタクシーに乗るのですが、乗る前に料金を交渉して、運転手とこちらの双方が「納得した料金」を決めておかなければ、降りるときに面倒なことになります。当時は「メーター・タクシー」という表示のないタクシーが結構ありました。
バンコックの街角には沢山屋台が出ていて、歩いていると焼き鳥の旨そうなにおいが漂ってきます。勿論「禁止食べ物」の筆頭ですが、屋台のそばに小さなテーブルと椅子が置いてあり、現地の人が美味しそうに食べています。中でも旨そうなのは「焼き魚」です。日本の鮒ぐらいの大きさで、塩焼きにして網の上に並んでいるのですが、よく見ると口から腹にかけて藁のような香草が入っていて、黒く焦げた皮をはがして白身を食べています。これでビールを飲んだらさぞや旨かろうと思うのですが、お腹を壊すのが怖くて、いまだに食べていません。
市内観光
時には観光客となってお寺巡りにいきました。昔の日本人団体客がバンコックに来て必ず行くところは寺院と水上マーケットでした。市内を流れるチャオプラヤ川周辺には大寺院や網の目のようにつながっている運河がありました。今でこそ道路が交通の主流ですが、水運が盛んであったのはお寺の建物を見てもわかります。大きな川に面した寺院の玄関は川から入るようにできています。また、運河に面した住宅の郵便受けは川に向かっています。数年前に「バンコック大洪水」と日本でも大騒ぎになりましたが、チャオプラヤ川は年によって水位が大きく変動します。ある年はかなりの大雨になり、チャオプラヤ川の水位が上昇してきました。川のそばに行ってみると、市場はすでにくるぶしぐらいまで水が来ていましたが、それでも普通に商売していました。こういう場面は、濁流が流れる日本の洪水を見慣れている我々にはなかなかイメージできません。
おなじみだった「水上マーケット」は近頃どうなっているのでしょうか。昔はバンコックの観光コースの中に必ず入っていました。観光船で運河の中を進んでいくと小舟が寄って来て、フルーツやジュース、小物などを売るもので、途中でスネーク・ショーなどを見せてくれました。実際には生活用の水上マーケットはすでに無くなっていて、観光用に維持していたのが本当の話でしたから、今ではなくなっているかもしれません。
ゴルフ事情
35年前のタイのゴルフ事情は、日本とはかなり違ったものでした。日本のゴルフ場ではゴルファー一組(通常3,4人)にキャディーが一人つくのが普通でした。ところがバンコック郊外のゴルフ場に行くと、キャディーが余っているので一人で3人雇ってほしいと頼まれたのです。ゴルファー一人にキャディーはゴルフクラブ持ち、椅子持ち、傘持ちの3人がつくのです。4人のゴルファーだと16人が一組になるのです。こうなるとまるでプロの試合のようでした。ゴルフ場にやたらと人がいるので、ボール探しは楽ですが、何やら落ち着きませんでした。ある時は、ゴルフ場を歩いていると「パン、パン」と豆がはじけるような音が聞こえてきました。聞いてみると「陸軍の射撃場が近くにある」ということで、びっくりしました。35年たった今でも「パン、パン」という音が耳に残っているのですから不思議なものです。