居酒屋 「樽」


 小樽にある居酒屋「樽」の主人、中島さんが亡くなったという第一報を受け取ったのはアラスカ・アンカレッジに滞在していた時でした。学校の後輩が知らせてくれました。あまりにも突然の死に呆然としてしまいました。昨年12月に「樽」開店50周年を小樽で祝ったばかりでした。その時は元気に、いつものようにニコニコ笑って皆の話を聞いてくれていたのに。文学青年が居酒屋の主人になり、50年の間カウンター越しに人を見つめてきた、その味のある話をもっと聞きたかったのに。とはいえ、いつまでもこんなことを言っていたら中島さんに叱られそうなので、自分と「樽」とのかかわりを書いて、惜別の辞としたいと思います。
 昭和44年の春に、故郷の四国を出て北海道、小樽へ行きました。その途中、東京で上野駅まで送りに来てくれたのは大学の先輩でもある兄で、「小樽に行ったら、都通りの電気館という映画館の前の通りにあるバー『おりえんたる』に行け。それから居酒屋『樽』が開店したらしいので、そこにも顔を出せ」と指令を出しました。33時間かけて四国から小樽にたどり着いて、とりあえずは当時小樽で唯一のホテルだった北海ホテルに荷物を置きました。夜になって「おりえんたる」に行ってみると、ママさんに、こちらが何も言わないうちに、「あらまあ、あなたのお兄さんにはお世話になりましたのよ」と言われてしまいました。「私もこれから4年間お世話になります」とあいさつして、花園町にある「樽」へ行きました。この「おりえんたる」から「樽」への飲み屋街を縫っていく道は、4年間通い続ける道になりました。
 雑居ビルの1階に縄のれんがぶら下がっていて、小さな「樽」という看板が出ていました。中に入って、お客で一杯の店内でご主人らしい人に向かって「初めまして」とあいさつすると、いきなり「あんたの兄さんには随分迷惑した」というではありませんか。「これはえらい展開になった。これからの生活が思いやられる。」と覚悟を決めたのでした。小樽の生活が始まって徐々に様子がわかってきました。そのときまだ現役の学生だった中島さんの店には、当然ながら学生が屯していました。当時は70年安保の頃でしたから世の中も騒然としていて、新左翼の七面倒くさい議論とお酒がごちゃ混ぜになって、店も活気がありました。貧乏学生を相手にしてよく店がつぶれなかったものだと思います。たまに社会人が来ると現金で払いますが、学生は金など持っていないので、つけ払いになります。年に3回ある長期休暇が学生たちの稼ぎ時で、アルバイトでまとまった金をもらうと借金払いにきて、この時ばかりは大威張りで飲んでいました。
 私は応援団に入ったので、夜の部はますます多忙になってきました。基本的に「おりえんたる」から「樽」の路線は変わらず、一番安くお酒を飲むことができるルートとしても定着したのです。もしこの二つの店がなかったら学生生活は随分変わったものになっていたと思います。夜あまりに退屈で勉強を始めたかもしれません。
 私がパイロットの世界に入ったのも「樽」が発端でした。ある日の夕方、店のカウンターで日本酒を飲みながら新聞を読んでいると、求人広告で「英国派遣操縦士訓練生募集」という欄がありました。「おお、これはいいね。タダでイギリス旅行ができる」と私が言うと、中島さんは「お前は身体だけは丈夫だから受かるかもしれないよ」と言ってくれました。「じゃあ受けてみよう」と応募すると、訳が分からないうちに合格してしまいました。出発は4年生の夏休み中だったので、「では皆さん、行ってきます。どうせすぐ帰ってくるから」といって旅立ったのでした。その時「樽」のつけを払っていったかどうかは覚えていません。すぐ帰ってくるつもりだったのですから、もしかして払わないで行って、1年後に帰ってきて払ったのかもしれません。
 1年2か月後に日本に帰って来て、早速小樽へ行きました。中島さんは相変わらず「樽」のカウンターの奥に座っていて、突然の訪問にも「いらっしゃい」と、まるで昨日も飲みに来たように迎えてくれました。同級生はすでに多くが卒業していましたが、中には5年目に突入している者もいました。座って、以前と同じ安いお酒を飲んで酔ってくると、「ああ本当に日本に帰って来た」としみじみと感慨が湧いてきました。それからも、時々「樽」で中島さんを前にして静かに酒を飲みたくなって、小樽を訪れていました。12月1日は「樽」の開店記念日です。いつの頃からか、5年おきに盛大に開店記念の宴会が東京と小樽で開かれるようになりました。中島さんご夫妻を取り囲んで、金もないのにお酒を飲ませてもらった元貧乏学生が大勢集まりました。「次は55周年だ」と気勢を上げて別れたのに、まさかこんなに早くお別れが来るとは思ってもみませんでした。心よりご冥福をお祈りいたします。