回想 沖縄国際海洋博


 

 9月で大阪・関西万博は終わりました。会場は後片付けが始まっているようです。私も、何とか最後の方で舞洲の会場に4時間だけ入場して万博の雰囲気を感じてきました。その万博のお祭り騒ぎから55年前の大阪万博が開かれた時代を懐かしく思い出しました。当時は70年安保闘争で日本中騒然としていました。全国で吹き荒れていた学園紛争と「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた万国博覧会が同時代だったと思うと何とも奇妙な感じがします。1964年の東京オリンピックから1970年の大阪万博と国を挙げての列島改造のビッグイベントが続きました。ところが1973年になって大規模土木工事がけん引していた好景気がオイルショックで吹き飛んでしまいました。私は1969年に英国から帰国して、全日空にパイロット訓練生として入社しましたが、このときは既に景気は下降局面になっていました。順調にいけばあと半年でYS11の免許を取って一人前のパイロットになるはずが、会社の事業計画の変更で突然「乗員養成訓練の見直し」となり、結果として訓練中止となってしまったのです。行き場を失った130名余りのパイロット訓練生は、苦肉の策として1974年から空港支店や市内営業支店で働くことになりました。

 私が行ったのは東京支店旅客課団体予約係というところでした。団体予約係は旅行代理店からの団体旅行の航空券を取り扱う部署です。1972年に沖縄が日本に返還されました。沖縄の産業振興の意味もあり1975年に沖縄本島北部の本部(もとぶ)町で沖縄国際海洋博が開かれることが決まっていました。団体予約係に配属されてしばらくして、突然上司からその「海洋博担当」に任命されてしまいました。仕事の内容は「東京発の海洋博団体旅客航空券の調整」だそうで、なんのことだかよく理解できませんでしたが、やっていくうちに大変な仕事だと分かってきました。

 50年前の日本はまだ海外旅行の時代ではありませんでした。旅行といえば個人旅行よりは国内団体旅行が主体で、会社や団体の慰安旅行や修学旅行などが主でした。そこへ沖縄で博覧会をやるということになったのですから、旅行業界は色めき立ちました。とりわけ航空業界は国内最長の沖縄路線で日本航空と全日空で激しいバトルを繰り広げることになったのです。海洋博の期間中は、全日空はロッキード・トライスター、日本航空はダグラスDC10を東京・沖縄路線に投入しました。13便だったのを万博期間中は6便に増便しました。

 旅行業者が作った沖縄海洋博のひな型は23日か34日で、その中身は海洋博、首里城、ひめゆりの塔、市内観光といったものでした。旅行代理店は新聞広告で募集したり、セールスマンがお得意先に売り込んだりして団体旅行を仕立て、航空会社の団体予約係に必要な座席を予約してきます。当時はまだコンピューターはそれほど普及していませんでした。会社の座席管理のコンピューター・システムは朝の6時から夜9時までしか動いてなくて、座席の大元は台帳管理でやるしかありませんでした。海洋博は1975720日から76118日までの半年間でしたが、団体の座席は1年前から予約可能でした。つまり19747月から団体予約係は海洋博に突入していたわけです。座席の調整とはどんなことをするのでしょうか?16便でトライスターの座席数は一機あたり306席です。また希望の時間帯は午前中出発して午後便で帰ってくるのが好まれます。曜日でいえば金土出発が喜ばれるのは当然です。こういった需要のばらつきを均すように予約座席数を調整するのですから、複雑なパズルを解くようなものでした。団体航空券は搭乗日の1週間前までに発券する決まりでした。それ以降に参加人数が減れば「キャンセル料」がかかります。代理店はそれを避けたいので、1週間前にほぼ団体旅客の人数は確定します。海洋博が始まった日は、羽田発の初便が定刻に出発したのを確認してほっとしたのを覚えています。

 本部町の沖縄国際海洋博の跡地は「美ら海水族館」になっています。数年前に行ってきましたが、大水槽にジンベエサメがゆうゆうと泳いでいました。1975年の海洋博は350万人の入場者だったそうで、目標にはとどかなかったようです。それでも本土から観光客が押し寄せた当時の熱気を思い出して、多少なりともそれに関係して仕事をしたことを懐かしく思い出しました。