子供時代の思い出

          

 今読んでいる「大阪の生活史」という本は、150人にインタビューした、言わばそれぞれの人の「自分史」を集めたものです。読み進めていくうちに自分の子供時代が思い出されてきました。愛媛県の片田舎で小学生だった1960年前後の庶民はどんな生活を送っていたのでしょうか。
 まずはどんな所に住んでいたのか、頭の中を掘り返してみましょう。家は伊予三島市下柏町(今は四国中央市)にありました。江戸時代末に建てられたという家は古くてくたびれていたように記憶しています。屋敷は母屋が南向きに建っていて、それに隣接して納屋にしては大きい建物が建っていました。一階の一部が牛小屋になっていて、二階は離れのような和室が2部屋ありました。牛は記憶にないので、物心ついたころにはもう飼っていなかったのでしょう。納屋の前、母屋と直角になる場所に二階建ての蔵がありました。これは後に兄と私の勉強部屋になります。蔵の横には風呂場と雪隠の小屋がありました。風呂場は後に母屋内に移りました。当時の農家の作りとしてはかなり大きな方だったのでしょう。納屋の前には井戸があり、私がお手伝いする頃にはモーターで水を汲んでいたので、鶴瓶で水を汲むことはありませんでした。水道が引かれたのはかなり後で、それまでは井戸水を生活全般に使っていました。
 家の作りは次にようになっていました。玄関には物置があり、ここには米、麦、豆類などが保管されていました。さらに玄関の式台の下は坪(四角い穴)になっていて、収穫した芋などを貯蔵するものでした。玄関をあがって奥の間は8畳の座敷と6畳間で、座敷には仏壇と、その上に神棚がありました。台所は流しと竃、板の間に置かれた大きな食事用テーブル(当時は8人家族だったのでかなり大きなものでした)と、水屋と呼ばれる食器棚などがあったと思います。居間には大きな掘りごたつがあったので、冬になると家族は自然とそこに集まるようになっていました。明かりは電球で、まだテレビは無かったのでラジオを聴いていました。電気製品はほとんどなくて、炊飯器でご飯を炊くようになったのはずっと後のことでした。勿論洗濯機も冷蔵庫もありませんでした。
 昭和30年代には自家用車はまだ普及していないので、交通機関は国鉄バスでした。ボンネットバスに女性の車掌さんが乗っていました。三島の町と上分(川之江と徳島への接続便がある)を結ぶ路線のバス停が家の近くにありました。当時はバスが通る県道といえども砂利道で、雨が降ると大きな水たまりができました。大きくなって自転車に乗れるようになると、三島の町など遠方へ行くときはもっぱら自転車で、近場で遊ぶときは歩いていきました。
 国鉄はまだ蒸気機関車の時代でした。乗客はトンネルに入ると煙が車内に入ってくるので、あわてて窓を閉めていました。伊予三島から松山まで準急で3時間以上かかったと思います。なんでそんなことを覚えているかというと、丁度その頃父親が松山に単身赴任していたので、夏休みや冬休みになると汽車に乗って松山へ行っていたからです。田舎の小学生にとっては、チンチン電車が走り、デパートもある大都会松山と田舎の三島との違いにカルチャーショックをうけたものでした。その頃は子供はめったに村から出ることはなかったので、私はちょっと異色の体験をした子供でした。





             


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