私のゴルフ史 その2
        ーゴルフ熱中期ー

 仕事のほうは30歳で航空機関士からYS11の副操縦士になり、当初の予定からは大幅に遅れてしまいましたが、やっとのことでエアーライン・パイロットの仲間入りをしました。YS11パイロットの一か月のスケジュールは、毎月10日の休みがあり、あとは日帰りの便と泊まり便が月に2,3回あったと思います。機種によって飛ぶ路線は決まっているのですが、YS11は伊丹空港から高松、高知、仙台などといったところを飛んでいました。瀬戸大橋が出来る前の高松、高知の路線はお客が多いので便数もたくさんありました。伊丹から高松は飛行時間35分、高知は50分でした。パイロットの仕事は着陸回数と飛行時間で制限があり、当時のルールでは着陸は一日に4回、飛行時間は6時間となっていました。つまり、高松便などは早朝から4回飛んでもまだお昼前で、それで仕事は終わってしまうのです。
 仕事が早く終わった日は、家に帰って一休みして、歩いてゴルフ練習場に行くのが日課でした。このころは、本当にがむしゃらにボールを打ちました。今思うと、「正しい練習をしていれば結果は違っていたのに」ということなのですが、当時はゴルフ雑誌に載っているプロのスウィングをまねして打つ程度で、だれも教えてくれませんでした。ゴルフ道具はドライバー、フェアウェーウッドは木製で、素材はパーシモン(柿)か合板でした。アイアンは2番から9番までとPW、SWで、どれも難しい仕様になっていましたが、練習で打ち方を習得していくしかないというのが当時のゴルフスタイルでした。
 ゴルフコースでのプレーは、毎月開催される読売パブリック・コースの月例会と会社のゴルフ同好会のコンペに参加していました。転機が訪れたのは34歳だったと思います。仕事の面ではYS11からBOEING737の副操縦士になったころでした。会社の先輩に誘われて、遂にゴルフクラブの正会員になったのです。これでやっと「関西アマチュア選手権」出場のスタートラインに立てたわけです。あとはクラブ競技で頑張ってHDCPを6にすれば良い訳です。最初にクラブから貰ったHDCPは14でした。とりあえずはHDCP9を目指して頑張りました。当時は10から9になるのは中々大変で、2年ぐらいかかったと思います。ここからゴルフの回数が飛躍的に増えていきました。クラブの月例会と研修会が毎月あるので、他にゴルフの予定が何もなくても月に4回はゴルフに行くことになります。これに加えて仲間と誘い合って練習ラウンドに行ったり、北海道や九州へ遠征にいったりしていると、いつの間にか毎月8回ぐらいの回数になってしまいました。仕事以外の時間はほとんどゴルフに費やしていたのですから、何度も言うようですが、もう少し上達してもいい筈です。ところが運動神経の悪さと、何より勝負根性の無さが災いして、肝心な時にミスをしてしまいます。それでも、才能のなさを練習でカバーしてHDCPは9から一つずつ減らしていってついに40歳になる前にHDCP6となりました。
 ゴルフを始めて15年近くかけて、やっとのことで「関西アマチュア選手権」の出場資格を獲得したのでした。毎年春に行われるこの試合には関西地区のトップ・アマから、私のようなやっと参加資格のある「冷やかし組」までが参加していました。希望者は所属クラブから関西ゴルフ連盟にエントリーフィー5万円とHDCP証明書を添えて参加申し込みをすることになります。試合日の前に2回の練習ラウンドができます。試合会場は毎年変りますが、私の所属するゴルフクラブの地区には名門ゴルフクラブが多くありました。鳴尾ゴルフクラブ、宝塚カントリークラブ、西宮カントリークラブなど普段は中々プレーできない名門コースが会場になることもありました。試合日と2回の練習ラウンドが格安の料金でプレーできるのですから、5万円は「お得」な金額です。毎年5月の連休明けに行われる「関アマ予選」は私の年間ゴルフスケジュールの大きなイベントになりましたが、残念ながら一度も予選を通過することはありませんでした。そしてゴルフ倶楽部では毎年大きなクラブ競技が会員のために行われます。「クラブ選手権」「理事長杯」「キャプテン杯」「スクラッチ競技」などです。こういった競技に全て参加していると、春から秋にかけてはゴルフでへとへとになりました。クラブ選手権はクラブの年間チャンピオンを決める競技で、4週間にわたって日曜日ごとに試合が続きます。この競技でも私は勝負弱さを露呈することになりました。ある年は、4週目の決勝で、38ホール目のパットを決めていればチャンピオンになれたのに、そこから3パットして延長の37ホール目で負けてしまいました。別の年にも決勝まで行ったものの36ホール目で負けてしまいました。
 一生懸命にゴルフに励むものの、仕事の面ではゴルフの障害になることも結構起こりました。40歳になる前にボーイング747の訓練があり、そのあとでパイロット人生での最大のイベントである機長昇格試験がありました。この時はさすがにゴルフを一年半ほど封印しました。そのあとは貨物会社に転籍をして時差ボケ生活が始まりました。何とか60歳の定年まで仕事とゴルフを両立させるように頑張って、HDCP4までいくことができましたが、客観的に見ればこれぐらいが精一杯といったところでしょう。それでも気持ちは「60過ぎたらゴルフ頑張るぞ」と意欲満々でした。(続く)