煙草の歴史


  タバコの葉   タバコの花
 

 0.神話
  失楽園と天上からの送り物
アメリカ先住民の間で語り継がれている煙草にまつわる伝説を書きます。
伝説やいわれ等多数あります。ユカタン半島では、雷鳴や稲妻は、神が葉巻に火を付ける為 大きな岩をぶつけて火をおこす音と火花と
考えられていました。
また今日でもマヤのランドン族は、天にいる雨と雷の神は、葉巻を好み夜空に流れる流れ星は、その燃えさしだといわれている。
なんとまあロマンチックじゃありませんか。
  1)南米ブラジルカガリ族の神話
    創造主がまだ人と一緒に暮らしていた頃、人間が野豚を味わせてほしいと懇願した。
野豚はまだこの世に存在していなかったので創造主 大いなる祖父は、十歳未満の子供たちだけを村に残し
人々が出かけた隙にこの子供たちを野豚に変えてしまった。
大いなる祖父は、人々を狩りに促し一方で野豚に変えた子供たちを大きな木を伝って天に昇らせた。
これを見た人々は、子豚の後を追い天に上り子豚を殺し始めた。そこで大いなる祖父は、蟻を使い木を切り倒そうと
したがヒキガエル達がこの木を守っていた。今日ヒキガエルの背中が膨れ上がっているのはこの時蟻に刺された痕である。
蟻たちは木を切り倒すことに成功した。
村人たちは地上に戻れなくなってしまいベルトをつないで一本のロープを作った。
そのロープは短すぎて村人たちは次々に落下し骨折してしまった。
こんにちわれわれの手足の指が多くの箇所で折れており体が曲がるのは我々の祖先が落下したときの負った
骨折がもとになっているという事だそうだ。
村へ帰還後 野豚の仔に変えられた子供たちの肉を満喫した。
そして大いなる祖父に天より降りてくるように懇願した。
しかし大いなる祖父はそれをききいれずに代わりに煙草をくれた。
人々はそれを「バッゼ」と呼び時を決めてそれをお供えするのは大いなる祖父が降りてこないで
煙草を与えたことに対するためであるという。
  
すごい伝説だな。どうやって木をよじ登ったんだよと突っ込みいれたくなった。
煙草をお供えする風習、習慣の神話としては、かなりブラックだよね。
まさに失楽園です。煙草は天と地の仲介役と言う事でしょうか。
またこれは煙草をお供えする事で天から完全に見放されていない人間と言う事が保証されたと解釈できますね。
  2)ブラジル南西部のポロロ族の煙草の起源神話
    漁師達は魚を焼いて食べる為 水辺に居を構えていた。一人の漁師がハッドコという魚の腹をさばいた時
中に煙草が入っていた。彼はその魚を隠し仲間には教えず夜の間だけこっそり喫煙した。
しかし仲間達は匂いで嗅ぎ付け、男が煙草を吸っているのを突き止めた。
男は煙草を分け合う事にした。彼らは煙草の煙を吐き出さずに飲み混んでしまった。
すると不思議な霊が血吸いコウモリの姿で現れ、そんな風に喫煙するんじゃないと言った。
「まず偉大なる祖父よ、煙を受け取ってください。そして私に災いが降りかからないようにお守りください。」と
言ってふかすんだ。さもないと、お前たちには罰があたるぞ。なんとなれば、この煙草は私の物だからだ。
しかし彼らは守らなかったので次の朝には彼らはほとんど盲目と同然となり カワウソに変えられてしまった。
現在カワウソがあんなに小さい目しか持っていないのはその為である。

最後にカワウソが出てくるのはよくわからないが、煙草が地と水の仲介役になっていると思います。
ただしカガリ族が煙草をお供えする事で人間を保障された事に対しポロロ族はお供えを拒んだので
人間から堕ちたと解説されています。
  3)聖なる草とメディスンマン ネイティブアメリカン ブラックフッド族
    昔 4人の兄弟がおり、いずれも霊力がある精霊のような男達であった。啓示の中で長兄は、ある声が
このように言ったのを聞いた。「外に聖なる草がある。それを採って、燃やしなさい。」 長兄は、辺りを見回した。
不思議な草を見つけると採って燃やした。その草はとても心地よい香りを発した。
それから、二番目の兄が夢の中でこのようなお告げを聞いた。「この薬草を採りなさい。それを良く切って生皮の袋の中に
入れなさい」。二番目の兄は言われた通りにした。すると皮の袋に入れた乾燥した薬草は素晴らしい香りを放った。
3番目の兄は、ある男が骨を刳り貫いて、そこに不思議な草を入れているという夢を見た。その声は、
「このようなパイプを4つ作りなさい」と言った。そこで3番目の兄は、動物の足の骨から4つのパイプを作った。
次に、4人の兄弟の末弟が啓示を受けた。この声は彼にこう言った。「お前たち4人の男達は、自分のパイプに火を付けて
吸いなさい。煙を吸い込んで、吐くのです。煙を雲まで立ち昇らせなさい」。また、その声は吸うときに一緒に行う祈祷の
仕方や歌の歌い方を末弟に教えた。
そうして同じ母親から生まれた4人のメディスンマンは、一緒にパイプを吸った。
人間が煙草を吸ったのは、これが初めてだった。そして4人は喫煙しながら一緒に歌を歌い、祈りをささげた。
昔は、祈祷師の事をメディスンマンと呼んだ。正確には、呪医である。
この話には続きがある。
この煙草の事を聖なる草 「ナワコシス」と呼んだ兄弟は、村人に教えず自分たちだけで煙草社会を形成しようとした。
怒りが起こり、戦争が起こり、心が落ち着かず、邪悪な行為が横行した。
ナワコシスは、怒りを鎮め、人々を礼拝させ、平和をもたらし、心を穏やかにするための物だったからである。
ところでなんとかナワコシスの栽培法を知りたいと思っていた「孤高の牡牛」と呼ばれる若い男とその妻は、ある時
ビーバーからナワコシスの栽培法を教えられる事になり、聖なる草を部族の人々のもとにもたらすことになった。
以後彼らは聖なる方法で煙草を吸っているという。
古代において煙草とは、天上界と地上の交信のメディアであるという事だよね。
  4)マヤのキチェ族の古代神話「ポポルブフ」
    この説では、マヤ族の煙草を吸うと言う意味のSIKARから出て
スペイン語のCIGARROが英語のCIGARになったと言われる。
この中でに 喫煙に関する面白い話があります。
地獄の王たちに呼び出しをくらったキチェ族の先祖の双子兄弟
フナプとイシュバランケは、一本の葉巻を一晩中火をつけたままにして
それをなんと次の日の朝 元のまま返すと言うとんでもない無理難題を
与えられた。それができなければ死あるのみ。
んあんと理不尽な問題でしょう。
かつて2人の父親はこの問題がとけずに殺されていた。
しかし2人は、機転をきかせて葉巻の先に蛍を付けて
火がついているように見せかけながら夜を明かし、翌朝元のまま葉巻を返しこの試練を切り抜けたといいます。
何とも残酷だが蛍がでてくるなんてロマンチックじゃありませんか。
でも夜の暗い中 ボーと煙草の火が灯るのは、蛍見たいだと
思ったからこんな話が出てきたのかもしれませんね。
現代の、蛍族とは違いますね。
  5)煙草を吸う神
    「神は煙草を吸い 煙で大地を清めた」の神話の神はマヤのエル・フマドール。
煙草を起点とした神は、存在します。先に上げたカガリ族、ポポロ族、ブラックフッド族、キチェ族です。
以前記事にしましたが 日本においても煙草の神さんは存在します。
愛知県あま市には、萱津神社(かやづじんじゃ)があり日本で唯一の漬物の神様がある。
境内には、漬物を納める「香物殿」があり毎年8月21日の「香の物祭」には多くの漬物業者が参列するそうだ。
神様を調べると  古事記では鹿屋野比売神(カヤノヒメ)、日本書紀では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)、
古事記では別名が 野椎神(のづちのかみ)と呼ばれる。この神様 煙草葉の生産地では「煙草の神」としてあがめられているそうです。
このように煙草の神は日本にもいますが 農耕としての神様らしい。
このエルフマドールですが 神様自身がスモーカーで その吐き出される煙によって数々の奇跡を起こす。
昔エジプトには ラー、オリシス、イシス  インドには、ブラフマーと民族と共に神がいました。
メキシコのバレンケ遺跡「十字架の神殿」には、煙草を吸う神としてレリーフに描かれているのが発見されました。
煙草の煙で四方を清める儀式が南米より伝えわり神になったのではないかと言われているが スペインの侵略で大方の物は
失われてしまい詳細はわからずじまいです。
ただこのエルフマドールは、人々の願いをかなえる為 2000年物間煙草を吸い続けています。
この神様こそ人が越えられない偉大なスモーカーではないかと思います。
 1.遭遇
  南米が原産と言われているがネイティブアメリカンの秘薬として歴史にその名を表したのが始まりである。
幻覚剤・食事療法まで使われていたと言う。祭祀・戦いの儀式には必ず登場する。
ニコティアナタバクムは、カリブを含めた南北アメリカにおいて様々な言い伝えとなる。
煙草の煙はどこか霊的に謎めいて伝説を作るのには、十分な物であった。アステカの人々は、タバコから
出る汁を蛇の毒に対する解毒剤とマヤは、雨乞い ブラジルのアラクナ族は食事に混ぜていた。
カリブのインディアンはタバコを薬品として使用していた。北米のウィネバゴ族は、タバコを神々からの
贈り物としアマゾンのジバロ族は、青年期を迎えると、香りのある煙を吸引していた。
ヨーロッパ文化がタバコに初めて出会ったのは、1492年クリストファー・コロンブスがバリアイ湾に
入り、プラヤブランカ沿岸に到着した時である。コロンブスは、上陸した時見たこともない島の美しい
風景 眩しい極彩色の景色を見てこのような言葉を残した。「人間が見る事の出来る最も美しい島」と
日記に残している。この時インディアンのバリアイ族はコロンブスが上陸したのを見て「神の仕業」に
違いないと畏れたそうである。コロンブスは黄金の国ジパングに到着したと思い込み11月2日に
ロドリゴ・デ・ヘレスとルイス・デ・トレスの2名を含む探検隊を派遣した。
1942年派遣後4日後の11月6日に両名が帰還した翌日 「たいまつを片手に、片方の手には彼らが普段
吸っている香りのある煙をだす葉を抱え込んだ原住民が集落に向かっていった。」とコロンブスは
日記に記した。このインディアンとタバコの関係を「タバコと砂糖に関する論争」の作者
フィルディナンド・ホルテスは、「タバコはインディアンにとって無くてはならない物でカポックの木に 
蔓が巻きつくのと同じように 生まれてから死ぬまで、タバコの煙の渦の中で過ごす。彼らにとっては、
神話・宗教・呪術・医学・祭祀・政治・戦争・農業・漁業・憩い等公私にわたる風俗すべてを
形作る物であった」と記している。そうこれこそがインディアンのタバコ文化とヨーロッパ文化の
遭遇であった。コロンブスの日記では、「彼ら2人は、モンゴル帝国のカーンに謁見したわけではなく、黄金の泉を発見
したわけではない。しかし彼らは、黄金より価値のある、そして臣下に対するカーンよりも強い力を秘めた物にであったのである」と
記している。しかしながらコロンブスは、それが黄金に匹敵する価値のある富の源を用意されていたにも関わらず
彼は、タバコの煙が目の前を立ち昇っていくのを見過ごしてしまった。
残念ながら彼にとってタバコには、偉大なカーンのような威厳が欠けていたためコロンブスのタバコの関する関心を冷たい
物へとなってしまった。

 2.南米に広がっていた煙草の世界
   
これは、北米のナバホ族の描いた天空の父と大地の母の図 
大地の母、右の白い方に4つの作物が書きこまれている。
しかし食用ではない煙草が左お腹に書かれている。
このように煙草は、もうコロンブス一向が煙草を発見する以前より
ネイティブの人々の生活に深く関わっていた

この後探検家たちが踏み込んだ時にネイティブの煙草の喫煙方法を整理した
15世紀末の喫煙方法分布図です。
また嗅ぎ煙草においてもすでにアンデス高地で用いられていた。喫煙方法は、
一方が二股に分かれた筒が用いられていた。
つまりヨーロッパ人は、これらの習慣を自国に持ち帰り洗練したにすぎないのだ。
結局 多くの書籍が煙草の起源と書くにあたりどれもコロンブスと書くのは
そこからしか記録がないからであり、はるか以前よりパイプ、シガー、嗅ぎ煙草は、
人間と共にあった。
結局ヨーロッパ人は、侵略の過程で多くの記録を壊してしまい結局煙草の
起源は神話の世界となってしまっている。
 3.先住民の煙草
  1)平和のパイプ
    北米の植民者が先住民から教わったのは煙草だけではなかった。部族が連合して事に当たる智恵として
「連邦」と言う組織を作っていた。この中で傑出してたのは、「イロクオイ連邦」である。
部族は、モホーク・オネイダ・オノンダガ・セネカ・カユーガの5部族であった。部族には部族評議会があり
自部族の問題の処理に当たっていたが
各部族に共通する問題は、「連邦」を動かし解決に当たったのだ。連邦には「偉大な平和の法」と呼ばれる連邦憲法があり
その理念に基き会議を運営し全会一致で取り決めがなされた。この中にはリコールや弾劾制度もあった。
この「イロクオイ連邦」は、合衆国建国に奔走したベンジャミン・フランクリンの十三州を連邦にまとめ上がるお手本ともなった。
この当時先住民達の方が先進的な政治をしていたとは驚きである。
新世界の住人からすればまさに旧世界ではなかろうか。
この「イロクオイ連邦」には連邦生みの親 伝説の指導者デガウィダがおりその背後には「ハイアワサ」と言う天上の支配者の
化身がいてこの化身がデガウィダを憑代にして以下の言葉を語った。
「子供たちよ しっかりと聞け。お前たちが兄弟である事、そして一つの部族の滅亡はすべての部族の滅亡であるという事を
決して忘れるな。お前たちは、一つの火、一つのパイプ、そして一つのこん棒を持つべきものなのだ」
占い等の祭事ではシャーマン達は、この言葉に言った後に 煙草の葉を一つの燃えさしにかざし煙草の煙を車座になった
賢者たちを包み込むようにした。
ハイアワサ伝説と平和のパイプは、ロングフェローの叙事詩にもなり
ここで驚きなのだがドボルザークの新世界第2楽章を作曲するにあたりインスピレーションを与え大いに貢献したそうだ。
伝説とパイプとクラシック音楽なんとも奇妙なトライアングルだと思う。
  2)祈りの煙草、癒しの煙草
    北米のスー一族であるラコタ族は、「聖なるパイプ」を伝えたのは「白いバッファローの乙女」と言う伝説を信じている。
今日でも聖なる乙女から教えられたラコタ族に伝わる7つの重要な儀式が伝わっている。
世界七不思議等この様な物にはなぜか数字の7が登場するのはなぜだろうね。
これら儀式はメディスンマンの指導の基で行われ 必ずパイプが吸われる。
重要な儀式の一つにスエット・ロッジと言う儀式があり面白いのでここではこれを取り上げようと思う。

このスエット・ロッジとは文字通り汗をかく小屋と言う意味で サウナみたいな物である。
これは、魂を浄化する禊の空間である。ロッジの入り口の前にはセージ(西洋ヨモギ)が敷かれ、バッファローの頭蓋が鎮座する。
そのバッファローの頭蓋には、メディスンマンのパイプが立ててある。
準備完了と共に中央の焼き石の周りに参加者全員が車座になりメディスンマンが祈り始める。
車座に座った人々の祈りにメディスンマンの答えに続き最後に全員でパイプを吸って終わる。
このスエットロッジに参加する人々の悩みは様々で家庭内暴力、飲酒問題、夫の浮気など祈りはど立ち直る機会を与えると言う物になる。
メディスンマンは、それらに回答し長年の回答者からも助言をもらう。
次に「ロワンビ」という儀式がある。
これはメディスンマンが暗闇の中でワカン・タンカ(偉大な霊)やスピリットと交信してその助言をを請う儀式の総称である。
病気平癒、家庭名不和の解消、アルコール中毒の克服、よそに出ている息子の無事等依頼人がお願いする事が様々だ。
ロワンビをメディスンマンにお願いすると時は、事情を話しパイプを差し出す。メディスンマンがパイプを吸ったら依頼を引き受けるしるしになる。
依頼人には、その時用意する物を言われるが「タバコタイ」と「タバコ・フラッグ」は必ず用意しなければいけない。
「タバコタイ」とは、一辺3、4センチ四方の黄色い布きれでたばこを包んだ「テルテル坊主」のようなものをいくつも糸で縛ってつないだ物である。
このタバコタイの数は、依頼の内容により数が異なり何百となる場合もある。
「タバコフラッグ」は、タバコタイより大きく一辺50センチ四方の黄色、白、黒、赤、緑、青のこ六色の布でたばこを包んで
「テルテル坊主」のようにしたものだ。これらの色は東西南北、天と地を表す。フラッグの中心には赤いフェルト布で作られた物を置き
これに鷲の羽を付ければ完璧な物になる。
タバコタイやフラッグは儀式の場に飾りワカンタンカを敬うためにの物で「ハンプレヤ」というラコタの男の通過儀礼でもこれが使われる。
この儀礼は英語で「ヴィジュンクエスト」と訳されている。後葬儀、契の儀式、初潮の祝、ボール投げなどがある。
このようにタバコは儀式等と結びつき立派な民族文化となっていた。
  3)北米のスー一族であるラコタ族の太陽の踊り 
    太陽の踊りは、ラコタ族では「ウィウァンヤグ、ワチビ」と呼ばれる。
太陽の踊りとは、聖なる木をぐるぐる回りながら太陽を仰ぎ見ながら踊り続ける儀式である。
聖なる木には儀式の期間中ワカンタンガが降りてきてダンサーたちの祈りを聞き届けてくれるのだ。
木の枝には、大量の黄、白、黒、赤、青、緑のタバコフラッグが結わえられる。一方きの幹には木肌が見えなくなるほどのこれもまた
大量のタバコタイがぐるりと巻かれる。
儀式はじめこの木の周りにメディスンマンとダンサー達が車座になって座り メディスンマンがパイプに火を付け東西南北と天地・中空に
ゆっくり煙を吐く。
次にこのパイプは、ダンサー一人一人に回され各人が祈りをささげる。
翌日の日の出と共にダンサーが木の周りに集まりそれぞれが肩や胸に鹿の骨で作ったピアスを刺す。
うわイテーーーなこの儀式。
このピアスには皮ひもがついておりそのひもは、ダンスの中心となる聖なる木と結んである。
ダンサーたちは、4日間 ピアスをしたまま日の出、日没までほとんど飲まず食わずで踊り続ける。
ダンサー達の意識が朦朧としても周囲の人々がドラムを打ったり手を叩きダンサーを励ましながら一緒に祈りを捧げる。
ダンスが終わるとダンサーは倒れてしまうのでピアスを刺した肩や胸の肉が引きちぎられる。このような痛烈な痛みに耐える事で
ダンサー達にワカンタンガから新たな力を授けられると考えていたようです。
授けられた新たな力は、部族の人達に分け与える為 続いて行われるヒーリングサークルの儀式を行う。
様々な病や悩みを持った人々がやって来て力を持ったダンサー達にその体を触れさせてもらう事で癒されるのである。
そして儀式の最後にダンサー達は、集まったすべての人々 一人一人を祝福するのである。
これは、タバコが根づいた人族行事である。
しかしながら1881年にアメリカ合衆国政府により禁止されてしまう。これは、身体をピアスで刺し自らの肉体を切り裂く行為が
野蛮な風習とになされて為である。又は先住民の結束を恐れたのかもしれない。
それでもこの「太陽の踊り」は秘かに守り続けられていた。1960年〜70年の起きた公民権運動を基に伝統文化を復活させようと
運動が起きた。連邦政府はこれを押さえきれずに公に復活した。
現在ラコタ族だけではなく広く北アメリカ平原の部族の間で行われている。
煙草文化を否定する人はこの様な物でさえ否定してしまうのかな。
4.受難
  ロドリゴ・デ・ヘレスとルイス・デ・トレスの2名は、最初にコロンブスへタバコの存在と原住民の間に
広く普及している事を伝えた最初のスペイン人となったわけだが、コロンブス自信もタバコの報告を
聞く以前にタバコらしき物を目撃している。日記には、10月15日サンタマリア・デ・ラ・コンセプシオンと
バハマのフェルディナンディーナといった島々の間を航行中にインディアン達がカヌーに「粉上の赤土感想した葉」を
積んでいるのを目撃しているのだ。1492年12月5日 コロンブスはハイチへ向かい彼のキューバへの最初の航海の
終着点となった。特異な経験と忘れえぬ記憶を持ってスペインへ帰還した。この時探検隊の一人ロドリゴ・デ・ヘレスは、
タバコに深い興味を持ち帰還したら友人知人の家でタバコをふかしてやろうと決めていた。これが最初の不幸の始まりであった。
故郷のアヤモンテでタバコの悦楽に耽ってやろうとしたが、当時のキリスト教絶対の中において煙を吹かす
ロドリゴを人々がみて悪魔が宿ったと言い宗教裁判にかけられ投獄となってしまった。それでもスペイン人は、乾燥させた
タバコの葉を巻いて 煙を吸う習慣をいち早く取り入れていった。スペイン人こそ最初の愛煙家でもありヨーロッパ人でもあった。
しかしながら大量のタバコを消費するところとなり禁止される憂き目にも会う事になった。
 5.嫌煙君主又は嫌煙王達
  ここでは特に喫煙者に対し徹底的に弾圧した君主を紹介する。
1586年スペイン国王フィリップU世は、「危険で有害な植物である為、政府はタバコを焼却処分とする」と法令として
定めてしまった。「タバコは有害である。」と言う事を当時流行っていた迷信を信じた為 このようになった。 
かわいそうなことにタバコを栽培・売買をしている者は流刑や鞭打ちの刑になってしまった。スペイン本国がこのように
タバコに対し厳罰を与えている頃 一方では、コロンブスが上陸したキューバでは、スペイン人自身により栽培が始まっていた。
1590年ペルシャの国王のアダアスーソフィは即位してまもなくタバコを触った人間は、死刑に処した。
日本でも徳川幕府が1603年に家康によって開かれた。1605年秀忠が将軍となり家康は1607年駿府城へ移り「駿府の大御所」と
呼ばれた1607年 喫煙した者を50日牢に閉じ込めた上家財没収という令をだした。
1622年 トルコのイスラム王朝の君主アムルテは タバコを吸った者の耳や鼻を削ぎ落とした。
1624年 ローマ法王ウルバン7世は ミサにタバコ臭い者が来るのを嫌い破門に処すと教書を公布した。
1645年ロシア皇帝アレクシスは、喫煙者全てをシベリアに追放、強制労働を強いた。中には死刑の者もいた。
実は近年においても嫌煙君主がでてきている。この事は最近刊行されたパイプ大全やエピキュールシガーガイドでも触れていない。
デリケートな問題なのかもしれないが私は一愛煙家としてここできちんと触れておこうと思う。
ブータン王国ジグミ・ジンゲ・ワクチュク王は2004年12月より、ブータン王国を環境保護及び仏教教義的な背景から
世界初禁煙国家とした。タバコの販売を禁止 国外から持ちこむことはできるが、100%の関税を課した法律を作った。
以上がタバコの黒歴史といえる。
  1)イギリス国王 ジェームス一世の煙草排撃論
   
嫌煙のブログ等でよく引き合いに出されるジェームス一世の「煙草排撃論」このような物です。
エリザベス一世亡きあとイギリスの国王はジェームス一世の世になった。
ジェームスは、サーウォーターローリーが嫌いであったが、煙草も嫌いであった。坊主憎けりゃ袈裟までと言う感じである。
ジェームズは、王位についた翌年 1604年に「煙草排撃論」と題したパンフレットを公にして煙草流行の風潮を非難し
その習慣が「憎まれ者と知られる一長老によって 我が国に紹介された」と書き ローリーを誹謗したのだ。
この排撃論は、匿名で刊行されたが序文に記された王家の紋章が入っていたのでジェームズが書いたというのは公然の
秘密であったようだ。
この排撃論は、ローリーを誹謗中傷する為に書かれたのではない。
国王として自国の民が煙草喫煙の習慣に染まっていくのを真剣に憂いて著したのである。
このパンフには、「未開で神を信じない卑しいインディアンの野蛮で、しかも不潔な風習、特に悪臭を放つ習慣」と定義し
「それなのになぜ恥知らずな 我々を卑しめる野獣の如きなインディアン、スペイン人の奴隷、世界のくず、神の聖約から見放されている
異邦人のまねをして品位を落とそうとするのか。なぜ、彼らのまねをして黄金や宝石の代わりにガラス細工や鳥の羽やおもちゃのような
ガラクタを身に着け裸で歩こうとするのか。さらになぜ神を否定し悪魔を崇拝しようとするのか」と厳しく憤る文章が書かれている。
煙草の医学的な効用を完全否定し煙草は罪深い欲望で一種の酔いとしたうえで
「目にあつらえ向きの黄土、鼻にいとわしく、脳髄を損ない、肺には危険を招く悪臭を発する黒い煙は、底なしの穴から立ち上る
毒気を含んだあの恐ろしい地獄の業火の煙によく似ている。」と書いたのだ。
この部分だけよく嫌煙の方が引用される。
このジェームズ一世は、英国教教会の首長でもある。 彼の眼には喫煙は、未開人の汚わらしい風習であるから、
キリスト教徒であるイギリス国民は、この様な忌むべき風習に染まる事を断固阻止すべきものであると読み取れる。
だからジェームズ一世はペンを執ったと言う事だ。前文の「未開で神を信じない・・・・・」を含み煙草排撃論を考えると
キリスト万歳の宗教的な物で決して煙草の健康被害等を考えた物ではないのではと思う。

それと当時煙草の有害性は化学的に解明されていない。
  2)弾圧と反発 
    イギリスでパイプスモーキングが流行し始めると オランダ、フランス等へ広がっていきました。
オランダでの煙草弾圧の話でこんな逸話が残っています。
所はオランダの植民地 アメリカのニューアムステルダムでの話。(現ニューヨーク)
オランダ人は自治意識が強く煙草好きも多くてあちこちで集会を開いて煙草をふかしながら議論をする事が好きだったそうです。
ところが植民地総督はこれが気に召さないので煙草を禁止すれば集会もなくなるだろうと浅はかな考えで禁煙令を出した。
これに怒った煙草好きな市民で手に手に柄の長いクレーパイプと煙草を入れを構えて総督官邸の前に陣をしき黙々と煙草を吹かし始めた。

その煙が総督官邸内まで流れ込んできたからたまらなくなり総督は何事だと飛びだした。
そしてその原因とその状況を見て集まった市民に怒りをぶちまけた。がここで市民は動じずますます煙草を勢いよく吹かし
煙もうもうとさせていった。
総督は、ほうほうの体で邸内に逃げ帰った。その後仲介者が間に立ち総督と市民の間を取り持つ形となり1639年に
パイプの柄を短くする事でこの件は解決した。これは史実で「ニューヨーク史」の中に記している。
   
7.解放
  嫌煙ロシア皇帝アレクシスの次代皇帝ピーター・ザ・グレートは、タバコに対し緩和策を取っていった。彼は愛煙家であり
1697年に喫煙を合法化した。これによりシベリアのタバコ専売権を復活させたのである。面白い事にアレクシスが禁煙令をだし
弾圧していた時 医療用としてタバコの消費が極端に増えたのである。ヨーロッパにおいてこのナス科の植物は、
医学的効能が研究者達により知らしめてあった。16世紀にセビリアのニコラスは、「タバコのとても不思議な効能」という
本を出版、又17世紀にはイエズス会のベルナルベが タバコを調べ「乾燥させても良し、粉末にしても良し、吸引してもよし
その他どのような方法ででもタバコを体内に補給すればどんな病気でも治癒してしまう」と記述した。
現在においてはそのような効能は無いと知られているがこの暗黒時代の当時としては、この新しい植物に神のような
力があって我々を助けてくれるという期待がもの凄くあったのだろうと思う。いや反対にあって欲しいと思ったから
このようなとんちんかんな説がでてきたのであろう。もう一つ医療用としてタバコが使われ歴史に残るエピソードがある。
イタリアのフィレンツェの名門 メディチ家出身で1547年フランス王国の妃となったカトリーヌ・メディチは、偏頭痛持ちであった。
ある日ポルトガルにいるジャン・ニコという使節からタバコを贈られた。このタバコは、カトリーヌの偏頭痛の
治療の為に贈られた物でありタバコを贈った
ジャン・ニコこそが栽培種コティアナタバクムのの名付け親といわれている。
一方スペインのフィリップ2世の次世代国王フィリップ3世は1614年に禁止令を解除した。弾圧は28年間に渡って
続いていたわけだがキューバでのタバコ栽培までは明文化には至らなかった。フィリップ3世は、キューバでのタバコの
栽培を引き継いだ形となったのだが王家の財産を交易で増やす保護貿易的な事から外国人とのタバコ売買は依然として禁止した。
時はすぎ色々な著名人がその時に花を添えるかのようにタバコの効能等を世に送り出していったのである。
8.煙草の広がり
  1)コーヒーハウスと煙草
    エリザベス朝やジェームズ朝において酒場、宿屋や劇場等公衆の集まるところで盛んに吸われたパイプ煙草は、17世紀の半ば頃から
コーヒーハウスが登場してからこの新しい溜まり場でも盛んに吸われるようになった。

13世紀にアラビアで起こったコーヒーを飲むという習慣は、トルコにわたり世界最初にコーヒーハウスがイスタンブールに開店した。
その後 イタリア、フランスに伝播しオックスフォードにイギリス初のコーヒーハウスが開店した。
遅れてケンブリッジやロンドンでもコーヒーハウスが開店。
18世紀初頭には、3000店にもコーヒーハウスは数が増え コーヒの他 紅茶、ココア等が出されていたが
ピューリタニズムの影響で酒類は、販売されていなかった。
店内で煙草も販売されていおり店の中は煙もうもうだったそうだ。これは植民地ヴァージニアより煙草が安く入るようになり
庶民にも手が届く値段まで下がったのが理由。 様々な人が集まるのでビジネスチャンスよろしく新しい商品見本、広告、ビラ、
そして新聞と雑誌は必ず置いてあり 当時のコーヒーハウスは、今と変わらず情報交換、コミュニケーションの場でもあり文芸クラブ等の
各種クラブが誕生する所でもあった。
この中で特筆すべきはパイプ愛好家が集まり世界発の「スモーキングクラブ」が発足した事だろう。
  2)スペインからの流行 葉巻喫煙
    葉巻はアメリカ先住民の内 西インド諸島から南米北岸地帯とブラジルの奥地に住む人々が吸っていた。
スペイン人は、南米へ侵攻した時 これらを植民地とした。この為葉巻喫煙もスペイン人の間にすぐさま広まっていった。
そしてその葉巻喫煙は本国のスペインでも広がった。ヨーロッパでは十九世紀を迎えるまで葉巻喫煙を知らなかったのである。
葉巻喫煙はスペインのイースタンへの探検によりフィリピンにももたらされた。これによりフィリピンでも葉巻喫煙と葉巻の生産が盛んになっていく。
代表的なのはタバカレラだよね。
葉巻喫煙がヨーロッパで広まったきっかけは、悲しいかな戦争です。
この時ナポレオン戦争が勃発。まずナポレオンはスペインへ侵攻 スペイン王朝は、イギリス、フランスとひらひらと味方になったり敵になったり。
イベリア半島での戦争でイギリス、フランス兵は、スペイン兵が吸う葉巻と出会ったのですよ。
これで葉巻喫煙は、ヨーロッパ中に広まっていきました。
  3)グレートブリテンの喫煙室始まり
    イギリスでは、1820年から30年にかけてスペイン人から入ってきた葉巻喫煙が人気を博し過熱気味になっていった。
この葉巻熱は周囲の顰蹙をかう事が多くなってきた。さすがに40年代には、葉巻愛好家は、非喫煙者への配慮を考えるようになり
ロンドンでは葉巻愛好家用の喫煙室が流行するようになった。
パンパカパンーーー喫煙室の登場です。
最高級のクラブではトルコ風の喫煙室を設けて客をもてなした。作法を心得た女主人またはご婦人方は、男性のディナー客が葉巻とコーヒーを
楽しむ為に退席する事を許したそうだ。
この頃はビクトリア女王時代で七つの海を制し日の沈む事のないと謳われた大英帝国時代です。
大いに繁栄していました。ただしビクトリア女王は大の煙草嫌いというのが有名で彼女が臨席する所は禁煙でした。
その為上流社交界も煙草を慎みました。しかし女王は賢明な人だったようで国民に禁煙を強いるほど愚かではなかったのです。
今のどこぞの誰にもきかせたいね。
今ジョンブルから煙草を取り上げたら 角を矯めて牛を殺すののたとえ通り大英帝国の活力がどうなるかわかっていたようです。
この王室の中で頭を押さえらていたのが後のエドワード7世。
女王の死で1901年即位して居並ぶ廷臣たちに発した第1声が[Gentleman,you may smoke!!]
「諸君 煙草を吸ってよろしい」だったとか。おいおいあんたスゲーよと思う王様だよね。
当然私ならこう答える。[Yes my king] [The God seve the king]
「かしこまりました 王様」「王様万歳」
エドワード自身は、ダブルコロナ(20センチ長)の王者の風格のある葉巻を好んだそうです。
エドワード万歳。
  3)トルストイとシガレット
    英語のシガレットは、シガーに縮小辞を付けた物である。よって小型の葉巻となるがシガリロというスペイン語をあて
紙巻煙草はシガレットと訳すのが慣例となっている事はスモーカーならある程度の方も知っていますよね。
シガレットの原型は、中米の各地や南北北部の先住民達がトウモロコシや樹皮、布で煙草をくるみ吸っていた事が旧世界に広がって
この様な吸い方の智恵があった事になる。
これはパペリトと呼ばれていた。ナポレオン戦争でクリミア半島での出来事 ロシア軍を食い止めるイギリス・フランス・トルコ連合軍。
クリミア戦争1853〜56年での事。
この戦争に参加した将兵はパイプの代わりになる物を探していた。
彼のクレーパイプを壊れていたのだ。鉄砲の薬きょうに使用する火薬を巻いていた紙筒に目を付けそれで煙草を巻いて吸ったのだ。
これが紙巻煙草の始まりと言われている。
火薬が染み込んでよく燃える紙とは、形態は違えど燃焼促進剤は始まりから使われていたというのはシガレットらしいといえばらしいね。
この時すでに紙巻煙草はあったのでまあある逸話として語られています。
これには極限状態にある兵士が生きている証である一服がいかに切実であったかと言う事でしょうね。
ロシアの文豪トルストイは、この戦争に参加しておりこの時の経験を生かして書かれたのが「セバストポリ」である。
彼はセバストポリ要塞守備隊の砲兵少尉として配属されていた。
作品の中には手巻きのシガレットやパイプを吹かす兵士の姿が随所に書かれている。
煙草を趣味としてから読むとまた違う面白さを発見できるかもしれない。
9.煙草の近代史 
  1)煙草王デューク 巨大煙草トラストの誕生
    アメリカ南部 ノースカロライナ州ダラムでパイプ煙草を製造していたW・T・ブラックウェル社は、1886年に新製品の
「ブル・ダラム」を売り出し、1870年代、80年代には雄牛をモチーフとした広告キャンペーンを全国的に展開し
煙草業界に新風を巻き起こした。
  煙草 ブルダラムパッケージ

同じダラムに父親と共にパイプ、神煙草を製造していた注1)ジェームズ・ブキャナン・デュークは、
ブラックウェル社に対抗して高速紙巻煙草機に社運をかけた。
  注1)ジェームス・ブキャナン・デューク
 1856年〜1925年 リンカーン一代前の大統領ジェームス・ブキャナンにちなんだ名を持つ。
 煙草で成功した後は他業種へも進出し1912年には南部電力会社を設立(現デューク電力会社)かつて自宅近くにあるトリニティカレッジに
 巨額の私財を投じて名門デューク大学へと改組・成長する礎を築いた。若い頃は噛み煙草を好み 後には葉巻を嗜んだ。
 なぜか自社製品の主力である紙巻煙草をを嫌い、決して吸わなかったそうです。デューク大学の構内に立つ彼の銅像には、
 紙巻煙草ではなく、葉巻を手にしています。なんだかなーーと言う感じで トヨタ自動車の社長が 自社の車を乗らずにベンツやBMWを乗ってる感じですかね


時代背景的に紙巻連邦税制の引き下げ、マッチの普及、黄色種の作付け拡大によるヴァージニア種の流通拡大があった。
デュークは、慎重になっていた他社よりも先行しボンサック社の高速紙巻煙草機をいち早く導入した。
この時かなりボンサック社と有利な条件で賃貸契約を結んだ事も有利な追い風となる。
これで大量消費時代の到来と言う時代の波に革新技術で乗ったのである。

  ボンサック社の紙巻煙草巻上機

新聞・雑誌・広告等の媒体により全国規模で宣伝とサンプル配布、業者へのリベート、各種競技へのスポンサー、
自社ポロチームに主要銘柄をつけてのマーケティングを行い競合であるブラックウェル社を凌ぐ販売戦略を展開した。
デューク社で作る紙巻煙草には、シガレットカードと呼ばれるカードに歌手・有名女優の絵や写真を刷り込んで
おまけとして封入した。
  おまけで封入されていたカード

消費者の関心をそそり、シリーズ化も行う事により販売の拡大に大いにつなげたのである。
次に煙草のパッケージにも手を加えていった。1886年新銘柄「カメオ」は、従来の破れやすい薄紙ではなく、
スライド式のボックスに変更した。
こうしてデューク社は、10年もたたない内にアメリカ最大の紙巻煙草製造会社にのし上がった。
そして更にデューク社がは、イニシアティブを取って紙巻煙草のトラスト(企業合同)を1890年に成立させ
アメリカンタバコ社が設立された。社長の座に収まったのは当然デュークである。
しかしながらこのように制圧した紙巻市場であるが煙草産業全体からみれば小規模な新興市場でしかなく
彼はより大きな野望を抱いた。まだ大きなシュアを占める噛み煙草、パイプ煙草の方へ向かった。
1894年〜99年かけて「プラグ(噛み煙草)戦争」を競合他社へ仕掛け、注2)ロリーランド社、リゲット・アンド・マイヤーズ社、
R・J・レイノルズ社等を傘下に収めた。また1899年〜1900年に「スナッフ戦争」により嗅ぎ煙草産業までも掌中に
収めた。しかし葉巻産業では、小規模製造業者が乱立していたこの分野では製造の独占はならなかった。
一方原料である煙草農家に対しては、農場を直接所有・経営するような「垂直的統合」の方策を取らず
小規模な栽培農家の存続と大規模な製造・販売の展開という二面性を持つコントラストを持ちつつ
近現代の煙草史を貫徹する特徴となった。
このようにして1910年には彼が作り上げた巨大トラストは、全米市場の70%をも支配し文字通りデュークは、
「煙草王デューク」となり王座に君臨した。

  注2)噛み煙草のロリラード社P・ロリラードが1760年に創業した全米で最古の煙草会社。ロリラード自身は、アメリカ独立戦争で命を落とした。
    当初は主に嗅ぎ煙草を製造したが、19世紀には噛み煙草に比重を移した。1880年代 喫煙時に着用する服を基に一族の者が礼服のタキシードを広めたとされる。

  2)ロシアの煙草事情 
    注3)ニコライ一世統治下の1830年代・40年代は、注4)ゴーゴリの作品の「鼻」、「外套」、「死せる魂」なのどに登場する人物が嗅ぎ煙草を嗜む様子が
しばしば描かれていました。このことから嗅ぎ煙草が主流であったようです。また嗅ぎ煙草入れの形状も円形、角型、樺の皮製、肖像付など
バラエティに富む事が描写されていました。
作品の「鼻」の中で主人公が「こんな下等なベレジナタバコはもとより、ラペーの飛びきりだってみるのも嫌だ」と叫ぶ
描写があり南ロシア産の安煙草からフランス産の高級煙草まで階層によって手にする煙草の種類は異なっていたようです。
また病理的にも頭痛、、痔、生気を付けるなど嗅ぎ煙草の薬効をイメージさせる台詞もありました。
一方、役人が葉巻を燻らせてたり、パイプを喫煙する情景もあり煙草の消費が多様化しつつあったようです。
1850年代には紙巻煙草が徐々にですが浸透していきました。
注5)アレクサンドル二世治下の1860年代に発表されたドフトエスキーの「罪と罰」には主人公が並木道で巡査長に「たばこを巻くようなふりで
たっているでしょう」という下りがあり、サンクトペテルブルグでそれまで禁止されていた街頭での喫煙が65年に解禁となった事を
描写しており煙草の普及と皇帝の大改革の一端を垣間見えます。
その後アレクサンドル二世爆殺後の1880年代に書かれその改編されたチェーホフの一人芝居戯曲「たばこの害について」の中では、喫煙者の
登場人物が煙草の害を論じる台詞が散見されニコチンの化学式に言及すると共に「タバコには恐ろしい毒が含まれている事情からみて
どんな事があっても喫煙などいたすべきではない」と結論づけている。
この作品は喜劇であるので額面通りには受け取れないですが当時多くの欧米諸国と同様に反煙草を唱える動きが出始めた事は
興味深いと思います。
 注3)ニコライ一世(1809〜52年)反動的な内政・外交を強行し、クリミヤ戦争を引き起こした。
 注4)ニコライ・ゴーゴリ(1809〜52年)ロシアの作家・劇作家。1833年〜35年にかけて執筆。
 注5)アレクサンドル二世(1818〜81年)ニコライ一世の子。クリミア戦争の敗北下に即位。農奴解放などの大改革を押し進めたが革命勢力を厳しく弾圧し暗殺された。
    
  3)反煙草運動
    ・ヨーロッパでの反煙草運動
注6)バルザックが著した「近代興奮剤考」には、五種の興奮剤として蒸留酒、砂糖、紅茶、コーヒー、煙草を指摘している。
とりわけ煙草は、「数ある興奮剤の中でも群を抜いている」と結論づけられ辛辣な批判が展開されている。
ニコチンの言葉はまだ登場しないが「この毒」と表現され依存性についても注目し「タバコを吸うと最初は酷い目眩に襲われる・・・・・・・
次第に慣れていく」と喝破する。そして喫煙によって「唾液の分泌が停止」し、「粘液の循環」が阻害される。「勢力を枯らしてしまう」点が問題だと
言うのである。論理はガレノス説の素朴な応用の域を出ていないし、コーヒーを愛飲したバルザックが煙草を手放せなかったのかもしれない。
十九世紀前半の反煙草の説としては非常に興味が深い。
十九世紀後半に入るとフローベール「紋切型事典」の煙草の項では「脳と脊髄の病気の原因となる」と記されており1870年代のフランスで
すでに煙草が病因となる観念が民間レベルで共有されてきた。
次第に紙巻煙草が普及し始めるとヨーロッパ諸国で様々な反煙草協会が誕生し禁煙運動を大衆レベルで展開しており、1878年には
かの有名な細菌学者パステュールもこのような団体に入会している。
フローベル説やチェーホフの戯曲は、この時期に高まった反煙草に呼応するのではないかと考えられる。
しかしフランスの主要な反煙草協会は、二十世紀初頭になぜか解散に至っている。イギリスにおいても反煙草教会は、同様に解散したが
成果というか一種の道徳を残した。子供への煙草を販売を禁止し公共の場で青少年の喫煙を禁じた法律が1908年にイギリス議会を通過した。

 注6)オノレ・ド・バルザック(1799年〜1850年)フランスの作家。1839年著の「美味礼讃」の再編に際しして付録として納められた。

・アメリカでの反煙草運動
アメリカにおいても紙巻煙草への批判が次第に強まってきた。発明王エディソンは、1914年自動車王フォードへあてた手紙で
紙巻煙草の有害性、とりわけ青少年への害を指摘し、「紙巻煙草を吸う者は、雇わない」と言っていた。
フォードも社員に禁煙を推奨し、自身の禁煙論を開陳した著書まで出版している。
これら有名人と共に当時禁煙運動の闘士と共に名を馳せたのが、ルーシー・ペイジ・ガストン女史である。
1860年、禁煙、禁酒を遵守する一家に生まれた彼女は、イリノイ州の小さな町で教鞭を執っていた所、生徒達の喫煙に悩まされた。
この経験より児童喫煙を社会問題としてとらえる視点を成長させてtいった。青少年の喫煙については、例えばマークトウエイン「トムソーやの冒険」に
そのような場面が出てくるがガストンは喫煙を様々な悪癖への入り口ととらえ、とりわけ一時大きな問題となっていた飲酒へと導く役割を
問題視した。喫煙と飲酒の関連については、すでに十八世紀末 著名な医師ベンジャミンラッシュが論文で指摘しており、これは繰り返し
主張されてきた。ガストンは、禁酒運動団体に対しての禁煙の重要性を喚起する一方でターゲットを紙巻たばこに絞って1899年に
「反シガレット連盟」をシカゴで旗揚げした。紙巻煙草が労働の効率性を損なうと考えていたシカゴ財団もこの新団体を財政面でバックアップした。
急成長した通販会社シアーズ・ローバック社の社長や鉄鋼王のカーネギーも支援者になった。
  反シガレット連盟の禁煙の誓いカード

更にガストンは、1901年に「全国反シガレット連盟」をも組織しデュークが築いた巨大煙草企業体アメリカンタバコ社との
対決姿勢を露骨にあらわにした。デュークは、この禁煙運動家の女性闘士を大いに恐れたという。
かくして反煙草の波は中西部を中心に全米を席巻し未成年者への煙草販売を禁止する法律が各州で制定された。
そしてその流れで1913年までに11の州で紙巻煙草の販売を非合法化する「禁煙法(反シガレット法)」が施行されたのである。
しかしこの禁煙法は、実効を共なわず州法から連邦法への展開もできずに盛り上がらなかった。
ここで第一次世界大戦へアメリカが参戦。大量の煙草が戦場の兵士へ送られ無償配布されると銃後でも紙巻煙草は大いに普及をみたのであった。
大戦が終わり1920年代に入ると禁煙運動は次第に下火になり禁煙法を撤廃する州が出始めた。
ここで心折れるガストンではなくハーディング大統領に手紙を送って大統領自身に禁煙を迫ったり、自ら大統領予備選に出馬したりした。
しかしその過激な主張が煙たくなって「反シガレット連盟」を追放され、1924年に癌で倒れる。
独身だった彼女の葬儀の最中参列していた子供達が起立して彼女の棺に向かい感謝の言葉と「禁煙の誓い」を復唱したそうです。
そして彼女の死後3年後に最後の禁煙法がカンザス州で廃止された
  4)BAT社の設立と侵攻 
    煙草王デュークは、自社の勢力を拡大すべく北米のカナダ、メキシコ、オーストラリア、アジアへと手を伸ばし始めました。
日本においてはアメリカ流ビジネスモデルを導入して業界をリードしていた村井兄弟商会と提携しアメリカンタバコ社は日本上陸をはたした。
一方中国、インド市場でグレートブリテンの煙草会社と競合したのでデュークは、イギリス本土決戦を選択した。
正に独立戦争の仕返しである。米英「タバコ戦争」の勃発である。
イギリスの煙草会社を買収し侵攻を図るデュークに対し、イギリス側は1901年、主要メーカー13社が連合して「インペリアルタバコ社」を設立。
迎撃態勢を整えた。熾烈な戦いが繰り広げられたが、両社は和解した。それそれが本国の市場を相互不可侵とし、米英以外の世界市場開拓の為、
共同出資して合弁子会社ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社(BAT社)を創設する協定を結んだ。
ここで皆さんご存じのBAT社が出てきましたね。今日世界第2位のタバコ多国籍企業として君臨しています。
BAT社が紙巻煙草市場として狙いを定めたのは 伝統的な煙草文化が根付いていた地もある。
朝鮮半島では、フランス人宣教師シャッルル・ダレは、キセル喫煙が極めて一般化しており、また中国でも紙巻煙草を好んだ愛煙家の魯迅が
短編小説「阿Q正伝」の阿Qや「故郷」の登場人物(いずれも極貧)にキセルを吸わせている。
同時代の風俗を描いた「北京風俗図鑑」にもキセルが登場し高価な水キセル用の煙草に対し、キセル用の煙草は安価に手にはいったのである。
この伝統的な煙草のあり様にBAT社は様々な戦略で紙巻煙草の販売促進をを図る。宣伝隊の編成、展開・蓄音機・映画の活用を行った。
一方でアジアの利権を狙っていた大日本帝国は、1904年の煙草の製造専売制を導入しBAT社の日本上陸を阻止、
更なるロシアとの戦争費用を捻出する為 朝鮮半島や中国のマーケットを巡りBAT社と激しい競争に入っていく。
第2次世界大戦は、すでにこの時から始まっていたのですよ。
日本・中国で紙巻煙草が浸透していく中、対照的にインドでは水煙草、チェルート(両切り葉巻)、ビディ(十分に乾燥していない葉煙草を粉上にして
木の葉で巻いて糸で結んだ安価な煙草)等伝統的な煙草が大きな消費を占めていた為 BAT社の販売努力にもかかわらず、英領インド市場を
掌握するにはいたらなかった。
BAT社は海外での直接投資・現地生産を原則として単純に英米の手先ではなかったがイギリスの植民地政策の一端を経済的、文化的に
狙った活動をしていたのではと考えられる。第2次世界大戦までの このような米英を中心に国際的な紙巻煙草産業の
形成・展開を、経営史家のH・コックスは大きく4っつの段階に分けられると分析した。
第1段階:1880年頃〜1902年は、初期の競争時代とBAT社の創設。
第2段階:1902年〜1918年は、同社の海外進出。
第3段階:1918年〜1929年は、国際競争が再燃、激化し両大戦間期と言われる。
第4段階:1928年〜1945年は、市場競争が共謀協定や価格管理に切り替わったカルテル時期
このように第2次世界大戦までの市場は、4っつの大きな転換期があった。
  5)トラストの解体と再編
    革新主義のセオドア・ルーズベルト大統領は、シャーマン反トラスト法を縦横に駆使して煙草の巨大トラストに果敢に挑んだ。
彼が「トラストバスター」とも言われていたのはご存じだろうか。
トラスト自体を否定したわけではないが反社会的とみなした「悪しきトラスト」のみターゲットを絞りアメリカンタバコをも狙ったのである。
政府は、1907年に同社を法廷に訴え、長い長い法廷闘争のすえ、1911年に連邦最高裁は、トラスト解体を命じたのである。
この時判決文を読むのに1時間半を費やしたと記録されている。アメリカの煙草王国がついに崩された歴史的瞬間である。
アメリカンタバコ社は4つの会社に分割された。アメリカンタバコ社、R・Jレイノルズ社、ロリラード社、リゲットアンドマイヤーズ社である。
「イギリスではナイトに叙されるべき者が、アメリカでは犯罪者扱い」と王座を壊されたデュークは嘆いたそうだ。
ただナイトに叙されるというのはおごり過ぎだろうね。又BAT社の株の売却も命じられたので持ち株比率や取締役会の構成でBAT社は、
イギリス色になったがその後二年間デュークは会長の座に座った。
このトラスト解体で、煙草産業に競争が生まれたのである。かつてプラグ戦争に負けたレイノルズ社のレイノルズは同社にとって未知の領域である
紙巻煙草に進出した。これに当たり本格的なブレンド煙草を開発したのである。
従来の黄色種とオリエントにバーレーを加えた有名な「アメリカンブレンド」がここに誕生したのである。
黄金比というのがあり黄色種七割、バーレー二割、オリエント一割となっている。このアメリカンブレンドで有名なのが
世界中でトップブランドに成長した「キャメル」である。

このキャメルの意匠に使われたラクダは、サーカス団にいたひとこぶラクダの「オールドジョー」という事も既知の有名な話だよね。
販売戦略も当時としては革新的でアメリカンタバコでついていたおまけを廃止し巧みなキャッチコピーを用いた広告に重点をおいた。
「キャメルのためなら一マイルでもあるく」なるコピーが有名でその後「でも君は一マイルでも同じ」と台詞が登場し
終わりに殺し文句が付け加えられた「長い道のりをやっときたねー ベイビー」である。
私は、キャメルと言えばランドローバーで道なき道を行くタイムトライアルの事が思い浮かぶ。多分ランドローバーをラクダに例えて
なぜかジャングルを走破する四駆は美しいね。
1910年〜1940年の間 アメリカの煙草市場は、三つの銘柄により支配と言っても良いほど占有された。
レイノルズ社のキャメル、アメリカンタバコ社のラッキーストライク、リゲットアンドマイヤーズ社のチェスターフィールドである。
1920年アメリカンタバコのラッキーストライクのキャッチコピーは、開放的になりつつあった女性層を狙い「お菓子の代わりにラッキーを」であった。
1910年だいのデーターによれば女性の喫煙率は、アメリカで5%、イギリスで僅かの2%弱であった。各煙草会社はこの隠された煙草市場に
目を向けたのであった。男性的なカウボーイが今日のイメージであるマールボロも1924年に登場した時は、なんと女性をターゲットとした
ぜいたくな煙草であった。病気のがんの関係が取りざたされた1950年に方向転換して男性向けへとコンセプトを変更したんだよ。
このマールボロを製造していたのが今日でも有名はフィリップモリス社でまだわずかなシュアにとどまっていましたが1930年代に発売した
「フィリップモリス」が人気を得て40年以降急成長していきました。BAT社は、ノースカロライナ州のブラウン・アンド・ウィリアムス社を1920年に
買収しアメリカ市場へと上陸した。
これで有名な煙草メーカー6社がすべて揃い熾烈なブランド競争を展開していきます。

原料となる煙草の栽培に関しては、労働集約と小規模経営の二つの項目が変わらなかったが煙草が自由競争になったアメリカでは
冬場が厳しい地域でも小規模農家が煙草栽培にいそしんできた。
「アライグマラスカル」と言うアニメがご存じだろうか。私が小学校位にオンエアされたアニメなんだが この原作者のスターリング・ノースが
少年時代を過ごした町 ウィスコンシン州エジャントンでは、煙草の栽培・製造で賑わっており、世紀転換期から1930年代頃まで
「世界の煙草の首都」と呼ばれた。作品中でも葉煙草の生産、高級な葉巻葉の栽培でも有名になり 町では噛み煙草のツバ飛ばし競争が
行われる煙草祭があったが1990年代で各方面からの圧力で中止されてしまった。残念である。
つまり伝統的な行事であっても日本みたいに保存せず消してしまうのがアメリカのバカさであろう。
ただでさえ歴史が浅いのに。
     
     


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