煙管の部屋

キセルの語源
カンボジア語のクッシュル(パイプ)と言う言葉がありそれがなまってキセルとなったというのが正しいとされています。
日本で煙草文化が広がって行ったのは、16世紀末からです。
実は人気がないキセル
煙草盆と銀延6寸と「煙管・パイプ・手巻き煙草」の本。この書籍だけど最初に煙管の紹介ゾーンがあって歴史もあってかなり力が入っているね。
でもね人気の順にいけば「手巻き・パイプ・煙管」と言う題になっちゃう。ストージハウスの売り上げの中で量販のシガレットと比べると
1割が手巻き 量販のシガレットのを10%も食ってる人気商品となっています。シガー、パイプは細々でもっと細々がキセル。
在籍4年以上のストージハウスでキセルをきちんとくゆらせているのだが皆さんあまりキセルには無関心です。
ストージの年代別の感想
50〜60代 ただでさえ年寄なのに年寄臭い物咥えたらだめじゃん。
40代   あんまり興味ないな。パイプ・シガーで十分
20代〜30代もあんまり興味ない。パイプ・シガーで十分
理由は、多分パイプもシガーもダンディに見える。
キセルは・・・?
私は、会社でも吸っていますが 皆さんからは えらい年寄臭い物を吸ってるじゃん。と言われる事多々。
この地方特有の偏見なのかこれが世間一般の答えなのか結局 リアルでおつきあいしている方達でもキセル人口は増えてません。

細刻み
日本の煙草文化の基礎は、刻み煙草をキセルで喫煙する形態にあります。東南アジアから東アジアにかけて見られますが
日本だけにある特徴があります。
それは、「小粋」刻み煙草の寸法が幅0.1mm、1本の長さ76mmにあり江戸時代後期には、この寸法ができたいたのです。
世界広しといえ日本以外では見られない物です。
伝来当初煙草は、ただ単に包丁で刻んだ物でその後煙草が普及していくと徐々に細刻みへ変化していきました。
葉煙草を細く刻む為には煙草葉の加工にも工夫が必要でした。収穫、乾燥を経た煙草は、自然に縮んで「絞り」と
呼ばれる物になりますがこの状態では刻む事は、困難で手で熨し広げ皺をとる必要がありました。
これが「葉のし」と呼ばれこれを行うには、煙草葉に適度な湿度を加えなければ
なりませんでした。とにかく熟練と手間暇がかかる作業でありました。
次に切る包丁も切れ味が必要とされ鉄砲、和包丁の代表的な産地である堺で早くから煙草包丁の生産が始まりました。
この煙草用包丁は、泉州堺の名産にもなり宝暦8年 1758年には幕府から「堺極」の刻印と専売を許されるほどになりました。
なぜ日本で刻み煙草文化が発達したのかと言うと煙草は刻むほどに味が軽くマイルドになります。
日本酒や醤油文化 つまり魚介や海藻のだしなどで取った食べ物はどちらかと言えば淡泊でありこの淡泊な味に合う煙草として
刻み煙草が洗練されていったのではと思います。つまり癖のある煙草は、日本の食文化に合わないと言う事からと思います。
私も日本酒や刺身等居酒屋で食べる時 煙管で味わう小粋が合うと思いましたよ。
文化十一年1812年に書かれた「塵塚談」にこの4、5年来刻み煙草はさらに細かくなりこすりと言うものを珍重する。
刻む時に葉煙草を押さえる板を「こま」といいそのこまをこすっているだけのように刻む事である。という記述があり
この時期には細刻みの技術は「こすり」と呼ばれる髪の毛ほどの細かさに刻むレベルにあったというのが窺える。
刻み煙草製造の半自動化
刻み煙草が、髪の毛ほどに刻むレベルに達したが、この域に達するには、伝来から2世紀という永い年月が要していた。
文化・文政においては、出版の興隆があり知識の拡散が見られた。特に農村部への生産技術への刺激にもなりました。
現在の小粋のブレンドは、5種、以前は阿波葉が入って6種でした。この阿波葉の生産で知られた
四国 阿波で「かんな刻み」と言うものが発明されました。
十八世紀中ごろの阿波では、池田や辻と言った町を中心に葉煙草の生産と共に細刻みたばこの製造も盛んで
伊予、讃岐から大坂などへ販路を広げていきました。
この「かんな刻み器」の考案は、辻町の大工 内田久米蔵さんと言われています。
この人当時としては科学技術、機巧にも通じ精巧な機巧人形も手掛けたそうです。
この内田さんが当時流行した「お蔭まいり」で伊勢参拝の帰り道 大坂で目にした昆布刻みの器械をヒントにして
その原理を刻み煙草製造に応用した。
原理は、大きを揃えた煙草葉を重ねて束にする。次に〆台と呼ばれる道具で強く圧搾しブロック状にする。
なんかパイプ煙草と同じ方法だね。このブロックをカンナ刻み器へ組み付ける。図の右足がかかっているレバーを
押し下げると栓台とよばれる中にある歯車と滑車の動きで葉煙草のブロックがせり上がる。
一度踏むと0.1mmごとにせり上がりせり上がった煙草をカンナで手前に引き削ると細刻みが出来る仕組みだ。
このかんな刻み器で手刻みの生産量の5倍の六貫(22.5キロ)になりました。
しかし欠点がありました。木のような硬くなった煙草を綺麗に削る為には、 常にかんなに油を指す必要がありました。
その為 上級品の葉煙草製造には適さなかったようです。
副産物として煙草に染み込む油が柔らかく火付が良い為 漁師などに愛用され遠く北海道でも人気がありました。
この煙草刻み器は全国に広がり細刻みの生産の中心となっていきました。
熟練技を機巧化
カンナ刻み器と共に江戸時代後期に考案されたのがゼンマイ刻み器です。
このゼンマイ刻み器の考案者は、2説あり文化九年1812年頃 江戸の芝・田町の
正右衛門と言う工匠(さいくにん)によって作られた説と弘化〜嘉永 1844〜1854年にかけて
江戸の麻生に住む長吉と言う方が考案したという説がある。
ゼンマイは、刃のついた把手を上に持ち上げると、把手に連動する二つから四つの歯車の動きにより
セットした葉煙草の束が約0.15mmづつ包丁の下に押し出される。
この状態で把手を下に下げると葉煙草が0.15mmづつ刻まれる仕組みになっていました。
人間は、把手を上下に動かすだけで自動的に刻む事ができたのである。
実はこの装置「ゼンマイ」と呼ばれているがわれわれが知るゼンマイ動力は使われていない。
この装置だが包丁を垂直ではなく 刺身を切るように斜め切りをする仕組みが使われており 
この刺身切をするように組み込まれたリンク機構と
把手の上下運動を円運動へ そして更に煙草を0.15mmづつ水平方向に動かす歯車の組み合わせで
江戸時代の産業機器には見られない唯一無二の機巧だった。
お茶くみ人形に見られるゼンマイ駆動の人形に見られる精巧な機構との共通点が多いので
ゼンマイと呼ばれたのではとも言われている。
このゼンマイ刻み器は、カンナ刻み器と違い煙草を硬く圧搾する必要もなかったのでく〆台のような大掛かりな器具も不要。
装置もカンナ刻み器よりコンパクトであった。煙草を圧搾する必要もないので刃に注油も不要になりその為 
上質な煙草も刻む事ができた。
ただし製造速度は遅く一日に1〜1.5貫目 3.75〜5.63キロと手刻みと変わらない物であったが 
手刻みが熟練技を要した事に対し
ゼンマイはちょっとしたコツさえわかれば女・子供でも刻み煙草が作れた。これにより1人の熟練工での家族単位生産から
ちょっとした工房規模の刻み煙草製造が可能になったと言える。
このゼンマイ刻み器だが江戸時代の産業用機器とし特筆に値する産業技術史の遺産となり
1873年のウィーン万国博覧会に出展された。
このように刻み煙草を安定して作るのに日本人がどれだけ智恵を絞り情熱を注いだかこの機巧2点でわかる。
NHKの番組 プロジェクトXに取り上げても良い内容だと思うし この日本独自の細刻み文化を
文化遺産としても良いのではと思うが嫌煙運動家より絶対反対を食うからむりだろうね。でも残していきたいですね。
「ヘッドライト (^^♪ テールライト♪・・・・・・・」

キセルの構造

キセルは大きく4つの部品でできています。
火皿とそれをつなぐ雁首 中間にある管を羅宇といいます。そして口に銜える吸い口です。羅宇の材質には多くは竹が使われています。
不正乗車の事をキセルといいますがこのキセルからきています。煙管では、吸い口と火皿がある雁首のみに金属を使用することから、
「入るときと出るときは金を使うが、中間には金を使わない」意味とされる事からきています

キセル用の煙草

刻み煙草”小粋

これが主に煙管用でJTから発売されている刻み煙草といわれる”小粋”です。
細かく裁断されています。綿ぼこりと同じような感じです。
今は、機械による裁断で行われています。このように軟材を0.1mm位に切断するには刃の管理、
刃のクリアランス管理、機械の管理と大変な職人技術を要します。
昔は屋台による秤売りをされていたそうでその場でこれくらい欲しいと注文すると特殊な包丁で裁断して売っていたそうです。
刃物と細やかな気質と職人と日本が誇る物があったからこそこのような煙草ができたのでしょう。
刃物は言わずと知れた世界一切れ味が良い日本刀文化からですね。

この小粋ですが2009年6月JTから日本たばこアイメックスへ販売権利が移りました。
この時 徳島の阿波葉と言われる煙草葉が小粋のブレンドからなくなりました。
この阿波葉については、JTが買い取りを中止と言う事です。残り達磨、出水、水府、松川、指宿葉でブレンドされています。
但し刻みはこの小粋しかありませんからなくなって欲しくない煙草です。動画で刻み煙草の作り方がyou tubuにUPされています。
リンクを張っておきますのでみてください。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=qV_VBnRMBwU
小粋の寸法は、0,1mm幅 長さ76mmとなっています。




旧品
パーケージが違うよね。左のは、2009年の小粋なんですよ。
現行の小粋は、煙草のブレンドが5種。以前は阿波葉が入って6種だったんだよね。
当然味の深みが違うよ。パッケージを見ると違うよね。
右が阿波葉が入っていたころのだよ。そして値段も330円ときたもんだ。
今は360円か・・ 常日頃から煙草ショップに顔をだして常連になっていると品薄でも特別に出してくれました。
だからネット通販じゃできないFace to Faceなんだよ。
無くなるときいて 財に物を言わせて買い込んだのさ。どどーーんとだよ。時々出しては、吸っていますよ。おいしいよ。


現在煙管用に出ている銘柄です。
       
     終売         終売          終売          終売

   



刻み煙草の保管方法

私の場合小粋は写真の様に密封漬物ポットにいれ保存しています。
小粋は1カートン買いしますのでこのように大量になります。
それから加湿した方が美味いと感じます。
冬などの乾燥した季節の場合 小粋はぱさぱさになり煙管に詰めようと丸めてもまとまりません。
ぽきぽきと折れる様に細かくなっていくだけで粉になってしまいます。
写真は漬物ポットで保管している小粋写真右とそのままで乾燥してしまった小粋です写真左
どちらも丸めてみた結果です。違いは歴然ですね。
諸説では、煙草自体の水分率14%くらいが良いとされているようです。
シガーの水分率は、中心で13%くらいといわれていますので湿度は70%で保存が良いのではと思います。
江戸後期の煙草産地(ブランド)
 

 
江戸時代後期になると煙草の耕作は盛んになりました。
小粋煙草のブレンドは、達磨、出水、水府、松川、指宿葉、阿波葉と6種でしたが四国阿波葉は、2009年より除外し5銘柄になりました。
江戸時代の煙草産地マップにおいて九州の出水市・指宿葉、福島の松川が見られる。達磨・栃木県(下の国) 水府は茨城県と言う事ですがこのマップには載っておりません。
以下に記録が残っている江戸時代の煙草ブランドを紹介します。
江戸時代が煙管文化 つまり細刻み文化全盛であった為 この頃煙草には産地でブランドがあり現在のシガーの様なハバノス、ドミニカ、ニカラグア、フィリピン、コネチカット等に
通じるブランド力を持っていたと考えれます。又マップを見るとこれだけの産地があり夫々が煙草の銘柄として流通していたと推測できますね。

国府葉
   
一番のブランド力をもち味よし、香りよしの一番高級な煙草と伝えられている。
当地の煙草生産は日本への煙草伝来後間もない1606年に服部近左衛門が試作したのが始まりとされている。
十八世紀初めころから諸書に登場しはじめ 江戸時代の煙草のブランドとしては最高級品と位置付けられてたようです。
今で言うハバノスと言う所か。
薩摩の煙草と称されていますが 実際は薩摩地方ではなく大隈地方で栽培されたもので国府という名前も大隈地方の一地名から付けられた物だそうです。
弘化三年(1846年)刊の狂歌烟草百首では次の様に紹介しています。

「大隈の名産にて諸葉の最上とす。香り高く風味佳い 国分寺の境内に産する葉勝て美味なり。其故に国分の名あり。産する地聊なる故販売するに足らず。
皆囎唹(そお)群の内より出る。薩摩の産というのは誤也。島国府と云えば薩摩の国の部也。葉形も賤く(いやしく)下品とす。
一体此の国暖成る故中春種蒔夏土用頃暖乾初秋には江戸積出故に粘脂なく火を点ずるにうつりよく消えざるを賞す三十四年囲置古葉になる時は薫りすぐれて美也。
価高し。葉に力ありて細刻するに砕かざる故髪たばこの名あり。長崎は初めて栽し土地なれども至て下品也。日向の葉形に似たり。」

このように国府が芳香の高い火付のよい高級たばこだった事は川柳にも歌われました。
「品川で客のたばこの香の高さ」
「扶香も国府も匂う品の月」
これらは品川の游里に関わった詩です。
この当時品川は、東海道53次の最初の宿場であり江戸と近接していることから往来する旅人も多く繁盛をしていました。
1802年には戸数千六百を超え大名の宿泊施設である本陣・脇本陣のほかに旅籠屋、木賃宿があり、水茶屋、煮売り屋等の飲食店も約六百軒もあったと伝えられています。
品川は旅人の無聊を慰めるという名目で飯盛り女を置くことが許された半公認の游里でもあり、江戸城の北に位置する吉原が北国又は北洲と異名されていたのに対し
品川は、南国か南洲とよも呼ばれていました。公認の吉原に次ぐ歓楽街として有名となっていました。
この游里で遊ぶ客の代表格が三田に上屋敷を持つ薩摩藩士と芝の三緑山僧上寺の破戒僧でありこのように歌われました。
「品川の客ににんべんのあるとなし」
薩摩の侍、寺の僧で漢字ににんべんがあるかないかをもじった川柳です。「・・・客のたばこの香の高さ」と詠まれた客は本場の国府を吸う薩摩藩士と言う事になる。
一方吉原で遊ぶ輩は、見栄を張ってでも国府を吸っていた。輩が国府を吸うのであれば遊女の花魁もこれを用意しておかなければならない。
見た目の豪華さとは裏腹に手元不如意というのが実情であり常に手元に値段の高い国府を用意しているわけではなく
「出して来やなどと国府を買いにやり」
「出して来やといい禿買いにいき」
と読まれているように客が登楼擦るたびに廓内の煙草屋へ禿と呼ばれた高級遊女に仕える10歳前後の見習いを走らせたのでる。
この時客に見栄をはり「わちきの部屋から煙草をだしておいで」と指示し禿はすべてを承知しているので「アイイ」と返事をして出ていくのである。
これだけ国府は、最上級の煙草であったという事がわかる。
価格はどのくらいであったかと言うと実はこのブランドにも銘柄がある。コイーバ、ロミジュリ、パンチ等の銘柄と言う事かな。
一斤の値段は、
花の香:15匁
いせか屋敷:18匁5分
冬牡丹:18匁5分
一匁は、今で言う約2,500円位
花の香が15匁なので37,500円/一斤は600g
国府の花の香は、62.5円/g、
冬牡丹は、75円/g
今でいうとシガー並みの値段ですね。

国府の現在は国分市となり併合されてで霧島市となっている。産業の中に葉煙草生産が残っています。
第1世界大戦のシガレット両切の台頭と共に銘葉の需要は衰退し品種改良の黄色葉の生産へ移行しているようです。
当地に残る国府煙草が銘葉であった事を知る民謡も残されている。民謡 鹿児島のおはら節の歌詞
「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」に歌われる“国分”とは当地のことなので。
以来日本国内有数の産地として続いてきたが、近年は縮小の一途を辿っている
。残念ながら江戸時代で最上級とされた国府葉は、現在手に入らないのである。
つまり絶滅してしまった。
 
舞留・舞

江戸時代国府に次いで有名な煙草名である。
シガーの世界でいえばコイーバが国府でこの舞留はダビドフと言ったところか。摂津・山城・丹波などの地方で生産していた。
香りに富み独特の辛みを有する。上質の物から留葉・舞葉・薄舞と言い いずれも5年から7年の古葉を用いた。
   
「マイ」は立ち枯れの意で 茎についたまま枯れた葉を用いるのでこの名がある。
茎についたまま枯れさせた葉が本当に良い葉なのかわからない。
この舞も遊治朗(ゆうやろう)着飾った道楽者の人気銘柄であった。
「訪ねてくるだろうと駕籠屋舞を呑み」
これは吉原行きの客が利用した四つ手駕籠に置き忘れたたばこ入れの中身を駕籠かきたちが吸っている状況を詠んでいる。
「舞留を常にくゆらす草履取」
またお殿様の微行(ひそかに外出する事)にはいつもお供をするお気に入りの草履取がおり口も固い。口止めならぬご褒美は、舞留煙草。
この舞留は上品で高価な煙草であった。主に近畿地方で消費され江戸にあまり下ってこなかった煙草のようです。
価格は日本での販売価格ダビドフ並みに
玉椿:15匁
塩竈しおかまど:25匁
花筏:15匁5分
薄紅梅:30匁
欄箸:45匁
最後の蘭箸なんか他界ですね。やっぱりダビドフ並みじゃねーすか。
187.5円/gですぜ。
これで舞留が国府と並ぶ銘葉だとわかりますね。
 
舘(たて)

国府、舞留より一ランク下がった刻み煙草。これを現代に置き換えると難があり文句をいわれそうなので止めておく。
ハバノス、ダビドフより格下と言う所だよね。舘には2種類あり上州舘と秩父舘があった。狂歌烟草百首には以下の様に記されている。
まず上州舘は、
「上州高崎の南 山名村広大寺境内の煙草は、香が他と異なる。口の中 味佳しにて奇妙なる名葉なり。
香気佳なる時は果たして辛烈ものなり。この葉は柔和にして薫りあり。然りといえども漸八畝にすぎざる畠産する物なれば販売するに足らず。
近郷の地元民は 忍んでこれ寺内の土を採帰する 煙草の茎の元へ置ときは、匂芳と言う。
都て山名村の産は寺内には劣といえども味他に勝れり。これを高崎の市に販ゆえに高崎多葉粉の名あり。
その他上品の土地といえども、止葉、土葉の類は価賤し。」
   
一方秩父の方では武蔵国秩父郡の地名三十一か所を挙げ「然といえども、年々作方豊凶により、下品の地たりとも上品を産するものもあり。
上品の地いへども、暑中雨降らざる時は、脂流ざる故 至て辛し。
価賤し。総て諸派そのごとし。上の産を秩父舘という。上州舘村の産に葉形似たるを以て名とす。」と記されています。
更に「全く秩父郡は、山又山の地なりよって、日陰多し。初冬に至らざれば曝乾ざる故、葉に湿を含めてあり。然ども柔和にして口中美味なり。
安永の季までは、湿深きによってこの葉を好もの稀なるに、天明3卯年、信州浅間山焼きて上州辺悉砂降、田畑焼、砂多分にして煙草の産地甚下畠となる。
甚后、秩父群内の土人、肥糞を撰み、二年宛に畠を休め、作方、乾方功至て、終に上品を製し、上州舘より遥に勝れり。」
秩父舘は、天明三年(1783)七月の浅間山の噴火により上州舘の育成に問題が生じたので秩父地方にて栽培方法に工夫を凝らして上質の葉煙草を
生産するようになったと記されている。舘煙草は以下のように読まれた
「舞よりも舘をくんなと稲荷町」
江戸時代の芝居木屋は三階構造で三階は主役級、二階は女形、一階には、下っ端の端役者がたむろしていた。
この一階を俗に稲荷町と呼ぶ。
この稲荷と言う言葉は、名代の役者の様に顔見世ごとに座を変わる事なくそれぞれの座に直属しているので「居付き」、「居なりより」か部屋の
近くに必ず稲荷大明神を祭る祠があった事からついた名とも言われる。ここで座とは、中村・市村・守田座の江戸三座をさしますよ。
下っ端の役者が吸う煙草は値段の高い舞より安い舘をと好まれたのと 芝居の殺陣をかけて舘をという事も言われている。
へえトリビアですわ。
 
甲州

現在の山梨県は、葡萄や桃、ワインなどの産地で知られていますが
それは近年に入ってからの事で 江戸時代は、煙草の産地として有名でありました。
<甲州煙草>として江戸にも沢山出荷されていました。
元禄5年(1692)刊の「本朝食鑑」には、甲州の門前、小松、石火箭が記され
   
      富嶽百景 煙草の乾燥の図

1712年頃は、小松・萩原が名産地として「和漢三才図会」に記されていました。享保十七年(1732)村上氏某の筆になる「甲州噺」(こうしゅうはなし)には、
「和田小松村の判付煙草、古府中辺の梅桜たばこ、西河内の薬袋たばこ、又龍王たはこと申は、四十年来作之」という記述がみられ、甲州煙草が銘産化していった時期は、
寛文〜延宝年間(1661〜81)ごろと思われる。年代的に言うと舘より100年古い。狂歌烟草百首では以下のように紹介しています。
「甲斐、巨摩群、山梨子群」
龍王村、八幡、篠原、薬袋、高砂、猪野、荻原、室伏、柚木、藤木、小屋舗 惣名を龍王と呼ぶ。土地砂土にて、初秋には老葉乾いて江府へ積み出す。
香気舘とは異なり余り味なし。吸いに煙多く火点ずるに消えざるを良しとする。黄葉おほきを食ば、口舌を破。頻に(しきりに)唾く(つばき)に至る。
価格 舘より賤し。藤木・小屋舗・三日市辺りは、管を以て茎元を結い、葉厚く、茎太く、味重く、辛み強烈事 並ぶものがない。俗に甲州の鬼殺しと言う。
江戸の人は大体食わず、これを好き者は、田舎者か、或いは老人である。多く食は、ゞ毒もあるべきか。
甲州で栽培された煙草は、「龍王」と言う名で総称され甲州の鬼殺しと呼ばれるほど強烈な辛さを持っていたようです。
川柳で
「姑婆甲州月に二斤呑み」
口うるさい姑だけあって辛い甲州煙草の辛口があうらしいと詠まれたほどである。現代で行くとシガレットのハイライトが当てはまるのかな でもはるかに辛そうだ。
口うるさい姑の愛飲煙草はハイライトともじっても面白いかもね。
その心は、嫁にはすべてにおいて辛口でしょう。
なんてね。
 
狼河原
「おいのかわら」、おいぬかわら」と読まれました。
狂歌煙草百首には、「陸奥国登米群狼河原は、上品な土地なり。江府へ来るは下品の地より切り出し。狼河原と言う。
味は粗にて臭気あり。この匂いを好む者あり。湿・脂なき故に梅雨の頃専これを喫う。」と記されています。
安永十年(1782年)刊の洒落本「新女意題」には、
A「おや どうしよう煙草がない」
B「おれが煙草を飲みなさい」
A「こりゃとんだ黒色の煙草だね」
B「それは”おいのかわらだよ”」
A「なんだー賽の河原だって」
B「違うよ おいのかわらと言う所の煙草だよ」
A「おや いとこの河原とは聞いてあきれる。(従妹の甥(おい)をかけたと思う)そしてどうやらきつそうだね」
B「なには ややこしい事いうね」
Aほんに 人には添いて見ろだ。みかけによらず柔らかな煙草じゃねーか」とある。
  
おいのかわら煙草は、安永末から寛政まで人気があったのではないかと推測されており色が濃くて脂が強そうで匂いも良くないが吸ってみると味は
軽く風味も上々だった煙草らしいです。赤穂浪士に関係する煙草とも言われ浪士の一人である間十次郎光興が、煙草屋に化けて
本所吉良亭に出入りし邸内の様子を探った巷説から取った物を詠んだ物があります。
「一家中狼河原に手を喰われ」
これは吉良の侍が煙草屋に化けた間十次郎より狼河原を買っていたのだが討ち入りの夜に馴染みの煙草屋と思っていたいた者が敵であり、
吉良の家臣をバッタバッタと切り殺した事を「おいぬ(狼)に手を喰われた」と揶揄された句もできました。

米沢・坂下・沼田・松川・水戸

「米沢」
米沢産の煙草は忠臣蔵に関わる。煙草屋に化けた浪士の間十次郎光興の話である。
吉良上野介の長男であり出羽国米沢藩上杉家の当主であった上杉綱憲は、赤穂浪士の襲撃を心配して実父の身辺警護に腕の立つ家臣を吉良亭に送り込んだ。
煙草売りに化けて吉良亭を探っていた浪士間にとってこの米沢藩士は煙たい存在だろうという事をかけた句があった。
「米沢がとかくけむたいたばこ売り」
残念ながら喫味についての記述が残っていない。また羽州、酒田、下品也」とブランドがあったようだがこちらも喫味の記録がない。

坂下(ばんげ)
中山道の寒駅軽井沢の飯盛宿、太夫職の遊女がくゆらせたのが会津の煙草 坂下。江戸・吉原の花魁が国府を愛飲していることに対比させた句がある。
「軽井沢太裕ばんげをくゆらせる」
当時軽井沢と言う地名なのだがこの言葉は、軽井沢宿の飯盛女の事を指すとなっていたようです。
よって現代でこの事を知って軽井沢と聞いて飯盛女と頭にうかんだら立派な煙管吸いだよ。
会津の坂下と言えば現在日本酒の飛露喜が有名ですが飲んだ事ありますか?私はあります。旨い日本酒ですよ。でも当時としては煙草の産地で有名で
狂歌煙草百首にも「会津・坂下は色薄青く葉薄し。香気なく青臭い。然れども弱こと諸葉に越たり。
価賤し」と記されており価格は安くて軽い煙草と記録されている。
  
    木曽街道六拾九次之内 軽井沢

沼田
軽井沢の飯盛女が愛喫した煙草としてもう一つ沼田煙草がありました。上州利根郡地方で栽培された煙草でその特徴として
「葉大にして色青く口中味賤しして臭。唯火を点て減ず、夜中啜ども口舌を損ぜざるを奇とす。
総国の人なべてこれを好めり」と狂歌煙草百首にはきされており 上品な味ではないが火付がよく吸っていて飽きのこない煙草と言う事らしいです。
総国は、上総・下総両国の人々には人気があったという煙草でもありました。まあ地方で人気の煙草と言う事でしょうか。

松川
現在のJTより発売?されている小粋のブレンド煙草の一つ松川煙草。江戸時代は、陸奥国の白川地方で栽培されていた煙草です。
狂歌煙草百首では、「松川の上品四軒より出。余味なし。臭気あり。火を点ずるに減ざるを良とする。
漁師水主の人濡手にて撮、火皿へ盛に火のつかざることなし。房総の海辺へ江戸より贈る。」と記されており
臭いが火を付けると臭みが消え良くなる。火付がとてもよく漁師に愛されていたようです。
また江戸より房総の方へ送られていた事も記されています。ただし煙草としては底辺の煙草だったようですね。
  

常陸  赤土たばこ
「常州水戸領赤土年員は、寛文の初めより煙草を植えるけるに、元禄の末は盛し」と狂歌烟草百首に記されています。
天和三年(1683)刊の「千種日記」にも赤土たばこと記されている。
寛文三年頃には水戸領で赤土煙草という銘柄が存在したという証拠になっていると記録ですよね。
赤土たばことは水戸煙草と言っていいのかどうかは定かではないですが江戸市中で流通していたようです。
  

番煙草八文粉
番煙草や八文粉と言う名の煙草もありました。これらは下等品で値段も安かったようです。
日本国語大辞典においても「摘み残りの葉を刻んだ下等な煙草。常用とする粗末な煙草、番茶に習っていう語」とあり 
番傘、番傘、番下駄と言った言葉と同じく 常用もしくは粗末な物を表しています。
「番烟草 駕籠かきめらに遣ってのり」と言う句は 吉原遊郭に向かう游客は、見栄を張って高級品の国府などを用意する。よって普段嗜んでいる値段の安い
番煙草は、酒手の代わりに駕籠かきにくれてやると言う事を詠んだ句です。
「また俺だなと切ってる番たばこ」
番たばこは値段の安いそまつなたばこなので、刻むのも自分で行う。葉たばこも仲間同士で金を出し合って それを刻むのも順番という句もあり
セルフサービス煙草と言う事でいかにもチープ差を詠んだものである。
「伊勢屋が花見番たばこうんと詰め」
江戸時代伊勢から江戸へ出てきた商人は倹約家が多かったので 川柳では伊勢屋はケチな人間の代名詞となっていた。
これは伊勢屋の事だから花見でも喫むたばこは、番たばこで高級な煙草はすわないだろうと揶揄した物。
伊勢屋と言えば三重県地方の事だろうね。ケチだったそうです。
「部屋で呑むたばこ太夫も八文粉」
八文とは安物を意味し宝暦・明和(1751〜1772)頃の物価が最低金額が八文だったのでと言われ
八文で買える煙草となりくず煙草である。又八文酒もある。
現代に直すと100円ショップで大体の物は購入できるので現代だと100円煙草、100円酒となるのかな。

荒切り
荒切りたばこには二つの意味があったようです。小川顕道著の「塵塚談」文化十一年(1814)に「多葉粉刻様のかはれる事、我等廿歳頃までは 五分切りといふて
あらく刻を伊達にせしに、近年は至て細く、糸の如くに刻也、45年以来は、其うへ細になり、こすりとかいふをす。とあって、これは上等なたばこを言うようです。
また薩摩藩士が内職で国府たばこを荒く刻んだ事もあるようです。
「荒切りは一夜さぎりの晴れに買い」という川柳がありますが これは吉原に遊びに行く客が、一夜限りの見栄に国府の荒切りを買った事を詠んだようです。
反対に「荒切りをすっぱすっぱとせなあ吸い」と田舎の若い衆が粗葉を吸いと言う句もあり
どうも荒切りというのは、切り方を荒く切った煙草を言ったようです。
玉たばこ
玉たばこというのは、たばこ葉の名称ではなく梱包状態の事を言っていました。刻んだたばこ葉を玉状に丸くまとめてたばこ屋の店先に置いた物です。
よって国府、舞留等の丸たばこもあり明治時代時代に袋詰めされるまでこの形態で売られたようです。

上の写真のようにたばこを紙の帯なので玉状にしていました。
江戸時代のたばこ屋の店先にはこれらが置いてあったのです。

経済性検討
 2010年8月現時点での経済的な検討しました。写真の一つまみはさて何gか? 誰もきっちり答えを出さない。
 私は技術畑にいるのでこのような電子天秤を使える立場にいます。
  
 煙管に詰める要領で一つまみを10個作りました。煙管に詰めるとこの様な感じです。
 この電子天秤ですが小数点以下4桁まで測れます。この一つまみ10個を測定しました。
 平均で0.1398gでした。 

小粋一箱10gですから71.5服できるわけです。これをシガレットに例えると写真の様になります。
つまりシガレット75本分です。
小粋一箱360円 シガレット約1480円です。私の場合は、キセル一服約3分位です。
つまりキセルがどの位経済的に良いか分かりますよね。
結論は4倍優位です。

楽しみ方
キセル文化における作法
寛永年間の頃から煙草の禁令が緩み始めると、喫煙の風習は、いよいよ広く深く人々の間に浸透していった。
かぶき者に見られたような粗暴な振る舞いは、影を潜めた。反対に煙草にも礼法と言うものが生まれました。
それを紹介します。
 
万治・寛文年間 1658-1673年頃行われたという「煙草の請取渡のの礼」がそれである。
次のような作法である。
当時は携帯用煙草入れがまだなかった時代で訪問先の主人の煙草盆の中のある煙草を呑んだ。
といっても、主人が座敷に出てくるまでは、呑まない。主人が出てきて世間話をして、やがて「たばこを召し上がれ」と勧める。
そこで客は、「まずご亭主から」と言って2、3度辞退する。すると主人は、懐から懐紙を取り出しキセルの鍔を外し、キセルを拭いて
「さあどうぞ」と言って差し出す。そこで客はそれをいただいて呑む。そして煙草が良ければ誉める。一服、二服と吸い、
キセルに鍔をはめて前に置く。客が帰る時は、懐紙でキセルを拭いて煙草盆に収める。
この時主人は、「どうかそのまま」と言う。これが煙草の礼だそうだ。
初期のキセルには置いた時 吸い口が畳などにに触れないように鍔が付けられていたようです。

吸い方
小粋を煙管の口にあわせて適量を軽く丸めます。上記の一つまみを参照してください。つんという感じで挿入します。
火を”ちょん”と乗っける感じで火をつけます。パイプをたしなんでいる方は、パイプと同じ要領で
そうでない方は、スプーンに載った液体をそーっとすする感じで吸ってみてください。江戸っ子気質みたいにパカーとすうのは薦めません熱い煙で舌を焼けどします。
焼けどした舌では、味なんか分かるわけない。
煙管の扱い方

吸い終わったら灰を火皿からだしますが、よくパツンと打ち付けると言うイメージがあるようです。
打ち付ける事が可能な煙管というのは写真の様に羅宇に節がある物です。


節の部分を火鉢などの角で叩きます。当然節の部分の方が強度があります。節がない物を打ち付けるのは、割れる可能性があるのであまりお勧めしません。
金属部分を打ち付けるのも変形の心配があるのでお勧めしません。打ち付けないで灰を出したい時はプっと息を吐いて灰を出してください。
この場合灰吹き竹で行うのをお勧めします。
名古屋にある老舗のショップでは、今販売されている煙管を置いてありません。
それは節がある煙管を販売していないからです。「道具を知らない奴が煙管を作るとこうなる。」オーナーはそう言っていました。

次にパイプ用のロングモールで水分やヤニを掃除します。ティッシュのこよりは、中に残る可能性があるのであまりお勧めしません。
現在柘製作所より写真のような長さ7寸(1寸30.3mm×7=212.1mm)煙管専用モールが販売されています。
商標登録申請中だそうですが「煙管用今様紙縒り」という名前です。大方の煙管が6寸ですので重宝します。
これより長いのは、パイプ用のロングモールがありますのでそちらを使いましょう。

私の場合 アルコールで中を洗浄するのは、20服に1回くらいです。

写真は、以前使っていた3年使用した辰巳キセルの羅宇の残骸ですが(不注意で縦に割ってしまった。)
ヤニやカーボンで詰まってません。この様なメンテで良いと思います。
それでもものぐさで煙管がタールで詰まってしまったらここをクリックしてくれ それなりのクリーナー方法をUPしてある。
スチームクリーナー

実はこれ、煙管の掃除にも使える。
スチームクリーナーは100度近い高温の水蒸気が汚れを浮きだたせて
とる物。但し使った所感は、薄い油汚れくらいなら良いが
凝り固まった物はNG。よって凝り固まる前に煙管の掃除を豆にやるというのが
本当の意味でもメンテナンスだろうね。
現在この電化製品は、ホームセンターでも5千円前後。
煙管のみに購入するのもというなら作ってみたらどうか!
ここでは、簡易スチームクリーナーを作ってみた。
赤門堂にいったおりこのケトルスチームクリーナを見せてもらった。
自分は、20服毎にアルコール洗浄をしているのでタールが詰まった事はない。
これを捨て置いた。また家にはスチームクリーナーもあるのでそれを使えば良いだけ。
これは約1600円です。後は自分の工作次第。
工作としては、銅管外形は5oなのでコルクに4mmの木キリで中心を狙いドリルで穴開け。
コルクの外形は、ケトルの口より1o大きいのでサンドペーパーで整えます。
塩梅よく嵌るまでサンドペーパーで根気よく研削してください。


お手製スチームクリーナー
笛付きにしたのは、穴を利用して釘を使い、ストッパーにするため。
笛付きケトルは、笛を勢いよく鳴らすため 上蓋との密封度が必要。
その為、上蓋からの蒸気の逃げはほとんどない。銅管は、金切ばさみで切り込みをいれ加工。

銅管に金切ばさみをV字にいれ後はペンチと金槌を使って上手に加工し口をとがらせる。
このように勢いよく蒸気がでだしたらいよいよキセルの出番。
スチームにあてながらモールを通すとこんな感じで汚れが取れる。
煙管は熱くなるので厚い皮手袋等 手を保護してね。
それにしても物凄い汚れがとれる。
それから注意
台所でやると台所がヤニ臭くなる。
蒸気い混じってヤニの匂いが充満する。嫁に怒られた。
と言う事でアウトドアのコールマンのワンバーナーでやることをお勧めする。
もうひとつの掃除方法 末期状態での煙道通し
銅線を2本よってあります。
先端ははんだ処理。
これをバーナーであぶって熱くしてそのまま煙管の煙道に通します。
火傷注意ですよ。凝り固まったタールはこれでとるしかないのかな
去年赤門堂さんでモニターして選ばれこれをもらった。



火皿の掃除ですが柘のカタログではこの専用モールを2つに折って火皿に突っ込みぐりぐりと言う事を書いてあります。
また柘制作のショート動画でもそのようにやっています。私の場合は、写真の様な綿棒を半分に切ってこれで掃除してます。
モールには、針金が芯に入っています。火皿を傷つける恐れがあります。だから綿棒を使っています。
また綿棒の方が綺麗になります。

道具

煙管コレクション
 ニッケル彫入り都上石州
 

D千円のリーズナブルなお値段のキセル ニッケルの
吸い口と雁首です。値段が値段なのでそれなりの作りです。
 辰巳キセル
 
 
辰巳キセル 真鍮製の如信形きせる。竹に焼きを入れて
模様をだしています。 雁首の部分は真鍮製でそのほかは洋白
 真鍮信筋入石州キセル
 
 

全て真鍮です。筋彫りがしてあります。
又羅字にも渦巻き文様があり綺麗な煙管です。
この渦巻きですが、これは、インキと硝酸を調合し、
ゴム印で模様を竹に捺印して火にかざし
焼き付けるというより熱を加えると判を
押したところの色が変わるというものです。
硝酸が強いとすぐにゴム印がボロボロになるため、
調合の兼ね合いが難しいそうです。
さらに硫酸鉄を加えた湯で煮立てると、
化学変化を起こして紋様が黒くなる。
なかには染料を捺印しただけという粗悪品も
たくさん出回り、これはすぐに色落ちしたそうです。
  四つ銀石州キセル
 

四つ銀キセル 雁首、口の部分とエッジ部は銀
そのほかは真鍮製で溶接してあります。
もうこれを作れる職人さんは1人いるかいないかだそうです。
   羅宇に秋田県角館の伝統工芸品の樺細工がしてあります。
  上のジッポライターもそうです。石州キセル
 

秋田県角館の伝統工芸品の樺細工(桜の木の皮細工)が
竹の羅宇に施してあります。元ネタは、洋白キセル 火皿は真鍮
  柘製作所 浅草煙管登り龍古美7寸 
草煙管登り龍古美7寸 登り龍の飾りが付いた真鍮製の煙管
羅宇は竹
  純銀延べ煙管6寸
 

飯塚昇作 純銀延べ煙管6寸 ずっしりと重い桐箱に入ってました。
銀キセルが登場するフィクションでは、火付け盗賊改 長谷川平蔵が
煙草盆を前に亡き父遺愛の銀キセルを吸いながら事件の推理を
巡らすという場面がある。
実際に歴史に登場しだすのは、この鬼平こと長谷川平蔵の父 宣雄が活躍していた
明和頃 1764-1772年の頃だった。「当世の決まりは本田銀キセル」
この句に読まれている本田とは、明和年間 1764-1772年頃に流行した男子の
髪型である本田髷の事で、銀キセルの流行もこの頃だとする類句もあり
「銀キセル出来ると髪のふうを変え」と言う句もありいずれも
吉原行きに際して当時の最新モードを詠んだ物である。
また銀キセルは江戸時代には道楽息子を象徴する物であり
放蕩息子の代名詞でもあった。
「銀キセル松川を飲むにつらいこと」という句がある
これは、銀キセルで吸うなら高級品の国府煙草がふさわしいが、
懐中が寂しく国府を買う金がない。それで安価な松川煙草を買うしかないので
つらいと解釈できる。
ただし銀キセルを持つ放蕩息子等は当時房総の
銚子あたりに罰として出されていた事もありその今の境遇がつらいという
放蕩息子を皮肉った句でもあると解釈もされている。
  2013年8月23日 吹上ホールにて開催の骨董市にて
 胴乱の付属として購入。
 

地金は銀。それに真鍮の板が巻いてある。

煙管の材質による違い
銀のは、着火後一気に香り立ちが早いです。
口の中に煙草感がスパーンとくる感じ。
煙草感を感じるのは銀のが早く感じる。
真鍮は、香り立ちはほんの少し遅く感じます。
その後香りは銀よりは、持続するような感じです。
余韻があるのかな。
洋白のは、銀、真鍮に比べて煙草のメリハリがないような感じ。
上の2本に比べ曇った感じでしょうか。
何が違うかと言うことですが
熱伝導率は銀>真鍮>洋白
銀の煙管の方がより早く雁首が熱くなりました。
冷却の差なのか作りなのか!
煙管を手のひらでポンとして煙草を落とす時 素直に取れるのが
銀火皿。ちなみに私の吸い方はパイプに近いブレスコントールを
しています。
だって舌火傷はパイプスモーカー、モルト愛好家にとっては
致命傷ですから。
だから舌をふいごの様に使ったりしながら楽しんでいます。


煙管の作り方がyou TubeにUPされていますのでリンク張っておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=M1x7N9o7KPQ&feature=related



韓流キセル

写真の通り長く 又火皿が大きいです。
楽しみ方は、床に座り火皿を床に置いて燻らせるそうです。
実際にやりました結果 いい按排に口元に吸い口がきます。
火のつけ方は、囲炉裏で火をつけるそうです。
私の場合、手は届きませんのでチャッカマンを使い着火
もうひとつは、連れに火をつけてもらうしかありません。
火皿には 写真のように大きな穴があり煙草の葉が詰まるので
火皿ネットでカバーする必要がありました。
パイプ煙草を試しましたが なぜブライヤー以外の材質が出てこない事を
考えれば納得します。×ですわ。
次に小粋ですが ブワーと小粋を楽しむには、もって来いです。

煙管とお外へお出かけ
煙管とお出かけする場合 叺とか天保胴乱なんか持って出かけると粋ですよね
冬で乾燥する季節において小粋煙草も乾燥してしまいます。特に葉が細かいのですぐに乾燥してしまいます。
天保胴乱は、密封性が高いので冬場でも煙草入れに入れておいても大丈夫ですが私が所持しているような叺だと
小粋は乾燥してしまい丸めようとしても粉になってしまいます。
そこで写真のような携帯灰皿を小粋いれに使っています。この携帯灰皿の中はアルミが張ってあり密封性も良好です。
叺に写真のように入れて楽しんでいます。





煙草入れです。この叺ですが写真のように下げ物として改修しています。
根付は、手芸センターにてダッフルコート用のボタンを使用し
紐も手芸センターで調達してます。
そしてトンボ玉を付けました。
 




天保胴乱

この天保胴乱は、本来腰差しで着物の帯に筒の方を差して使います。
私は、着物は滅多に着ません。洋服ですので帯の代わりに
ベルトをします。ベルトに差すととても違和感があり又負荷がかかるので下げ物として改修しました。
ベルトの幅に合わせ根付紐をつけてあります。
紐も純正品から房の付いた赤紐に交換してあります。
又下げ物としてトンボ玉も付けてあります。
胴乱の筒の方ですがキセルに合わせた形になっています。
雁首は下にしないと筒は閉まりません。

この胴乱ですが秋田県の桜の名所で有名な角館工芸といいます。
同封されていた解説文を添付します。
「桜皮を使用した細工の美しさは、古くは万葉集や源氏物語でも称えれています。
正倉院の御物にも筆、弓、刀の鞘等に桜の皮を使った物が見られます。」
古くからの工芸品です。いい雰囲気ですね。
ジッポーライターと煙管も樺細工で揃えてみました。


柘浅草一服 綺羅

これも腰差しですが、下げ物として改修しました。
紐も正絹赤紐に交換 ベルトで付帯できるように
根付紐と龍の根付をつけました。トンボ玉も追加しました。
なかなか良い雰囲気です。
お出かけの洋服に合わせた煙管入れの範囲が
広がりました。




  13年8月23日 名古屋吹上ホールでの大骨董市にて購入。根付と煙管付きで3万円で勉強代かな・・・・・
初めての骨董品を購入しました。この胴乱ですが、材質は、和紙と漆。和紙をこより状にしてこの形に編み込みます。
そして漆で固めます。この技法ですがもう絶えてしまいました。そうロストテクノロジーなんです。天主いわく
根付5000円のがついている。銀煙管とセットで3万円とのたまった。まあ購入しましたけど。なんかいい物ですね。
よくオクで見かけるけど破れていたり傷がついていたりしますがこれは、破れや傷が見つからず経年変化による物が大きいのかな。 

根付

 根付とはポケットがない着物を常用していた頃 帯にする止め具です。コレクターがいるほどで 木の彫り物から
 本象牙の細工まであります。古美術品コレクターもいます。
 購入したのは、柘の木の彫り物です。きちんと小さい座布団も付いておりなかなか良いです。

猫と鯉
恵比寿 龍珠

トンボ玉

  とんぼ玉は、穴の開いたガラス玉のこと。
模様のついたガラス玉をトンボの複眼に見立
「とんぼ玉」と呼ばれたといわれている。
歴史は古くエジプト時代よりと言われています。
奈良時代から製法が確立したようです。
現在でも多くのガラス工房で作られています。
このトンボ玉ですが瀬戸の工房で女性が
作っています。
根付とこのトンボ玉で帯をはさみこむように
煙管入れを固定します。
 

setstats

  羅宇について

ひと昔前 羅宇は一冬にひとつの農家で数万本も作られ、羅宇製造農家の組合などが作られたほど盛んだったが、時代と共になくなりました。
羅宇竹の作り手と、羅宇屋は別物だったらしい。
どちらも羅宇屋と言われてたらしいですが、羅宇屋は、正しくは「羅宇の仕替え」、あるいは「挿げ替え」が仕事。
昭和ひと昔前は 箱根竹を使用してたみたいですが現在はどうなんでしょうか。

羅宇にもっとも適した箱根竹というのは、箱根芦ノ湖の向こう側一帯、静岡の裾野市辺りだけに繁っている特殊な竹を指します。この界隈の農家の冬仕事として、
羅宇竹ばかりではなく、昔より竹細工の盛んな地域でした。箱根の山に自生するところからの箱根竹という呼び名ですが、
植物学的にはアズマザサといわれています。
箱根竹の特徴として、棹細く、肉薄く、穴が広い。肌細かく、表皮堅く内肉柔らか、干上がると真白く美しい。虫喰い少なく、カビが生えにくい……
といったところから、羅宇竹としてのみならず、竹細工としても重宝されていたようです。
竹刈にあたっての選び方として、風がよく通り、肥えた地に生えたもの。ハカマの小さいもの。要は、長くて曲がり少なく、
粘りある固さをもち、空洞広く地肌の美しい竹が良いとされていました。そして二年ものの竹が選ばれていました。

ただし、箱根竹にはラオス産の斑竹と違い、斑が入っていない為、鼈甲仕上げ、染め付けなど様々な加工が必要とされ、
それがまた羅宇屋農家の腕の見せ所でもあったようです。

羅宇作り

【刈取り】 田畑の仕事が終わる十月から年の瀬までの仕事とされ、男衆たちは山に泊まり掛けで出かけたと云います。
       この時期の竹には虫が入らないからということで、山入りの日も定まっていました。
       竹の太さを計るブサシと鎌を持ち、太さを確かめながら刈り取っていきます。
       ブサシ(分差)というのは、堅木で作ったノギスと同じようなものです。

【小切り】 長い竹を一定の長さに切り揃えることを「小切り」といい、一本の長さは、一尺一寸(三六・三センチ)が標準で、
       注文によっては九寸、八寸などと長さに手鋸で引きます。
       小切りは長さを揃えればいいというものではなく、五寸五分(十八センチ)の位置が節と節の間の三分の一にくるように切り揃え、
       これらを束ねて山から降ろします。

【ハカマトリ】 ハカマとは、節のところにへばりついている筍の皮のようなもので、これを取り去るのは女性の仕事。菜切り包丁に似た専用の刃物を用い、
         ハカマの付け根に刃を当て、竹をくるりと回して切り取ります。
         ハカマに覆われた部分は脂が多く染めにくいところから、ハカマの小さいものが好まれました。

【節抜き】 それぞれの農家で、様々な方法が工夫されていました。古くは錐で、あるいは焼き火箸を使って抜くなどでしたが、やがて動力を使い、
       節をくり抜きました。
       節のある羅宇は江戸好みではないところから関東ではあまり使用されなかったようです。中には節付きが好きもいましたが、
       それでもよほど節の景色がいいものに限られ多くは浅葱好みといって格が下がり、いわゆる田舎に回されました。
       浅葱というのは、つまりそのセンスのない者の代名詞のようなもので、江戸の昔に参勤交代でやってきた藩侍たちの羽織裏地に
       浅葱色の多いところからのものであり、まぁ、田舎者というか、見下した言葉です。

【ラオコキ】 これは竹の皮を剥ぐ作業。もっともたいへんな仕事であった。ラオカンナという特殊な刃物を使い、削り箱の上で薄皮を剥いていきます。
        ベテランは、四ツカンナ、五ツカンナといい、四回、五回カンナの刃を当てると一本の皮が剥ける、それでも一日三千本程度だったとか。
        カンナといっても大工などが使う物とは異なり、どちらかというと「削り鑿」といった方が判りやすいかもしれません。
        やがて、この作業も機械化が計られ、この仕掛けを「ガラ」と呼びました。砂などを入れた箱の中に竹を入れ、水を掛けながらモーターで
        十時間ほど回転させる。今でいうなら洗濯機に竹を放り込み、洗剤の代りが砂というところでしょうか。つまり、
        サンドペーパーをかけるようなもので、擦れて薄皮が剥けるという仕組みです。この薄皮がきれいに取れないと、
        後の仕事である染め付けがうまくいきません。

【ウデル】 殺虫と油抜きのため、大釜に竹を入れ煮沸します。農家によっては、ラオコキの前に行うところもありました。

【ホス】 乾燥させて、羅宇の生地作りはこれで終わり。その後、染め付け、模様付け、塗りなどの仕上げに入ります。

【鼈甲仕上げ】
箱根竹にはもともとラオスの黒斑竹のような斑模様がありません。そこから考えられことは、輸入に頼っていたであろう羅宇の斑竹は鎖国令で
途絶えてしまい、ラオス産斑竹の模造品、代替え品として工夫されたものが、通称『ベッコウヤキ』ではと考えられます。
ベッコウヤキとはあたかも鼈甲の肌に似ているところからの呼び名で海亀の甲羅です。飴色の斑紋様が美しい風合いをもっていて、かんざしとか櫛、眼鏡の縁など
工芸品に加工されていますが、ワシントン条約とやらで輸入が細くなりました。
一方で羅宇竹には虎斑竹、或は豹紋竹といった斑紋様の竹があります。天然のものは非常に数少ないところから珍重品されます。
日本の在来種の竹には斑紋様がありませんから、なにかの病気に罹った竹なのかもしれません。

この鼈甲仕上げは、斑紋様を付ける為、焼き鏝を使う方法と、海藻を使う場合とがありました。海藻とは昆布を削ったシラガコブ(トロロ昆布)です。
シラガコブの方がきれいに仕上がったことから、こちらの製法が主になっていきます。
塩とニガリを水で溶かした樽などに、裾野市は山の中ですから、海水もどきを作って、そこにシラガコブを入れてかき回し、
竹を入れてさらにかき回し、竹にコブをまつわり着かせます。
その竹を一本ずつ火炉にかざすと、コブのまつわりついた所だけ焦げることなく白く残り、斑模様の焦げ目が着くという仕組みです。
ということで同じ紋様は作ろうとしても作れないことになります。
焼き終えた後、水洗いして、コブと塩分を取り除き、乾かします。
下塗りに柿渋、あるいはニカワを塗り、仕上げは漆が本道ですが、カシュウという合成の疑似漆ができてからそれを使うようになりました。
塗るといっても、筆、刷毛などで一本ずつ塗るというのではなく、大ザルに竹を入れ、その上から塗料をふりまき、かき回しながら手で揉む
、という乱暴なものでした。さらに乾燥させた後、鑞磨きして完成となります。

また、渦巻き模様のある羅宇を御存じの方もおられるだろうと思います。これは、インキと硝酸を調合し、ゴム印で模様を竹に捺印して火にかざす。
焼き付けるというより熱を加えると判を押したところの色が変わるというものです。硝酸が強いとすぐにゴム印がボロボロになるため、調合の兼ね合いが難しいそうです。
さらに硫酸鉄を加えた湯で煮立てると、化学変化を起こして紋様が黒くなる。なかには染料を捺印しただけという粗悪品もたくさん出回り、これはすぐに色落ちしたそうです。
全体を黒とか茶とかに染めた羅宇は、染料入りの湯で煮立てるというものですが、この染料を使う方法は割合新しく、それ以前の方が化学的原理に
乗っ取って色を出していたといいます。黒色に染める場合はヘチマエキスで、茶色の場合は硫酸鉄、これらを使って一昼夜煮込み続けたと云います。
いずれにしても、これらは芯まで染め上げられているため色落ちする事はありません。乾かした後は、やはり蝋で磨きを掛けて仕上げています。

仕上げの加工で欠かせないのが、曲がりの矯正です。竹を水に浸して湿りを与え、さらに火にかざしながら、タメギ(矯め木)という道具を用い、
一本一本曲がりを直していきます。ベッコウ仕上げと模様付けでは、塗りやスタンプ押しの前に、染め着けでは磨きの後に矯めています。
好事家に好まれたものとして、節付きの羅宇があります。節付きは挿げ替えに決まりがあり、雁首から指一本の距離をとった位置に節を置くのが作法です。
虎斑竹とか雲紋竹といったものは特殊な斑竹の一種ですが、この場合、紋様を生かすために皮を剥かずにそのまま使われます。

女物キセルにみられる艶やかな朱塗りは、細目の羅宇に朱漆をかけたものです。漆にベンガラをまぜた色で、赤とオレンジの中間といった色合いといいますか、
独特のぬくもりを持ったやさしい日本の色です。
さらには羅宇に彫りを刻んだり、螺鈿、象眼、蒔絵などの装飾はそれぞれの職人にお願いすることになりますが、
これらは量産できるものでないことはいうまでもありません。
飾り職の出の方で、時折キセルを張る方がおられますが、(あ、キセルの場合、作るとは云わず、「張る」といいます)羅宇のない『延べキセル』あるいは
金銀を用いた「飾りの延べキセル」が多いようにみうけられます。延べ作りは大名とか武士などが持つものであり、町民は本来使いません。
新作のキセルに延べ作りが多いのは、羅宇竹がないためにやむなくということかもしれません。

しかし、喫煙という実用面からみますと、延べキセルというのはタバコのけむりが金属でなんらかの化学反応を起こし、味がよくなるとか、
声を使う人によいとか云われていますが、昔のことですから、科学的に証明されたわけでもなく、都合のよい思い込み、手前味噌の理屈であったかもしれません。
羅宇に竹が使われる理由というのは、タバコのヤニを竹肉、つまり竹の繊維のなかに吸い込むという役目もあり、今で云うならフィルターの役目も果たしているといいます。
そのため、肉質の柔らかい箱根竹が好まれたのでしょう。また、タバコは熱いけむりより、冷えたけむりの方が美味しいということもあり、
キセルには一定の長さが必要となります。紙巻きタバコが短くなると不味くなるのは、熱いけむりを吸い込むからに他なりません。
また、長く使っていると羅宇竹は否応なしにヤニ詰まりを起こします。詰まるというよりも、竹肉そのものがといいますか、竹の繊維がヤニで目詰まりし、
けむりの温度が下がらず、通りも悪くなり、ますます味を損なうことになります。

ここから羅宇屋が登場するわけです。厳めしい漢字を使ってはいるものの、とどのつまりは、キセルの修理と清掃が専門の職人。
ちょいと器用な方ならすぐにでも出来る仕事です。
ヤニの匂いというのは、仕事とはいえ、お世辞にもいいものじゃありません。吸うタバコの薫香とは、おのずと異にするものです。
自分が吸う分には構わないが、他人様が吸っている匂いはどうもノノという方も少なくはありません。だからこそ仕事になったのかも。
多少の小技も必要なところから、職商人(しょくあきんど)と呼ばれる部類に属するのですが、これは、破損したりしたものを再利用できるよう修理したりする職人のことで、
下取りしたり新品の販売も合わせて行っていて、職人と同時に商売人でもあったところからの呼び名でしょう。
こうした商売も今ではほとんど見られなくなりましたが、他には鍋釜を修理をする鋳掛屋、包丁研ぎ、錠前直し、桶や樽を修理するタガ屋、
変わったところでは「傘の骨買い」などというのがあります。時代劇なんぞで長屋の浪人の傘張り内職などというのがありますが、
あれは新品の傘というのではなく、破れた傘の張り替えというのが殆どだったといいます。物を大事にするということが、
いろんな職業を次々と産んでいったのではと思います。
   
粋なたばこ
江戸時代 遊郭では、遊女が男性客を誘う手段で「付け差し」とか「吸いつけたばこ」というのがありました。
これは、気に入った男性が通るのを見かけると自分のキセルに煙草を詰め一服吸いつけ 火を確認してから
袖で吸い口の所をぬぐい男性に差し出す。
男性がそれを受け取れば招きに応じるしるしとなったようです。かっちょいいいーーー
大勢に遊女から付け差しを差し出されるような男性は、モテル証拠となるのだ。
そんなモテル男性の典型が歌舞伎助六の主人公 花川戸助六。
助六は幕府公認の遊郭吉原で豪華絢爛と演目とされる歌舞伎だった。
紫の鉢巻きを締め黒い着物から赤い襦袢をのぞかせた助六が蛇の目傘をさしてさっそうと花道から
舞台へ現れると花の吉原であり 粋な助六の姿・恰好に遊郭の女たちがわれもわれもと付け差しを差し出す。
そこで助六のはくセリフがまたかっこいいいいのだ。
             
「キセルの雨がふるような」決めておのれのもてもてを誇張して言うのだ。
かッけーーーーー
この付け差し、吸いつけたばこというのはさりげなく男を誘い言葉でなく表現での奥ゆかしさがある。
粋と言う言葉は、江戸時代に生まれたようで以下のように定義されているみたいです。
生活上の美意識、倫理観であると。
後世の哲学者九鬼周造氏は、著書「いきの構造」中で「垢ぬけして、張りがのある色っぽさ」としたそうです。
垢ぬけとは、洗練されているだけではなく仏教的な諦めを秘めた洒脱な態度、表現。
張りとは、弱気を助け強気をくじく武士道。色っぽさは、男と女のつかず離れずにある緊張感がある奥ゆかしさ。
なるほどね粋というのは結構難しいね。私が考えるにさりげなくかっこよくて立ってるだけでも
なにかアクション起こすだけでも絵になり強そうで計算された物ではなく色香が漂う事か・・・
ああ  おいらも付け差しをしてもらったら喜んでしまいますがな。
 
江戸時代の喫煙率
江戸時代のたばこの耕作面積や喫煙率を具体的に述べた記録では、
元飯田町中坂下のたばこ屋三河屋弥平次と言う方が著した「狂歌たばこ百撞」の付録であった。
それには元禄時代1688〜1704年末のたばこの耕作地と生産量の統計及び喫煙率推定で記録がしてあったのだ。
話はそれるが、日本の識字率は当時トップクラスで 寺子屋システムがそれを助けていたが読み書きそろばんを
教えており商人ならなおさら読み書きそろばんができていたのでこれくらいの事は出来たのだろうと思う。
当時お米よりお金になると言う事で百姓がお米の田んぼを減らしてたばこを作ってしまう事を恐れて
たばこを禁止した時代があった為 新しい耕作地を開拓してたばこ畑を作っていった。
元禄十五年1702年 天領、大名領、旗本領の領地問わづ 全国で一斉にたばこ耕作地調査が行われた。
そしてこれを半減せよと厳命がくだった。現在でもこの記録は残っており耕作者名まで載っている。
三河屋弥平次の「狂歌たばこ百首」が完成したのは、文政三年1820年で この一斉調査を元に
耕作地面積と生産量を算出したのであろうと言われている。
つまり江戸時代 西欧文化に遅れているとはいえある意味秀でたのですね。
この時の面積の詳細は、常陸:面積1158ヘクタール、1038トン 下野:315ヘクタール、282トン 
紀伊・伊勢:852ヘクタール、762トン  摂津服部:2ヘクタール、2.6トン 
尾張:153ヘクタール、12トン  美濃:123ヘクタール、12トン
近江:1ヘクタール、1.62トン  肥後:1ヘクタール、1.26トンと記録されている。
常陸とは現在の茨城県のあたりです。弥平次は、以下のように推定して喫煙率を算出した。
江戸に入るたばこの量を4400トン/年と計算し江戸の人口を110万人と推定。
消費を3.6キロ/人・年と仮定した結果 喫煙率は98%とあろうと推定している。
まあ数字の信憑性は、ともかく喫煙率をこの時代に出したという事が大事で 西欧に先駆けて
調査したというところが日本人の素晴らしさが出ていると思います。
2016年現時点の喫煙率は20〜30%くらいですよね。
 
脂下がり
滅多に使わなかくなった言葉ですが
状態を言うと キセル、たばこをいきがって火のついた先を高くして咥えて吸っている様で
決して好ましい事ではない。
では脂下がりという事がどこからきたのかと言うと キセルは、喫煙していくとヤニが固着していき
ほっとくと煙道が詰まってしまう。そうならないようにこより等を用いて掃除をするのだが
ひどくなれば羅宇屋で交換となる。ヤニは最初は柔らかい。
このヤニだが決して美味い物ではなくえぐみが強くてまずいのだ。
本来なら口の中に入らぬようにキセルを下に向けて喫煙するのだがあえてキセルのヤニ つまり脂を
口元に寄せて一服を吸う為にキセルの火皿を上に向けて吸う仕草の事を言うそうだ。
安永から天明時代の吉原で おねーちゃんにもてようと通ぶってこのような煙草の吸い方がはやったようです。
また脂さがりと言う言葉は、煙草を吸わなくても揶揄表現(やゆ)としても使われ 意味は高慢、気取った構え、
態度を差し得意げににやにやする様を表現したようです。
本田髷を結った侍が遊郭で得意気にこのような喫煙形態を行ったという記録もある。
シガレットもどうだろう 高圧的な態度や高慢、気取った時なんか火種を上に上げて 「あああーーーん」なんて
態度取った事なかったですが?
そういえばパイプ ビリヤードでこれをやったら少なからずもジュースが口に入ってくるよね。
「よっしゃ よっしゃ」とホステスのねーちゃんにべたべたしたとき多分私は脂下がりをしていたかも・・・・・・・と
なんか記憶があるのだが。いやそれは脂ぎった中年スケベオヤジだろ。
 
さんべん回ってたばこにしよう
さわらぬかみにたたりなし?と思うが。
みんな遊んだいろはがるた は有名だよね。
このいろはがるたは、犬から始まるので犬棒かるたととも呼ばれた物は
江戸かるたと言い、大阪・尾張、京・上方の3種類あるようです。
実は恥ずかしながら この3つがごっちゃになっていてどれがどれやらでした。
私は、尾張に近いので大阪・尾張かるたで習った覚えがあります。
しかしメディアの発達で江戸、京のいろはも紹介されてきてわけわかめ状態に。
いろはの「い」でも
犬も歩けば棒に当たる・江戸 一を聞いて十を知る・大阪、尾張、一寸先は闇・京、上方。
とあり私は、一を聞いて十を知るで遊びました。
48文字で始まることわざが選ばれて 遊びで身につきましたね。
この江戸いろはかるたは、犬棒かるたとも呼ばれ
「さ」で始まることわざが「さんべん回ってたばこにしよう」です。
実は近年になってこの「さんべん回ってたばこにしよう」をしりました。
このたばこにしようと言う所は、一服しようという意味合いで仕事の区切りの良い所、根詰めて疲れて
中断してたばこで休憩するという情景で
「仕事を入念に行い手落ちがない事を確認してから休憩しよう」と言う意味だと。
勤勉ですなーー 私なんか手落ちしても良いやーーと言うダメ社員ですけど。
写真は江戸時代の実際のいろはがるたの喫煙版です。
所変われば「さ」は「さわらぬ神にたたりなし」こちらは大阪、尾張。
「竿のさきに鈴」 京、上方と変わります。
犬も歩けば、とこのさんべんまわってたばこにしようは江戸かるたなので
私に馴染みがなく知らなかったですよ。
江戸の方はわかるのかな。
スモーカーの皆さんは、さんべん回ってワンではなくて 「さんべんまわってたばこにしよう」と言うのが
通な感じがするのだけれども。
こんな江戸時代からスモーカーにとっての地方格差があったとはね。
でも 結局私は、江戸住まいの方からすれば江戸かるたを知らない浅葱好みと言われる三河の田舎者と言う事か
 

銀キセル
延べキセルの登場は 俳句に詠まれた所からと言われている。
銀キセルが登場するフィクションでは、火付け盗賊改 長谷川平蔵が
煙草盆を前に亡き父遺愛の銀キセルを吸いながら事件の推理を巡らすという場面がある。
実際に歴史に登場しだすのは、この鬼平こと長谷川平蔵の父 宣雄が活躍していた
明和頃 1764-1772年の頃だった。「当世の決まりは本田銀キセル」
この句に読まれている本田とは、明和年間 1764-1772年頃に流行した男子の
髪型である本田髷の事で、銀キセルの流行もこの頃だとする類句もあり
「銀キセル出来ると髪のふうを変え」と言う句もありいずれも
吉原行きに際して当時の最新モードを詠んだ物である。
また銀キセルは江戸時代には道楽息子を象徴する物であり放蕩息子の代名詞でもあった。
じゃあ俺も放蕩息子なんかな・・・・・
「銀キセル松川を飲むにつらいこと」という句があり
これは、銀キセルで吸うなら高級品の国府煙草がふさわしいが、
懐中が寂しく国府を買う金がない。それで安価な松川煙草を買うしかないのでつらいと解釈できる。
現在JTから松川刻みがでているが江戸時代は買うのもはばかる安い煙草だったらしい。
つまり自分が所持している銀キセルで松川を呑んだら懐がさびしいやつと言われるのである。
ただし銀キセルを持つ放蕩息子等は当時房総の銚子あたりに遊びが過ぎて罰として奉公に出されていた事もあり
その今の境遇がつらいという放蕩息子を皮肉った句でもあると解釈もされている。
つまり銀キセルを持って遊びからかして親父に懲らしめられたという事かな。
まあ遊びは身の丈にあった遊び方が良いよね。
   

当時の吉原へのマップ
吉原への道
吉原と言えば幕府公認の一大売春町。現在の東京台東区千束あたりです。
ここへの行き方は3通りあった。 船、駕籠、徒歩。そして行くにあたり流行のファッションと必須アイテムがあった。
本田髷と煙草だ。
煙草のキセルは、銀キセルそして凝った煙草入れ。
そしてその道程で最終地点は、吉原への出入り口で立った1つの大口門があった日本堤へ出る事になる。
船を用いる者は、神田川の河口の船宿から出発となる。
船宿は柳橋や山谷堀に多くあり座布団、薄べり、火縄箱、たばこ盆等を船に用意して送迎を行った。
今でいうと水上タクシーになるのか・・・
船宿のもう一つの役割は、吉原で客と遊女屋の間を取り持つ茶屋としても機能していました。
鬼平犯科帳でよく船宿が出てきますが もしかして鬼平は、吉原帰りだったのかも・・・・・
このような船宿の女房が たばこ盆や火縄箱を手に提げながら船着き場で乗船する客を送迎していました。
「船の出る箱を息子の先へ提げ」と詠われ この息子とは、大商人の息子等の放蕩息子やお金のあるJrの
事をさしています。
当時の船は猪牙船(ちょきぶね)と呼ばれていて底が浅く不安定な船でした。
これは喫水が浅い為で横揺れが激しい小型の快速船でしたが これに上手く乗れるか 乗れないないかで
遊び慣れているかいないかがわかるそうです。船の上で吉原につくまでの間 客は一服を楽しんだようです。
ここで猪牙船の乗り方の指南があります。
「あぐらをひっかき。後ろへ肘掛けて 首をうなたれ たばこぱくぱく くらはせねば 船がこぎにくる」
まあ リラックスしてたばこでも吸ってれば船はこいで行かれるというものらしい。
まずはたぎるリビドーをドウーーードウーーといさめるのでしょうね。
まあ行く前の船の上ですでにテンションマックスは、見苦しいという事でしょう。
私、皆さんも含め金津園に行く前のタクシーは静かにしてましょう。今タクシー禁煙なのでたぎるリビドーを
押さえる術がない。
猪牙船
   

吉原とたばこ盆
吉原では暮六つ つまり今の18:00くらいから「夜見せ」と称し夜間営業でした。
別名不夜城であり24時間営業の一大娯楽 いや男の為の幕府公認の娯楽施設でした。
遊郭の中の間と呼ばれる所には伊勢の皇大神宮を祭った棚がありました。
下男が来て鈴を鳴らすと遊女たちは、一人残らず格子の間に集まって並ぶ。
下男は、神棚のご灯明の火を格子の間の油つぎに移す。
上座に座るは位の高い遊女、鳳凰の絵の所に次、籬(まがき)所にくるのは次と
ランク分けがされていましたが、全員煙草盆を間に置いて「付け差し」「吸いつけたばこ」が出来るように
なっていました。遊女は、必ずお酒と煙草を覚えなければならず中には嫌煙遊女もいたようでしたが
無理して吸っていたようです。
リビドーたぎらせ野郎共は、格子越しに吟味したのであります。
この様を「張見世」といいました。ここでは「お兄さん寄っておいでよ」と声をかけて
袖を引っ張られると言う事もあります。
現代だと写真カタログで写真と現実のギャップがありすぎる子もいるから
「チェンジ」と言う言葉も出ますわな。この張見世だったら現物確認できるので
チェンジ騒ぎはおきないのでしょうね。
遊女がお客に見立てられるとまずたばこ盆が2Fの引付部屋と呼ばれる所へ運ばれていきました。
このたばこ盆が最初にもっていかれる様を「たばこ盆取り上げられてついと立ち」と言うような句も
残され 反対にご指名がかからないつらい立場を句にした物もあります。
「りょうほうのたばこ盆いくつらいこと」 この様な方こそチェンジ候補なのかも。
   
初会と裏を返す
初めて登楼した客を「初会の客」と称した。初めてのお客の扱いは遊女屋の格や遊女の位により異なっていました。
常識では、茶店を通して遊女屋に行き張見世の遊女を見立てて店に上がりました。
ここでの茶屋は、揚代金や一切の飲食費、その他費用は茶屋払いで処理であった。
茶屋を通して遊ぶ事は、一種の信用証をもらう事で茶屋側としても、その客がどれほどのものか
服装、持ち物で瞬時に判断された。
つまり客の品定めみたいな事をしていたのだ。
話を時系列に戻すと張見世の遊女を見立ててその結果を茶屋の人間に指示。
その後遣り手と呼ばれる遊女屋の諸事、遊女の監督・指導する人か 遊女屋の若い衆、禿と呼ばれる女児が
その遊女の部屋か名代部屋(廻し部屋)へ通されて初めて対面となる。
禿とは、花魁と呼ばれた高級遊女に仕える十歳前後の見習い少女である。
まあ人身売買被害の少女達ですね。彼女達が煙草の煙を面白がって戯れ
煙の輪と遊ぶ様もあったと言う。
「雁首の動いた方へ禿立ち」と言う句も残っている。
この部屋でお客は、一服つけながら遊女の出座を持ったのである。
遊女は、客を待たせるのが当たり前で位の高い遊女ほど長く待たせた。
これは、長く待たせるのを一つの見識としていたためである。
よく時代劇に遊女が後から入ってきた時に 「おお 待っておったぞ さささこちらに」と
セリフが良くあるがこの見識をきちんと考証に入れているのであろうね。 すごく待たされているのである。
初会においては費用はほとんどかからない。茶屋の支払いやこまごまとした物と遊女への揚代金だけである。
ここで遊女登場でやったと思ってはいかん。掟では、初会と二回目の裏を返すでは、
遊女は、「ハイ、イイエ」の二言しか話さず 杯や肴には一切手を付けないし食べてもくれない。
目の前に何十敗もの杯を並べれようとも飲まないのだ。そして絶対にはやらせてくれない。
客を床に寝せて寝入るまで煙草を吸わせてくれるだけなんです。まさに蛇の生殺し。
たぎるリビドーをどうすればいいんだーーとなりますが 吉原の地図 おはぐろどぶ周りの西河岸と東河岸(羅生門河岸)に
小見世や局見世と言いやっすい遊女屋が並んでいたんですよ。
「切見世」ともいいます。
ここでは百文 現通貨で3500円ぽっきりです。絶対怪しい。
はい当時抗生物質なんてありませんから
その辺り考えると地獄への直行場かもしれないですが勇者であれば大丈夫です。
   
三会目
同じ遊女を三回ご指名すると三会目と言われ「馴染み」となる。
長居道のりだねーーー 廓内のしきたりで三回目の夜 相手の遊女に「床花」と言われる
お金をの支払いが生じた。このお金は遊女にとって臨時収入となる。
大事なお金で二〜三両が相場でした。一両13万相当として26〜39万円ですかね。
おいおい 遊女と遊ぶ為だけに一晩で!!!!
まあ今でも頑張ってボトルを入れてあの娘となんていう輩と同じか・・・・・
この「床花」は、遊女が厠へ行ってる間とか席を外した時にそっとたばこ盆の引き出しに
入れるのが常であったらしい。
また「箸紙」と呼ばれる客の名前か紋を書いて遊女の茶箪笥へしまわれるのだ。
つまり「馴染み」バンザイとなる。
初会、裏で二つ返事とお膳に箸もつけなかった遊女は、この時からきちんと話をし
お酌やお膳にも手を付ける。
つまり三会目で初めてにこやかに普通の接待を受けられる資格を持つ。
当然夜もがっちりだ。ここでたぎるリビドーを爆発させる事が出来るのだ。
だが嫌な掟にも縛られる。
それは以後違う遊女と遊ぶのは許されないとなるのだ。
これじゃ外に固定の一人の愛人しか遊べないという事。
厳しかったんですね江戸時代。
    親方老人の前にてたばこ呑む人なし
ここで江戸時代の喫煙状況と言うと
一人前になってから煙草入れを持てるようになったそうです。
大昔 村の若い衆は、一定の年齢に達すると若い衆組へ加盟しなければいけなかったようです。
大体十五歳くらいです。
この加盟の儀式には酒を持っていくのが普通でこれが現代でも酒を持っていく習慣の残りだという。
この若者組は、3つの特権があり、神事への参加、労働力として認められる、そして酒、煙草、結婚の
権利を得るです。
つまり一人前になった時に煙草を喫む事が出来たのです。
ただし認められたとはいえ 目上の人の前では慎むというような躾がされました。
また商人の世界でもルールはありました。
丁稚入りは十歳前後 小僧等と呼ばれた。十五歳でもまだ半人前で若造ともよばれました。
十七歳くらいで手代に昇格し一人前に商売をすることが許された。
手代に昇格した時商人の主人から 祝宴、木綿の紋服、羽織、ここで煙草入れと煙草の贈り物がなされた。
もう一つの町人階級である職人の世界では、一人前の職人になるまで酒、煙草はご法度であった。
大体21歳くらいで一人前の職人になるので若くして煙草を吸える村人、商人と異なっていました。
様は江戸時代から煙草は、一人前になってからという事で
成人してから煙草OKの現在の世の中につうじますね。
    一服一銭
煙草と喫煙具であるキセルがまだ庶民までに十分にいきわたらない頃
生業としてできていたのがこの一服一銭。
茶をたてて一銭で飲ませる露天と同じように登場した。
露天で葉煙草を目の前で刻み 並べておいてあるキセルで一服させたのだ。
煙草がいきわたり始めた頃 贈答品としてもキセルや煙草が喜ばれた。
記録によると昨年は柿であったが今年は煙草が送られてたいそう喜びましたという物が
残っている。
    煙草という漢字になる前の漢字
なんでもそうですが初めから庶民に根付く前にはいろいろな読み方がありました。
煙草も例外にも漏れづ外国語をそのまま文字に当てていました。
担蹴粉、多葉古、丹波粉、太葉古などと書きました。この中で丹波古は、慶長・元和の頃に
煙草の葉が丹波国に多く植えられていたの事から来た。
煙草屋の中には、長生きする効能があると延命草、長命草と言う看板を掲げる店もあった。
その他敬愛草、永楽草という名前も見られた。
本当に好き勝手に名前付けていますね。
極め付けは、貧報(乏)草という名前です。
これは正徳3年1713年に書かれた百科事典「和漢三才図会」にこの名前の由来が書かれていました。
「昔たばこがなかった。だからと言って当時の人々は少しも物足りないとは感じなかった。
煙草を沢山吸っても一握りの糧にもならない。その栽培には多くの田畑が用いられ その為 米麦の穀物の
産額が減少する。それ故貧報草という」
なんとも身につまされる言い分というかグハッとスモーカーがダメージ食らう言葉だろうか。
今のスモーカーもそうだよね いくら吸っても一握りの糧にはならない。
しかしそれを買うお金は、多くの労力で給料をもらって買う。そして生活費の産額が減少する。
今でも貧報草と言う言葉は当てはまると思います。
他方の漢字の国中国では。「返魂草」、「相思草」、「煙酒」、「金糸煙」、「淡把姑」、「担不帰」、「芬」、
「淡肉果」、「八角草」、「仙草」、「南草」、「南霊草」などと言う別名が付けれれていました。
日本、中国両方に共通することは、この煙草と言う植物に何らかの効能を期待もしくは
希望を持っていたという事でしょうか。
    たばこ小売見世
たばこの小売見世は大きな利益は期待できないが わずかな資本でも
見世を開くことができた。
だから訳ありの二人が秘かに見世を開いたり、大店の旦那がお妾さんの暇つぶしに見世を
持たせる事もあった。当然まっとうな見世も存在する。
真っ当な道から外れた二人が細々と営む見世、陰を感じる見世ではあるが必死に生きようと
している二人が見られる見世と江戸時代俳句にも読まれた。
「命めに飯を炊かせてたばこ切る」と詠われるような二人もいた。
これは煙草を切る男の腕に「誰々命」 飯を炊く女房の腕にも「誰々命」と入れ墨が彫ってある二人が営む
小見世をうたったものです。
当時のたばこは、刻んだ物でしたからその重さで商いをしていました。
多くは五匁(ごもんめ)18.75グラム単位で売られました。
秤は、竿秤が使われ竿の五匁の所に朱を入れ印をつけてたりしました。
この竿秤の扱いにもなれる必要もあったのです。
そういえば昭和時代にも道の角に小さな煙草屋さんがありましたね。
あれは太平洋戦争未亡人を救済する為に考案された煙草店でしたが
同じように少ない資本でもお店を開くことができましたよね。
あれもこの訳ありに通じる物があるのではと思ってしまいましたよ。
   
浮世絵のビッグネームとキセル
「今様櫛金雛型」は、櫛とキセルの図案集として文政6年 1825年の刊行されたものである。
上・中・下とあり上・中が櫛の部で約250図書かれている。
下の「キセルの部」には約160図書かれている。
なんとこの図案えお担当したのが富嶽36景で超VIPな浮世絵師 葛飾北斎で
北斎66歳の時に書かれた物である。
なんと 葛飾北斎がキセルごときの図案を書いて下さっただけでも素晴らしい事だ。
北斎もきっと愛煙家に違いない。
これはそのうちの12例のキセルの図案である。
「セキシュウ・マツムシ・イモ・フクジュソウ・アサガオ・サクラ」
「イシヤマ大津・御メシボリ・ホンガタジョシン・シュセツ・リキウ・エドサクラ」
と名前と形紹介している。
当時「キセルの形は、その時の流行に従い日に日に変化すべし」とも記されており
キセルのかたにも様々な形があった事をこ「今様櫛金雛型」図集は伝えている。
また北斎は、「山家のキセル」と記して草木の葉で煙草を巻いた物や
パイプ形をした竹キセルなども紹介しており江戸時代に葉巻・シガレットに類似した物や
パイプ喫煙に似た物まであったとしており 正に興味深い細刻み文化である。
この他オランダから入ってきたクレーパイプも模写しており
「焼き物にて人にいだすときは、吸口を折りていだすとと言う」と言った具合に
紹介文が記載されており北斎の観察眼と探求心がいかに優れていたかが
この書物にてわかると考える。
素晴らしい北斎。

    看板娘
日本では江戸時代に喫煙の流行が始まりました。
初期は煙草を買ってそれを自分で刻んで吸っていたが江戸時代中期になると
各地の銘葉を揃えた小売り店が出るようになった。
江戸時代の煙草屋の看板については、色紙型の板の上に「刻たばこ」もしくは
「刻莨?」、変体仮名「た・は・こ」を組み合わせた形等があった。
一方「のれん」においても江戸では柿色の暖簾として煙草葉の形をした物がありました。
江戸では障子に煙草の葉を描き、京都ではたばこの三文字を連ねた木札を掲げたようです。
江戸時代中期より煙草屋には看板娘を置きました。
江戸の明和時代(1764〜1772)に記された「娘評判記」中の「名代娘六花選」に
当時の煙草屋の看板娘として「神田紺屋町露考 おみち」の名前が見られます。
煙草屋の看板娘を川柳で詠んだ句があります。
「煙草は四欣女房が一欣」の句は、煙草の売り上げの2割は美人のおかみさんによるものと
詠んでいます。
こうした美人が店番をしていれば繁盛するという事なのでしょう。
こうした事は、現代にもいえますね。
そりゃそうだよね俺も看板娘の所へいきますよ。
江戸時代の煙草屋の営業形態は夫婦中心で営むお店が多かったようです。
夫婦の間でも分業されており、おかみさんが煙草の下ごしらえをします。
この工程は俵に梱包された葉煙草を解梱します。
次に葉煙草についた砂や土をを手箒で掃き落とす作業「砂掃き」を行い
葉の中央に走る葉脈を取り除きます。
刻みやすいように適当な枚数づつを重ねて巻き芯と呼ばれる薄板に巻いていきます。
この作業を「巻き葉」といいます。
ここまでがおかみさんの作業。
巻き葉を終えた煙草は、「責め台」と呼ばれる板で圧搾され前にも紹介した「こすり」と言う
製法で髪の毛ほどに刻んでいきます。
この煙草を切るのが夫の仕事で、このような夫婦中心で営んでいる
煙草屋の事を「かかあ巻き、とと切」と称されいました。
つまり美人なおかみさんを貰った煙草屋の主人は勝ち組と言う事ですね。
それと県内でもご夫婦で煙草屋を切り盛りする所もあります。
豊橋の山本屋さん。名古屋の山田商会等 おかみさんとだんなさん両方で接客してくれます。
   

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