あの街、あの散歩みち(第3回)


 鎌倉東慶寺を巡る人間模様
鎌倉の東慶寺というと、別れたい男性のところから逃げ出してきた女性の「駈込み寺」とか「縁切り寺」とかいう俗称が特異であることから、鎌倉の寺社の中でもとりわけ知名度が高いお寺だと思います。東慶寺は、JR横須賀線の北鎌倉駅から徒歩で5分未満というアクセスに便利な場所にあり、東慶寺を中心とした徒歩圏内には円覚寺、浄智寺、明月院、建長寺など、それぞれ特徴や見どころのあるお寺や、また周辺にはハイキングコースが整備されているところもあるため、東慶寺を訪れた際には、いろいろな組み合わせで周辺の散策などを楽しむことができると思います。
東慶寺は、鎌倉時代に元寇が来襲した際の執権であったことで有名な、鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の未亡人覚山尼(安達義景の女)を開山として、息子の第九代執権貞時が1285年に建立したお寺で、明治の後期まではずっと尼寺でした(現在の住職は男僧)。尚、東慶寺に関しては、元々は源頼朝の叔母の美濃局(源為義の子で、頼朝の父義朝の妹)が真言宗の寺として創建したものを、覚山尼が改めて臨済宗の寺として開山したという話もあります。代々の住持には、1333年の鎌倉幕府滅亡後に迎え入れられた後醍醐天皇の皇女である用堂尼(第5世)や、江戸時代初期にはあの豊臣秀頼の娘の天秀尼(第20世)が迎えられており、この天秀尼が住持の頃に、男子禁制、女性保護のいわゆる「縁切り法」が確立されたと言われています。天秀尼は、秀頼とその側室との間の娘(幼名は奈阿姫)で、彼女が6歳の頃の大坂落城(1615年の「大坂夏の陣」)の際は、徳川家康の孫娘で秀頼の正妻であった千姫(第二代将軍秀忠の娘)が、彼女を助命するために自分の養女にしたとも言われています。東慶寺住持となった天秀尼は、直接東慶寺が関わった会津藩の御家騒動を契機として、江戸幕府との間でこの「縁切り法」を確立させることに尽力した後1645年まで存命しますが、天秀尼の死去によって豊臣秀吉と血のつながりのある直系は途絶えたことになります(もっとも、秀吉の側室であった淀殿から出生した、彼女の父である秀頼そのものが秀吉の種であったかどうかについては、当時からいろいろと取沙汰されていたようですが)。
その秀頼に対する私自身の印象としては、彼からは人間としての個性らしきものが全く見えて来ず、自分自身の意思で言葉を発したり、何かをしたりすることが果たしてあったのかといつも疑問に思ってしまいます。伝え聞くところでは、秀頼は、痩せて小男の秀吉とは違って大柄な偉丈夫であり、肉付きの良い青年だったようです。本当の父親が秀吉であったかどうかに拘らず、体質的には肉太りの体質であったとされる母親の淀殿の体質を受け継いだことだけは間違いないようです。淀殿の父親である祖父の浅井長政も、当時としては大柄な偉丈夫であったと伝えられています。秀頼は、生まれてから大坂夏の陣で死ぬまで、大坂城で女性ばかりに囲まれて生活し、少し前の戦国大名のように、戦場を駆け回ったり、戦いに勝つために知恵を巡らしたり、それどころか城の外で体を動かしたりすることすら、おそらくはやらなかったようですから、運動不足や、社会、物事に対する関心の薄さ、身の回りの事柄にすべて受動的になってしまうという環境の中で、人間としての判断力を持つ必要性すら理解できない、白太りの肉体的にも、精神的にも軟弱な青年が出来上がってしまったことの典型的な例を見るような気がします。そのために、彼が後の天秀尼だけでなく、別の側室に息子を産ませていた(大坂落城後に処刑された国松)という事実は、すべて受動的な環境の中での行為であったのかも知れませんが、何かこの世俗的で具体的な結果がとても不思議な気がします。彼がおそらくすべてにおいて受動的であったこと、大坂城の「運営」で主導権を握っていた母親の淀殿が織田信長の姪で、「天下人」秀吉の世継を生んだことから来る、徳川家に対する異常なほどの対抗心やプライドの高さと、理性なき感情が誘因となって、徳川家に不満を持つ武士や、この機会に一肌挙げてやろうという、関ヶ原の戦いの結果生まれた膨大な数の浪人たちを大坂城に集結させ、結果として大坂落城、豊臣家滅亡という悲劇を招く一因となってしまったのであろうと思われます。
天秀尼を助命した千姫は、秀頼と死別した後は、家康の四天王の一人である猛将本多平八郎忠勝の孫である姫路新田藩主の忠刻(ただとき)に再嫁し二人の子を儲けました(長女の勝姫は、後の岡山藩主である池田光政の正妻)が、忠刻も若くして死去したため、その後は江戸に戻って将軍家の庇護の下に暮らしたそうです(第三代将軍家光は、彼女の実弟)。千姫というと、大坂落城の際に家康が、千姫を救出した男に彼女を与えると約束したにも拘らず、それを励みに彼女を救出した坂崎出羽守の顔が延焼した火に焼けて醜くなったためにそれを反故にしたとか、また坂崎出羽守がそれを恨みに思って幕府に反抗したために改易されたとか、後に彼女が江戸の竹橋御殿に住んでいた頃、夜な夜な近くを歩いていた若い男が御殿の中に消えていなくなり、二度と帰って来なかったとか(「吉田御殿」の話)、あまり評判の芳しくない話を子供の頃に祖母から聞かされたこともあり、私は千姫に対しては、ある程度話半分に差引いても、苦労知らずのわがままで、感情的に温かみのない、物事に冷淡なお姫様という印象をずっと持ち続けてきました。しかし、上の天秀尼との関わりなどから思うに、本来ならば夫の寵を奪った側室の娘ということで、感情的な対抗心を持ったり、復讐にも似た冷淡である程度残酷な態度を取ったりしたとしても不思議ではないのに、大坂落城から彼女を救うという、このような温かい心を彼女に示したということで、逆に千姫は世間ずれしていないことで人間関係の苦労を知らなかったからこそ、曇りのない純粋に人間の心優しさを持ったお姫様だったというのが、本当の姿なのかなと思うようになってきました。千姫は、家康の生母お大の方(伝通院)が祀られている徳川将軍家の菩提寺である東京小石川の伝通院に、他の徳川家の子女たちとともに眠っています。
東慶寺固有の「縁切り法」は、明治維新の後に近代的な法整備が行われ、女性からの離婚請求権が公式に認められるようになった明治6年(1873年)まで有効なものとされてきました。東慶寺は、アジサイ、ツツジ、花菖蒲など、一年中様々な花を観賞できることでも有名なお寺であり、周囲の物静かな雰囲気とも相まって、私にとっては大変心が和む場所です。境内奥の山手にある墓所には、覚山尼、用堂尼(陵墓扱いで宮内庁管理、左の写真)、天秀尼(右の写真)など歴代の住持たちとともに、鈴木大拙、西田幾多郎、高見順、和辻哲郎、小林秀雄、前田青頓など、日本を代表する哲学者、思想家、画家たちが眠っています。また、東慶寺の境内にある松ヶ岡宝蔵には、時代を超えて男女間の相克を窺うことができる離縁状などの古文書や、天秀尼の愛用品などを中心とした蒔絵(東慶寺蒔絵)などが展示されています。
アウトドアやスポーツに欠かせない、思いがけないアイテムも
ナチュラムアウトドア  MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ GOLDWIN WEB STORE

戻る