あの街、あの散歩道(第8回)

足利歴史散歩
足利市は栃木県南西部に位置しており、東京からは、東武伊勢崎線の「特急りょうもう号」で浅草から70分程度、また車を使った場合には、東北自動車道の岩舟JCを経由して、北関東自動車道の足利ICまで、渋滞がなければ東京都心部から1時間半程度で着くことができる場所にあります。また、東北新幹線や上越(長野)新幹線を使い、それぞれ小山や高崎でJR両毛線に乗換えて足利に向かうという方法もありますが、双方とも足利へは普通電車でのアクセスしかないため、このルートは、経済的にも効率的にもお勧めできるルートではないと思います。
足利は、隣接する群馬県桐生市とともに、古くから生糸や織物の産地として栄えてきましたが、とりわけ足利で生産される絹織物は「足利銘仙」と呼ばれ、大正時代や、昭和の初期頃には女性の着物用として流行した時期があったようです。また、19世紀末の国鉄両毛線開業時には、英国のランカシャーをもじって命名された「ジャパン・ランカシャープラン」の下で、生糸や織物の産地である足利と桐生をマンチェスターに、またその輸出港であった横浜をリバプールになぞり、将来の一つの進むべき道を模索した時代もあったようです。
東武伊勢崎線を使って足利を訪れる際の下車駅である「足利市」駅は、市内を西から東へ横断するように流れる渡良瀬川の南側にあり、史跡や観光名所が点在する渡良瀬川北側の旧市街の対岸に位置しています。そのため、先ず市内にある旧跡の足利学校跡や足利氏の氏寺であった鑁阿寺(ばんなじ)を見学してみたいと思っていた私は、足利市駅の北側すぐのところにある渡良瀬川に架かる橋(中橋)を渡って旧市街に向かいました。この橋を渡ってすぐのところにJR両毛線の踏切がありますが、足利学校跡や鑁阿寺に行くためには、この踏切を渡って150mほど行ったところの交差点(通2丁目)を右折して県道67号に入り、約150m先にある最初の信号を目指します。この信号を左に折れたところが大門通り(別名「石畳通り」)と呼ばれている足利市中心部の一角で、この道の突き当たりに鑁阿寺の南側の門(山門)があります。足利学校跡の入口は、途中最初の角を右に曲がって少し行ったところにありますが、この辺りは市内観光の中心部らしく、多くのショップや飲食店や土産物屋が軒を連ねていました。
足利学校の起源は、平安時代であるとか、鎌倉時代であるとか諸説があり、今一つはっきりしていないようですが、室町時代末期の16世紀半ばには、かのフランシスコ・ザビエルが「日本で最大で最も有名な坂東のアカデミー」と記した、中世における高等教育機関であり、歴史の教科書や読み物で見る限り、この頃が足利学校の全盛期であったようです。古来より、日本各地には発展してきた大小たくさんの街があるのに、少なくとも私の頭の中では、何故他の土地ではなく、足利という交通の要所でもなく、また多くの人が集まるような街でもない、地理的に「中途半端」な場所に、このような「日本で最大」のアカデミックな学校が存在していたことについて、とても不思議な思いをずっと持っていましたし、今でもこの不思議な思いを持ち続けています。足利学校跡の内部は一般に公開されており、方丈や庭園などのいくつかの施設を見学することができます。私が丁度庭園を散策していたところ、和服を着た女性たちが方丈で寛いでいる姿を見かけましたが、後で判ったところでは、方丈や庭園などの足利学校跡や鑁阿寺などがある、この界隈のレトロな雰囲気の街並みを和服を着て散策できるようにと、和服を時間単位でレンタルしてくれる店が大門通りにあるとのことでした。
大門通りに戻って鑁阿寺方向に歩いて行くと、左側に足利尊氏の像がありました。足利尊氏そのものは足利生まれではなく、また足利に足を踏み入れたことも殆どないとも言われていますが、足利という土地は彼の祖先(源八幡太郎義家の四男義国)の時代から足利氏の本願地(領地)であり、鑁阿寺はその居館であった場所に建立され、足利氏の氏寺となったお寺であったと言われています。戦前の皇国史観では、足利尊氏は天皇に弓を引いた歴史上最大の逆賊という評価が定着し、その地名と足利尊氏との結び付きから、足利市民は随分と肩身の狭い思いをしてきたということを何かの本で読んだことがありますが、戦後はこのような皇国史観からは解放され、またNHKの大河ドラマ「太平記」で足利尊氏の性格や生き方が好意的に扱われたことを契機として、足利市民も足利尊氏のことを郷土が生んだ(郷土にゆかりのある)一時代を築いた英雄として大手を振って自慢できるようになっているという印象を受けました。足利尊氏は、同時代の禅僧で彼と親交のあった夢窓疎石が、「三徳(豪勇、慈悲心、無欲)を兼ね備えた人物である」と褒め称えた人物であり、いかなる場合でも淡々としてギラギラすることがない、良い意味での茫洋とした印象を与えてくれる、私にとっても好きな歴史上の人物のうちの一人です。足利学校跡や鑁阿寺のある一角の東側大通り(昭和通り)を渡ったところには「太平記館」という、主に土産物を販売する建物がありますが、ここには大きな駐車場もありますので、ここに車を駐車して、市内の散策を楽しんでいる人たちも多いようです。鑁阿寺の境内の周囲には土塁と堀が廻らされており、また四方に門が設けられていることなど、鑁阿寺が元々は足利氏の居館であったことを偲ばせる、武士の館であったことの面影が残されています。また、大門通りの突き当たりにある山門の前には、堀を跨ぐ太鼓橋と呼ばれる屋根付きの橋が架けられていますが、屋根が付いた橋というのはかなり稀有な存在なんだそうです(尤も、橋の長さはほんの数メートルですので、ちょっとした道の上に屋根を付けたとも言えるんでしょうが)。
足利市には、少し東の方に足を伸ばせば、「あしかがフラワーパーク」や「栗田美術館」(膨大な数の伊万里、鍋島の磁器が陳列されている)などの観光名所もありますが、これらは徒歩で散策できる範囲からは外れているため、次に私は、市内中心部から徒歩で行ける織姫神社に向かってみました(「あしかがフラワーパーク」や「栗田美術館」への訪問は、次回車で足利に来る時まで取っておくことにします)。織姫神社は市街地の西端に位置しており、元々は1300年の歴史を誇るとされる織物の町足利の守り神として、江戸時代の18世紀初めに創建されたものです。現在の社殿は、宇治の平等院鳳凰堂をモデルとして、昭和10年代に再建されたものだそうです。現在は、縁結びの神様としても親しまれているようです。織姫神社は山の中腹に建てられているため(裏山一帯がハイキングコースの一部となっている)、神社そのものよりもここから眺めた周囲の風景が素晴らしいと思いました。事実、下には足利市内が一望でき、市内を横断して流れる渡良瀬川を眺めることができます。丁度正面辺りに、森高千里の歌で有名になった渡良瀬橋を見ることができ、一種詩的な気分に浸れるような気がしました(右上の写真は、織姫神社から見た足利市内。前方に渡良瀬川が見える)。
私が受けた印象では、全体としての足利の街並みは、地方の中都市にありがちな、やや活気に欠けた、沈滞した静かな街というものでしたが、偶々私が散策した場所が観光名所ばかりであったことから、観光客の姿ばかりが目立ったような印象でした。ただ、大河ドラマ「太平記」を契機として足利の印象が好転したり、また周辺の観光名所などが一般に広く浸透したりして、足利を訪れる観光客の数は年々増えてきているようであり、また2011年に北関東自動車道が全線開通し、市内北部にある足利ICを経由した足利市への車でのアクセスが格段に改善されたことに伴い、近年来足利市が力を入れてきた観光開発に一段と拍車が掛かって来ているような印象も併せて受けました

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