あの街、あの散歩道(第6回)


大塔宮、土牢幽閉の謎(鎌倉宮)
鎌倉の二階堂にある鎌倉宮には、後醍醐天皇の皇子護良(もりよし/もりなが)親王(大塔宮)が幽閉されていたといわれる「土牢」があるので、周辺の散策と合わせて見学してきました。私は実は、この土牢を見たのは、確か私が小学生の時の遠足で鎌倉に行ったときに見学して以来で、それから何十年か経って久しぶりに見る機会を得た訳です。この鎌倉宮というのは、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政、またその後の南北朝時代の南朝方の中心人物であった後醍醐天皇の皇子という、天皇になる資格を持った天皇家の一員でありながら、最後は鎌倉が舞台となった中先代の乱(後述)のドサクサに紛れて殺害されてしまった、悲劇の主人公である大塔宮を祀るために、没後500年以上も経った明治初年に明治天皇の命により創建されたものです。
私は、大塔宮に対しては、後醍醐天皇の数ある皇子の中でも最も武略に富んだ血気盛んな人物であり、そのために自分に恃むところも多い、独善的な気味のある性格を持った人物ではなかったのかという印象を持っています。彼は、年少より天台座主などの僧籍に置かれていましたが、父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕運動を起こす(元弘の変)と、これに呼応して還俗し、楠木正成らと連携を取りつつゲリラ的な活動を行い、鎌倉幕府の六波羅探題の滅亡(1333年)に大きく貢献しました。大塔宮は、後醍醐天皇の建武の新政下においては征夷大将軍に任じられましたが、武士の代表として勢力を伸ばしてきた足利尊氏との対立、後醍醐天皇の寵姫であった阿野廉子の讒言、父天皇との確執、辻斬りなど彼自身の粗暴な振舞いなどから、ついには後醍醐天皇の意向によって失脚させられ、鎌倉にあった足利尊氏の弟の直義のもとに預けられました。彼が鎌倉に幽閉中に、鎌倉幕府の実質的に最後の執権であった北条高時の息子の北条時行が「中先代の乱」を起こし、武力をもって鎌倉に迫ってきた際に、大塔宮を奪われて彼が敵対勢力に担ぎ上げられることを恐れた足利直義が、部下の淵辺義博に命じて大塔宮を殺害させたと言われています。
私の頭の中にあった「土牢」に対する最初に見た時からの潜在的な印象は、あんな土が剥き出しの、暗くて狭くてジメジメしたところに入れられて大変だったろうなあ、食事や排便などはどうしたんだろう、どうやって時間を過ごしたんだろうといった感じで、このような過酷な境遇を強いられ、挙句の果てには殺害されてしまった大塔宮という人をとてもかわいそうに思ったものでした。大人になっていろいろな史実やその背景を知ったり、また歴史小説などを読んだりして、様々な情報を結び付けていくと、大塔宮がこの「土牢」に入れられていたという「事実」が、何かとても釈然としない感じになってきました。というのは、大塔宮は、時の天皇で権力の頂点にあった後醍醐天皇の皇子であり、仮にいくら父の天皇と意見が合わず、また天皇が彼と対立していた足利尊氏への配慮やそれ以外の様々な理由から、大塔宮を鎌倉に幽閉するという措置を取ったとしても、それを預かった天皇の臣である足利直義が、極悪人の罪人に対して行うように、その一存で暗いジメジメとした土牢に放り込むという措置を決定し、実行できたでしょうか。大塔宮が鎌倉に送られてきた時点では後醍醐天皇と足利尊氏は対立関係にはなく、大塔宮を預かることになる尊氏の弟の足利直義にしても、彼が置かれている後醍醐天皇を頂点とする建武政権の権力構造の中での立場や秩序から、またそれに加えて天皇家に対する配慮から、大塔宮の処遇については京都の政権に具体的に相談したり、指示を仰いだりしたりしていなければおかしいはずです。その際に、後醍醐天皇自身から「土牢にでも入れておけ」といったような具体的な指示がない限り、足利直義が彼の一存で大塔宮を土牢に幽閉したと考えるには非常に大きな無理があります。まして、その時点で組織上足利直義の上で鎌倉を統括していたのは、鎌倉将軍府としての成良親王であり、彼も後醍醐天皇を父とする、大塔宮とは血の繋がった兄弟なんですよ(左の2つの写真が「土牢」、右の写真が大塔宮の「御首塚」)。
また、私が史書などを読んで感じてきたところでは、後醍醐天皇は自身の利益や、自身が助かるためには、周りの人間の犠牲をも顧みないドライかつ冷酷なところがあるように思われ、そのために他の皇子たちにも結果として犠牲を強いるような行為を求めている事実もあります(新田義貞の北陸下向時に同行させた恒良親王、尊良親王など)が、これはあくまでも結果としてのことであり、自分の息子に対して最初からこのような「土牢幽閉」という冷酷な指示を具体的に出すとは、いくら何でも到底考えられません。更に言えば、この土牢のような鎌倉に特有の地質からできる地形に対する具体的な知識が、京都を中心に生きてきた後醍醐天皇にあったとは思えず、そのためにもこのような具体的な「指示」は出せなかったはずです。
もし、一歩譲ってこの「土牢」への幽閉が本当に事実だったのであれば、上に書いたような推察や理由から、この「土牢」への幽閉は最高権力者であった後醍醐天皇自身の指示でなければ辻褄が合わなくなり、足利氏が幽閉したという通説との間に大きな矛盾が出てしまいます。後醍醐天皇には、天皇自身が親政を行う建武政権に近い京都での大塔宮の活動を抑えるために、大塔宮には京都から暫く遠ざかってもらって、鎌倉将軍府として別の息子である成良親王が足利直義の補佐の下に派遣されている鎌倉で暫くおとなしく蟄居、謹慎してもらい、いずれ政権が安定した後に権力とは別の形で復帰させたいという考えがあったのではないかと推察するのが自然ではないかと思われます。極悪人に対して行うような土牢やそれに似たような場所への幽閉だったら、何もわざわざ京都から遠く離れた鎌倉まで送る必要はないはずです。京都に近いどこかの牢にでも監禁しておけば、鎌倉に置く場合よりもその目的での監視の目が届くでしょうし、また誰かから担ぎ上げられるというリスクも少ないと判断されたはずです。従って、この「土牢」への幽閉というのは、後世の作り話だと推察せざるを得ません。また彼には、京都から南の方と呼ばれる側室までが身の回りの世話ということで同行しているんですよ。狭くて起居のままならない土牢の中に入れられる者に、わざわざ身の回りの世話をさせる者の同行を許しますか?また、真直ぐに立つことが難しいような狭い土牢の中の「身の回りの世話」って想像がつきますか?これは、大塔宮に対し、一定の制約下での特別待遇を認めるための同行ではなかったのでしょうか。
彼の失脚を想像するに、後醍醐天皇が建武の新政を実行していく中で、武士勢力の棟梁としてその力を無視できなくなってきた足利尊氏への気遣いから、彼とどうしても馬の合わない大塔宮をを権力の中枢から外したとか、寵姫の阿野廉子が産んだ皇子(義良親王、後の後村上天皇)を彼女の請願によって皇太子にしたいがために大塔宮を退けたとか、何かにつけ自己主張の強い大塔宮の存在が、父天皇による親政の推進に疎ましく思えたとか、といった理由がおそらく背景にあるのでしょうが、天皇の立場からすれば、それならば権力の中枢から外すような措置を取りさえすれば良いわけで、取敢えず建武の新政の実が出るまではおとなしくしていてくれといった感じで、自分の血のつながった息子に対し、何も最初から罪人に対するように土牢に幽閉しておけということにはならなかったと思うんですよ。
種々勘案すれば、現在の鎌倉宮のある場所に当時あったとされる東光寺の中の一隅の住居に、側室の南の方と一緒に、見回り程度の警護付きで軟禁、監視されていたと考えるのが最も自然な想像で、妥当な解釈だと思います。鎌倉には地形的に粘土層の「やぐら」と呼ばれる墳墓のようなものが多数あり、同じように洞窟のような形を持ったものも見られたはずです。大塔宮が土牢に幽閉されていたというのは「太平記」の中に見られるとされる下りですが、太平記はどちらかというと、後醍醐天皇の南朝方に軸足を置いた内容で書かれているということですので、太平記の作者が鎌倉に特有の地形と結び付けて、後に後醍醐天皇に敵対したという事実から、北朝方の足利氏は南朝の後醍醐天皇に敵対して天下を簒奪したばかりでなく、後醍醐天皇の皇子にこんな暗くてジメジメしたところに幽閉するというひどい仕打ちをした上で、挙句の果てには中先代の乱のドサクサに紛れて殺してしまうという極悪非道なことをしたんだという、鎌倉の地形と歴史上の表面の事実だけを単純につなぎ合わせて、極端なストーリーを作り上げたのではないかと考えてしまう次第です。でも、史実を忠実に考えると、足利氏による大塔宮殺害そのものは否定しようもない事実としても、歴史を曲解してまで「土牢」への幽閉を、大塔宮の預かり人で監視者に過ぎなかったであろう成良親王監督下の足利氏の「極悪非道な悪行」としてことさらに強調してしまったことが、翻ってその非道な仕打ちという「事実」が、直接的には鎌倉将軍府としての大塔宮の異母弟である成良親王の責任、また最終的には最高責任者である父の後醍醐天皇の具体的な指示あるいはその実行に対する承認の下で実行されたという、後醍醐天皇自身の「非道な仕打ち」に必然的に繋がってしまうという皮肉な事実を導いてしまうということに、太平記の作者や明治初期の為政者は考えを及ぼしたんでしょうか。
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