あの街、あの散歩道(第5回)
分倍河原合戦 - 時代を駆け抜けた新田義貞
新宿駅から京王線の準特急(*現在の京王線のダイヤでは特急)に乗って京王八王子方面に約30分ほど行くと、府中駅の次の駅である分倍河原駅に着きます。分倍河原駅は、JR南武線とも交差していることから、この駅には川崎や立川方面からもアクセスできます。この分倍河原周辺は、古来よりいくつかの大きな合戦の舞台になっていますが、これはこの地が人馬の通行が盛んであったことが想像できる鎌倉街道に沿った場所にあったことと、またすぐ南に北方からの敵に対する鎌倉の防衛線とも言うべき多摩川の流れがあったことが大きな理由として挙げられると思います。
分倍河原駅の改札口を出て、斜め右方向にある跨線橋を渡って駅前広場に出てみると、騎馬姿の新田義貞像(右の写真)が先ず目につきますが、彼の像がここに建立されたのは、元弘3年(1333年)5月に彼が率いる軍勢がこの分倍河原で鎌倉幕府軍を破った後、その勢いを駆って鎌倉に進攻し、鎌倉幕府を滅亡に導いたことによるものであり、その大きな転機となった戦いが行われた分倍河原の地に、鎌倉の方向を向いた彼の像が昭和63年(1988年)に建てられました。この分倍河原の近辺では、おそらくその地理的な理由から、室町時代にも享徳の乱とそれに続くダラダラとした戦乱の端緒となった鎌倉公方と関東管領との間の戦い(1455年)や、それ以外にもいくつかの小さな戦いが行われていますが、ここでは新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破った元弘3年の分倍河原の戦いと新田義貞の足跡をたどってみたいと思います。
鎌倉幕府倒幕を目指して故郷の生品明神(群馬県太田市)で旗揚げした新田義貞は、一族を中心とした武士たちを糾合して鎌倉に向けて南下しましたが、当初は150名程度の軍勢であったものが、途中当時3歳の足利尊氏の嫡子千寿王(後の室町幕府第二代将軍義詮)が尊氏の名代として加わったことから、その軍勢は続々と加勢する武士たちで膨れ上がり、その数20万騎余りにもなったと誇張して伝えられています。新田義貞軍は、当時鎌倉街道上道 と呼ばれた道に沿って鎌倉に向けて南下を行い、途中小手指河原の戦い(埼玉県所沢市)、久米川の戦い(東京都東村山市)で鎌倉幕府軍を撃破、続いて分倍河原に進出しましたが、鎌倉幕府軍に急派されてきた北条泰家軍(彼は、鎌倉幕府の実質的に最後の執権北条高時の弟)が加わったことで一旦は敗北、退却したものの、鎌倉幕府軍に加勢に来ていた三浦氏の助勢を得て翌朝に幕府軍を分倍河原に急襲してこれを敗走させ、その後一気に鎌倉に進軍し、鎌倉幕府を滅亡に追いやりました。生品明神での旗揚げが5月8日、北条高時が自刃して鎌倉幕府が滅亡したのが5月22日と、その間2週間という短い期間で怒涛のような勢いをもってすべてを終了させています。
分倍河原駅を起点に、新田義貞の足跡をたどって散策をしてみました。分倍河原駅からは、駅前広場の新田義貞像の向かい側にある東芝ビルを巻くようにして高架の京王線の線路に沿って進み、左側にMINAMOというショッピングセンターがある突き当たりの角を右折して、京王線の高架をくぐって300m程行ったところにある分梅交番がある角を道なりにやや左の方向(南西方向)に進み、途中中央高速の下を通って100m程行くと、左側に新田川緑地公園があります。この新田川緑地公園の入口近くには「分倍河原古戦場」と書かれた碑(左の写真)がありますが、実はこの碑は、前述の京王線の高架をくぐった直後の住宅地の脇に、「ここにあった分倍河原古戦場の碑が新田川緑地公園に移された」と書かれた案内板(右の写真)があったことから、元々は別の場所にあったものがこの場所に移されたものであることが分かりました。碑の場所の所在はともかくも、実際にこのあたりで合戦が行われたかどうかということは、周囲に住宅などが密集している現在の風景からは窺い知ることはできません。この場所や以前に碑が建っていた場所は、多摩川からは直線距離で北に1kmから1.5km程度離れていますが、当時は多摩川が今よりも北方を流れていたとの記録もあることから、当時この場所は現在よりは多摩河原により近かったことが分かります。新田義貞軍は、分倍河原の合戦で北条泰家を大将とする鎌倉幕府軍を撃破した後、多摩川を渡った関戸で追撃戦を行い、そこで鎌倉幕府軍に壊滅的な打撃を与えましたが、その際幕府軍を率いる北条泰家の部下の横溝八郎と安保入道が自らを盾にして、泰家を退却させるために新田軍と奮戦して戦死したことが記録に残されており、彼らの墓と伝えられるものも近在に存在しています。
多摩川をはさんで分倍河原の対岸(南側)にある関戸には、鎌倉時代初めに鎌倉幕府創業の臣である和田義盛が執権北条義時に挑発されて起こした「和田義盛の乱」を契機として、北方からの脅威を多摩川で防衛するために「霞ノ関」という関所が鎌倉幕府によって設けられましたが、この霞ノ関の跡は、現在の熊野神社の参道に当時の関所の南木戸柵跡の木柱が復元されて残っている(左の写真)だけであり、それ以外のもので原形をとどめていたり、それを偲ばせるようなものは何も残っていないようです。北端を現在の観音寺、南端を熊野神社とした区域であると推察されている、中世の数少ない関所跡の名残としてのこの南木戸柵跡は、往時を窺うことができる唯一の貴重な史跡となっています。関戸とは「関所の入り口」という意味から、地名の謂れがこの霞ノ関から来ていることが推察できます。関戸は現在もこのあたりの地名として広く残っており、多摩川に架かっている現在の鎌倉街道にある橋の名前も関戸橋と呼ばれています。また、京王線の最寄りの駅である聖蹟桜ヶ丘駅も、昭和の初期頃までは関戸駅という名前でした。先ほどの「分倍河原古戦場の碑」から関戸橋までは、途中京王線の中河原駅の高架下を通って徒歩でおよそ20分程度ですが、霞ノ関跡(南木戸柵跡)まではこの先関戸橋を渡って次の大きな交差点である「新大栗橋」の斜め右前方にある鎌倉街道の旧道を真っすぐに進むと、関戸橋からはおよそ20分程度で着くことができます。途中、この旧道に入ってから4-5分程度歩いたところの右側には「関戸古戦場の碑」が建てられています(道路の丁度向い側(左側)にある送電線の鉄塔が目印)(右の写真)。
この分倍河原の合戦と関戸の追撃戦で大勝を収めた新田義貞は、直後の鎌倉攻撃の際に稲村ヶ崎で海に剣を投げ入れたら潮が引いて行って鎌倉への侵入が容易になったなどと、この一連の鎌倉攻撃に関しては伝説上も神懸かった颯爽とした武将といったイメージが定着していますが、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政以降は、何か愚鈍でさえない普通の武将という印象しか残していないような気がします。これは、主に彼の宿命のライバルとも言われた足利尊氏との比較で、このような評価や印象を与えているのではないかと思われます。元々新田氏と足利氏は源氏の同族で、前九年の役、後三年の役の平定で名を上げ、東国武士の棟梁として東国における源氏の勢力の基礎を築いた八幡太郎義家の子である源義国を親とする義重(兄)が新田氏、義康(弟)が足利氏の祖となっていますが、平氏打倒のための源頼朝旗揚げ時に足利氏が最初から頼朝の傘下に参じたのに対し、新田氏は当初は頼朝に敵対する立場を取り、なかなか傘下に加わらなかったために、頼朝に帰参後も足利氏と比べて冷遇され、門葉衆として一族に加えられた足利氏とは異なり、同じ源氏でありながら一族にも加えられませんでした。また、北条氏が執権となって幕府を運営していた時も、足利氏が北条氏と婚姻を繰り返していたのに対し、北条氏と新田氏との間ではそのような婚姻は行われなかったようです(現に、足利尊氏の正妻は、北条氏一門の赤橋守時の妹登子)。
小説などから受けた私の印象では、新田義貞は鎌倉幕府そのものを実際に倒したという武功を弾みとして、自らと新田氏の地位の浮上を目指していたようですが、その行動の根幹には足利氏あるいは足利尊氏に対し常に卑屈な劣等感のようなものがあり、何をするにつけても常に足利尊氏の影や行動を意識していたような気がします。結果として足利尊氏が室町幕府を開き、新田義貞は後醍醐天皇から半ば煙たがれて北陸に追いやられた後に、足利氏との戦いで流れ矢に当たって敗死という運命をたどったという事実があることから、ことさらに尊氏の事績や性格との比較で論じられることが多いのはある面止むを得ないかとは思いますが、私の印象では、新田義貞は自らが戦いの先頭に立って武功を競うという、一面では勇猛で颯爽としたイメージがあるものの、彼には守勢時の器量や、足利尊氏に強くあったとされる武将たちを惹きつける存在感やリーダーシップ、あるいは彼らを包容する度量のようなものが大きく欠けていたのではないかと思われます。そのため、鎌倉幕府攻撃の旗揚げの際に、足利尊氏の息子の千寿王が加わった後に軍勢がまたたく間に膨れ上がったという事実は、軍勢に加わった武士たちが、武士の棟梁は足利氏であるということを、実感として認識していたという証左ではないかと思います。鎌倉幕府を滅亡させた後の新田義貞の印象は、常に足利尊氏を意識して彼と対抗するためだけの、武功に逸った単なる一武将であり、その後の彼の戦いを見ると、女性との別れを惜しんで戦機を失するという果断さに欠ける面(一例としての創作かも知れませんが)があったり、また足利尊氏と雌雄を決する湊川の戦いでは、彼の戦略的な視野の狭さから盟友楠木正成を死地に追いやったりするなど、武将あるいはリーダーの資質として必須な一貫性と明快性のようなものが欠けていたのではないかと思わざるを得ません。本当にあった事実かどうかは分かりませんが、足利尊氏との最終決戦の前に、楠木正成が後醍醐天皇に向かって面を犯して、新田義貞を退けて足利尊氏と仲裁をはかるべきであると進言したことは、新田義貞に関してそのような一面を示しているとともに、足利尊氏と新田義貞が相容れない関係として存在していることが周知になっていたという事実をも示しているのではないかと考える次第です。いずれにしても、新田義貞は、歴史へのそのデビュー戦とも言える北条氏との戦いで颯爽と駆け上がって歴史に登場しましたが、それ以降は大きな見せ場もなく北陸の地で急転一敗地にまみれてしまいました。旭日の勢いでの歴史への登場とその後の急転下、また政治性のないところから受ける印象は、彼の一族の先祖でもある源(木曾)義仲ほどドラマチックで極端ではないものの、どこか彼に似ているような気がします。私が持っている新田義貞に対するイメージは、必要以上にカッコを気にする一方で、人の眼をやたらに意識し、また単純に攻勢をかけられるようなときは颯爽とした姿を見せることができるが、判断に迷うようなときや守勢の時には優柔不断で決断力に欠けるといった、現在私の周りにも普通に見つけることができるような、功名心に富んではいるが、普通に平凡な人物ではなかったのかという気がします。
先ほどの霞ノ関があったとされる場所の背後にある閑静な住宅地の上の小高い山には、「関戸城」とも呼ばれた中世の砦のようなものがあったらしく、現在も「天守台(関戸城跡)」と書かれた碑が残っています。この場所は、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅を起点とした場合、南に向かったバス通りが途中「いろは坂」と呼ばれるのカーブを登った頂部近くにあり、遠方への見通しの良い場所であることから、新田義貞も関戸追撃戦の際、この近辺に陣を構えたとも言われています。霞ノ関跡からの帰途としては、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅、あるいは京王線/小田急線の永山駅がほぼ等距離(いずれも徒歩で10−15分程度)にあります。
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