あの街、あの散歩みち(第2回)


八王子「絹の道」散策 - 鑓水商人、進取の気概
江戸時代末期の嘉永6年(1853年)の黒船でのペリー来航を契機とした、日本の開国に向けての一連の新しい動きの中で、1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され、その結果横浜港を初めとした日本のいくつかの港が開港され、諸外国との貿易が開始されたことを歴史の授業で学んだことを思い出す方も多いかと思います。開港当初の日本からの輸出品のうちの主なものは生糸であり、この生糸や絹織物については主に、その生産地でもあり、また甲州や上毛地方など他地域からの集積地および中継地でもあった八王子から、横浜港までの運搬が行われました。当時「浜街道」と呼ばれた道がこの生糸の運搬ルートでしたが、このルートを使った生糸の運搬は、明治41年(1908年)に主に生糸の運搬を目的とした横浜鉄道(現在のJR横浜線)が八王子から東神奈川まで開通するまで、約半世紀にわたって行われていたようです。現在この浜街道と呼ばれた道の一部が、八王子市の南部に「絹の道」という名前で、ほぼ当時そのままで残っているとのことでしたので、周辺の風景や散策も楽しみながら歩いてみました。
現在「絹の道」と呼ばれるもので往時の面影を残した姿が未舗装のまま残っている部分は南北約1kmであり(南の端の部分のみ一部が未整備の状態でのでこぼこ舗装)、この部分は文化庁の「歴史の道百選」の中の一つに選定されています。絹の道の散策は、北方あるいは南方いずれからもできますが、ここでは北から南下して散策するコースをご紹介したいと思います。鉄道でのアクセスは、JR横浜線の片倉駅が最も至近ですが、ここから絹の道の登り口までは住宅地の中を徒歩で20分から25分程度かかります。別のルートとしては、JR横浜線の八王子みなみ野駅、あるいは京王線北野駅からバスを使い(八王子みなみ野駅からは「北野行き」あるいは「八王子駅南口行き」、北野駅からは「八王子みなみ野駅行き」あるいは「片倉台行き」で、いずれも「公園前」経由のバスに乗車)、途中「坂上(さかうえ)」というバス停で下車すれば、そこからこの登り口までは徒歩5分程度で着くことができます。往時は、現在のJR片倉駅から坂上バス停までの経路中にも釜貫谷戸をなぞって浜街道が通っていたという記録を見たことがありますが、今ではこれは住宅地の中に完全に埋没しており、その名残りをうかがえるようなものを見つけることは全くできません。
坂上バス停からは、国道16号線のバイパスに沿った歩行者専用の側道を南方向(やや上り坂)に5分程度歩くと、この側道の行き止まり手前の左側に、横にある山に登る一直線の長い階段があります。この山は大塚山といい、現在残っている絹の道の北側の始点となります。絹の道の散策は、この階段を登り切ったところを右側に歩を進めて開始することになりますが、階段を登り切ったところで後ろを振り向いてみると、眼下に八王子の街の眺望を目の当たりにすることができます(右の写真)。天気が良ければ、左側の端に高尾山、中央部から左側にかけて大岳山や御前山を前面に置いた奥多摩の山々、またその後ろには雲取山や飛竜山などの奥秩父連峰など、眼下にある八王子の街を取り囲む壮大なパノラマを楽しむことができます。過去に「鑓水峠」と呼ばれたこの道の最高点である大塚山の頂上付近の大塚山公園内には道了堂跡があります(左の写真)。この道了堂は、峠を通る旅人や村内の安全のために浅草花川戸から道了尊を勧請して、明治時代初め(1874年)に近くにある永泉寺の別院として創建されたものですが、現在ではいわゆる心霊スポットにもなっているようです。というのは、昭和39年に当時この堂を守っていた老婆が強盗に殺害されて以降、この堂の周辺は今から25年くらい前に大塚山公園として整備されるまでは、取り壊されたままの廃墟のような状態であったようで、また近隣の板木の杜緑地の脇には昭和48年に立教大学助教授が不倫相手の女子大生を殺害して埋めた場所もあることから、それらを想像すると、公園として整備されたとはいっても、欝蒼とした木々の下の薄暗さや人気が殆どないこととも相まって、昼間でも何となく気味が悪くなるような雰囲気を醸し出しているからだと思います。
ここから大塚山の稜線を南方向にやや下りながら歩き出すことで、絹の道の散策が始まります。歩き始めには、左側に東京都水道局の給水所や北野台の住宅地の一部が見渡せますが、途中からは両側を崖や木々に囲まれた切り通しのようなところを歩くことになります。ただこの道は、道の両側が道に並行した谷状の地形(多摩地区の一部では、この地形のことを「谷戸(やと)」という)になっていますので、実際には低い尾根上を歩いていることになります。約1km歩いたところで、車両が普通に通る舗装道路にぶつかりますが、この交差地点にはいくつかの古い道標などが残っている塚があります(左の写真)。ここまで歩いてきた絹の道は、この舗装道路とは斜めに交差していますが、ほぼ真っすぐ方向(左前方)に約150m歩くと、左側に「絹の道資料館」(右下の写真)があります。ここには絹の道に関係する様々な資料などが整理されて丁寧に展示されていますので、一見の価値はあると思います

このあたりは、「鑓水(やりみず)」と呼ばれる場所で、現在もそれは地名として残っており、周辺にはのどかな里山風景が残る田園が広がっています。八王子から横浜へのこの絹の道を通った生糸の運搬には、当時「鑓水商人」と呼ばれたこの地域の人たちの活躍がありました。彼らは、共同で生糸の仲買や運搬を行うなど、独自の才覚を発揮して財を成し、横浜鉄道開通後のその生糸運搬の役割を終えた大正末期から昭和初期にかけては、現地で鉄道建設を進めるなど、別の分野にも積極的に進出するための活動を行っていました。この鉄道計画(南津電気鉄道)は、地域農村の振興や神奈川県津久井方面の観光開発を目的として、当時の玉南電気鉄道の関戸駅(現在の京王線の聖蹟桜ヶ丘駅)の西(一宮地域)から鉄道を野猿街道沿いに枝分かれさせて、この鑓水を経由して城山の川尻(現在は相模原市)まで延伸させようというものでした。これは、関東大震災後の首都東京の建設需要を見越して、相模川の良質な砂利を東京方面に運搬することも大きな目的であったようです。また、ゆくゆくは更に富士五湖方面まで延長するという計画もあったと聞いたこともあります。しかし、この鉄道計画は、昭和大恐慌の影響による経済悪化で断念せざるを得なくなったという話です。先ほど触れた絹の道と舗装道路の交差地点にある塚の中には「此方鑓水停車場」と刻まれた石碑がありますが、これはその500m程南にある当時の鑓水の中心部であった御殿橋付近に鉄道の駅を作ろうとした計画があったことが窺える史跡と言えます。地域の人々が、その才覚を発揮して時代を先取りし、新しい事業を進めていこうという躍動した進取の気持ちが伝わってきます。尚、現在は、この南津電気鉄道の計画路線とほぼ平行して京王相模原線が走っていますが、もしこの計画路線が実現していれば、京王相模原線が現在のかたちで実現していたかどうかは全く不明ですし、また京王相模原線と小田急多摩線が乗り入れている読んで字のごとく「多摩センター」を中心とした多摩ニュータウンの開発、発展も、現在のものとは大きく異なったものになったのではないかと想像できます。

大栗川に架かる御殿橋は、「絹の道資料館」を更に南に約300m行ったところにありますが、橋の欄干には「絹の道」と刻まれたものがあり、またこの橋のたもとには、「八王子道道標」と書かれた石碑があります。これは当時の浜街道の道しるべであったものが、ここに移されたものと聞いています。絹の道の起点となった大塚山からこの御殿橋までの約1.5kmが「絹の道」として八王子市の史跡に指定されています。この御殿橋から更に南に100mほど歩くと、信号機に「鑓水公会堂入口」と書かれた都道20号線(府中相模原線−柚木街道)との交差点に出ます。ここには「鑓水中央」というバス停があり、京王線の南大沢駅やJR横浜線/京王線の橋本駅に行くバスが通っています。道路を隔てた向かい側に小高い丘がありますが、これが先ほど触れた板木の杜緑地の一部であり、その中の散策路には当時の「鎌倉街道」の一部と呼ばれるものが残っているようです。もし時間があれば、左手方向の次の信号がある交差点(「谷戸入口」)を右に入ったところにある「小泉家屋敷」(右の写真)を見学されることをお勧めします。明治11年(1878年)に建造された入母屋造り冠木屋根のこの家屋は、東京都の有形民俗文化財に指定されており、当時の養蚕農家の様子が良く伝えられています。この家屋は現在も住居用に使われているため家屋内部の見学はできませんが、外見だけでも一見の価値はあると思います。この小泉家屋敷を過ぎて更に進んで行くと、開発、売出し中の新興住宅地の中を通って、京王線の多摩境駅やJR横浜線/京王線の橋本駅まで、それぞれ20分、あるいは30分程度で歩いて行くことができます。

アウトドアやスポーツに欠かせない、思いがけないアイテムも
ナチュラムアウトドア  MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ GOLDWIN WEB STORE

戻る